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るうてる2021年

るうてる2021年3月号

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「四旬節第一主日の説教」

学校法人九州学院副院長・チャプレン 小副川幸孝

「それから、〝霊〟はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」(マルコによる福音書1章12~13節)

 教会の暦では今日から四旬節」とか「受難節」とか呼ばれる季節が始まります。この四旬節の最初の主日では、教会ではイエスの荒野での誘惑の記事が伝統的に読まれてきました。それは、このイエス・キリストの誘惑の出来事というのが、単なる誘惑や試練に打ち勝つというようなことではなく、私たちが生きているということの全体に関わること、特に、この世の苦しみや受難と深い関係があるからです。

 マルコはこの出来事を簡潔に表現していますが、マタイとルカによる福音書によりますと、イエスはここで三つの誘惑を受けられたと記されています。第一は、イエスが荒野で断食をされている時に悪魔がやって来て、「あなたがもし神の子なら、その石ころをパンに変えたら良かろう」と誘ったというのです。しかし、ここで注意深く聖書を読む必要がありますが、悪魔の誘惑の言葉というのは、パンを食べることではなく、石をパンに変えることです。つまり、生物的に生きることそのものではなく、石をパンに変えるような生き方のことが問題になっています。

 二番目は、高い神殿の屋根の上から飛び降りなさい。あなたが神の子なら、皆が支えてくれるだろう。神が守ってくださるだろうという誘惑です。これは簡単に言えば、私たちが、安心して生きるために神や信仰を利用してしまうという誘惑です。そして、第三番目は、あなたがもし神の子ならば、世界のすべてをあなたに委ねる。あなたは栄華の中に包まれ、高い地位を得ることが出来る。そういう誘惑です。

 しかし考えてみると、これらの三つのことは、誘惑というよりは、むしろ、私たちが積極的に良いことだと思って求めていることです。私たちは、少なくとも食べることに困らない生活をしたいと望んでいます。また、私たちは、権力や権威というほどではないにしても、人から良く思われたいし、ある程度認められたいと思っています。そして、私たちは危険を避け、出来るなら、安全で、安心して過していきたいと思っています。食べることに困らず、人から尊敬され、安心して暮らしていくということは、私たちが、むしろ、こちらから、そうしてもらいたいと思うようなことばかりです。

 しかし、聖書はこれが誘惑だと言うのです。これが何故誘惑なのかと言いますと、それは、イエス・キリストの十字架の場面に出てくる人たちのことを考えてみるとよくわかります。十字架の場面に登場する当時の宗教的・政治的指導者たち、ローマの総督や兵士、そして大勢の群衆など、その人たちの姿を見ると、こういう人たちの生活というのが、愛することではなく、あるいは信じることではなく、本当は恐れと不安に満ちていることに気づかされるのです。豊かになりたいがゆえに、安心して暮したいがゆえに、そして、他の人に認められたいがゆえに、恐れに捕らわれ、不安に捕らわれていることに気づかされるのです。
 さてそこで、イエス・キリストを見てみたいと思います。キリストの生涯というのはどういう生涯だったかを考えてみましょう。イエスの十字架と復活の生涯が示すのは、悲しみや苦しみを抱えても、なお、人は生きていけるし、貧しくても、物が無くても、たとえ病気であっても、能力が無くても、私たち人間が幸せになれるということを教えるものです。イエスは、まさに、ただ神の愛と恵みに堅く立つことで、本当に深く豊かな道を示されたのです。

 私たちは、無意識に、聖書が誘惑として示したことを望んで、大切なものを失い、不安にかられ、恐れに駆られて生きているのかもしれません。試練はいつもあります。苦しみはいつもあります。お金がない、人から良く思われない、他の人から理解されない、いつも不安定で、不安の中に生きています。しかし、その中で神の言葉に立つことで本当に豊かに生きる道がある。私たちは、その神の言葉を聞きながら日々を本当に過すことができればと思います。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

⑫「どうして」

「イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。」(ヨハネによる福音書20・16

 「皮肉な名前だね。」と病院へお見舞いに来た友達が私に言いました。「違うよ、私、心が健康だから大丈夫だよ。」と友達に答えそのように答えた私は自分で自分に驚きました。

 私の名前は「いとうさあな」です。少し早めに生まれたので生まれてからしばらくの間、保育器に入っていました。両親は健康に育ってほしいとこの名前をつけてくれました。父によく「おまえの名前の〈さあな〉はイタリア語で〈健康〉という意味だ」と幼い頃から言われ、幼い頃は子ども心にその頃流行っていた名前のほうが良かったなぁなんて思っておりましたが、今はこの名前が大好きです。

