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るうてる2022年

るうてる2022年01月号

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「日々新たにされて」

日本福音ルーテル小石川教会・板橋教会 牧師 德野昌博

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、
わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」
コリントの信徒への手紙二 4・16

 私たちは、「贖われし罪人」です。ですから、日々新たにされて生きるのです。
 イザヤ書43章で、天地万物を創造された主なる神様が、いきなり、何の条件も全く付けず、「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの」(1節)と言っています。まことに驚きです。「贖う」とは、神様が、神のものとなった私のすべてを引き受けてくださる、責任をとってくださるということです。

 神様に背いて、どうにもこうにも言うことを聞かない私のために、イエス・キリストが十字架で死んで、私の罪を贖ってくださったのです。イエス様の十字架によって、決定的に重大な問題が解決されたのです。創造主である神様に背いているという、これ以上に、私たち人間にとって重大、深刻な問題はありません。その罪を、父なる神様は御子イエス・キリストにおいて解決してくださったのです。これが 、私たちに与えられた救いです。まことに有り難いことです。これこそ、わが人生最もビッグでグッドなニュースです。

 神様は続けて、「わたしはあなたの名を呼ぶ」と言っておられます。「名を呼ぶ」と言うことは、一人一人に対して、神様が一対一で向かい合い、覚えていてくださるということです。ですから、私がいかなる信仰生活をしていようと、あるいは年老いて、前後不覚に陥って、神様に向かって憎まれ口をたたいたり、突然、「主の祈り」ではなく、念仏を唱え出したりしたとしても、神様は、私のすべてを知った上で、「わたしはおまえのことを引き受けた。まかせておけ」、そう言ってくださるのです。それが「名を呼ぶ」ということです。

 「あなたはわたしのものだ」と言われる主なる神様が、私たち一人一人の名を呼んで、私のすべてを自分のこととして 引き受けてくださっています。その絶対の保証としてのイエス・キリストの十字架です。

 救いは、私たち人間の側のどのような事態、どのような問題によっても取り消されたりはしません。パウロが、「ローマの信徒への手紙」8章で、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来 のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな 被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(38〜39節)と言っている通りです。ですから、たとえ私たちの体や心がどんな状態になっても、私たちは決して滅びることはなく、神様の愛の中にちゃんと、しっかり受けとめられているのです。

 やがて私も年老いて何も分からなくなり、信じることも、告白もできないようになる時が来ることでしょう。しかし、今はまだできます。今は、私が御言葉を聞いて信じ、そして、自分の、これからのことも含め、すべてを、「神様、あなたにおゆだねします。私を憐れんでください」と言うことができます。そう言える今、たとえこれから先どんなことがあるか分かりませんが、「絶対大丈夫」という平安が与えられています。

 神様は、無条件で、「わたしはあなたを贖う」と約束してくださっています。神様の、その絶対の恵みを知り、信じることができ、それによって本当に喜び、平安に生きることができるというのは、礼拝を通して与えられる恵みです。

 やがて、もうどうすることもできなくなるであろう時のために、今ここで、私は礼拝において神様との本当に深い交わりを持ちたいと願っています。礼拝に出席することが困難になって、初めて私たちは礼拝に出席し、仲間と顔と顔を合わせるということがどんなに幸いなことであるか、どんなに大きな恵みであるかと いうことを身にしみて思い知らされました。

 「わたしたちの外なる人は衰えても、内なる人は日ごとに新しくされていく」のです。自分で、自分の力、頑張りで新しくなるのではありません。神様が新しくしてくださいます。「だから、わたしたちは落胆しない」のです。

エッセイ「命のことば」 伊藤早奈

㉒「音」

「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」
(ヨハネ福音書10・3)

