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るうてる2022年

るうてる2022年10月号

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「善意を贈る」

日本福音ルーテル京都教会・賀茂川教会・修学院教会 牧師 沼崎勇

「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。」

(ルカによる福音書6章27節b〜29節a)

  京都市交響楽団定期演奏会が、3月12日(土)に京都コンサートホールにおいて開催され、藤村実穂子さんが、マーラーの『リュッケルトの詩による5つの歌』を熱唱しました。その中の第4曲「真夜中に」の歌詞を紹介します。
「真夜中に/私は目を覚まし/天空を仰ぎ見た/群れなす星のどれひとつとして/私に笑いかけてはくれなかった/真夜中に/真夜中に/私は思いにふけり/それは暗闇の果てにまで及んだ/真夜中に/〔だが〕私を慰めてくれるような/明るい思いつきは何ひとつなかった/真夜中に/真夜中に/私が注意を払ったのは/心臓の鼓動/たったひとつ苦悩の脈動だけが/あおり立てられていた/真夜中に/真夜中に/私は闘いを挑んだ/おお人類よ、おまえの苦悩のために/私は闘いを終わらせることができなかった/自らの力では/真夜中に/真夜中に/私は自分の力を/あなたの手に委ねた/主よ、この世の死と生を/あなたは夜通し見守っておられる/真夜中に」(山本まり子訳)。
 藤村実穂子さんは、今、このマーラーの歌曲を歌う意味について、インタヴューに答えて、およそ次のように述べています。「ウクライナの映像が、毎日流れています。昨日まで普通に暮らしていた人たちが、1日で、自分たちの国から出て行けって言われる。こんなことが起こるなんて、誰も思っていなかった。醜悪なものに対する答えは、『美』だと思うんです。大きな声をあげる方も素晴らしい。デモンストレーションをする方も素晴らしい。だけど、私は歌手なので、音楽という、天才たちが残してくれた作品を通して、自分が言いたいことも伝えられたらいいな、と思います」(『クラシック音楽館』NHK・Eテレ2022年4月17日放送)。
 私たちは、キリスト者なので、醜悪なものに対する答えは、美しい「神の言葉」である、と信じています。そして神は、この世の生と死を、夜通し見守っておられる方である、と信じています。ですから私たちは、自分の力を神の御手に委ねるのです。
 神は、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5・45)方です。このような神の無限の愛を経験する者は、その愛に満たされて、その人自身も敵を愛する者とされます。
 だから、キリストは私たちに、こう命じられたのです。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」(ルカ6・27b〜29a)。そしてキリストは、教えられた通りに、自分を殺す者たちを、神に執り成しながら、彼らによって殺されました。

  このようなキリストの在り方を説明して、哲学者の岩田靖夫さんは、次のように述べています。「自分を守るために、他者を殺さない。復讐しない。不正を加えられても、不正を返さない。どのようなときでも、どのような他者にも、善意を贈りつづける。それは、他者に対して限りない畏敬の念をもつ、ということである。他者のうちに、神の似姿を見る、ということである。そこを目指して努力するのでなければ、どのような工夫をこらしても、それは、戦争の可能性の危うい隠蔽に過ぎない」(岩田靖夫著『いま哲学とはなにか』岩波書店2008、202頁)。
 神は私たちに、「殺してはならない」(出エジプト20・13)と命じておられます。なぜ人を殺してはいけないのでしょうか。それは、人を殺すことが、神の無限の愛にもとる行為であるからです。私たちはキリストにならい、他者に対して限りない畏敬の念を持ち、どのような時でも、どのような他者にも、善意を、そして美しい「神の言葉」を贈りつづけたい、と思います。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉛「今も生きて」

「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マルコ10・31)

  どういう意味だったんだろう?
 私は十数年前ある礼拝で説教をさせていただきました。その礼拝に、幼い頃、私が育った教会の牧師夫婦もいらしていて礼拝後にお会いしました。
 「あなたからの説教とても良かったです。ありがとう。」と言われた後「先の者は後になり後の者は先になるとイエス様がおっしゃられた通りですね。」とおっしゃられました。
 兄弟という以上に年が離れている方だったので何を言われているのかわかりませんでした。褒められているのか。ずっと気になりつつも聖句に帰っていませんでした。
 そして今回、み言葉に向き合うチャンスをいただき私はマルコによる福音書10章23節から聴く機会をいただきました。「イエスは弟子たちを見回して言われた…」に続く話は財産を持ったまま神の国を望む者がそのまま神の国に入ることの難しさを例えた箇所でした。ここだったのか…ラクダの例えもある。
 なんで今なんだろう。その先生は亡くなって数年も経つ今、私は初めて先生を通して与えられたみ言葉に向き合ったようです。今までも何度も向き合った聖句です。でもいつも新しい出会いをいただいて「ハッ」とさせられます。
 「福音には年齢順も、お金のあるないや地位の順は関係ない。そして知識も。」と聞こえてくるような気がしました。み言葉は今も生きて一人ひとりに働かれています。