 「皮肉な名前だね。」と友達に言われたのは「この名前、イタリア語で〈健康〉って意味なんだって。」と言った時でした。私が意外に思った理由はその友達が看護師をしていることでもありました。 名前が無い方はおられるでしょうか。何らかの形で出生に関わった人から一人ひとりが名前をつけてもらっていると思います。あなたにつけられた名前には意味が込められています。そして何よりも、あなたに命を与えて下さる神様があなたに名前を与えて下さり、あなたの命の名を呼んで下さいます。

議長室から
天に向かって嘆き祈る

総会議長 大柴譲治

「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」 (詩編130編より)

 3・11東日本大震災からちょうど10年、9・11同時多発テロから20年が経ちます。阪神淡路大震災、ルクソールテロ事件、尼崎線列車脱線事故などいずれも胸が張り裂けるほど鋭い痛みを伴う記憶です。私たちはこのような出来事が起こると「なぜこのような悲劇が起こるのか」と天に向かってその不条理を嘆きます。
 なぜ神はこのような過酷な現実を許され、嘆き祈る者たちの声に沈黙しておられるのか。これは魂の痛みを伴う〝Sacred Question〟であり神との格闘です。どこにも腑に落ちるような答えを見出すことはできない。私たちは生涯をかけて答えのない問いと格闘し続けるほかないのでしょう。
 ルクソール事件の翌日の新聞には犠牲となられた何組もの新婚カップルの笑顔の写真が掲載され、涙を禁じ得ませんでした。その後夕刊で吉田秀和氏の文章と出会いました。「私は愛する親しい人たちといっしょに幸せに生きていた時は、それを当然のように受け入れていたけれど、それがなぜ条理なのか。事故にあったのが不条理なら、たまたまその電車に乗らなかったのがなぜ条理なのか。両者は同じものの裏表、条理の上では区別できない。不条理の刃物に倒れるのが受け入れがたいというなら、その逆も本来、根拠がなかったのだ。

 何と空しいことだろう!この考えに取り憑かれ、心は閉ざされ、何十年もなりわいとしてきた音楽をきくための窓をあける気力もないまま、私は時を過ごしていた。」「その時、バッハが来た。それも《マタイ受難曲》やカンタータの類いではなく、まず《平均律クラヴィーア曲集》全二巻。これをききだして、私はこの不条理の世界にも何かの秩序がありうるのではないかという気がしてきた。その秩序がどういうものかはわからない。きいたあとは不条理、無意味の苦い思いは消えず、また戻ってくる。
 しかし、この音楽が続く限り、心が静まり、世界には何もないのかもしれないが、その空虚の中で空虚のままにひとつの宇宙的秩序とでもいうべ
きものが存在しているのかもしれないという気がしてくる」(「不条理と秩序」、『たとえ世界が不条理だったとしても』朝日新聞社2005より)。 
 バッハは自筆譜の最後にSDGと記しました(soli deo gloriaの略)。
「バッハは作曲したというより天上の音楽を写譜した」とはある人の言葉です。然り、その通りです。バッハは音楽を通して嘆く者たちのために天からの慰めを祈ったのではないか、私はそう捉えています。

〈訂正〉
 2021年2月号2面「聽・議長室から」の文中で編集過程でのミスによる誤植がありました。執筆者にお詫び申し上げますとともに、以下謹んで訂正いたします。
4段目後から3〜4行目
(誤)『口語訳聖書』(1995)
(正)『口語訳聖書』(1955)

「教会讃美歌 増補」 解説

⑧ 讃美歌委員からの声⑷
日本ルーテル教団教会讃美歌委員 安藤政泰

「言葉と音楽がひとつになる時」
懐かしい歌を聴くと、その時のことを思い出します。
 良く歌った童謡を聴くと、声を出さなくても、歌っています。

 増補版讃美歌集の特徴の一つは、ルターの讃美歌(コラール)が収納されていることです。その歌詞は神への賛美と共に、教育的にも配慮されています。
 礼拝でその讃美歌を共に歌う時、自分が洗礼を受けた時に学んだことを思い起こす歌詞に出会います。
 また、「讃美歌」は礼拝の中で自分が歌うだけでなく、他の人が歌うのを聴くこともあります。隣の人の歌うのを聴く、聖歌隊の歌う賛歌を聴く、オルガンの前奏を聴く、ということです。
 オルガン用の曲には、ルターのコラールをもとにした前奏曲が多くあります。その中で特に有名なのがJ.S.Bachのコラール前奏曲と言われ、コラールの旋律を使って作曲された楽曲です。

