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るうてる2022年

るうてる2022年09月号

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 「こうされたから」と「こうされたのに」の生き方

日本福音ルーテル高蔵寺教会・復活教会・掛川菊川教会・新霊山教会 牧師 徳弘浩隆

「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」
(申命記10章19節)

   私のいる教会の一つでは、雨漏りや耐震問題で補修工事が始まりました。トラックが2台来て、礼拝堂を覆う足場が組まれました。朝の挨拶後は牧師館で仕事をしましたが、夕刻外に出ました。気になる事があったからです。彼らの会話に、外国語風日本語も聞こえたのです。「外国人の人もおられる?」と責任者に聞くと「はい、1人います。ブラジル人です」とのこと。「紹介してよ、話してみたい」とお願いして青年に会いました。ポルトガル語で話かけると皆びっくり。彼は喜んでくれ、故郷のこと、日本での生活、家族との死別や離別、でも何とかやっていることなどを、一気に話してくれました。私もブラジルに10年いて苦楽が色々あったことなど、共有する濃厚な時間でした。「今度はいつウチに来る?いつでもおいで。おしゃべりや食事しよう!」と名刺を渡し握手しました。トラックに分乗し会釈をしながら帰っていく彼らの後を、原付バイクのブザーを数度鳴らして「チャオ!(さいなら)」と手を振って彼も帰っていきました。
 新しく日本に来た様子の外国の人を見ると、声をかけたくなります。私たち夫婦も外国で苦楽を味わった「ガイコク人」の経験があるからでしょう。日系人だけでなく技能実習生のアジア諸国の人たちにも教会で日本語を教え、手続きや仕事のことでも通訳をしたりもしています。泣いたり笑ったりする彼らとの時間は、私をも支えてくれます。

   旧約聖書で「寄留者を愛せよ」と神は言われます。「選ばれた民」は異教の他国人とは対決し、旧約の神は排他的で厳しいだけというのは思い込みのようです。その説明ともいえる続きが心にしみます。「あなたがたもかつて寄留の民だった(のだから)」とあるからです。
 飢饉で食糧危機の際、食糧を備蓄していた隣の大国に行き、感動の再会と和解をしたヨセフの兄弟や家族たちはエジプトに身を寄せました。現代の食料難民や労働難民が他国に流入するニュース映像を思い出します。時が過ぎて異国での待遇は劣悪になり、神に選ばれたモーセと共に脱出します。それを思い起こさせ、次の世代にも伝えながら、もう一度神の救いの歴史と律法を説明し、従うように決断を迫るのが申命記です。

   さて、私たちの生き方はどうでしょうか。外国人に対する接し方だけの話ではありません。
 「自分がいやなことは、人にはしない」とか、「良くしてもらったから、良くしてあげよう」と教えられました。しかしそれは裏返せば、「人にひどい仕打ちをされたら、仕返しをしよう」という気持ちにもなるのです。どうしたらその連鎖は断ち切られることができるのでしょう?それは、「こうされたから」という気持ちから「こうされたのに」への転換が必要です。そのために来られたのが、イエス・キリストでした。「自分を愛する人を愛するのは当然だ。敵を愛しなさい」といわれ、その通りに生き、その通りに十字架で死んでいかれたのです。
 「敵を愛する」、それは私たちにはできません。もう一度ここで「こうされたから」という言葉が必要です。今度は、自分にひどいことをする人を思い出しながら「こうされたから」ではなく、神や人にひどいことをした何をやってもダメな自分なのに赦してくれたキリストを見上げ「キリストにこうされたから」と思うと、私の中で新しい自分が少し始まります。申命記の言葉とキリストの姿が呼応するように心で響きます。

    平和を祈り献金も送りますが、戦禍は続きます。コロナ禍で孤独や難しさを味わい生活も苦しくなります。日本で暮らす外国人の方々も影響を受けています。
 キリストが開いてくれた新しい生き方にもう一度目覚めましょう。そのために、神様はいろんな人に出会わせているのかもしれません。私は難しい政治的な活動はできませんが、身近な出会いから手を取り合いたいと思わされます。皆さんは誰に出会って生きますか?小さいことから、何かが始まります。個人にも、家庭にも、教会にも、そして世界にも。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉚「嬉しかったのかなぁ」

「あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました。/あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました。/万軍の神、主よ。/わたしはあなたの御名をもって/呼ばれている者です。」(エレミヤ15・16)

