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るうてる2021年

るうてる2021年10月号

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「真理はあなたたちを自由にする」

日本福音ルーテル名古屋めぐみ教会牧師 小澤周平

「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネによる福音書8章32節)

  未曾有の感染症の危機に直面する中、自由を奪われたような毎日です。この暗闇の中で、イエス・キリストの言葉が光ります。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。

 この聖書の言葉は宗教改革日の日課にあります。宗教改革はおよそ500年前にヨーロッパで起きたキリスト教会の改革の出来事ですが、過去の話ではありません。信仰的な観点からは聖書を読む運動とも言われ、今なお続く改革運動だからです。その性質故に教派を超えたキリスト者の運動でもあります。このことを4年前の宗教改革500年記念事業を通して実感された方も沢山おられることと思います。

 福音書の日課において、イエス様はこの時、ご自分を信じたユダヤ人たちに向かって言いました。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。この後の議論を通して、イエス様は罪の奴隷という事実を明らかにします。これは、私たちの奥深い部分にある根本的な不自由さのこととも言えるでしょう。そもそも、人は皆、不自由。私たちの内にある傲慢さや自己中心、神様から背く思いが、私たちを平和とは逆の世界に縛り付けてしまいます。

 この罪の奴隷からの解放は、本当の自由は、真理、すなわちイエス・キリストによって、その言葉にとどまることにおいて与えられます。ローマの信徒への手紙3章22節以下には次のように記されます。ここでは聖書協会共同訳を引用してみます。聖書の言葉の味わいが深まるかも知れません。「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです」。

 キリストによって本当の自由を得た私たちはどうなるのでしょうか。宗教改革者マルチン・ルターは、聖書から深い考察を示します。私たちは、キリストの弟子となり、キリストの務めを与えられ、祭司とされる。それ故、神様の前に立つことをゆるされ、他者のために執り成しの祈りをする者とされる。イエス・キリストは私たちの心を解放し、他者のために祈り仕える自由を与えてくださったのです。だから、本当の自由を得た私たちは、キリスト者の自由に生きる者とされていきます。

 この約1年半、私自身も自由について考えさせられました。私たちの教会でも緊急事態宣言の度に会堂での礼拝参加の自粛をお願いし、集会を見送ってきました。信仰も命も大事ですと呼び掛けながらも、耐える期間が長くなるほど、思い通りにならない不自由さを感じてしまいます。しかしある時、私は、自分の想像を超えて教会員の方から励ましを頂くことがありました。礼拝の動画配信によって、ご自宅で、ご家族と教会のことを話せるようになったということをうかがったのです。その方は、長年、教会のことを話しにくい不自由さにありましたが、昨春から始めた教会の働きによって代弁者を得ておられました。私は、人の想いを超える神様の出来事を感じました。礼拝が、キリストの言葉が、1人の信仰者の心を解放していたことを教えられました。

 私たちの目の前には、依然として困難が横たわります。しかし、神様は私たちの想いを超えて働かれます。イエス様は「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と約束します。今なお、聖書を読む運動の道半ばにいる私たち。その道しるべは、イエス・キリストの言葉です。願わくは、私たちが、イエス様の言葉にとどまり、本当の自由を得ることができますように。そして、他者のために祈り、仕え、この世に平和を成す者とされますように。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

⑲「生まれてきてくれてありがとう」

「あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。/わたしはあなたに感謝をささげる。/わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。/御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。」(詩編139・13〜14

  「ハッピバースデートゥーユー♪」これって神様が毎日一人ひとりに歌って下さっておられるのかもな。そう私に思わせたのは「毎日カードに光が当たるとハッピーバースデーの歌が流れてくるんだよ。」と知り合いが教えてくれた時です。
 