 例えば増補版にも収録されていますが、「主の祈り」の讃美歌(コラール)を主題とした前奏曲があります。自分で歌ったこともある曲で、その旋律も歌詞の大要も知っていると、演奏を聴いたとき、歌詞を直接聞かなくても、旋律と共に、その歌詞が思い起こされます。奏でられる旋律をとおして、自分も賛美を共にしています。
 礼拝で自分が直接声を出し、歌うのでは無くても、確実に楽器の演奏と共に、自分もその演奏の一部となり、神を賛美しているのです。
 言葉と音楽が一体となるのは、自分が直接声をだして歌う時にだけ起こることでは無く、聴いた音楽に心を寄せるときにも起こり、共に神を賛美しているのです。
 ルターのコラールと親しみ、賛美と学びを共にしましょう。

私たちの礼拝 —式文ハンドブック—

⑧み言葉の礼拝
松本義宣(式文委員会委員長・東京教会牧師)

 今回の式文改訂では、聖餐を伴わない礼拝のために「み言葉の礼拝」が新たに提案されました。現行の礼拝式文(いわゆる青式文)では、「奉献の部」の終わりに、『聖餐が行なわれないときは、ここから「派遣の部」へ続く』と指示されていました。そのように実践されていましたが、これだと、聖餐を省くイメージとなり、不完全なもの、あるいは諸般の事情で聖餐が執行されないことにやや後ろめたい思いを抱かせてしまいます。しかし、「み言葉(説教)」がメインとなる礼拝式もあることの重要性を再確認したいと思います。

 これは、礼拝での聖餐の重要性を主張する今回の改訂式文とは、矛盾のように思われるかもしれません。確かに、宗教改革以降、時代的背景から、より「説教」を重んずる傾向が強まり聖餐式を行わなくなったのも事実ですが、 それとは別に、一方ではルーテル教会でも「説教礼拝」の伝統があること、殊にこの「コロナ禍」での礼拝を再認識、再構築していく際にも重要なことだと思われます。
 基本的には、改訂式文と同じ構成ですが、聖餐の代わりに「感謝」という項を設けて、「招き」「みことば」「感謝」「派遣」となります。感謝の部分には、み言葉を聞き、神の恵みを受けたことへの応答として、「教会の祈り」を祈ります。全信徒祭司性とは、神の恵みを受け隣人に仕え、困窮する世界のために、私たちが祭司的な役割として執り成しをすることを意味します。この祈りで、恵みを受けたことを感謝し、共に祈ることで執り成しを果たします。

 続いて「主の祈り」を祈ります。主の祈りは、改めて言うまでもなく、主から弟子が受けた、私たち信仰者の「しるし」の祈りです。福音を聞き、改めて弟子とされて、新たな気持ちで派遣されていく、その決意としてここで祈られます。エキュメニカルな交わりを大切にするために、日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳(2000年)を採用しています。これまでのNCC口語訳、以前の文語訳と共に選択肢を増やしました。

 日本の教会では、伝道地での宣教でもあり、長く「聖餐のない礼拝」が行われてきましたし、また現状では、牧師が常駐しない教会での信徒礼拝も多く行われています。そんな場合も、省略ではなく、そのための「み言葉の礼拝」が守られていくことが大切です。

パンデミックの中のディアコニア

社会福祉ベタニヤホーム状況報告
理事長 綱 春子(聖パウロ教会)

1.法人としての取り組み

 2020年1月、新型コロナウイルス感染症(COVID—19)のメディア報道が耳に入り、次第に都内の感染が拡大していく中で、当法人も2月より関係機関と連携を持ちながら、新型コロナウイルスに関する情報を法人内で共有し、職員及び利用者等を含めて罹患防止に努めました。
 保育園3園・母子生活支援施設1施設の保育業務と母子の生活支援業務において、基本的習慣として検温、マスク使用、手指消毒、一定の距離を置く、不要不急の外出を控える等について保護者にも協力をお願いし、施設内及び備品・遊具の消毒にも気を配り、職員は本来の業務の合間に特に注意して皆で取り組んでいます。

 第1波のあった緊急事態宣言下においては感染は回避できました。保育を要する家庭に代わる乳幼児の生活と養護及び保護者の就労支援を担う保育園は原則として休園はできないのです。