 なんだかうるさく聞こえる物音でもその原因や主(ぬし)がわかり物音をさせるその理由までわかるとうるさく感じなくなったことありませんか?私はあります。毎朝聞こえる小鳥の鳴く声が甲高くうるさく感じてました。先日観ていたテレビ番組で私が毎日聞いてうるさく感じていた小鳥の声を解説されていて何の小鳥がどのような理由で鳴いていたのかがわかりました。その小鳥の正体と鳴く理由がわかった途端、朝聞く「うるさい音」が「かわいい鳴き声」に変わりました。
 大切な大切な存在なら尚更だろうなって思います。こんなことも思い出します。ある食品売り場で、きっと迷子になったんだろうなぁと思う様な小さな子が「ママー」と呼びます。するとどこからか見えないのに「なーに?」って聞こえ「ママどこにいるの?」と子どもが安心したように走り出す光景です。
 きっと神様も同じだろうな、いやもっと一人一人を大切にされているのかもしれないと思うと私の声も神様にとってはうるさいその他大勢の声ではなく大切な大切なかけがえのない一人の私という存在の声なのかなって嬉しくなります。
 そして私を大切にして下さる神様の声は、いつもあなたと共にあなたを包んでいて下さるから、あなたに心地良い音なのでは。

議長室から 大柴譲治

〈われとなんじ〉と〈われとそれ〉

 「ひとは世界にたいして二つのことなった態度をとる。それにもとづいて世界は二つとなる。ひとの態度は、そのひとが語る根源語の二つのことなった性質にもとづいて、二つとなる。根源語は孤立した語ではない。複合的な語である。根源語の一つは〈われ〉−〈なんじ〉であり、他は〈われ〉−〈それ〉である。」(マルティン・ブーバー「我と汝」野口啓祐訳、講談社学術文庫2021、8頁より)

 安倍川上流にあった梅ヶ島ルーテルキャンプ場で、学生時代にある方から教えていただいたブーバーの「我と汝」。この本との格闘を通して私は対人関係の基本を学んできました。原著〝Ich und Du〟 (1923)がドイツ語で出版されて来年でちょうど100年。対人援助職にとって古典的名著です。
 ドイツ語には「あなた」を意味する〝Sie〟と〝Du〟という2語があり、前者は丁寧な呼び方、後者は親しい間柄で用いられる親称。冒頭のように『我と汝』は数学の公理の提示のように始まり、とても難解で18歳の私には全く歯が立ちませんでした。以来46年間、繰り返し読む中で見えてきたことは、世界は私の語る根源語の二重性に応じてその姿を変えるということです。ヘブル語の「ダバール」という語は「言葉」を意味すると同時に「出来事」を意味します。言葉を語ることは出来事が起こることでもある。根源語〈われ−なんじ〉は相手を人格的な応答関係の中に捉えるダイアローグ的で全人的な態度。根源語〈われ−それ〉は相手を徹底的に自分の経験・利用の対象として捉えるモノローグ的な態度。前者の例としてブーバーはソクラテス、ブッダ、イエス、ゲーテを、後者の例としてナポレオンを挙げます。もちろん、物質が悪ではないように〈われ−それ〉を語ること自体は悪ではありません。〈われ−なんじ〉関係は過ぎ去ってしまうと「過去の記憶」という〈それ〉になってしまう。彼はそれを「大いなる悲哀」と呼びます。〈われ−なんじ〉の出会いは天からの恩寵であって人間が探し求めることによって獲得できるものではありません。「すべての真の生とは出会いである」。
 ユダヤ人思想家であったブーバーは旧約聖書のドイツ語翻訳者としても知られています。「〈われ−なんじ〉の延長線上には〈永遠のなんじ〉が垣間見える」とか「個々の〈われ−なんじ〉の出会いの延長線は〈永遠のなんじ〉の中で交わる」という表現から分かるように、ブーバーは「なんじよ(Du)」と親しく呼びかけてくださる神を「永遠のなんじ」と呼び、個々の具体的な〈われ−なんじ〉の出会いを通して永遠のなんじが私たちに呼びかけておられると見ているのです。
 新しい年も、耳と目と心を一つにしてそれらを十全に用いて神の声に聽いてゆきたいと念じています。この主の年2022年が、皆さまお一人お一人にとって〈永遠のなんじ〉との豊かな対話という祝福のうちに置かれた1年でありますようお祈りいたします。