議長室から 大柴譲治

「Solus Christus〜キリストの現臨のみ」

「約束がイエス・キリストの真実によって、信じる人々に与えられるためです。」(ガラテヤ3・22b聖書協会共同訳)

 「一点突破全面展開」(鈴木浩)。この言葉は私たちの教会のアイデンティティをよく表しています。ルーテル教会は常に中心を明確にしようとするからです。「5つのソラ」と呼ばれる宗教改革原理も然り。信仰のみ・恵みのみ・聖書のみ・キリストのみ・ただ神に栄光のみ。外的奉仕のための内的集中です。一点で突破し全面で展開するのです。
 今年も宗教改革を覚える10月、自分の原点を確認する時となりました。今回はJELC『第七次綜合宣教方策』で強調される「牧会」(英語Pastoral Care/独語Seelsorge)に焦点を当てたいのです。牧会とは羊飼いが羊の世話をすること(ヨハネ21章)。聖職者が「牧師Pastor」と呼ばれるのも牧会的な働きが重視されるからです。しかし真の牧者は主キリストただお一人。私たちには迷子の羊が出ないよう群れの周囲を走り回る「牧羊犬的な働き」が求められています。そこから「全信徒祭司性」は「全信徒牧会者性」とも理解できます。教会は復活の主から相互的な「魂の配慮」という大切な使命を託されているのです。
 ルターが始めた宗教改革運動。それは様々な次元で展開されましたが、基調音は牧会にありました。人々の魂の救いの問題(贖宥状)に関して始まり、礼拝改革や教育改革など一貫して牧会的に展開されていったのです。そのことは石田順朗先生の『牧会者ルター』(日本キリスト教団出版局2007)やT・G・タッパートの『ルターの慰めと励ましの手紙』(内海望訳、リトン2006)等に明らかです。
 ルター自身も自らの魂の平安を得ようと聖書(特に詩編やパウロ書簡)と実存的に格闘し続けました。突然、詩編150編すべてが「キリストの祈り」として理解され、神の義とは御子を賜った神からの一方的な恩寵であることを知ります。ルターは「突然天国の門が開けて、自分が全く生まれ変わったように感じた」のです(塔の体験)。それは彼がキリストの現臨(リアルプレゼンス)に捉えられた主体のコペルニクス的体験でした。第二の「シュトッテルンハイム落雷体験」とも呼び得ましょうか。
 Solus Christus! 説教でも牧会でも礼拝の司式(聖礼典の執行)でも、文書執筆でも教会管理でも、すべては中心で働いておられる「キリストの現臨/リアリティ」をどう共有できるかにあります。インマヌエルの主が常に共にいて、深い憐れみをもって私たちの魂を配慮してくださる。それこそが私たちの慰めと励まし、そして喜望の源泉なのです。

「教会讃美歌 増補」 解説

㉘創作賛美歌解説8
増補45番「よろこびの歌 はずむ時」
歌詞解説 久木田恵
(帯広教会)

 この詞は「そらよ、そらよ、優しく晴れて」のフレーズが思い浮かび、書き始ました。私は北海道十勝の大空の下で暮らしています。空の青さと満点の星空にどれほど慰められてきたかわかりません。自然の中に身を置くとイエスさまを近くに感じます。十勝の気温は1月末にマイナス20度まで下がります。この時季の夕方、うす紫色の優しい空を主は見せてくださいます。厳寒の中で、グングンと日は長くなり、必ず春が来ると希望を与えてくださるのです。逝ってしまった大切な人を想いながら書きました。どのような時であっても、主の恵みと優しさの中で、穏やかな心でいられますようにという願いを込めました。
 私の詞に美しいメロディをつけてくださった油谷さんのカトリック教会でも、この曲は歌われています。新しい賛美歌集によって、さまざまな教会で歌われ、どなたかの心に触れましたなら大きな喜びです。

