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るうてる2021年

るうてる2021年7月号

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「主に献げて委ねる」

日本福音ルーテル湯河原教会・小田原教会牧師 岡村博雅

「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」(ヨハネによる福音書6章11節)

 「パンの奇跡」は四福音書のそれぞれが物語る唯一の奇跡です。弟子たちにとってこの奇跡ほど印象深いものはなかったのでしょう。日が傾きかけた頃、ベトサイダの「人里離れた」(マコ6・35)草地で起こったあの出来事の消息を思い巡らします。それは私たちのこころざしを主に信頼して委ねたときに、主が私たちの思いを超えて豊かに用いてくださった奇跡のように思われます。

 四福音書の内でヨハネだけが主イエスと弟子のフィリポやアンデレとのやりとりを実に生き生きと伝えていて、これは現に起こった出来事だったと感じずにはおられません。

 その日、主はご自分を慕ってくる群衆を見て憐れまれ、この辺りに土地勘のある「フィリポ」(ヨハ1・44)に「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(ヨハ6・5)と尋ねました。ヨハネ福音書は主が「フィリポを試みるため」(ヨハ6・6)にそのように問われたと述べています。

 するとフィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(ヨハ6・7)と婉曲に断りました。200デナリオンは労働者の半年分以上の賃金に相当します。たとえ少しずつ配るとしてもかなりの金額です。フィリポは主のこの群衆への「深い憐れみ」(マコ6・34)に共感したものの、とても現実的ではないと結論したのでしょう。他の弟子たちも同じ考えだったようです。
 共観福音書では、ここで弟子たちは「人々(群衆)を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べ物を買いに行くでしょう」(マコ6・36、マタ14・15、ルカ9・12)と進言し、これに対して主は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(マコ6・37、マタ14・16、ルカ9・13)とお答えになります。

 主と弟子たちとのこうした会話は側にいた人たちにも聞こえたのではないかと想像します。群衆は15キロもの距離をやってきたと考えられます。群衆の中には自分や家族のためにパンや魚を持っている者がいても不思議はありません。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という弟子たちへの言葉を、「主はこの私にも呼びかけられた」と聴きとって心を開いた家族があった。彼らは主を信じて、持っていたパンと魚を主にお委ねしようと決意した。だから一人の少年が立ち、精一杯の献げものであるパンと魚を差し出してくれたのだと思います。

 アンデレは急いで主に報告します。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます」(ヨハ6・9)。そしてつぶやきました。「けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(ヨハ6・9)。アンデレは「これだけでは不十分だ」と思い込んでいます。私たちもついこういう見方に陥ります。

 しかし主はこの心からの献げものを喜んで受け取られた。そして弟子たちに命じておよそ5千人もの人々を座らせると「パンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた」(ヨハ6・11)。四つの福音書が異口同音に人々は満腹した、「残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」(ヨハ6・13、マタ14・20、マコ6・43、ルカ9・17)と証言します。一体何が起こったのか?四つの福音書が、パンと魚を持っている家族がいた、それが主に献げられた、主はこの献げものを神に感謝し、祈り、人々に分け与えられたと語ります。

 「あなたがたがやしないなさい」とのみ言葉を、あの子どもの家族のように聴き取り、自分たちに出来る精一杯を、主に献げて委ねる人々が、次々と起こされたとしたらどうでしょうか。主イエスによって私たちが神につながるとき、そこにはきっといつの時代でも、今も、あの時のように「神の国」のような世界が実現します。

連載コラム「命のことば」 伊藤早奈

⑯「行きたいですか?」

「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソの信徒への手紙1・23)

 「教会へ行きたいですか?」と質問したことを私はすぐに後悔しました。なぜかと言うと、いつも明るく笑っていたその人の目からポロポロと涙が溢れていたからです。

 くしゃくしゃになった表情の口から絞り出すように言われた一言は「行きたいよ。」でした。病気で長く入退院を繰り返しておられる彼女は何年も教会には行かれておられないとのことでした。私が彼女の向かいのベッドに入院した時は嬉しそうに自分はクリスチャンだと話され私と向かい同士だと喜ばれた矢先のことでした。私は心の中で「ごめんなさい」を繰り返していました。