  遺品の整理をしていました。引き出しを開けた時、色々な書類の中に昔私が配った誕生日カードがしまってありました。
 しかも手で書いてあり私が手書きで字を書けたのは10年近く前のことで、なんだか懐かしいような意外なような…
 その方にカードを配るため、お部屋を訪問しお部屋のドアをノックしてもお返事はなく(それでもお部屋のドアの鍵が開いていればお構いなく入りますが)いつもベッドで寝ておられました。本当に寝ておられるのか目をつむっておられるだけなのかはわかりませんが「お誕生日おめでとうございます。カード置いておきますね」と毎年お部屋にカードを置くだけでした。
 しかも字が書けなくなっても味気ないから申し訳ないなと思いながらもパソコンで文字を打ち誕生日カードを配り続けました。まさか10年近くもたってしかもいつも無視されていたのか嫌がられていたのかと思っていた人の遺品から大切にされていたであろうかたちで示されるとは驚き半分嬉しさ半分複雑な気持ちでした。続けていて良かった。
 よく考えると私たち一人ひとりも思われ続けています。誰も気付く人がいなくても。

議長室から 大柴譲治

「突発性難聴」

「わたしは、「あなたたちのために見張りを立て耳を澄まして角笛の響きを待て」と言った。」(エレミヤ6・17a)

6月5日(日)のペンテコステに不思議な体験をしました。早朝に目覚めると左耳にかなり大きくザァーッというホワイトノイズが聞こえていたのです。テレビの放送終了時のあの音です。「耳鳴り」でした。ペンテコステですから一瞬、聖霊が降って天とのチャンネルがつながって交信が始まったのかと思いました。それはパウロの言う「第三の天」体験だったのかもしれません。
 翌日耳鼻科のクリニックに行くと外耳にも中耳にも鼓膜にも問題はなく内耳の問題とのこと。診断は原因不明の「突発性難聴」。過労やストレス、睡眠不足などで起こりやすいそうです。4分の1は治り、4分の1はそのまま、残りは悪化するとのこと。聴力検査をしてもらうと左耳の聴力がかなり落ちていて、ちょうど人の声と重なる1000㎐と2000㎐のあたりの音域が聴き取りにくい状態でした。ステロイド薬の処方を受けて1週間後に再検査。処置が早く、祈りが聴かれたのでしょう、聴力も元に戻り耳鳴りもほとんど聞こえなくなりました。「幸運な25%」に入ったのです。耳鼻科医の教会員からは「くれぐれも安静に」とアドヴァイスを受けました。改めて身体からの声を聴くことの大切さを知らされました。妻からの「安静、安静」という言葉は、私にどこかやましい気持ちがあるせいか、「反省、反省」に聞こえて苦笑いした次第です。今回の経験を通して聴覚で苦労しておられる方々が少なくないことを知りました。
 この「議長室から」の主題は「聽」です。「耳と目と心を一つにし、それを十分に用いて王(=神)の命に従う」というところにあるのです。今回耳鳴りによって人の声がかき消されてしまうことには困惑しました。それは日蝕や月蝕同様に「神の蝕」状態でした。7月18日に聖公会の修養会で「老い」について話す機会がありました。その後半には3人一組での分団の時間がありました。ある分団では3人のうち2人が最近「大動脈解離」から回復されたという貴重な体験をお話しされました。同じ部屋の中でいくつもの分団が同時に話していますのでその語がなかなか聴き取れず、2度確認してようやく分かりました。今まで気づかなかっただけかもしれませんが、私にとっては初めての「耳が遠くなる」体験でした。今「難聽」になることを怖れている自分がいます。母が晩年によく私に「譲治、歳を取るということは大仕事なのよ」と言っていたことを思い起こします。向こう側から届けられる声の響きにこれまで以上に耳を澄ませてゆきたいと念じています。

「教会讃美歌 増補」 解説

㉗創作賛美歌解説7 増補36番「わたしは祈ります」・増補38番「いつもよろこんで」
森康高(日本キリスト教団水元教会)