神様って直接話せないけどいろんなかたちで私たち一人ひとりに囁いて下さるんですね。

 私は働かせて頂いていた施設に入居されていた皆さん一人ひとりに誕生日カードをお配りしておりました。いつもご挨拶をしても下を向いて私の顔なんて見ても下さらなかった方が私の目を見て下さるようになったりしました。いつも出勤した月の一番初めの日に配るようにしていたのですが、たまたまその日にお誕生日の方がおられたので「お誕生日おめでとうございます。今日お誕生日ですね。お誕生日の歌、歌っていいですか?」と言ってハッピーバースデーの歌を歌いました。ベッドに横たわり寝ていたのかと思っていました。いつもお会いすると怖い顔を私に向けていたその方がある日ひょっと私を見て嬉しそうにされました。あまりにも意外でしたが神様が私を通して働かれたことを思いました。ハッピーバースデー。

議長室から 大柴譲治

神無月に〜魂のための時間

「順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ/人が未来について無知であるようにと/神はこの両者を併せ造られた、と。」(コヘレト7・14)

  「健康は人を外に向かわせ、病気は人を内に向かわせる」と言われます。確かに逆境の時は、私たちを内へ内へと深く沈潜させてゆく内省の時であり、自己のレジリエンスを鍛錬する時でもある。「順境には楽しめ。逆境には考えよ」とコヘレトが告げている通りです。

 昨年2月以降のCOVID─19による世界的なパンデミックは私たちを内面深く沈潜させてゆきました。この状況はいったいいつまで続くのでしょうか。「外的奉仕のための内的集中」(ボンヘッファー)という言葉については前に触れたことがあります(2020年5月号)。確かに外に向かって奉仕するためには内的に集中して力を蓄える必要がある。何事もバランスです。

 動物写真家の星野道夫さんが紹介しているエピソードです(『旅をする木』)。南米のアンデス山脈で考古学の発掘調査のためガイドとして現地の案内人たちが雇われます。調査隊の一行はある地点までは順調に進んできたのですが、ある時にガイドたちがピタッと止まってまったく動かなくなってしまった。ストライキと思った調査隊は困ってお金をさらに支払うからと交渉する。しかし彼らは座ったまま一歩も動こうとしない。曰く、「我々はあまりにも速く来すぎてしまった。だからここで、魂が追いついてくるまで待つのだ」と。ハッとさせられます。魂がからだに追いついてくるための時間とは…私たちもこれまで急いで歩み過ぎてきたのかも知れません。魂が追いついてくるまでを待つ時間としてこの時が与えられたと受け止めることもできましょう。

 それにしても魂のための時間とはどのような時間か。コヘレトは告げています。「人が未来について無知であるようにと神はこの両者(順境と逆境)を併せ造られた」と。本来魂は神に向かって造られていますので、それは神に思いを向ける時です。詩編の言葉を想起します。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(口語訳46・10)。〝Be still, and know that I am God!〟(NRSV)。立ち止まって沈思黙考し、自らを省みると共に神に思いを向け、祈る時。魂が追いついてくるまでの静謐の時としてこの時を位置づけたいと思います。

 10月は樹木の葉が微妙な寒暖の変化の中で美しくその色合いを変えてゆく季節。日本では古来「神無月」と呼ばれる月であり私たちの教会にとっては宗教改革の月。それはまた私たちが魂の在処を確認する月でもある。じっくりとこの時を味わってみたいのです。

「教会讃美歌 増補」 解説

⑯増補3番「今こそわたしは去りゆく」・増補4番「主は死に打ち勝ち」
讃美歌委員会 石丸潤一(西日本福音ルーテル 新田教会牧師)

 ルターの時代、ペストがたびたび流行し、またトルコがヨーロッパを攻め、すぐそばに生きている人々に死の陰が迫りました。ルター自身も、宗教改革の進展の中で敵と戦いつつ、命の危険を感じる日々を送っていました。
 「メメント・モリ」ということばをご存じでしょうか。「死を忘れない」という意味のラテン語の言葉です。死は誰にでも訪れるもの、誰も乗り越えることのできないもの、すべて生きている人が誰も知らない世界へとひとり無理矢理に連れて行かれることです。だからこそ、死は恐れるべきものであって、死に対する解決を誰もが望みます。

 古代には、このことばは、「死を忘れるな。そして、生きる今を楽しめ」というように使われたようですが、今の人生をどれだけ楽しんでも、死の解決にはなりません。
 現代はどうでしょう。私は、死にそっぽを向く時代になったように感じます。人の知らない感染症が流行し、災害や戦争が起こる。世界の様子はかつての時代とそれほど変わらないのに、死が情報や数字に変えられることで、死を自分のものとし、恐れることが薄くなっていると感じます。しかし、死から目を背けても、死は必ず自分の身に起こります。