曲解説 油谷美佐子
(カトリック五井教会)

 2011年のある日、教会での聖書研究会を終えて、ふと手に取った「教区ニュース」に「教会音楽祭」の公募曲の記事が出ていました。この催しは、1968年に始まった、教派を超えたキリスト教一致のためのもので、3つの課題詞が添えられていました。その中のひとつに、久木田恵さんによる「よろこびの歌 はずむ時」は、あったのです。素朴な力強さ、細やかな優しさをもったこの詞を、帰り道のバス停で口ずさむうち、自然とメロディが浮かびました。不思議なことでした。
 私はカトリック教会に所属する者ですが、ヨハン・セバスティアン・バッハを尊敬してやまぬ両親のもとで育ちました。民衆のコラールに基づいた彼の教会音楽は、「オルガン小曲集」から、「マタイ受難曲」に至るまで、いつも力と希望を与え続けてくれるものです。
 このたび、ルターのコラールに日本語の歌詞を付けられた賛美歌集のなかに、この賛美歌が加えられたことに感慨を覚えます。「教会讃美歌 増補」発刊おめでとうございます。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

LWFウクライナ支援・半年が過ぎて

 ロシアのウクライナ侵攻から半年が過ぎましたが、ルーテル世界連盟(LWF)では戦争による被災者たちへの支援活動は続いています。まもなく冬がやって来るので、これからは損壊した家々や公共施設の復旧作業が急務です。それに加えて被災者一人ひとりへの牧会的な心のケアの必要性が高まっています。LWFは独自の直接的な支援とともに、加盟教会の協力のもとウクライナ住民と難を逃れて近隣諸国で難民生活を送っている人々にむけた支援活動を行っています。

「侵攻が始まって数日後、LWFはポーランドにチームを結成しました。まずはワルシャワに事務局を開設しそこを多目的支援センターとして、五万人以上に金銭的支援活動を始めました。ルーテル諸教会とUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)と緊密に連絡をとりながら共同作業をしています。」
(LWF支援活動責任者 シェイ・マトナー氏)

 こうした活動を可能にしているのがLWF加盟教会から惜しみなく捧げられる支援金です。LWFは地元教会や自治体と連携して、立ち上がったファンドとUNHCRからのインフラを組み合わせ、そこに独自の専門技術と開発支援に関する経験を活かすというユニークなパートナーシップ関係のなかで活動しています。

「教会からの強力な支援には頭が下がります。ウクライナとその周辺諸国のLWF加盟教会が戦禍の内にある人たちに示している連帯意識と思いやりは素晴らしいです。教会施設や個人宅を開放するなどして、国を追われた人々に対して具体的な行動をとっています。教会には長きにわたるディアコニア経験があって、それを今回の危機的状況のなかで活かしています。」(LWF宣教主事 エヴァ・ニルソン氏)

 寒い季節の到来に備えてLWFは今後、ウクライナ北部地方在住の戦争被害者への支援を開始します。さらに半年にわたり難民支援活動をしてきた教会自体がインフラ整備等の支援を必要としています。そしてウクライナの方たちが新しい地域社会での定住に向けた受け入れ作業を教会といっしょに進めていく計画です。

「この状態がいつまで続くかわかりませんが、困難な暮らしを強いられた人々に最善を尽くして仕えるという私たちの決意は変わりません。」(シェイ・マトナー氏)

 

 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

エキュメニカルな交わりから

 

⑦部落差別問題委員会
小泉嗣(熊本教会・玉名教会牧師)

 