「教会讃美歌 増補」 解説

⑲増補9番「天にいます父よ」・増補10番「主はヨルダンに来て」
讃美歌委員会 石丸潤一(西日本福音ルーテル新田教会)

 新しい年を迎え、皆さんいかがお過ごしでしょうか。私は、新年を迎える度に、新しくなることの期待感と、一方で、移りゆく時の中でも変えずに継続していくべきものの大切さを思います。
 今回ご紹介する2曲は、神様から信仰者が与えられているその二つの相反することについて深く味わわせてくれるカテキズム・コラールではないかと思います。

 増補9番「天にいます父よ」は、「教会讃美歌」364番に収録されているなじみ深い「主の祈り」の賛美です。今回は、他のカテキズム・コラールとの関連曲として、新しい訳詞と9節を加えて収録しました。2~8節の「求め祈ります」という締めくくりの詞には、関連性とリズム感を持って、「主の祈り」の一つ一つの祈りが私たちに何を教え、何を神様に求めさせるのかをよく知ることができるようにという意図が込められています。
 イエス様が教えてくださった「主の祈り」は、私たちの信仰生活に欠かせない、継続していくものです。であるからこそ、「小教理問答」とカテキズム・コラールを通して、いつも祈りの意味をかみしめながら、祈り続けることが大切ではないでしょうか。

 増補10番「主はヨルダンに来て」は、洗礼の意味について教えるカテキズム・コラールです。1月の教会暦には「主の洗礼」を記念する主日が備えられています。この賛美は、イエス様の洗礼の場面を踏まえていますので、その頃に賛美されるのにも良い曲ではないでしょうか。
 洗礼は、神様が私たちに、みことばと聖霊と共にある水を通してみずから授けてくださる恵みの礼典です。私たちは等しく罪の中に沈み、自分の行いでは浮上することのできない者です。しかし、神様の恵みを信じて洗礼を受ける時、キリストの血潮が大波のようになって私たちの罪を押し流し、罪の深淵から命の日々へと救い出してくださいます。水のイメージが要所にちりばめられたこの賛美は、洗礼を通して、私たちの命が全く新しくされているというダイナミックな喜びのイメージを生き生きと感じさせてくれるでしょう。

世界の教会の声

浅野直樹Sr(世界宣教主事 市ヶ谷教会・スオミ教会牧師)

気候正義を求めるLWFユース

 11月英国のグラスゴーでCOP26が開催され、地球の気候変動対策が議論されました。LWFは2011年来国連の気候関連会議に青年代表を派遣していますが、今回の会議ではオンライン出席を含めると、7つのLWF区域すべてから参加者があり、過去最大の32名の代表が出席しました。
 会議では地球の気温が産業革命前より1・1度上昇したことへの警鐘が鳴らされ、気温上昇をパリ協定で定めた1・5度に抑えるという努力目標を追求することが採択されました。これについてLWF気候問題担当Elina Cedillo氏は「石炭火力を使い続ける限り達成は危うい」、さらに「各国政府が設定した2030年の温室効果ガス排出量削減目標は不十分で、このままだと2050年には2・4度に達してしまう」と述べています。

 LWFが、気候変動(climate change)とあわせて呼びかけているもうひとつの用語に「気候正義」(climate justice)があります。日本ではまだ馴染みが薄い言葉ですが、気候変動が環境問題だけでなく、倫理的、政治的問題でもあることを訴えています。経済大国による大量の排出ガスの影響で、排出量が少ない多数の国や地域が犠牲になっているといった問題が顕在化しつつあります。COP26では、そうした地域の少数民族の役割も欠かせないという認識が得られました。
 青年たちはグラスゴーの街へ繰り出し、各国リーダーに向けてさらに徹底した対策をと呼びかけました。そして青年や周辺国のリーダーにも決議に参加できる仕組みを作るよう求めました。
 会議に参加したある青年は次のように述べています。「信仰をもつ者としては今回の会議に物足りなさを感じますが、だからといって落胆しているわけではありません。エキュメニカルなパートナーとして、これからも神様が創造した世界を大切にしながら、気候正義の実現のために活動を続け、大変な被害を被っている人々に寄り添っていきます。私たちはこれからも世界の教会に向けて声を挙げていきます。」
参考記事のURL
https://www.lutheranworld.org/news/cop26-lwf-delegates-disappointed-not-disheartened-lack-results