 私がこの曲を作ったのは2011年でした。当時の私は、芸術大学の作曲科を卒業した事もあり、賛美歌やオルガン曲を夢中で作曲しておりました。私は作詞をすることが苦手でしたので、歌詞は聖書の言葉を引用して作っておりました。そんな中、宗教改革500年を記念して『教会讃美歌増補』を作成するにあたり、オリジナルの賛美歌を募集している事を知り、書き溜めていた作品を送ったのがこの曲です。私は、結婚して家庭を持つことができないので、楽譜を通して、私がこの世に生きていた証を残すことが夢であり、目標でした。それが今回の『教会讃美歌増補』として実現され、両親が生きている間に私の作曲した楽譜を見せ、「生きた証を残すことができました」と報告でき、ささやかな幸せを感じております。私には、大好きな賛美歌があります。それと同じように、この賛美歌が、兄弟姉妹の一人にでも、大好きな賛美歌と言われるような存在になってくれれば、作曲家としてこれ以上嬉しいことはありません。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

バイデン大統領がオーガスタナ・ヴィクトリア病院を訪問

  アメリカのバイデン大統領が今年7月13日から15日にかけてイスラエルを訪問したことはニュースになりましたが、このときパレスチナ自治区をも訪れたことは日本ではあまり報道されませんでした。ルーテル世界連盟(LWF)によるとバイデン大統領はイスラエルとパレスチナ自治区をそれぞれ1日ずつ訪問して、その貴重な1日にパレスチナにあるひとつの病院へと出向きました。オーガスタナ・ヴィクトリア病院(略してAVH)といって、LWFが運営している病院です。

  バイデン大統領がAVHを訪れたのにはわけがあります。パレスチナ人の医療を中心的に担っているのは東エルサレムにある病院ネットワーク(EJHN)で、AVHもこのネットワークに属しています。2018年、当時のトランプ政権はそれまで継続していたこの医療ネットワークへの支援金2500万ドルを突如打ち切ると発表しました。これを受けてアメリカ福音ルーテル教会(ELCA)のイートン監督は、ポンペイオ国務長官に宛てて書簡を送り、支援を止めないよう要請したといういきさつがあります。
 バイデン大統領は今回の訪問で、複数年にわたり1億ドルを支援するという約束をしました。スピーチのなかで「パレスチナの方々に質の高いサービスと医療を提供しているのを直接目にすることができて光栄に思います。これらの病院はパレスチナの医療を支える屋台骨です」と述べました。

  ELCAのイートン監督は7月18日バイデン大統領に即座に書簡を送り、感謝の意を表しました。「パレスチナの人たちの尊厳を思う大統領の心温まる言葉と具体的な医療支援の表明に私たちも意を強くしています。」「『パレスチナ人とイスラエル人の自由、安全、繁栄と尊厳を計る物差しは等しくあってしかるべき。医療が必要なときに受けられることは、私たちすべてのいのちの尊厳にとって不可欠』とのお言葉に私も全面的に賛同します。」

  AVHは東エルサレムにおける医療の中核として、ヨルダン川西岸とガザ地区に住む500万人の人々の治療にあたっています。がん治療全般、糖尿病、腎臓病などが主な治療領域で、特にがん患者に対する放射線治療をしているのはパレスチナ自治区でここだけです。LWFは過去70年以上にわたりAVHの運営に携わっています。

 

 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

エキュメニカルな交わりから

 

⑥URM(都市農村宣教)委員会 秋山仁
(ディアコニアセンター喜望の家・豊中教会 牧師)

 