 自分が具合悪いからという理由だけではなく、いろんな理由で教会へ行かれないという方が多いと思います。特に昨年から拡がった感染症のために、それぞれの方々が通われる教会もいろいろな工夫をされ、教会につながるお一人お一人がいろんなかたちで礼拝を守られたことと思います。お一人お一人と共に神様はおられるのです。そのようなお一人お一人に「教会へ行きたいですか?」なんて聞けません。

 同じようにいろんな状況に置かれて、いろんな理由の方がおられます。その全ての理由や状況をわかっておられるのが神様です。あなたが隣人のために行動していることを神様はわかっておられます。

議長室から
総会議長 大柴譲治

恥と罪

「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(ルカ15・20b)

 私の神学校の卒論は「ルターとボンヘッファーにおける罪の赦しの神学」(1986)。当時29歳の私にはまだ「罪責感情(罪/Guilt)」という次元しか見えていませんでした。9年の牧会経験を経て米国で学ぶ機会が与えられます。2年の格闘の末辿り着いた主題は〝Ministry to the Shame-bound Japanese〟(1997)。人生の午後が始まろうとする40歳にしてようやく「羞恥感情(恥/Shame)」の次元が見えてきたのでした。

 両者は共に深い痛みを伴う感情で重なり合うことも少なくありませんが、区別が必要です。異なる対処が求められるからです。罪が行為の次元における痛み/悔いであるのに対し、恥は存在自体の次元における痛み/悔いです。存在は行為に先立ちその前提となっているように、恥は罪よりも深いところに位置する。「恥ずかしくて穴があったら入りたい」という表現が自己の存在を抹消したいというところからもそれは分かります。
 現に聖書では恥の方が罪より先に登場します(創世記3・6〜10)。また、強い恥意識を持つ人は強い誇りの意識をも併せ持ち(職人気質など)、両者は一対、表裏一体です。罪からの解放には「赦し」が必要ですが、恥からの解放にはあの放蕩息子の父親のように、「ボロボロになった惨めな(無力さをuncoverされた)自分をありのままで受容(cover)してくれる愛」が必要なのです(ルカ15・20)。そこでの父親は母性的な愛の体現者でした。そのように恥の次元が見えてきた私には福音の喜びがより立体的に見えてきました。主の十字架は私たちを罪だけでなく恥の痛みからも解放してくれる和解の出来事だということが。

 「恥の多い生涯を送って来ました」と主人公に語らせたのは太宰治(『人間失格』)。遠藤周作がキリスト教を「母なる宗教」と呼ぶ時、自らの無力さと恥に苦しむ者をそのままで抱きとめる「母なるキリスト」の姿をそこに見ているのだと私は思います。恥の研究を通して出会った二つの名言を紹介します。「高くジャンプするためには低く屈まなければならないように、恥意識の強さはその人の魂の飛翔性の高さを示している」(マックス・シェーラー)。「自分がどうしようもないと思うまさにその一点こそ、神がご自身の聖名(イエス・キリスト)を署名してくださった一点である。なぜなら神こそ私たちのために無となってくださったお方なのだから」(トマス・マートン)。

「教会讃美歌 増補」 解説

⑬讃美歌委員からの声⑻
讃美歌委員会 石丸潤一 西日本福音ルーテル 新田教会牧師)

 千葉県市川市にあります西日本福音ルーテル教会新田教会で牧師をつとめています、石丸潤一と申します。

 『教会讃美歌 増補』の編集のため、四つのルーテル派教団から讃美歌委員会が構成されました。私は、当初委員をつとめてくださった当教団の小賀野英二牧師、ハリー・フオヴィネン宣教師の後を継ぐかたちで、委員に任ぜられました。

 以来、委員の働きをつとめる間に、関西、山陰、関東と牧会の働きの場が変わりました。それだけ多くの年月がかかったにもかかわらず、「分冊Ⅰ」の発行間近である今でも、まだ作業が足りないと感じます。原曲の選定、新作賛美の募集、外国作品の翻訳、訳詞の作成、伴奏の編曲、楽譜の体裁の統一、著作権のチェック、等々。1冊の賛美歌集の背後に膨大な作業が隠されていることを、委員となって、初めて知らされました。
私は、教団の賛美委員会や韓国の賛美宣教団の奉仕(韓国語賛美の訳詞作成など)にも携わらせて頂いていますが、音楽や文学の専門的な学びを修めたわけではなく、「賛美が好き」という程度の者です。讃美歌委員のつとめには分不相応と常々感じていました。ですが、神様は、委員の働きを通して、恵みに気付かせてくださいました。様々な編集作業に携わることで、私の信仰生活が、先人のすばらしい信仰と賜物とバイタリティの上に立たせて頂いていたことを思い起こされました。また、音楽に造詣の深い他の委員の皆様からたくさんのことを学ばせて頂き、得がたい経験を重ねました。感謝です。
 賛美は、私たちから出る前に、多くの恵みに支えられています。

