るうてる《福音版》2006年3月号
バイブルエッセイ「キラキラ、つらら」
ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り主を仰ぎ望んで喜びを得その宮で朝を迎えることを。詩編27編4節(日本聖書協会・新共同訳)
あるテレビキャスターが、次のように書き記しています。
――山で暮らしていると、毎日のようにたくさんの「なぜだろう?」と思うことに出くわします。~その最たる例がつらら(氷柱)です。外は氷点下なのに、なぜつららができるのだろう」。見ていると屋根からシューと落ちてきた滴がピタッと凍りついていく。「そうか!家が暖かいからだ」。そう思ってひと気のない別荘を見てみる、とつららはほとんどありません。答えは簡単ですが、この発見に僕はたいへん感動を覚えました。「家が暖かければ、それだけ大きなつららができる!」つららは家族の団欒の象徴なのです。――
昨年、私が通っている教会で4ヶ月近くをかけての建物のリフォームがなされました。昭和33年、満開の桜のもとに建物が完成してから50年近い時間の中で何度かの増改築はありましたが、やはり形あるもの……全体的に老朽化してきていることは否めません。
特に今回、チャペルを中心にきれいに整えられたことで、人々が集まるこの場所に、あらためて深い意味があることを感じています。
もともと、このチャペルは聖書のお話に出てくるノアの箱舟の内部をイメージしてデザインされていて、羊を抱いているキリストの姿のステンドグラスを正面に、手造りによる木の長椅子の会衆席が並び、板張りの床から天井にかけては、漆喰の壁に茶色く彩られた柱が縦横に組まれています。
ここに来るたびに私は何か温かくやさしい空気を感じていました。それは、きっと長い年月を経たこの数々の木造からきている感触だと、ずっと思っていました。
ところが、それだけではないことに気がつきました。日曜日ごとに牧師によって語られてきた聖書のメッセージは、ただここに集う人たちに伝えられていたのではありません。また、讃美歌を歌う私たちの声もこの空間をただ流れていたのではありません。メッセージも歌声も、チャペルの天井・壁・柱の全てに響き渡り、浸透していっているのです。
それは、まるで囲炉裏の煙が歳月をかけてその屋内を燻していくように、私たちの神様への想いが長い歴史をかけて教会の建物を燻していっているのです。温めているのです。柱や壁にそっと耳を当ててみると、もしかしたら歴代の牧師の語る声が……また大勢の人々の歌う声が聞こえてくるかも知れません。
何よりも嬉しいことは、ここに集まって聖書のメッセージを聞くことで、私たちの神様への想いはますます温められていき、また、一緒に賛美することで、私たちの心の喜びも大きくなっていくということです。
そして、教会の建物の外に出てみると……目には見えないけれども……教会の屋根には、たくさんのキラキラと輝くつららができていることでしょう。神様を想う心のつららが、神様を賛美する喜びのつららが。Jun
堀先生のこころに寄り添って
23.愛することにより愛され
愛されるより愛すること?
アシジのフランチェスコの祈りとされる『平和の器』の中に「主よ。……愛されるより愛することを……」という誰の心をも打つ言葉が出てきます。「愛されることでなく、愛することを」とも訳されています。いずれにしても愛の在り方の本質をついたすぐれた祈りです。私自身、若い頃からこの祈りを色々の所で多くの人に紹介してきました。今もこの祈りが印刷されたカードを折りにふれ人に贈っています。
ところが、ある時のことです。それこそ「愛されること」についてひどく悩んでおられる方から、こんな質問を受けたのです。
「先生。この祈りの素晴らしさはよく分かります。けれども、いきなりそう言われても……。これは、まず愛されないとできないことではないでしょうか。そこがいつも引っ掛かるのです」と。
とても真面目で自分の心に真実な質問です。実は私も人に薦めながら少し説明がいるのではないかと思っていたことなのです。
愛されているという前提が
確かに人を愛するということは簡単なことではありません。相手によっては物凄いエネルギーを要します。心に資本がいると言ってもいいと思います。そしてそれは愛されることによってしか蓄えられないのです。ですから愛されなければ愛するということはとても難しいわけです。