 母子生活支援施設においても、徹底した感染予防対策を講じ利用者には守って行動することを伝え協力をお願いしました。利用者の生活の場ですから決して罹患させてはなりません。クラスターを絶対避けなければなりません。

 職員のシフトは細やかに考慮し、通勤時間帯や通勤ルート等についても非常事態になった時の勤務体制を施設長中心に綿密に対応策を講じました。園長・施設長はじめ職員たちは必死に働きました。

 しかし、残念ながら第2波のピークを向かえる頃の7月22日、本部隣接の保育園で2歳児クラス園児1名と職員3名が感染していることが、医療機関の届け出及び保健所の検査により陽性(無症状)が判明し、7月23日から8月5日までやむを得ず休園しました。

 罹患者の出たクラスの園児と全職員のPCR検査を実施し、保育再開後も利用者及び家族、職員等の健康チェック、観察を継続しながら、3密の回避、検温、マスクの着用、手洗い励行、清掃・消毒等、一層の感染予防対策徹底のうえ通常業務を行いました。

 また、職員・保護者の体調不良の連絡が入る度にPCR検査受検をお願いし、濃厚接触の可能性がある職員は2週間特別休暇で自宅待機を命じました。この間、園は毎日、職員から健康観察の報告を受け状況把握に努めました。

 感染ルートは確定できませんでしたが、多くの方の出入りがある保育園では感染拡大は避けなければならない試練の連続でした。法人内の罹患者累計は園児2名、職員3名にとどまりましたが、感染拡大を防止できたのは職員が一丸となって対応してきたこと、そして保護者・利用者のご理解とご協力をいただき、職員の働きを信頼してくださったからです。

 関係者の皆様方に多大なご心配とご迷惑をおかけしましたことを、改めて心からお詫びしますとともに、ご理解ご協力に感謝いたします。

 8月14日、職員より新型コロナウイルスに感染したご家族が亡くなられた旨の連絡が入りました。言葉で言い表せない悲しいことにも遭遇しました。その職員とご家族の上に主のお慰めと平安がありますようにお祈りいたします。

2.関係機関・関係者の皆様へのお知らせについて

①自治体、保健所との連携(相談、指導、報告)
②保護者・地域・学校等
③日本福音ルーテル教会東教区教会、関係施設等、これらへのお知らせは、法人ホームページ(第1報から第6報まで)、メール、電話、お手紙、掲示、園児連絡帳等により行ないました。法人役員、保育園・施設ともに状況報告と感染予防対応策の再確認を行うとともに共有し、各現場で職員は実践に励みました。

3.職員の働きと処遇について

 法人では、常勤・非常勤すべての職員が安心して働けるよう、有給休暇や傷病等による休暇では対応できない特別休暇の取り扱いと所得補償について早々に検討し、整えてまいりました。

 具体的には、所得補償の面では、国の既存の制度や小中学校等の休校に伴う助成金など、新たに設けられた助成制度の活用や自治体の補助金を活用して危険手当の支給等を行ってまいりました。また、休暇の取り扱いについては、法人の服務に関する既存の規程の見直し・改正を行い、様々な状況に応じて必要な休暇を付与できるよう整備し、併せて職員への周知を図りました。

 2021年に入り第3波を迎えた現在、感染経路の特定ができず労災認定の申請が行えない職員への対応、罹患後の療養期間が終わり職場復帰に際して、これまであったPCR検査受検が不要となったことで不安を抱く職員や迎え入れる職場の対応など、保健所等の対応や指示も状況が変ってきています。療養中や回復後、職場復帰後も想定できなかった状況が発生しており、法人として引き続き対応が求められています。

4.チャプレンのお支えとメンタルケアについて

 新型コロナウイルスの感染拡大第3波は収まるところを知らず、子ども達・職員自身と家族、利用者の健康と命を守ることへの緊張と恐れと不安により、誰もが経験したことのない精神的疲弊と強いストレスに襲われながらの日々を送っております。

 特に、職員のメンタル面への支援が必要ですが、私たちの法人には、傍にいてくださるチャプレンから頂くみ言葉が心の支えになっています。それでもいつ終息するか先が見えない中での保育と母子支援業務は、職員の緊張と不安感の中に今も続いています。

 新型コロナ禍の中で、教会と施設は地域社会にあって常に「感染しない、感染させない」という社会的責任が伴いますので、連携して細心の注意を払うことが大切だと考えます。やるべきことをやって後は主にお委ねするのみです。