 父なる神様が音のある世界を創られ、音楽を与えられました。御子イエス・キリストの十字架と復活によって、神様を賛美するいのちと舌を頂きました。聖霊が私たちに働いて、私たちの賛美する信仰を導かれます。聖霊の導きのもと、多くの信仰者が、みことばに基づく賛美歌を生み出しました。

 賛美に先立つ神様の恵みにまず感謝し、さあ、ともに賛美を始めましょう。
ルターのコラールは、私たちが忘れてはならない信仰の根を教えます。新しい日本の賛美歌は、時と空間を超えて今に受け継がれてきた信仰の根から咲いた色とりどりの花のように、神様の栄光と信仰生活の喜びを証しします。

 皆さんの信仰生活が主にある喜びでますます満たされるため、また世に主の救いの恵みが広げられるため、「教会賛美歌 増補」と収録された賛美が用いられますように。

私たちの礼拝 —式文ハンドブック—

⑫信徒の礼拝奉仕
松本義宣(式文委員会委員長・東京教会牧師)

 礼拝(Liturgy)を表わすギリシャ語はレイトゥルギア、原意は「民の業・働き」です。新約聖書では、ヘブライ語の「祭儀」の訳語として用いられています。もちろん、礼拝はまず神様が人にみことばをもって奉仕してくださる出来事ですが、その恵みに応答する意味で、しかも私たち全てがその「神奉仕」の業に参与する重要性から、「(神の)民の業」である礼拝という側面が注目されてもよいでしょう。教会は「礼拝する民」の共同体です。

 そのために、礼拝において様々な奉仕、役割が私たちには与えられています。定められた時間に定められた場所に集うところから始まります。その神の民の業に仕える司式者の重要性はいうまでもありませんが、何より会衆、礼拝に集う一人一人が、恵みに与るだけでなく、応答し参与する者として、奉仕と役割を担っていることを確認しましょう。

 現在、新型コロナウイルス感染症の下、この当たり前だったことが、そうではないことを改めて知らされる経験をしています。整えられた礼拝堂で、司式者の下で共にみことばを聞き、賛美し、祈り、聖餐に与ることが、まさにかけがえのない恵みであることを痛感します。

 また、今回のハンドブックでは、これまであまり触れられてこなかった「信徒の礼拝奉仕」の項目が加えられました。もちろん、これまでも各教会で様々な奉仕がなされてきました。まず特別な賜物の奉仕として奏楽があり、信徒説教者もあります。他にも聖書朗読、献金やお祈りなどの担当等です。

 しかし、現在、常に礼拝時に牧師(教職)が司式を担当しない状況も出てきました。あるいは、この感染症下にリモート(オンライン)礼拝に、個人や家庭ではなく一定の人数が集って与るということもあり得ます(既になされてもいます)。信徒によって司式がなされ、説教原稿の代読といった重要な奉仕が担われてもいます。

 これは、礼拝を司る役目の牧師数の減少という課題に対応する側面だけでなく、もっと積極的に、本来の意味で「会衆」が参与し、神の民に仕える「信徒の礼拝奉仕」が見直され、新たに位置づけられていくことが求められているからです。

 また、それは礼拝での様々な担当だけではありません。その前後の準備、昔からなされている受付や新来会者、高齢者や子どもたちへの配慮、マイク等の整備等、すべてが大切な奉仕と役割であることを、改めて各教会で話し合い、担い合っていくことが求められていることを覚えましょう。

全国教師会オンライン集会報告

立山忠浩(全国教師会会長・ 都南教会牧師)