 死に対する解決は、死を経験したことのない、生きている者には生み出せません。とはいえ、もはや死に飲み込まれた人は、解決を生み出すことができません。死の解決は、死んで、死に勝利して、生きておられる方にこそあるのです。イエス・キリストの十字架の死に私たちの死は取りさられ、イエス・キリストの復活が死への勝利を与えます。主を信じる信仰によって罪の救いと永遠の命を受ける時、私たちは死の解決と、また死を恐れつつも勝利を確信しながら力強く歩む命の日々が与えられるのです。

 「今こそわたしは去りゆく」と「主は死に打ち勝ち」は、死の恐れがいつも傍らにある世界と人々に向かって、みことばに示された解決と勝利を力強く宣言する賛美です。救い主イエス様を信じ、私の命と人生にお迎えし、永遠の命と天の御国の約束へと去りゆく日まで、主の御心に生きる毎日を送りましょう。救い主を胸に抱いたシメオンのように。

世界の教会の声

浅野 直樹Sr.(世界宣教主事 市ヶ谷・スオミ教会牧師)


スウェーデンのインターネット牧師③

 ルーテル世界連盟(LWF)がスウェーデンのシャルロッテ・フルックルンド牧師にインタビューした記事(2021年3月19日)の紹介の最終回です。

(元の記事のURL)
https://www.lutheranworld.org/news/sweden-internet-pastor-engages-faith-seekers-online

 最近は、人々が退屈してきているようで、退屈さと向き合うための祈りですとか、退屈に耐える程度のことが自分の最悪の事態で済んでいることを感謝したい、といった祈りもあります。COVID─19の間、皆さんが今感じていること、向き合っていることにオンラインでの祈りで関われることを私たちは嬉しく思っています。

—ソーシャルメディア牧師であることをどう思っていますか。
 人生における実存的な問いについて皆さんとお話しできるので、やり甲斐があります。いわば彼らの「今そのとき」に私もそこにいられるのです。通常の牧会だとそのためにわざわざ時間をつくり、腰を下ろして話すという形式ですが、そうではなく問題があったら即座に対応できるのです。困ったことや何か嬉しいことがあったらスマホから手を離すのではなく、むしろスマホを手に取って利用するのです。ピンチのときも喜びの只中でも、すぐそこに教会があって、私が関われるのです。私はそこにやり甲斐を感じています。

—オンライン牧会に期待することはありますか。
 世界のオンライン牧師たちとつながりたいと思っています。ソーシャルメディア牧会は素晴らしい召しですが、同じ働きに携わる方々との交流や学習をできるといいですね。

—オンライン牧会を教会が実施していくためのアドバイスはありますか。
 オンライン教会は、パンデミックのときに限らず良い働きです。参加しやすくつながりやすいからです。ヴァーチャルな礼拝のほうが対面する礼拝よりもたくさん出席してくれるという同僚たちの声もあります。教会へでかけることは無理でも、礼拝には参加したいという人たちのためにも、こうした牧会を今後も続ける必要を感じます。オンラインを続けましょう!Facebook、Instagram、TikTokなど利用できるメディアがなんであれ、教会がやりたいこと、必要と思うことを見つけてそこに登場してください。

—スウェーデン教会、そしてあなたの仕事、御自身にとって、教会のコミュニオンとは何か教えてください。
 ルーテルはグローバルな教会ですが、世界の人々と毎日顔を合わせているわけではありません。けれどもソーシャルメディアだとそれができます。これを用いて私たちが共に祈るなかで、コミュニオンというルーテル教会の「輪」のなかにいる1人だと気づけるのです。(了)

パンデミックの中の教会 東教区の取り組みから
東教区オンライン信徒講座

小勝奈保子(東教区教育部長・聖パウロ教会牧師)