このあまりに自明で厳しくもある事実を考えると、「愛されるよりも愛することを」という祈りは、美しくはあるけれど何ときつい精神修行なのだろうと考えてしまう人があっても不思議ではありません。その意味で少し説明を要するということなのです。こうした祈りの背景には神に愛されているという信仰の世界があります。聖書に「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(ヨハネの手紙一4章19節)と記されていますが、この「愛してくださった」が「愛することを」という祈りの前提となっているのです。
やはり愛することから
神に愛されていると言っても何か抽象的で分かりにくいと言われる方もあるでしょう。しかし人間はたとえ不完全であっても互いに愛し合える者として創造され、今自分がここに生きているということも、様々な形で愛が注がれてきた結果であると考えたいのです。聖書が語る神の愛がいきなり分からなくても、そのような人の愛をいくらかでも感じることがあるなら、たとえそれが小さな愛であっても、先ずその愛をもって「愛すること」を実践してみたいのです。
K・ヒルティは「愛のとりわけありがたい点は、ただ愛し返されることだけでなく、それよりむしろ、愛することで自分自身が即座に強められ、活気づけられることである」(『眠られぬ夜のために』)と述べていますが、確かに愛することによって「愛し返される」、つまり愛されるという体験に導かれるのです。それがたとえ小さな体験であっても、そのような体験を積み重ねていくとき、神に愛されているというメッセージも次第に分かりやすくなっていくのではないかと思います。とにかく愛する生活への一歩を踏み出したいものです。
堀 肇(ほりはじめ)/鶴瀬恵みキリスト教会牧師・ルーテル学院大学非常勤講師・臨床パストラルカウンセラー(PCCAJ認定)
あいちゃんの聖書人物伝
第12回 ユダ
イスカリオテのユダは、イエス・キリストの12人の弟子の一人でありながら、裏切りを企て、十字架に引き渡しました。もっとも、それ以上のことについては、殆ど分かっていません。分かっているのは、弟子たちの金入れを預かっていたということくらいです(ヨハネ12章6節、13章29節)。裏切りについても、その過程は記されていますが、動機については不明です(マルコ14章10節、11節ほか)。また、その死についても、様々です(マタイ26章27節、使1章18節)。
しかし、彼もまた弟子として召され、最後の晩餐の席にも共に与っていました(マルコ12章12節以下、他)。そして、他の弟子たちも最後にはイエスを見捨て逃げてしまうのですから、ユダにだけ裏切り者という深い罪を見ることは正しくないでしょう。むしろ、ユダにも、他の弟子たちのように裏切りの恥を負いながらも悔い改めて、生きてイエスを証しする道が備えられていたことを思います。
同じように、私たちもまた神に背く罪深い者でありながら、赦されて、生きて主を証しする存在として召されているということを覚えたいのです。
2001年3月から約5年間、かたやまさんに担当していただいたシリーズは今回をもって閉じさせていただきます。
長らくのご奉仕ありがとうございました。
たろこままの子育てブログ
「愛するとき②」
(愛は)自分の利益を求めず コリントの信徒への手紙一13章5節
やっと春の息吹を感じられるようになりましたね。
世の男性よりも受け手の女性たちがホワイトデーに熱を上げている今日この頃、皆さんお元気でしょうか?
我が家は結局チョコレートを買うこともなく、従ってお返しも期待せず、毎日ひたすら小太郎の世話に明け暮れて過ぎています。
雪の中、車輪を取られがちの車いすを押しながら、専門の訓練施設に通ったり、全く正反対に位置する2つの病院に通ったりして一週間もあっと言う間でした。
今冬は救急車も入院もなかったのでまだ御の字ですが(原稿執筆当時)、皆さんもこの冬は、タダでさえ忙しい日々の育児に加えて、うっかり子どもが体調を崩して大変だったかもしれませんね。
自宅で介抱も、通院も、はたまた入院に及べば全てのしわ寄せが母親へなだれ込みます。
自分のトイレや食事もそっちのけで子どもの顔色や体温に神経をすり減らし、かと思えば他の家族のお世話も待ったなし。
ヘタをすると同じ病をもらう兄弟もあらわれ、ようやく一段落したところで母親がダウンなんてテンテコ舞いなご家庭の話もよく耳にします。
さて今回は、前回引用した「愛は忍耐である」の少しあとの部分を取り上げてみました。
「愛は自分の利益を求めない」────これもまさしく母の姿だなぁと思います。
この句を読むと、世間で騒いでいる3月中旬のイベント事が何だか薄っぺらに感じるのは私だけでしょうか。
倍返しだとか言うけれど、愛にお返しなんてそもそも存在しないのです。
だからこそ、愛なのです。