 連休最後の5月5日に全国教師会オンライン集会を開催しました。初めての試みでしたが、60名もの参加がありました。全国教 師会の総会は、2年ごとに開催される教会の全国総会の前日に開くことになっていますが、全国総会が来年5月に延期されましたので、それに合わせて来年に延期しました。2年に一度、教師全員が一堂に会する貴重な機会を失ったことになります。それに加え、3〜4年ごとに開催する退修会も、本来ならば今年の秋に開催する計画でしたが、断念せざるを得ませんでした。新型コロナウイルスに翻弄された形です。

 オンライン集会を開催した理由は、延期された教師会と退修会を穴埋めするためです。一堂に会することはできませんが、
画面を介して互いの音信を分かち合い、元気な姿を確認し合う恵みの機会となりました。

 教会規則には教師会の任務が記され、諸事項を適切に処理する役目が明記されています。例えば「教理、神学に関する共通の理解に関わる事項」とあります。教理や神学に関することでの教師間の共通理解を求めています。霊的修養や生涯研修、宣教に係わる事項なども列記されています。

 ただ、教師会の任務を語る前に、整えなければならない課題があることを痛感しています。以前から内在していた課題が、このコロナ禍によって顕在化しているのです。牧師不足の深刻さがさらに増し、1人の牧師が複数の教会を牧会することが当たり前です。教会と関連する諸施設や幼保園・こども園などの兼務も多くの牧師が担っています。いずれも宣教上極めて重要な働きであるゆえに、その任を託される牧師は懸命に励んでいますが、どこかでからだが悲鳴を上げているように思えるのです。私に妙案があるわけではありません。でも教会全体で考えなければならない構造的な問題です。

 宣教の地に牧師は1人で派遣されます。本来孤独は避けられません。しかし宣教の地での現実について語り合い、分かち合える仲間がいるならば、きっと孤独感や孤立感から逃れる道が見つかるのではないか。まずここから取り組みたいのです。教師会で始まった試みは、今秋のオンライン退修会へと継続されることになります。

コロナ時代の説教と聖餐
—牧師のための ルター・セミナー(2021年)報告

江口再起(ルター研究所所長)

 5月31日~6月1日にルター研究所恒例の「牧師のためのルター・セミナー」が開かれました。しかし今年のセミナーは例年とは少し違う形で開催。一つはコロナ禍のためウェブ会議方式(Zoom)で開かれたこと、そしてもう一つはセミナーの初心にもどって、牧師の真剣な討議の会としたことです。

 コロナ禍の困難の中にあって、牧師こそが先頭に立って、改めてもう一度、教会が直面している諸課題について学ぶ必要があると考えたからです。

 というわけで全国から1日目約60名、2日目約50名の牧師(現職、引退)と神学生が参加しました。
主題テーマは、ズバリ「コロナ時代の説教と聖餐」。
 教会にとって一番大切なことは、言うまでもなく「説教」と「聖餐」ですが、このコロナ禍にあって、いつも通り礼拝ができなかったり、オンライン礼拝に切り替わったり、聖餐式ができなかったり、今、全世界の教会において歴史上、体験したことのない変化が起こっています。この問題をどう考えるべきか。

 1日目午前はシンポジウム「コロナ時代の説教」。後藤由起(本郷教会)、小泉基(函館教会)、神﨑伸(天王寺教会)の各牧師より実際の教会現場からの説教事情と課題をめぐって発題がありました。
 午後は立山忠浩牧師(都南教会)より「説教と聖餐」について、ルターの著作と聖書を繙きつつ講演がありました。
 リアクターは高井保雄牧師(引退教職)。ヨハネ福音書4章にでてくるイエスとサマリアの女の問答をめぐり「まことの礼拝」とは何かが問われました。

 2日目午前は、宮本新牧師(神学校)より講演「ルーテル教会という構造~礼拝・教会・宣教」がありました。
 アメリカ福音ルーテル教会のコロナ対応の問題を糸口に、そもそもルーテル教会とはどういう教会なのか、いったい礼拝とは何か、そして改めて伝道(宣教)は今日という時代において、いかにあるべきなのかが、問いただされました。リアクターは大柴譲治牧師(大阪教会)。
 2日目午後は、全体討議「ルーテル教会はどこへ行く?~ポストコロナの時代を見すえて」。参加者全員でコロナのこと、教会の過去・現在・未来、そしてその中での牧師の使命と実存などなど、喧々諤々。もとより教科書的な正解があるわけではありません。しかし、このように信仰について、教会について、説教について、聖餐について、かくも熱く真剣に話し合い、学び合うところにこそ、ルーテル教会の伝統と、そして未来があることを実感できるセミナーとなりました。