  東教区の新しい試みとして、オンライン信徒講座が始まりました。諸集会の開催が難しい状況が続いています。聖書会の休止が続いている教会もあれば、オンラインで始めた教会もあります。単独ではネット配信の難しい教会もあるでしょう。そこで、東教区27教会を対象にZoomによる、他教会のメンバーと一緒に学ぶ、聖書講座を計画しました。全体で70分(講座60分+案内10分)です。
 第1回(6月)は「聖書日課のススメ・詩編とルター」松本義宣牧師、第2回は(7月)「求道者に伝える聖書」(フィリピとエチオピアの高官)、それぞれ約50名の参加がありました。講師の方々には、今回のテーマとして、宣教、信徒として伝えることを意識した聖書の学びをお願いしています。

 準備の段階では、申込者が100名を越えたらどうしよう?との心配もあったことから、各教会1~4名の枠を設けました。後日、希望する教会には録画(YouTube限定配信)のURLをお送りすることで、92名のお申込みがありました。
 オンライン上でも共に集い学び合えることは大きな喜びです。しかし、ネット環境の難しさも感じています。Zoomの良さは相互交流にあるのですが、出席者が50名近くになりますと、参加者一人一人の発題の提供が難しくなります。しかし、講師の一方的な講義だけ終わってしまうのは、もったいないと頭を悩ませているところです。また、資料の取り扱いに関しても、スマホによる参加者の方もおられますので、印刷の準備や画面共有の視聴にも限界があり、つながりあっているけれども、個々のニーズに応えるのはやはり難しいですね。やってみないと分からないものですが、新たな課題も与えられます。

 しかし、良い点は、他の教会の牧師から聖書の学びが受けられる、遠く離れている人々と同じ時間を共有できる、忙しい時間の合間でも遠い会場まで足を運ばずに自宅にて集いに参加できるなど、多くの利点もありました。
 牧師にとってもオンライン上で伝えることは、まだまだ慣れない状況です。だからでしょうか、参加者には教職者の姿も多く見受けられました。新しい伝え方を信徒も牧師も共に学び合っています。

〈今後の予定〉
第3回9月24日(金)19時「子どもへ伝える聖書」
朝比奈晴朗牧師
第4回10月23日(土)10時「旧約の預言者たち」
後藤由起牧師
第5回11月26日(金)19時「はじめてのパウロ」
立山忠浩牧師
 録画(YouTube限定配信)のURLに関しては、所属教会を通じて東教区教育部へお問合せください。

熱海市伊豆山地区ボランティア報告

渡邉克博(浜松教会・浜名教会牧師)

  7月3日、熱海市伊豆山地区で大規模な土砂災害が起きました。その後の7月22日、2年前の千葉県館山市の台風の被災者支援の際にお世話になったNGO団体が、発災直後から現地に入って支援活動をしていることを知りました。それから、役員会での議論を経て、ボランティア参加後2週間の自主隔離と、事前のPCR検査だけでなく自主隔離の後にもPCR検査を受けることを条件として、JELCも運営委員会に参加しているACTジャパン・フォーラムを通して、8月9日に現地でのボランティア活動に参加することとなりました。

 その団体は地域の自治会と協力して被災者支援を行っていました。その活動は二つです。一つは市などから届く生活必需品の戸別配布と住民のニーズの聞き取り、もう一つが住民のニーズを受けて、絵本の宅配、キッズクラブ(子どもたちの交流の場)、移動困難者の車での移送支援などの具体的な被災者支援プログラムの展開です。ここには彼らの提唱する「市民(ボランティアなどによる)ソーシャルワーク」という方法がとられています。

 私は戸別訪問に同行し、狭い山道を車で移動し、移動先で夏の日差しの中で汗をかきながら支援物資を徒歩で戸別配布し、住民の日ごとに変わるニーズの聞き取りを行いました。熱海市の伊豆山地区は、山地を切り開いた集落で、古くからの地域住民の住居と、別荘とが混在しています。水や食料や日用品が地域の支援拠点の公民館に届くのですが、高齢の住民は急な坂を上り下りしなければなりません。活動の最中、大雨の被害の爪あとを見たり、被災された方々の口から自然と溢れる苦しみと痛みの声に耳を傾ける場面もありました。