 NCC部落差別問題委員会のはじまりは、NCC加盟団体である日本福音ルーテル教会の機関紙「るうてる」に掲載された文書の中の差別表現である。当時すでに「部落差別問題に取り組むキリスト教連帯会議」や「同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議」などが存在し、そこにかかわるNCC加盟の諸教派、諸団体があったにもかかわらず、問題意識を共有出来ていなかった事実を重く受けとめ、あえてNCCに部落差別問題委員会を設置したのが1976年3月のNCC第27回総会であった。
 あれからおよそ半世紀、この委員会は教会が正しい認識と意識をもって部落差別問題と向き合う事ができるようになるために、細く、長く、人権学習・啓発活動を続けている。
 50年前にインターネットや技能実習制度がなかったのと同じように、「部落差別」をとりまく状況も大きく変わった。私(現在49歳)が触れ、学んだ「部落差別」は1965年に提出された「同和対策審議会答申」をもとにした「部落低位論(部落民はかわいそう、だから生きる権利をしっかりと保証しよう)」であった。もちろん劣悪な住環境に追いやられ、就職や結婚等で差別を受けて来たこと、受けていることは是正しなければならない日本の課題であることは間違いない。しかし、もっと長い目で、たとえば文化として食肉が定着した後の日本の歴史の中で部落民が担ってきた役割を鑑みると、食肉皮革産業にしろ、浅草の弾左衛門にしろ、それは決して押し付けられてきた役割ではなく、必要とされ、また受け継がれてきた社会の役割であり、そこには「かわいそう」「無理やり」というイメージは全くないのである。
 そのような視点で「部落差別」を受け止める時、今なお続く石川一雄さんの冤罪事件や、インターネットや葉書による差別事件、結婚・就職差別などは、他者を自分勝手なイメージで塗り固めた偏見以外のなにものでもないのである。NCC部落差別問題委員会は、石川一雄さんの裁判闘争への連帯、全国キリスト教学校人権教育研究会と協力して作成した「いばらの冠(人権教育のための冊子)」の活用、販売促進、年3〜4回行われる人権セミナー(関東近郊にみる被差別部落の歴史や担ってきた働き等を学ぶフィールドワーク・但しコロナ禍のため近年はリモート開催)などを主な活動としているが、それらはいずれも当事者の声を聴き、歩んできた歴史を学ぶことによって、自らの持つ偏見、自分勝手なイメージを壊し、部落差別の中で生きてきた人々を縛ってきた見えない鎖を断ち切ることを目指してのものである。それらはどれも老若男女、教派団体を問わず、(たくさんではないが)色々な人たちが集い、和気あいあい、まじめに催される。活動の詳細はNCCのホームページを見ていただきたい。そして是非一度、参加してもらいたい。

社会委員会リレーコラム「本・出会い・教会」④

 

李明生(田園調布教会牧師)

 

  東日本大震災から既に11年が過ぎました。この本では、震災後の年月を振り返る福島県内でのキリスト教諸教派からの19の証言が収録されています。その中には、福島県キリスト教連絡会とルーテル教会救援との関わりや、日本ルーテル教団との関わりが深い「キッズケアパークふくしま」の歩みなど、大変興味深い記録が収められています。しかし、今回特に紹介したいのは、佐藤信行さん(福島移住女性支援ネットワーク代表)による「福島の移住女性たちと共に十年」という項目です。
 超教派で担われている「外国人住民基本法制定を求める全国キリスト教連絡協議会」(外キ協)は、東日本大震災の翌年から宮城県を中心に外国人被災者支援活動を開始します。外キ協事務局でもある佐藤氏は、支援活動の中で福島在住のフィリピン女性たちと出会い、YWCAとの協力の中で「福島移住女性支援ネットワーク(EIWAN)」を立ち上げることとなります。
 震災以前から福島県に在住する外国にルーツを持つ移住者は決して多くありませんでした。「しかし、そうであるがゆえに、日本に暮らす外国人をめぐる『日本社会の問題』を凝縮して示してくれる」(106頁)と佐藤氏は語ります。震災後には、労働力不足を補うために技能実習生が急増することとなりました。また震災以前の福島県在住外国人は「女性100人」に対して「男性59人」という比率で、日本人男性と結婚して県内に定住し永住している国際結婚移住女性がかなりの割合をしめている、という特徴がありました。震災前、そうした移住女性たちの多くが日常的には社会との接点を持つことが難しく孤立しやすい状況にありましたが、震災後まもなく(主に出身国に基づく)自助組織を形成して、情報交換や相互支援を行う人達が現れ始めました。EIWANはそうした自助組織を支援しつつ、まだ自助組織の無いところでのグループ作りに取り組んでいくこととなりました。特に、社会参与のためには言語の習得は不可欠であることから、フィリピン女性達からの要望で2013年に「日本語サロン」を福島と白河で開始したところ、2015年には中国、韓国、南アフリカ、コロンビア、エクアドル、なかでも白河近郊で働くベトナム出身の技能実習生が多く参加するようになり、参加者が急速に多国籍化してゆきます。この日本語サロンは、孤立しがちな移住女性や技能実習生達にとって、生活の事や子どもの悩みなどを相談できる大事な場所となりました。
 EIWANはさらに移住者と地元市民が出会うための「多文化カフェ」や「多文化フェスティバル」の企画、また「やさしい日本語による防災ワークショップ」、「放射能被害の調査と情報提供」、「移住女性とその子どもの保養プログラム」、「子どもたちの日本語学習支援」、「ダブルの子どもに対する継承語教育」に取り組むこととなります。報告の最後で佐藤氏は詩編113・5〜8を引用しつつ、こう記しています。「創成期2010年代の継承語教室で学んだ子ども達は、いま高校生、大学生となった。彼ら彼女らが十年後、二十年後、三十年後の『カラフルふくしま』を担っていくだろう。それは、私たちの夢であり確信でもある。」
 本来であれば、政府や自治体が担わなければならない領域ばかりですが、あまりにも立ち後れている現状の中、新しい市民社会ネットワークが生まれることを信じて、現在も活動が続けられています。

