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バイブルエッセイ

「私の命は主の中に隠されている」

「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」(マルコによる福音書16・6)

  「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」という天使の「ここにはおられない。」という言葉に耳を傾けたいのです。「ここ」とは、すべての終わりの死が支配する墓です。
 ルターは次のように言います。
 「死の支配する地上でキリストを捜すべきではありません。キリストを見、キリストをつかみ、キリストに向かって歩むには、違った目と指と足が必要です。主の納められていた場所を示しましょう。しかし、主はもうそこにはおられません。…(中略)…そこで今や主の御名は、『もうここにはおられない。』と言われます。…(中略)…キリストはもうこの世におられません。ですから、キリスト者もこの世にいるべきではありません。だれもキリストを地上に縛り付けることはできず、またキリスト者を何かの規則で縛ることもできません。『もうここにはいない』のです。 主は、地上の正義、信仰深さ、知恵、律法など、この世に属するあらゆる殻を捨て去りました。完全に脱ぎ捨てられました。ですから、地上に現れるものの中に主を求めてはなりません。それらは殻にすぎず、殻は二度用いられることはないのです。…(中略)…あなたの命は隠されています。しかし、何かの箱の中にではありません。見つけられてしまうかもしれないからです。あなたの命は地上のどこにもおられない主の中に隠されているのです。」(『マルティン・ルター日々のみことば』マルティン・ルター著・鍋谷尭爾編訳・いのちのことば社より)
 マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは死者を求めていきました。「週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。」しかし、自分たちが慕う主イエスの亡きがらがない。死はなかった。命が隠されていた。
 私たちは、不条理な死に向かって生きています。しかし、死がどのようなものであれ、キリストが死を、十字架の死をもって引き受け、死に勝利したのです。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」と言われたように死はなく、復活の命だけがある。新しい命にあふれているのです。
 「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコによる福音書16・7)
 弟子たちと共に生活をしたガリラヤに先立って復活されたイエスさまは行かれ、共にいてくだったように私たちの生活の場にも命にあふれた主・イエス・キリストが来られ、共にいてくださいます。命にあふれた主・イエス・キリストと共に生きるのが私たちなのです。
 「死は勝利にのみ込まれた。」(コリントの信徒への手紙一15・54)

「墓の前の3人のマリア」 ペーター・フォン・コルネリウス作・1815年頃・油絵・ノイエ・ピナコテーク蔵

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