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るうてる2006年

るうてる《福音版》2006年11月号

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バイブルエッセイ「ごめんね」「いいよ」

「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
ルカによる福音書7章47~48節(日本聖書協会・新共同訳)

 ある本屋さんでのできごとです。
 本を探すのに熱中していたのか、5~6歳の小さな男の子が、トン、と私にぶつかってきました。「あ……ごめんなさい」「いいよ、大丈夫」そういうと、ほっとしたような笑顔を見せてくれました。彼がきちんと「ごめんなさい」を言えたことにも感心したし、自分がちゃんと「いいよ」と言ってあげられたことも嬉しいな、と思いました。

 「ごめんね」「いいよ」……この関係を作ることの大切さをわたしに教えてくれたのは、友人のHさんと、その子どものTくんでした。Tくんは、たとえどんなにわがままを言って、手を付けられないくらい暴れても、必ず最後にはおずおずと「ママ、ごめんね」という一言を口にします。Hさんも、その一言さえ聞けば、たとえどんなに腹を立てていても、怒りをおさめて「うん、いいよ」と抱きしめるのです。心から謝れば、必ず「いいよ」と言ってもらえる。だから安心して「ごめんね」が言える。HさんとTくんのそのような関係が、私にはとても素敵でかけがえのないものに感じられるのです。

 「ごめんなさい」という一言を口にすること、自分の間違いを認めることは、一見簡単なようですが、とても勇気がいることです。国と国、組織と組織、個人と個人……わたしたちの生きている世の中では、どうも「間違いを認めた方が負けだ」というような考え方が、まかりとおってしまっているような気がします。しかし、そのようにしてお互いに、「自分は間違っていない、だから謝る必要はない」という考え方を続けていくとき、やはりそこには、争いしか生まれてこないのではないでしょうか。間違いを間違いとみとめて「ごめんなさい」と謝ること……そして相手の「ごめんなさい」に「いいよ」と返していくこと。こんなところから、本当の平和が生まれてくるのではないでしょうか。

 「ごめんね」「いいよ」という2つの言葉を、大切に用いていくことができれば、と思います。わたしたちはいつも、「何か」にゆるされて、生きている。自分が生きるために犠牲にしてきた、たくさんのいのち、知らず知らずのうちに傷つけていた周りの人たち、そんなたくさんの「いのち」に赦されて、わたしは今ここで生きている。心が硬くなり、「ごめんね」が言えなくなっていると感じたとき、一歩立ち止まって、周りにあふれている「いいよ」という声に耳を傾けられたら、と思います。「いいよ」「生きていていいよ」とわたしに語りかけてくれる声に、心を開いていきたい。そして、わたしに向けられる「ごめんね」という言葉にも、「いいよ」と笑顔を返していきたい、そう思うのです。
Aki