第4回「神学校オープンセミナリー」のご案内

 

 日本福音ルーテル教会(JELC)及び日本ルーテル教団(NRK)の神学教育委員会、日本ルーテル神学校の共催として、昨年と同様にオンライン(Zoom)での開催となります。JELCとNRKの信徒で、神学校に関心のある方、教会の働きへの献身を考えている方が対象です。(参加定員10名程度)

〈プログラム〉
第1部「神学校ってどんなとこ?」(礼拝・模擬講義・ガイダンス)
第2部「交わりを広げてみよう!神学生や若手牧師と話そう」(交流会)
〈日時〉11月13日(日)
   15〜21時
〈参加費〉無料
〈申し込み〉所属教会牧師の推薦を受け、各教区長に申し込みのこと
〈締め切り〉10月31日(月)

※プログラムの詳細については、ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校チャプレン・河田優牧師(mkawata@luther.ac.jp)までお問い合わせ下さい。

カトリック第16回「シノドス」総会に向けての日本福音ルーテル教会からの応答④

エキュメニズム委員会

3 共に歩む私たち — 今後のこと
  

 シノドスが「『ともに歩む』ことは〝一緒にみことばを聴き〟聖餐をともにするとき、はじめて可能になる」と明記していることは、ルター派の伝統に根ざす私たちにとっても、大きな励ましと確認を与えられるものです。なぜなら、聖書への集中は、同時に讃美と祈りの回復でもあったことを思い起こさせるからであり、礼拝を通して、私たちは信仰を「心と口と手で」生きることを学ぶからです。シノドスが教える通り、礼拝こそが、私たちをすべての頸木から解放し、新しい命を与えるものです。
 そこでルターが「藁の書簡」と呼んだにもかかわらず、「ヤコブの手紙」を私たちルター派に立つ教会は再評価したいと思います。なぜなら「ヤコブの手紙」が激しい怒りをもって語るのは「富んだ者」によって「貧しい者」が共に礼拝することを拒んだという事実です。この事態を深く解釈するならば、「富んだ者」が「貧しい者」が聖餐に預かることを拒んだということです。この事態に対して、ヤコブは「行いのない信仰は死んだものである」(ヤコブ2・26)と語らざるを得ませんでした。聖餐を共にできないということは、『ともに歩む』ことができないということを浮き彫りにしているのではないでしょうか。そして、それを妨げる「信仰なるもの」があるならば、それは信仰ではなく、死んだ信仰ではないでしょうか。
 この事態をシノドスもまた、深刻な課題として提示していることは、福音主義に生きる私たちにとっても深刻な課題です。そして事実、私たちの教会は不寛容な側面を強く持つ集団であることを、私たちはこれもまた痛みをもって告白せざるを得ません。
 このような現実にあって、日本福音ルーテル教会と日本カトリック司教協議会が、1987年6月19日に「洗礼の相互承認」について行った合意は、高く評価されるべきです。
 その後も2004年に「義認の教理に関する共同宣言」の翻訳を記念して2004年10月31日に四谷のイグナチオ教会のマリア聖堂でカトリック教会と日本福音ルーテル教会との、最初の合同礼拝が行われました。この積み重ねの上に私たちはエキュメニズム教令50周年を2014年に記念し、日本福音ルーテル教会、日本カトリック司教協議会、日本聖公会は合同の礼拝を行い、更に2017年には宗教改革500年を記念して被爆地長崎で平和の祈りを実現してきました。日本というコンテキストを超えて、世界的にみても、これは画期的な出来事でした。そして、今後「ともに歩む」私たちに課せられていることの一つは、聖餐を共にするということではないでしょうか。恐らくそこに至るまでには長い道のりが予想されます。しかし、祈りましょう。聖餐を共にするという証があって、私たちは真実の意味で「ともに歩む」群れとして、神の道具にされていくと信じます。 