5.ベタニヤホームと教会と地域の支援について
  • ベタニヤホームの働きを覚えて聖パウロ教会会員の祈りが毎度捧げられています。
  • 教会会員の手作りマスクに牧師手作りのみ言葉カードを添えて「シャロームマスク」を献品頂きました。
  • 近隣に住む方からも、素敵な手作りマスクが沢山届きました。
  • 主日礼拝(リモート、フェイスブック、郵便配布)の説教やCSメッセージ、牧師手作りのみ言葉カードが法人各施設及び法人本部へ届けられました
  • CSメッセージに添える絵は法人施設から保育士の描画奉仕がなされています。
  • 各保育園・施設の担当チャプレンによる子ども礼拝が定期的に行われています。また、職員の昼礼時に時折チャプレンの参加で祈りの時が持たれています。
  • 法人創立記念日・東京大空襲犠牲者追悼記念礼拝、法人職員クリスマス礼拝(永年勤続者表彰)等を聖パウロ教会及び各職場にてリモートにより実施、各施設長等が最少人数で礼拝に参加しています。
  • 母子生活支援施設の子ども祝福礼拝でプレゼントを頂きました。

 み言葉を通してのお支えは、不安と恐れと疲労でくじけそうになる人の心を癒し、立ち上がる力となります。

 新型コロナ禍にあって、教会礼拝は形を変えて継続しています。このような時にも小さなことですが、教会はみ言葉の種まきをベタニヤホームに関わる人や地域の方々に向けて行われているのです。

アメリカ病院聖職者チャプレン報告1

関野和寛

 2020年7月より日本福音ルーテル教会の留学制度と共に渡米し、ミネソタ州のAbbott Northwestern Hospital(アボットノースウェスタン病院)にて病院聖職者、チャプレンとして勤務をしています。信徒、牧師、神父、イスラム教指導者合計14名のいるチャプレンチームの一員として週
5日の勤務にあたっています。

 私が勤務している病院は860床以上の大型総合病院で、私はその中でコロナ室と子どもと大人それぞれの精神科病棟担当として働いています。

 ミネソタ州では昨年の冬前半に新型コロナウィルスの感染が爆発。その中で病院内はお見舞いを含め一切の訪問者は立ち入りを禁止されました。特にコロナの隔離病棟で患者が会えるのは、医師と看護師、そしてチャプレンだけです。

 その中で患者さんたちは自分が本当に回復できるのか、家族や周りに自分が原因で感染を広げていないか、医療費は払えるか(集中治療室だと1日あたり100万円かかるケースもあります)など幾つもの不安の中で過ごしています。

 その中でチャプレンは全身防護服を身に着け、患者さんの苦しみに寄り添います。向こうからは目元しか見えませんがそれでも手をとり祈ります。小さな祈りのひと時です。けれども患者さんが人間的なコミュニケーションをとれる唯一の時間でもあります。

 またこの半年の間に何人ものコロナ患者さんたちの死に立ち合いました。面会謝絶の為、患者さんたちの家族はスマートフォンやタブレット端末で病室内と自宅をインターネットで繋ぎ、その中で大切な家族を看取らなくてはいけない苦しい現実があります。だからこそチャプレンはその傍らで家族の代わりには決してなれないけれども、それでも人として患者さんの横に立ち続けます。そしてこの闘いはまだ続いています。

 極めて過酷な現場ですが、このような場所で多くの事を吸収し、将来的にはこの病院聖職者、チャプレンの働きを広く日本、そしてアジアに伝えて行く事が使命だと感じています。どうぞ皆様の応援をよろしくお願いいたします。

世界の教会の声

浅野 直樹Sr.(世界宣教主事  市ヶ谷・スオミ教会牧師)

ベラルーシの牧師、支援と祈りに感謝①
世界ルーテル連盟(LWF)がベラルーシのウラディミル・タタニコフ牧師にインタビューした記事(2021年1月15日公開)を2回に分けて紹介します。

(元の記事のURL)
https://www.lutheranworld.org/news/belarus-pastor-grateful-solidarity-and-prayers

 ウラディミル・タタニコフ氏は、ベラルーシ内の全ルーテル教会を牧会する唯一の牧師です。

 ベラルーシでは2020年8月の大統領選挙以後、抵抗運動が絶えません。ベラルーシの西方、ポーランドとリトアニア国境近くにあるグロドノ市内に、タタニコフ牧師が牧会する一つの教会があります。過去数か月を振り返って、タタニコフ牧師が自身の経験とベラルーシのルーテル教会の現状について語ってくれました。

—2020年8月の大統領選挙直後の状況はいかがでしたか?