第3回オープンセミナリー報告

河田優(ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校チャプレン)

 11月14日(日)Zoomを用いて第3回神学校オープンセミナリーが開催されました。今回も日本福音ルーテル教会(JELC)、日本ルーテル教団(NRK)の両神学教育委員会と日本ルーテル神学校の共催であり、JELCから3名、NRKから1名の参加者がありました。
 第1部は、神学校での学びと生活についての紹介が中心です。特にミニ講義では平岡仁子牧師がコロナ禍におけるオンライン礼拝について取り上げ、神学校で学ぶ礼拝学は私たちの礼拝生活に直接結びついていることを話されました。
 第2部では、神学生が考えた楽しい企画に2人の若手牧師も加わり、互いの紹介やミニゲーム、質問コーナーなど和気あいあいと交わりが進められていきます。最後は、神学校1年生2人がそれぞれの証しも含めて閉会礼拝を行い、祈りを合わせました。
 神様の導きとして神学校での学びを考える人たちがいます。その人たちを支え、後押しするのはそれぞれの教会です。どうぞこれからも教会から、神の働き手としての献身者を送り出していただきますようにお願いいたします。
 以下、今回の参加者からお2人、感想を書いていただきました。

 今回、初めてオープンセミナリーに参加させて頂きました。始まる前はどのようなことを知れるのか、学べるのかと胸を躍らせておりましたが、実際はその期待を上回るほどの有意義な時間となりました。特に神学生や牧師への質問コーナーでは先に提出していた質問全てにお答えしていただき、良い情報を得ることが出来ました。ここで得たことを糧に神学校での学びの準備をしていきたいと考えております。このような機会に私を送り出して下さった崔大凡先生や室園教会の方々、企画をしてくださった神学教育委員会と神学校の先生方に感謝します。
(中山隼輔・JELC室園教会)

 私は洗礼を受けて以来献身への迷いがあったため、神学生オープンセミナリーに参加させていただきました。模擬講義では現代のコロナ禍を通して改めて礼拝の意義について考える機会を与えられ、交流会では牧師先生や神学生の方々との貴重な交わりの時を持つことができました。さらに牧師を目指す上での大切な気づきと励ましも与えられました。オープンセミナリーに参加して、今まで漠然としていた献身への思いが少しだけ形づくられた気がします。今後どうなっていくかはわかりませんが、神様に祈りつつ歩んでいきたいと思います。
(鷲見和哉・JELC大阪教会)

献身者がおこされるために
—取り組みの紹介とお願い—

三浦知夫(神学教育委員長・東京池袋教会牧師)
小林千恵子(大垣教会) 徳弘由美子(岐阜教会)

 学校の先生になりたいと思ったら、大学などに入学して、教員免許を取得できる学びを始めようとするでしょう。では、牧師になりたいと思ったらどうでしょうか。同じように神学校に入学して、その準備を始めますが、その前にキリスト者として教会生活を送っているという前提があって、所属している教会の牧師に推薦をしてもらわなければなりません。牧師は他所から採用したり派遣されるのではなくて、私たちそれぞれの教会の中からおこされるからです。各教会が献身者を神学校に送り出さなければ、牧師は誕生しないということでもあります。昨年は、私たちの教会に新しい牧師が与えられませんでした。今年の春も予定はありません。そのような状況の中で、教会と神学校が協力して、「献身者を求める祈り」の動画を作成したり、礼拝で「献身者を求める祈り」をしていただくようにお願いしたりしてきました。
 そんな中、大垣教会と岐阜教会信徒の有志の方々が「自分たちにも何かできないか」と祈り考え、写真のようなフレームを作成してくださっています。御言葉とクイリングという手芸の十字架、そして呼びかけの言葉が記されたフレームです。各教会の集会室の壁や玄関に下げたり置いたりし、いつも教会の方々の目に留まり、献身を呼掛け考えるきっかけになればと願ってのことです。
 この運動を受けて、私とこれら有志の方々からお願いがあります。この企画をお手伝いいただけないでしょうか。この取り組みを、神学教育委員として喜びつつ、祈りと奉仕が全国の教会に広がっていくことを願ってのお願いです。教会でも個人でも構いません。案内やフレームの個別の封入や発送を全国120箇所ほどにすることになりますので、4~6教会(名)が、20~30個ずつ引き受けてくださればと考えています。ご質問や参加希望は2月15日までに三浦(東京池袋教会)か岐阜教会に連絡ください。発送作業は3月頃の予定です。献身者をおこすために心をあわせて祈っていきましょう。