心の旅を見つめて  堀 肇

「人生の正午」に振り返りを

自分への問いかけが
しばらく前、親しくしている友(牧師)と話している時のことでした。彼はこんなことを語ってくれたのです。「私はこの頃、自分は今まで一体何をしてきたのだろうか、この年になって改めてそんなことを考えるようになった」と。彼は自分の職務に忠実であり、ライフワークともいうべき専門分野においても非常によくやっていて周囲からも良い評価を得ている人です。また優れた信仰の指導者でもあり、私が尊敬している友の一人です。
 このような自分への問いかけが、何もすることがなくなってしまった人生の晩年に起こるのは普通にあることです。しかし、まだ現役で非常に忙しいスケジュールを前向きにこなしている人から出てきたところに大きな意味があると思いました。一般に人生の夏から秋(中年期)にかけては、積極的に仕事に取り組み、その成果も期待できる充実した時期ですが、彼はそうした実りの時期に自分の人生を振り返っていたのです。「人生の正午」には
実はこのような「振り返り」は私たちのライフサイクル(人生周期)において、とても重要なことなのですが、中年期というのは仕事がどんなに忙しくても、それをやり続けるようなところがあり、したがって自分の人生を振り返る余裕もないのが現実ではないかと思います。これはアイデンティテイの危機とも言うべきことなのですが、どうしてかそれに気づかず、ひたすら「夏」のままの生活を続ける傾向があるのではないでしょうか。
C・G・ユングが中年期を「人生の正午」と呼び、それまでの人生の見直しの必要性を強調したことはよく知られていますが、この「正午」というのはとても示唆的な譬だと思います。正午には頭上を照らしていた太陽の位置が変わって影の向きも逆になり始めるように、人生も後半期に入ったら、それまでの生き方や価値観の転換をしなくてはならないということなのです。これは新たなアイデンティティを形成するわけですから人生の危機と言ってよいでしょう。
「実り豊かな敗北」もある
しかし、この危機は自分らしい創造的な心の在り方を獲得する時ともなります。たとえこの危機に気づいていない人であっても、中年期に訪れる肉体的衰え、また結婚生活や仕事などを巡る悩みに直面しますと、この問題を考えざるを得なくなります。けれどもその時が方向転換の機会なのです。多くの場合、より内面的なものに価値を見いだすようになっていくように思います。
P・トウルニエ(医師・精神療法家)は『人生の四季』の中でこんなことを述べています。「青年時代には私たちは成功とはただただ進歩とか何か積極的なものであると考えていますが、年をとると、成功より実り豊かな敗北というものがありうるし、自分を一層豊かにしてくれる断念というものも存在するということを発見できるようになります」。この「実り豊かな敗北」という認識は人生を振り返り、新しい価値観に目が開かれる時に現れ出でくる心の変化ではないかと思います。
 「詩編」の作者は人生の出来事を神との関係において受けとめ、「いにしえの日々を思い起こし/あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し」(143編5節)と語っていますが、この「思い返し」、つまり「振り返り」は真の意味で充実した実り豊かな「秋」への備えとなるのではないでしょうか。

堀 肇(ほり はじめ)/鶴瀬恵みキリスト教会牧師・ルーテル学院大学非常勤講師・臨床パストラルカウンセラー(PCCAJ認定)

HeQiアート

David and Saul , by He Qi, www.heqiarts.com

ダビデに対するサウルの敵意

次の日、神からの悪霊が激しくサウルに降り、家の中で彼をものに取りつかれた状態に陥れた。ダビデは傍らでいつものように竪琴を奏でていた。サウルは、槍を手にしていたが、ダビデを壁に突き刺そうとして、その槍を振りかざした。ダビデは二度とも、身をかわした。
サムエル記上 18章10~11節

たろこままの子育てブログ

「与えられるとき」

わたしは裸で母の胎を出た。(ヨブ記1章21節)

 いざ子育てを始めると「あれまーよくもこんなに」と思うくらい子どものものに囲まれてしまいます。
 衣服はまるで脱皮して成長する幼虫のように次々と入れ替わり、おもちゃも居間と押入れで新旧入り乱れての大団円。靴や帽子もまだまだキレイなうちに次々と小さくなります。いくら毛玉がつこうとも、穴が開くまで靴下を愛用する親としては「もったいないお化けが出るかも」と思うばかりなのですが←この表現、年がばれますね。
 そんなことをつらつら考えながら、時折枕元の「非常用グッズ」を整理します。
 北海道は大きい地震も多いし、それが秋冬にかかれば命にも関わります。
 基本のペットボトル入り水に小さくなった小太郎の衣類やおむつを入れ替え、季節に合わせて小太郎が凍えないように防寒用品を入れたり。体格の変わらない親たちのものはさておき、年々衰える親の体力を考えて荷物を最小限にしようとあれこれ入れては出しての試行錯誤を繰り返しますが、どうしてもここで何度も手が止まります。
「欲張れば際限ないけど……結局一番大切なものって何だろうねえ」。
 この問いに多分皆さんは「命では?」と答えられるかと思います。
 命―それは己のものかと思いきや、どこでいつ生まれるか本人すらも知り得ず、いつ天に戻るかも知れない不思議なものです。母親になって思うことは確かにそれは「与えられるもの」だというくらいでしょうか。
 中学時代の英語の授業で、「私は生まれた」は「I was born」と受動態であることを習いました。まさにその通りだと20年近く経ってしみじみ思います。
 物もお金も持たずに生まれ、ただその存在だけで祝福される命。地位も名誉も財産も究極のところあの世に持っていけないのです。
 囲まれた様々なものは全部自分たちの手でもぎ取ったものと思いつつ、実は自分の命すら「与えれれるもの」なのだなあと感じるのでした。

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