  URM(都市農村宣教)委員会は、1967年3月に、日本キリスト教協議会(NCCJ)の第20回総会において、UIM(都市産業宣教)委員会として設置されたのが始まりです。
 労働者伝道あるいは職域伝道への取り組みは、各教派によって戦前から行われていましたが、戦後1957年以降、関西労働者伝道委員会(日本キリスト教団)などが活動を始めました。そして、NCCJでも、1964年に「産業社会における一致のあかし」という主題で、都市と産業社会における宣教を主題として、協議会が開かれています。
 産業化・都市化が進む一方で、様々な社会の歪みや問題も浮き彫りになってきました。とりわけ高度経済成長期の日本では、工業化と公害の問題、都市における労働問題、そして農村の解体・縮小・過疎といった問題が焦点化されてきました。それはまた、日本のみならず、東アジア全体でも同様で、60年代から70年代にかけては、軍事政権下における「開発独裁」などの問題が大きく取り上げられてきました。1973年には、東アジアキリスト教協議会で、UIMをURMと改称し、都市や産業社会の問題だけでなく、改めて農村をも含めた現代の課題に取り組み始めます。こうした動きを受けて、1980年にNCCJでも、UIMを現在のNCCJ−URM(都市農村宣教)委員会へと改称して活動を継続してきました。
 さて、URM委員会は、関西を中心として、NCC加盟教会・教団によって、各地域で取り組まれている課題や運動を結んでいく、エキュメニカルなネットワーク的働きです。
 URMで取り組んでいる課題は、実に多岐にわたっています。日雇い労働者や非正規雇用労働者、移住労働者の問題、性的少数者などに対する差別、女性の問題、沖縄の基地問題や成田空港を巡る問題、核問題の廃絶、開発と農村の問題、農漁村の保全と共生社会の実現を目指す働き、等々。
 また、NCCJ−URMは、韓国のNCCK−URMと、韓国の民主化闘争や在韓日系企業の労働問題への取り組みなどを通して、深い連帯関係を築いてきました。1978年には、第1回日韓URM協議会が、「産業社会における現代宣教の課題」を主題にソウルで行われ、この日韓協議会はすでに今年で12回を数えます。日韓両国の社会に共通する課題を共有しています。
 NCCJ−URM委員会の取り組み、それは、個別の課題への取り組みを通して、キリスト教信仰に基づいた社会正義と公正の実現を目指すものです。URMでは、解放の神学や民衆の神学、あるいはフェミニスト神学などの実践に触発されながら、従来の教会の「宣教の歴史」を反省し、これからの教会の宣教の姿を考えています。
 数年に1度、全国協議会を開催し、2021年10月には、第22回目の全国協議会が、「食・農・命」を主題に、共生庵(広島・三次市)を会場に行われました。
 今後の働きにも是非ご注目ください。

日本ルーテル神学校 神学生修養会報告

 

李明生(神学教育委員長・田園調布教会牧師)

 

 日本福音ルーテル教会の神学教育・牧師養成のため、いつも本当に沢山の祈りとお支えを頂いておりますことに心より感謝申し上げます。
 2022年度前期神学生修養会が6月6日(月)・7日(火)にかけて、ルーテル教会について学びを深めることをテーマに行われました。修養会は神学生主体で計画され、河田優チャプレンをはじめ神学校教員の協力によって進められました。神学教育委員は2日目のプログラムにオンラインにて参加しました。
 1日目はJELAの働きについて知ることを中心に、東京・恵比寿のJELAミッションセンターで渡辺薫事務局長よりJELAの紹介や国際的な社会福祉の実践、課題と挑戦についてお話しを伺い、また難民支援のためのシェルター「JELA(ジェラ)ハウス」を見学しました。2日目は神学校を会場に、浅野直樹Sr.世界宣教主事からLWFの働きについて、また宣教師であり神学校の教師でもあるアンドリュー・ウイルソン先生と、サラ・ウイルソン先生から宣教師としての働き、牧会者としての教会への関わりについてお話しいただきました。講義の後にはグループに分かれて2日間を通して考えたことが分かち合われました。7名の神学生がそれぞれに、ルーテル教会の課題について、またこれから牧師となって自分に何が出来るのかを考える貴重な機会となりました。
 どうぞ引き続き、日本ルーテル神学校とそこで学ぶ神学生らを憶えて、また新たな献身者が与えられることを求めて、お祈りください。

オンライン「一日神学校」のご案内

 

今年のルーテル学院「一日神学校」は9月23日(金)午前9時から、オンラインで開催されます。「心と福祉と魂と」をテーマに、YouTubeによる配信プログラム(申込不要)と、Zoomによる懇親会(参加には申込が必要)が行われます。参加費は無料です。皆様のご参加をお待ちしております。
※視聴方法は、所属の教会の牧師にご確認ください。
※当日は祝日により職員の体制が限られている関係で、メールやお電話によるお問合せはお受けできません。また、学校も閉鎖しておりますので、ご来校はお控えいただきますようお願いいたします。

カトリック第16回「シノドス」総会に向けての日本福音ルーテル教会からの応答③

エキュメニズム委員会

2 共通の課題(前号からの続き)
  