 コロナ禍の中での多忙な現実の状況に生きていて、自分の教会の近くや教区での次の災害に対して何をどう備え、実際に起きたときに何をすべきか、そういう問いかけを受けているのではないかということを感じつつ、今、コロナ禍の中での被災者支援について考えています。

比叡山宗教サミット34周年記念
「世界平和祈りの集い」報告「食卓を囲めますように」

竹田大地(西宮教会・神戸東教会・神戸教会牧師)

 8月4日(水)に比叡山延暦寺にて天台宗主催の「比叡山宗教サミット34周年記念 世界平和の祈りの集い」が開催され、日本福音ルーテル教会より大柴譲治総会議長(リモート)と竹田(現地参列)が出席した。
 この集いは1986年10月にヨハネ・パウロ2世の呼びかけによってイタリアのアッシジで始められた宗教間対話の催し「平和の祈り」が発端となっている。これは「平和は誰もが恒久的に求め、それは宗教の違いは関係ない共通の目標である」ということで始められた祈り会である。この理念に共感した当時の天台宗第253代座主山田惠諦氏が、これを日本でも毎年行っていこうと声を挙げ始められ、今年で34回目となった。
 キリスト教界からは日本福音ルーテル教会の他にカトリック2名、聖公会2名が現地に参集し、リモートでバチカン市国駐日大使などが出席をした。
 今回は現座主によって、戦争に限らず、新型コロナウイルス禍のことを含めて「宗教を超えて相互理解を深め博愛、利他、連帯によってともに祈り、世界平和を希求し、我々宗教者は一層の努力を積んでいく必要がある」という主旨の挨拶がされた。
 この催しで、高校生が平和を願い、色紙に言葉を書いたものが掲示されていた。その中の一つに「食卓を囲めますように」というメッセージが目に留まった。私はそのメッセージに感動を覚えた。まさに平和の姿とは、愛する家族や友と食卓を囲むことから始まる。キリストもまた弱められ、悲しみを抱え、悩んでいる人々、罪人と食卓を囲むことによって平和をお示しになったことを思い出したからである。食卓には小さな平和があり、この世の隅の小さな食卓の出来事が実は他者を思いやり、愛し、交わりを深め、喜びに満ち溢れさせる出来事であったとハッとさせられた。隣人との関りは「同じ釜の飯を食う」ではないが、そういう親しい食の交わりから生まれることは多々ある。そのしるしとして私たちは聖餐という恵みをいただいている。今はそれが奪われ、むしろ悪いことのようにされてしまっていることは悲しく、辛いことである。一日も早く共に食卓を囲む日が訪れるようにとこの高校生の祈りに思いを合わせ、この「食卓を囲めますように」という祈りが真実にこの平和でない世界に必要なメッセージだと感じた。

第7次綜合方策の紹介⑹

事務局長 滝田浩之

■方策本文より 第7次綜合方策主文

1.基本方針
(1)宣教の根拠
①基本的立場
 ルターの宗教改革で意図された「聖書のみ」、「信仰のみ」、「恵みのみ」、すなわち「キリストのみ」を基本的立場とし、今日の世界に対して神の愛と義による救いを、神の言葉と共に伝えることが日本福音ルーテル教会の宣教である。
②宣教の目的
 日本福音ルーテル教会の宣教の使命は、キリストの命に従って、すべての人に福音を宣べ伝え、教会を建て、愛による奉仕をなし、これらのことによって神に仕えることを目的とする。(日本福音ルーテル教会憲法第9条)
③教会の意義
 福音の宣教として恵みの手段(説教とサクラメント)を神より託された教会は、キリストへの信仰により、神の救いの働きを担う使命共同体であることを、教会の宣教を通して証しする。

(2)教会の使命
①伝道
 教会は、折がよくても悪くても、神の国の完成を目指し、祈りつつ、希望と確信をもってキリストと共に歩むものである。(方策を支える重要理念)
②宣教の器
 教会は、説教とサクラメントを通して、福音を伝えるためにより良い宣教の器となることを目指す。
③教会の「リ・フォーメイション(再形成)」
 今日の世界と社会及びそれぞれの地域において、自らの責任能力に応じて宣教する教会であるために、その実現に向けて教会組織の再形成を必要とする。主任牧師が、個々の教会の将来像を地区、教区と協力して描くことが重要である。「方策実行委員会」は、その方向性を支援するために、必要な規則改正等に対応する。