アメリカ病院聖職者 チャプレン報告3
関野和寛

 日本福音ルーテル教会の留学制度を利用して昨年よりアメリカ、ミネソタ州の病院でチャプレンとして週5日、フルタイムで働き出し、もうすぐ1年になろうとしています。コロナ室と精神科病棟が私の担当でしたが、ワクチン接種開始から半年コロナ入院患者は激減し、コロナ患者よりも一般患者の看取りや家族のケアをする時間の方が多くなってきました。一般病棟の患者、家族のケアの中にはアメリカの社会問題が凝縮されています。アメリカの自己破産の大きな要因は医療費であり、コロナショックにより失業、車や家を売り入院費用を賄わなくてはならない人々がいます。ベトナム戦争、イラク戦争のトラウマで苦しみ入院している患者の元に駆けつける夜もあります。また非常に驚くことにこちらでは家族や近親者が殺人事件に巻き込まれ癒える事のない傷と共に闘病をしている患者がとても多く、そのような苦しむ心に向き合う働きをしています。ここミネアポリスでは犯罪率がコロナパンデミック前の何倍にも跳ね上がっています。経済が回復方向に向かっているように見えますが、格差、断絶、マイノリティーかつ貧しい人々の苦しみは日に日に大きくなっています。

 病棟を周りそのような患者と向き合うという事は、一人ひとりと向き合うということと同時に社会問題、そして世界の痛みに向き合うことなのだと感じています。そしてその大きな傷の前にチャプレンは無力で解決策を持っていません。けれどもその無力さからでる共感、そして祈りの中に神が働く事を信じて日々努めています。この秋からはここで得たものを持って日本の神学校で臨床牧会訓練の指導に参加させていただく予定です。

「ありがとう神さま」 ~みんなでつながろう!~
Zoomでルーテルこどもキャンプ

 例年8月に行われている「こどもキャンプ」の案内です。今年もコロナの影響で実際に集うことはできませんが、ウェブで全国の友達とつながろう!ということでキャンプを企画しました(小学校5・6年生、中学校1年生が対象です)。

日時 8月9日(月・祝)午後2時から1時間程度(ウェブ会議サービスZoomを使用します)
テーマ「つながり ~かみさまありがとう~」
主題聖句「いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」エフェソの信徒への手紙5・20

 オンラインで全国の友達と顔を合わせて、神さまに「ありがとう」と思えることをグループで分かち合い、全員で一緒に楽しく讃美し、礼拝をしたいと思います。

 また、プログラムが終わった後、フリータイムも予定しています(自由参加)。対象の子どもたちにお声がけや参加できるようご協力をお願いいたします。

 キャンプ案内は日本福音ルーテル教会TNGブログをご覧ください。
https://the-next-g.blogspot.com

 また、参加申し込みは以下のサイトからお願いします。
(7月12日(月)まで)
https://forms.gle/KzVPJJk63EJEdwNJ8

 あわせて、グループリーダーなど、キャンプをお手伝いしてくれるスタッフも募集しています(18歳以上で堅信を受けている人)。
TNGブログからお申込みください。

第7次綜合方策の紹介(3)

事務局長 滝田浩之

■方策本文より

綜合方策の目指すもの

 本綜合方策の目指すものは、一つの教会として「経済的自給」を背景にしつつ、「宣教的自立」を果たすことにある。

 様々な外的要因によって右往左往する教会ではなく、牧師も信徒も互いに知恵を出し合って討議し、採択し、その合意のもとに目指すべき「教会の姿」を共有し、そこへ共に歩みだしていく自立した教会である。

 それでは、私たちが目指す「教会の姿」とは何か。それは、戦後のキリスト教ブームの再来を期待する教勢拡大にはない。それは、明確に「ルター派に立つ教会の形成」である。

 それでは「ルター派に立つ」とは何か。それは、聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ、すなわちキリストのみに生きる教会である。だから福音に生きる教会は、賛美し、祈る。つまり喜びをもって礼拝する。ルターは、私たちがひとりで祈るのではなく、すべてのキリスト教会がともに祈っていることを強調した。一つの祈りは全世界に関わる。祈りは、全世界を一つの共同体とする。