ルーテル諸学校夏の研修会が開催されました

  

小副川幸孝
(九州学院院長・
チャプレン)

 去る8月8~10日にかけて、ルーテル諸学校(聖望学園、浦和ルーテル学院、ルーテル学院、神戸ルーテル神学校、九州ルーテル学院、九州学院の6校合同)の夏の研修会が神戸ルーテル聖書学院を会場にして4年ぶりに開催されました。台風の到来や新型コロナウイルスの感染拡大のために、なかなか開催することができませんでしたが、行動制限がとられない状態でしたので、「顔と顔とを合わせての」開催となり、各学校の先生方と共に豊かな学びと交わりをすることができました。
 このルーテル諸学校の夏の研修会は、新任の先生方や中堅の先生方のために毎年行われていましたが、今年、ようやく再開されることとなり、やはり、「顔と顔を合わせる」ということがいかに豊かであるかを実感できるものでした。
 今回の開催では高等学校をもつ4校のうち、聖望学園と九州学院の2校が高校野球の夏の甲子園大会出場という快挙の中での研修会となり、それぞれの学校のエールが贈られました。また、この4年間のそれぞれの学校の動きなどの紹介が行われ、和やかな中でも豊かな研修でした。
 研修会のテーマは、「ミッションスクールで働く誇りと喜びと感謝」という主題の下で、ルーテル学院大学学長の石居基夫先生による「福音に立つ学校」、わたしの「学校教育の根本的課題とルター派キリスト教学校で働く意味」、そして九州ルーテル学院大学の田中將司先生による「LGBTQ+の課題に対する対応」という3つの講演が行われました。
 今日、現代社会そのものも学校教育を取り巻く環境も大きく変化し、それぞれの対応が必要となっていますが、キリスト教という揺るがぬ土台の上に立つ学校として、何が大切なことであるのか、「福音に立つ学校」として現代の社会状況の中で何を目指したらよいのかが示唆され、また、「多様性を認め合う」ということの具体的なこととして「LGBTQ+」の生徒や学生に対する対応に必要なことを学びました。参加された先生方にとって良い学びの時となり、また何よりも神の平和を祈りつつ、研修で学ばれたことをそれぞれの学校に持ち帰り、活かすことができればと願っています。
 予定されていた10日は、聖望学園が甲子園で試合をする日と重なりましたので、予定を早めて応援に行くという日程になりました。これもルーテル諸学校らしい在り方だと思っています。聖望学園は、その日の試合(1回戦)で見事に勝利しました。

オンライン 「ルーテル聖書日課読者の集い」のご案内

  

「ルーテル聖書日課読者の集い」が
オンラインで開催されます。
聖書日課の講読者ではない方も
ご参加頂けます。
皆様のご参加をお待ちしております。

〈主題〉 使徒言行録を学ぶ
〈講師〉 李明生牧師
(日本福音ルーテル田園調布教会)
〈日時・開催方法〉
10月10日(月・休)
10〜12時 第1講義
13〜15時 第2講義
※オンライン(Zoom)による開催です。
〈申込締切〉10月6日(木)
〈参加費用〉お1人千円
(1カ所で複数の参加も歓迎いたします。
その場合もお1人千円にご協力を
お願い申し上げます。)
〈振込先〉
郵便振替01080 — 4 — 12181
ルーテル「聖書日課」を読む会
*摘要欄に「読者の集い」とご記載いただくか、
*送金者名を「お名前 + ドクシャノツドイ」に
ご修正ください。
〈申込先〉
住所、氏名、メールアドレス、
連絡先を明記の上、
seishonikka■jelc.or.jp(■=@)
もしくは
FAX(03)3260—8641
まで送信ください。
〈お問合せ〉
聖書日課を読む会事務局
(日本福音ルーテル教会事務局内)
TEL(03)3260—8631
FAX(03)3260—8641
seishonikka■jelc.or.jp(■=@)

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