(3)本教会と個々の教会
①教会形成
 日本福音ルーテル教会の個々の教会がそれぞれの宣教地において、すべての人にキリストの福音を伝え、教会の一員として招き、信仰の群れとして教会を形成することが宣教の中心的働きである。
②教区の役割
 一つの教会としての日本福音ルーテル教会を構成する個々の教会こそが福音宣教の第一線に置かれるものであり、個々の教会が属する一定の地域毎に構成される地区・教区によって地域の宣教が進められる。
 また、教区は全体の一致と宣教の進展を図るための責任機関である。教区は個々の教会、地区(教会共同体、教会群)の意見をまとめ、「招聘と応諾」については基本的に堅持しつつ、具体的な招聘手続きを個々の教会、地区の描く将来像に基づき行う。一人の教職が担える範囲を、具体的に二つの宣教拠点(教会、あるいは施設)を目安に進められることが望ましいと考える。
 各教区の状況は大きく異なっている。また教会再編は、あくまでも牧会力の回復のために必要と判断されるところから検討されるべき対応策の一つである。よって一律のタイムスケジュールを組むことで力のある教会の宣教を阻害する恐れもある。よって各教区での活発な議論の開始を期待したい。
③教会間の共同
 教区は地域における教会間での協力の意義を受けとめ、牧師が複数の宣教拠点を抱える場合、積極的に地域の宣教のあり方について提案する責任を負う。
④全体は一つの教会
 日本福音ルーテル教会は一つの教会として、個々の教会、教区、本教会が宣教するための活動と維持のために、それぞれの役割分担を明確にし、これを共に担っていく必要がある。
⑤本教会の役割
 本教会は、全体を一つの教会とし、その組織・制度を維持・発展させていくために、内的・対外的な教会行政と宣教活動及び教職養成機関の維持と推進を中心的業務とする。

■解説

 第7次綜合方策の「本文」に入ります。具体的な指針を示すものとなります。
 日本福音ルーテル教会は、今、岐路に立っている、あるいは危機的な状況にあるのではないかと評価されることがあります。確かに、戦後のキリスト教ブームの時に多くの洗礼者が生まれるような状況に私たちはありません。また、その頃に洗礼を受けられた方々に、今も教会が支えられていることを否定することはできません。
 しかし、私たちは、そのような危機的な状況にあるからこそ、教会の原点にいつも立ち帰ることが必要ですし、それしか活路はないことも知っています。ルター神学の特徴が「一点突破、全面展開」と言われるならば、まさに「一点」は福音の喜びを、「折がよくても悪くても」伝えることにあります。
 この喜びを伝えるのは「個々の教会」の礼拝であることも、私たちにとって自明なことです。もちろん、私たちの教会は各個教会主義でも、あるいは各個教会の連合体でもありません。個々の教会は教区を形成し、教区は本教会を形成し「ひとつの教会」であると私たちは理解しています。このような教会理解を持つ私たちだからこそ、「個々の教会」をどのように活性化し、どのように支えるのか、群れを託されている主任牧師、そして教区の役割は大きなものがあるものと考えます。
 その時、もう一つの視点として考えたいのは、1人の教職が、十分に「福音の喜びの伝達」のために機能することのできる範囲です。第7次綜合方策では、この範囲の一つの目安として、1人の教職は二つの宣教拠点(個々の教会、施設)までは十分に担えるのではないかと考えました。もちろん、これは機械的に二つの拠点までとするというものではありません。なぜなら「個々の教会」の特性や働き、そして置かれた地域や距離、あるいは「施設」の運営形態や規模によって事情は異なるからです。ルーテル教会形成の特徴は「バトンタッチ」にあります。教職は必ず、任務を「バトンタッチ」する責務を負っています。次に働いてくださる教職が、喜んで責務を担うことができるためには、今何をする必要があるか。この課題を共に悩み、共に答えを見出していく時を私たちは迎えています。