 だからルターは、信仰の喜びに生きるキリスト者の他者への愛の奉仕、つまり隣人愛を強調した。『キリスト者の自由』が語る通り、キリスト者は、すべての者の上に立つほど神によって自由にされており、同時に愛において他者のために存在する。『わたしもまた隣人のために一人のキリストになる』(『キリスト者の自由』第27項)。また私たちは知っている。「隣人と共にキリストがおられる」ということを。

 よって「隣人のために一人のキリストとなる」とは、「隣人と共にあるキリスト」に出会うことでもある。この福音の相互性、キリストの喜びを分かち合い生きる教会、ここに私たちの目指すべき「教会の姿」がある。

 この時、この「教会」という概念は、明確に「全信徒の集まり(人)」である(アウグスブルク信仰告白第7条)。教会の使命は、神の言葉によってすべての人が、この信仰へと導かれ配慮されることにある。この定義に照らす時、ここで語られる「教会」はすでに個々の教会の建物や組織を意味するのではない。むしろ重要なことは、この一人一人の教会生活への責任を誰が持つかという点である。

 私たちは、これまで自明とされてきた「正規の召し」(アウグスブルク信仰告白第14条)を受けた「牧師」の責任を改めて確認する。牧師は信徒と共働しつつ、「目指すべき教会の姿」へと導く牧会者である。

 「誰が私を福音の喜びへと導くのか」、表現をかえて言えば、「誰が私を看取り、キリストが共にあることを想起させ、死を終わりとせず新しい旅路へと導くのか」という牧会の責任の所在を明確にすることこそ宣教力の向上につながると考える。

 同時に、それは「牧師」の牧会力の向上をより一層必要とすることを意味する。もちろん牧師が信徒と協働しつつ牧会力の更なる強化が起こることが不可欠である。しかし牧会の源泉、それは「説教とサクラメント」である。そして、この方策が問うのは「説教とサクラメント」が会衆の中で「喜びの出来事」となるためには教会の分かち合う力が不可欠であるという、この同時性である。更に第7次綜合方策は、この牧会の射程を、今、礼拝に集う者はもちろん、未だ出会っていない新たな仲間へと向ける。集いし者、そしてこれから出会う者へ福音が及ぶ時、すべての必要は主によって満たされると信じる。

■解説

 説明の必要のない文章だと思います。日本福音ルーテル教会は2003年以降、18年間、海外からの財政的な支援を受けない形で運営されています。1969年のアスマラでの自立宣言を経済的な側面からは事実上果たしたと言っていいと思います。

 このような時にこそ、私たちは「ルター派に立つ教会」とは何かという、私たちの原点に立ち還ることが重要だと考えました。福音の喜びを確認するということです。この喜びの分かち合いこそ、私たちの使命です。この使命を私たちは自らの足で立って果たします。

 自立とは自らの限界を踏まえつつ、責任をもって生きるということです。経済的な自立にある時、それは自ずと極めて現実的な判断が求められることは言うまでもありません。経済だけではありません。牧師の数もまた限りがあります。このような限りの中で、できることできないことを峻別しつつ歩むことこそ「宣教的自立」であると本方策は考えるのです。

「第6回るうてる法人会連合全体研修会」開催のご案内

 2021年度、法人会連合ではオンライン(Zoom)にて全体研修会を開催することとなりました。関係法人職員の皆様、また教会員の方々のご参加をお待ちしております。なお人数把握の都合上、各法人、各教会でとりまとめてお申し込みをお願いいたします。

■日時 2021年8月23日(月)10時 〜 12時30分
■参加方法 オンライン 会議システム「Zoom」を使用
■参加費 無料(通信費は各自のご負担となります)
■主題講演「COVID―19下での悲嘆とそのケア」大柴譲治牧師
※氏名とメールアドレスを各法人・教会ごとに取りまとめて頂き、左記EメールまたはFAXにてお申込みください。お知らせいただいたメールアドレスにZoomミーティングURLのご案内を8月初旬にお送りいたします。
■申込・問合せ先
日本福音ルーテル教会事務局 担当・平野
電話(03)3260・8631
Eメール soumu08@jelc.or.jp
FAX(03)3260・8641
■申込締切 2021年7月30日(金)

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