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るうてる2006年

るうてる《福音版》2006年1月号

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バイブルエッセイ「あなたは知っていますか?」

あなたたちは生まれた時から負われ胎を出た時から担われてきた。イザヤ書45章3節(日本聖書協会・新共同訳)

「てんしきはありましたか」
「えっ、いや、うん、まぁ、そのぉ、……まだですな」
「ありましたら、すぐにお知らせください」
「わかりました」
 てんしきという言葉の意味を知らない和尚さんは、お医者さんの前で見栄を張ってしまい、「てんしきって何ですか」と言えずにいました。「てんしきって何ですか」と尋ねたのは小坊主でした。「和尚さん、さっきお医者様が言われたてんしきとは何ですか」和尚さんは、また見栄を張り、「てんしきも知らないのか。教えてもよいが、そういうことは自分で調べねば、身にならん。町に行って調べて来い」と期待をこめて送り出します。
 めぐりめぐって、小坊主は、かのお医者さん自身のところに行って尋ねる。お医者さんいわく、「てんしきとはおならのことだよ」と。和尚さんは、本当は知らないくせに知った振りをしていたと分かった小坊主は、和尚さんに一泡吹かせてやろうと思い、寺に帰ると、「和尚さん、分かりました。てんしきとはお香のことですね」と言う。和尚さんはそれを聞いて答えました。そうじゃ、そうじゃ、わしゃ、てんしきの香りが大好きなんじゃよ」
 ご存知、落語「てんしき」の一席です。

 人間の知識は、地球上の海水に対して、小さなコップ一杯ほどのもの、というアインシュタインの言葉があるそうです。実際、そんなものなのでしょうね。ソクラテスさんも「無知の知」という言葉を残してくれました。意味深い言葉です。
 そういうお互いでありながら。ごく些細なことで、「あの人はいろんなことを知っている」とか、「わたしはまだまだ何も知りませんから」などと劣等感を持ったり、傲慢になったり、誰かを見下したりしている私たちの姿があります。
 子どもたちはまだ何も分からないから、と大人が大人の判断でことを進めていくときに、結構多くの過ちを犯すことがあります。かえって知識の少ない子どものほうが、頭ではなく、心で考えて、正しい答えを見いだしてくれることもしばしば経験します。

 教会で洗礼を受けてクリスチャンになろうかどうかと迷い、「わたしは聖書のことも、教会のことも、まだ何も知らないから」と後ずさりする方に、「あなたが何を知っているかではなく、神様があなたのことをすべて知っていらっしゃる。これを知ることが信仰」と、ある牧師はいいました。その言葉に、慰められ、真実を知らされる思いになります。

 あなたは、自分のことについて、何を知っていますか。名前、年齢、体重、身長……。そこまではいいとして、その先は……?
 私は何のために生まれたのか、何のために生きているのか。誰のために生きているのか。誰のために、何をしているのか。ほかの人の目に、どんな人として映っているのか……。

 わたしはひとつ知っています、お会いしたこともないあなたについて。
 あなたは、母の胎に宿ったときから、神さまによってすべてを知られ、見守られ、愛され、育まれている、かけがえのない方であるということ。これだけは、頭でなく、心で、魂で、知っています。
Paparanger

堀先生のこころに寄り添って

21.共に歩いてみよう

一緒に歩くことは難しい?
 自分が早足でないせいでしょうか。誰かと一緒に歩くとき、相手の歩き方が何となく気になることがあります。どこかで待ち合わせをしたときなど、挨拶もそこそこに目的地目がけてさっさと歩かれると、寂しいというより何か味わうべきものをいただいていないような感じになるのです。
 私の気持ちの中には、できれば同じような速度で何か話し合いながら歩いて行きたいという思いがあるのです。周りの風景をみたり季節感を味わったりしながら、できれば何か心にあるものを分け合いながら歩いてみたいという少々欲深いところがあるのです。
 しかしこれは全く自分勝手な願望ですから、どんな人にもそれを求めるというのはどうかとも思います。相手は「何とまどろっこしいことか」と思っているかも知れませんし、いらいらしているかも知れません。このように考えると歩調を合わせるということは意外に難しいものです。

置き去りにされた感じ
 こうしたことは単に歩くというレベルのことならさして問題はないのですが、人間関係でこのようなことが起こると良い関係を築きあげるのは難しくなります。たとえば相手が一生懸命話しているのに、そこに十分注意を向けず、自分が次に言うことを考えているような場合です。ことに知識やアイデアが溢れているような時は、それを教えたいという衝動にかられますから、相手はもうそこにはいないのです。これは自分だけが、どんどん先に歩いて行ってしまっている状態と言ってよいでしょう。
 このようなとき、人の心はどんな感じになるのでしょうか。その感覚は人によって異なると思いますが、私などは何となく「置き去り」にされたような気持ちになるのです。また、この感覚はやや複雑なところもあって「あなたの気持ち、よく分かる、分かる」などと簡単に言われた時にも起こります。これなどは話している方が自分勝手に分かってしまっていて、聞いている方には妙な不全感が残るのではないでしょうか。