るうてる法人会連合全体研修会(オンライン)に参加して

宮原サラ(久留米教会・日善幼稚園教諭)

 今年は新型コロナウイルス感染拡大防止の為、オンラインでの研修が行われました。講師は日本福音ルーテル教会総会議長の大柴譲治先生で、緊急事態宣言が発令されている状況の中で、色々な困難や悲しみにどう向き合うべきかを学ばせて頂きました。
 先月も5回目の緊急事態宣言が発令されましたが、発病して数週間で命を落とす方もいれば、無症状で自宅待機を余儀なくされている方もいらっしゃいます。大柴先生は、悲しみや苦しみの中におられる時、「嘆くことの大切さ」を話されました。「悲しいこと、困難なことにぶち当たった時に、嘆いて良いのです。嘆きを受け止めてくれる誰かがいることが大切です。」と述べられました。「それは、家族でも友人でも、温かい共同体(教会やサークル、いのちの電話等)でも、共に話を聴いて受け止めてくれる人がいるだけで良いのです。」と。
 子ども達も、お友だちとけんかしたり、自分の思うようにいかなくて涙がでたり、お家の人の事を思い出して寂しくなったり…そんな時に教師が子どもの気持ちを聞いて、寄り添い、悲しみを受け止めてあげる事が大切ではないかと、改めて思います。
 また大柴先生は、「レジリエンス」の重要性を話されました。この言葉は元来、ばねの回復力という意味ですが、人間も、再生能力・逆境に乗り越えられる力、すなわちレジリエンスを持っているそうです。そのレジリエンスを高めるには、①ほがらかにする。②1人でもいいから、自分のありのままを受け止める人を持つ。③家族や職場など、温かい雰囲気や、信頼関係を持てる環境の中で、祈り合える場が大切だ、と教えて下さいました。
 今、子ども達は厳しい環境の中にいますが、幼稚園で少しでも自分のありのままを出して、お友だちと楽しい時間を送ることができるよう、私も子どもに寄り添い関わっていきたいと思います。

※8月23日に行われた、るうてる法人会連合全体研修会での大柴譲治議長による主題講演「COVID―19下での悲嘆とそのケア」はhttps://youtu.be/BwINGLnsqkYでご覧頂けます。

第3回「神学校オープンセミナリー」のご案内

立山忠浩(日本ルーテル神学校校長・都南教会牧師)

 第3回「神学校オープン・セミナリー」を今年も開催します。新型コロナウイルス感染症の蔓延が収まる状況にありませんので、昨年と同様にオンライン(Zoom形式)で行います。日本福音ルーテル教会(JELC)及び日本ルーテル教団(NRK)の信徒で、神学校に関心のある者だけでなく、教会の働きへの献身を考えている者をも対象とします。18歳~30代までとし、10名程度の定員となります。

 オンラインでの開催は、直接神学校を体験することができず、参加者や神学教育の教会の責任者及び神学校教師と対面することはできませんが、自宅から参加できるというメリットがあります。全国の教会の皆さん、どうぞご参加ください。
 プログラムは第一部と第二部に分かれます。第一部では、神学校の模擬授業を体験していただきます。神学校の授業時間は100分ですが、その半分ほどの時間で神学生の授業を味わっていただきます。きっと新鮮な体験となることでしょう。受験・入学に関するガイダンスも行いますので、有益な情報を入手できると思います。

 夕食と休憩時間を挟んで、第二部は交流会です。現役の神学生の進行の下、リラックスした雰囲気で参加者が交流を深める時です。若手牧師にも参加していただき、神学校を受験するまでの葛藤や、神学生時代の生活、牧師となった今を率直に話してくださることでしょう。要は、皆さんの参加を心から歓迎し、その準備を精一杯しているということです。

開催日 : 11月14日(日)  第一部(15時~17時) 第二部(18時半~21時)
申し込み : 所属教会牧師の推薦を受け、各教区長に申し込みのこと
締め切り : 10月31日(日)
共催 : JELCとNRKの神学教育委員会、日本ルーテル神学校
問い合せ : ルーテル学院・河田チャプレン(mkawata※luther.ac.jp)※→@

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