「不正が疑われた選挙への抗議活動が大々的に始まりました。それに対して治安部隊が全国規模で逮捕と家宅捜査で応じたので、ここグロドノではルーテル、カトリック、正教会は、教会を避難場所として開放しました。

 聖ヨハネルーテル教会がグロドノの中心地にあります。教会に隣接して地域の警察署本庁があります。私たちの教会をはじめ市内の全教会は、そのとき鐘を鳴らしたのです。そうすることで全教会が一致して、抗議運動をする人々に対する暴力をやめるようにと呼びかけるアピールをしたのです。帰宅途中の人、散歩中の人までも暴行を受けて逮捕されていたので、それが必要でした。教会は、そうした人々のために扉を開けて保護をし、彼らのために祈りました。」

—ベラルーシではその後も抵抗運動が続いたと聞いています。現在はいかがですか?
「その通りです。抵抗運動は続きました。8月以降3万人が逮捕され収監されました。さらに多くの人々が仕事を失ったり、大学を退学させられました。 反政府運動をしたことで有罪となったのです。

 ベラルーシのいくつかの都市にルーテル教会がありますが、首都ミンスクでは抗議活動の影響で地下鉄が止まり、市街地も閉鎖され交通がストップしてしまったので、教会では通常の礼拝ができなくなりました。そのような状況なので、パンを買いに出かけただけなのに取り押さえられ、一晩留置場で過ごすなどといったことも起こりかねません。」

—ベラルーシのルーテル教会の歴史について教えてください。

「ベラルーシで最大の教会は正教会です。カトリックがそれに続きますが、大きくはありません。福音ルーテル教会はとても小さく、マイノリティの教会として複雑な歴史があります。第二次世界大戦前、グロドノの教会はワルシャワ(ポーランド)管区に属していました。戦後になって共産党が教会を解散させ、教会堂は町の歴史資料館と化し、信徒たちはスターリン政権下のカザフスタンかキルギスタンに強制送還されてしまいました。今はミンスク、ビテプスク、グロドノにあります。教会堂を所有しているのはここグロドノの教会のみです。」
(以下、次号につづく)

東教区プロジェクト3・11
2020年度報告

小泉嗣(千葉教会・津田沼教会)

 集うことが制限される中、私たちの教会では昨年8月2日の平和主日、第二次世界大戦を経験された方々に8月15日の思い出を寄稿していただき、「あの日、私は…」という小さな文集を作成しました。例年であれば教会学校の礼拝や主日礼拝の後で戦争体験や被爆体験を直接お話していただくのですが、コロナ禍の中で礼拝は続けていたものの、高齢の方に礼拝出席を強いることもできず、それでも何とか「平和」へのおもいを分かち合うための苦肉の策でした…。寄せられた文章には8月15日の空の色や音、匂いなどを思い浮かべることができるような記憶がつづられていました。

 2021年3月11日、おそらく緊急事態宣言は解除されてはいるでしょうが、だからといって新型コロナウイルスの流行が収まっているわけもなく、多くの教会が様々な感性防止対策を講じて教会活動を続けていることと思います。そのような状況下で、東教区プロジェクト3・11は一つ所に集い2011年の3月11日を憶えるプログラムを持つことを諦めざるをえませんでした。
そもそも2020年に予定していた現地訪問や研修などの活動自体出来なかったことをここに報告しなければなりません。

 にもかかわらず、各地の教会・施設から計22万円の献金が寄せられ、「いわき食品放射能計測所いのり」「いわき放射能市民測定室たらちね」「松本こども留学」「ふくしまキッズケアパーク」「福島移住女性支援ネットワークEIWAN」に送金することができました。感謝して報告させていただきます。

 50年以上前の記憶が一人一人の心に鮮明に残っているように、2011年3月11日の記憶は今もなお、それぞれの心にしっかりと刻まれていることと思います。そしてそこで刻まれた痛みや苦しみ、不安や悲しみを背負い日々を歩まれている方々がおられます。新たな重荷を負われた方々もおられるでしょう。10年目の今年、集うことはできませんが、どうかそれぞれの地で自らの「あの日、あの時」を思い起こし、また痛みや苦しみを負う人々の「あの日、あの時」に思いをはせ、祈りをあわせていただければと願います。

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