 国内においては、各教会がすでにそれぞれ独自に活動しています。また日本キリスト教協議会には、日本福音ルーテル教会は加盟教団として、日本カトリック司教協議会はオブザーバーとして、特に教会内の支援組織とは緊密な協力体制を取りながら課題に向き合ってきた歴史があります。日本の教会はいずれも小さなものですが、小さい群れであるがゆえに、その宣教開始の時から、様々に協力し合って課題を担ってきた歴史もあります。私たちは先人たちの働きを感謝するとともに、その歴史を深く認識したいと考えます。というのは、あえて言えば、日本の教会が「小さい」ということすらも、今後の世界の教会にとって、とても大きな恵みに満ちた先例の一つになるのではないかと思うからです。なぜなら後述しますが、たとえば2014年や2017年のカトリック教会とルーテル教会や聖公会とが合同の礼拝ができたということは、世界の教会史上、画期的な出来事だったと思うからです。「小さな」教会でも、いや「小さな」教会だからこそ、心をこめて協力ができるという一つの事実を世界の教会に示すことができたのです。「小さい」ということは、「大きい」ことより、むしろ神の恵みを豊かにうけることすらありうるのです。それゆえ、小さな日本のキリスト教会は一致して、共通の課題に向き合っていくことが期待されているものと考えます。
 また、私たちがこのような課題に力を合わせる時の共通の認識は、平和の問題の大切さです。ウクライナでの戦争でわかる通り、国家は必ずしもすべての人を親切にすることはできてこなかったという事実です。そして、このことはアウグスティヌスやルターが、「神の国・地の国」という言葉で説こうとした問題の一つです。今日、政治や経済にたずさわる個人の、団体の、そして何より国家の責任は重大です。そして、このことをキリストを信じる教会の問題として捉えるならば、教会がこの社会において一市民として「憐れみの循環」、「連帯の循環」の一部として働きの場があることを意味しています。ルターが、先に引用した『キリスト者の自由』の中で、私が「隣人のために一人のキリストとなる」という時、それはまた「隣人はあなたのための一人のキリスト」となり得るということを意味しています。そこには、上から援助するという視点ではなく、自分自身も援助を必要としているという自己認識があります。憐れみと連帯は私たちのだれもが、人生の中で必要としているのです。
 その意味では、ルターが『キリスト者の自由』で明らかにした、神から私たち人間にプレゼントされた愛と自由についての壮大な弁証法的な総合命題は、今日にもそのまま妥当します。他者との共同体に生きるすべての人に妥当するのです。自由な社会とは、その中で可能な限り多くの人々が自分の能力に応じて力を発揮できる社会です。そのような社会の中で、だれもが人生のリスクに対する幅広い社会保障を必要としています。このようなとき、「可視化された愛」、「構造としての愛」の実現に、私たち教会もまた召されていることを確認する時、シノドスが指し示す共通の使命に対する、まさに共同の責務を私たちの教会も担う幸いを感じます。この働きは社会的貢献が大きいか、小さいかという量的尺度ではかられるものではありません。たとえ社会的に評価されず隠れたものであっても、「隣人のために一人のキリストとなる」、そこに私たちのディアコニアの意味があるからです。私たちに今すぐすべてが出来るわけではないかも知れませんが、キリストを信じる者としての愛の志だけは保ちつづけたいと思っています。
 これまでの共同の歩みが、さらに具体的に深まることを心から期待しています。また、同時に私たちもまた日本カトリック司教協議会のこれまでの取り組みに学び、参与する道が開かれることを願っています。
(以下次号につづく)

カトリック「シノドス第16回通常総会のテーマに関するヒアリング」および「シノドス第16回通常総会にちなむ合同礼拝」が行われました

  

  カトリックでは「世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会」に向けて各国の司教団が提出する報告書に、「ともに歩む教会のため—交わり、参加、そして宣教」というテーマに関して、キリスト教諸教派からの意見を盛り込むため、7月21日(木)東京・麹町(聖イグナチオ)教会で開催されたカトリック司教総会の中で、日本聖公会・日本福音ルーテル教会・日本キリスト教協議会の代表者からの応答のヒアリングが行われました。(日本福音ルーテル教会からの応答内容については、本紙において7月号より分割して掲載中です。)
 また同日18時より司教総会の会場であった聖イグナチオ教会主聖堂にて4者による合同礼拝が、前田万葉カトリック枢機卿の主司式のもと、菊地功カトリック東京大司教、髙橋宏幸日本聖公会東京教区主教、大柴譲治日本福音ルーテル教会議長、吉高叶日本キリスト教協議会議長の共同司式によって行われました。新型コロナウイルス感染症感染防止対策のため、出席者を限定しての合同礼拝とはなりましたが、エキュメニカルなキリスト教会の一致と連帯を確認する貴重な機会となりました。
 なお、このヒアリングならびに合同礼拝については、カトリック中央協議会のインターネットサイトにて動画が公開されています。

 

 ※詳細についてはWEBサイトをご参考ください。

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