友が傍らにいるという実感

 では、人と一緒にいるにはどのようにすればよいのでしょうか。それはまず相手の心の歩調や感じ方を理解することです。たとえば友人が「晴れた日は何となく落ち込むんだ」といった場合、それが自分とは全く異なる感じ方であっても、その人にとっては「そうなのだ」と考えるのです。「変わっている」とか、「こう考えた方がいい」などと直ぐ解釈したり、説明したりしないで、その感じ方を受け入れてあげることです。このようにしてもらうと、人は先に行ってしまわない友が傍らに「共にいる」という実感が持てるのです。
 聖書に「あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」(ヨシュア1章9節)とありますが、この「共にいる」という世界が人と人との関係の中で造り上げられたらどんなに素晴らしいことでしょうか。もしかしたら、これは本当に誰かと心を通わせながら、文字通り「歩いてみる」ということから始めたらよいのかもしれません。
 このことを考えていて、こんな言葉に出会いました。
「イエスは歩かれました。そして今も歩いておられます。……共に歩く人に注意深く耳を傾け、同じ道を行く本当の仲間として」(ヘンリ・ナウエン)。味わい深い言葉です。

堀 肇(ほりはじめ)/鶴瀬恵みキリスト教会牧師・ルーテル学院大学非常勤講師・臨床パストラルカウンセラー(PCCAJ認定)

あいちゃんの聖書人物伝

第10回アダムとイブ

 アダムとイブは、人類最初の男女であり、最初の夫婦でもあります。アダムは、神様が自分にかたどって、似せて、土の塵で造った最初の人間。イブは、アダムに合う助ける者として、アダムから抜き取ったあばら骨の一部で造り上げられました。
 アダムとイブと聞いてすぐに思い出すのは、エデンの園で蛇に誘惑されて善悪の知識の木の実を食べてしまった、いわゆる堕罪と失楽園の物語です。アダム、イブ、蛇、こんな木を植えた神様(!?)の誰が悪いのかなどと話題となる箇所でもあります。しかし、ここで示されていることは、人間というのは、善悪の知識の木が植えてあろうがなかろうが、神様の言葉に従うことができない、罪深い存在であるということです。
 むしろ、アダムとイブがその時に、自己正当化や責任転嫁をするのではなく、互いに助け合って生きる存在として造られたということを思い出して、その罪を負い合おうとしていたら、と思います。アダムとイブは、私たち人間が人種や性別等ありとあらゆる違いを超えて互いに助け合う存在として神様に造られた、ということを示しています。

たろこままの子育てブログ

「希望のとき」

ローマ信徒への手紙5章5節

 新しい年が始まりました。
 皆さんも今年はこんな一年にしようとそれぞれ『希望』を抱いていることでしょう。
 でも昨年も同じように希望を抱いたけど、その通りにはならなかったとあきらめてはいませんか?
 自分なりに頑張ったのに、精一杯努力したのに全然報われなかったよ……と。

 私ももう少しで3歳になる長男を育てていますが、最初の1年間はこの思いを行きつ戻りつしていました。
 子どもも一歳ならお母さんも一年生な訳ですし、大抵のお母さんがこの思いを通過しているのではないでしょうか。

 私もタダでさえ初めての育児に分からないことだらけな上、肝心の私の母は既におらず暗中模索の日々でした。
 しかも子どもは原因不明の発達遅滞を指摘され、病院をたらい回しにされ……そんな格闘の約1年後、彼が知的にも身体的にも重度の障がいを負っていることを告知された時には、妙な表現なのですが「すがすがしさ」さえおぼえていました。
 そうです。
 私が悩んでいたのは「私の願う希望」が叶わなかったからで、「彼自身が『希望』である」ことに私が気付いていなかったからなのだとそこで初めて思い至ったのでした。

 希望は常に輝いています。
 一見遠回りで、行き詰まりや苦難、悲しみや忍耐に思える出来事を通して、私たちが深く耕され、そうならないと知り得ない思いを知り、更に堅く望むことを求めています。
 希望はわたしたちを裏切ることはありません。

 さぁ、新米ママさんも熟練ママさんも、時に笑い、時に凹みながらも励まし合って、今年の希望を胸に共に新しい1年を歩んで参りましょう。
 あ、そんなお母さんをサポートしてくれる皆さんも、どうぞよろしくお付き合い下さい(笑)。

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