集計表男女区分の廃止について

小泉基(社会委員長・函館教会牧師)

 昨年11月16日の全国常議員会で、「集計表における人数表記の件」が決議され、来年度の新しい集計表から男女区分をなくすことが決まりました。今回もオンラインで行われた常議員会でしたが、議場では活発な意見交換が行われましたから、提案の背景と主な意見をご紹介したいと思います。
 今回の提案の直接的なきっかけは、昨年7月に社会委員会が提出した「本教会統計表における男女区分の扱いについて」という要望書でした。けれどもそれ以前から教会内で、礼拝の受付で男女の二者択一を迫ることが、性的マイノリティの人たちに苦痛を強いているのではないか、という声が聞かれるようになっていました。実際に、受付での男女区分をなくしたり、週報等での兄姉呼称を「さんづけ」に統一した、という報告も聞かれるようになっていました。委員会が、そうした背景をより多くの人に知っていただきたいと2020年3月に発行したのが「多様な性を知るために」という小冊子です。ひとくちに性的マイノリティといっても、その内実は、体の性、性自認(心の性)、性的指向、表現する性など、多岐にわたっています。多様な性のあり方を知りながら、そうした方々が安心して受け入れられる教会形成をしていきたいという願いがありました。また教会は、歴史的に同性愛を罪として断罪してきた経験があり、それはルーテル教会が1988年に発行した「教会員ハンドブック」にも反映されてしまっています。委員会の小冊子の発行と、常議員会への要望書は、そうした教会の歩んできた歴史に対する反省の上になされたものです。常議員会では、男女比率がわからなくなることが女性の社会進出をかえって阻むのではないか、男女の他に「X」欄を設けてはどうか、教会の宣教計画の立案に影響するのではないかといった意見も出されましたが、痛みを覚える方々に寄り添うことを優先しようとする意見が大勢を占めました。もちろん、この決定が何かをすぐに解決するというものではありません。これをきっかけに、教会内でさまざまな学びや取り組みがすすめられていくことこそが、委員会として願っていることですから、どうぞご協力お願いする次第です。(なおパンフレット「多様な性を知るために」は、日本福音ルーテル教会インターネットサイトでPDFが公開されていますのでご活用ください。また冊子版も事務局に多少残部があります。必要な方は事務局までお問い合せ下さい。)

2022年度教会手帳住所録訂正のお願い

 2021年7月31日付で引退されました太田一彦先生について、2022年度教会手帳住所録の《引退》欄への掲載がなされておりませんでした。お詫び申し上げますと共に、謹んで訂正させて頂きます。
 2022年度教会手帳住所録20頁に以下を追記ください。

太田一彦
420−0886
 静岡県静岡市葵区大岩 2−41−14

第7次綜合方策の紹介⑼

事務局長 滝田浩之

■方策本文より

第7次綜合方策主文
5. 信徒の働き

⑴信徒の役割
①宣教の働きは、教職、宣教師だけに与えられたものではなく、教会の全信徒に与えられている。信徒は宣教の担い手であり、受け身の立場ではなく、積極的・能動的に福音宣教に参与する。信徒が牧師とともに宣教に具体的に参与する道筋を整える。
②信徒の「相互牧会力」を育てることは教会成長にとって大きな意味があることを確認し、具体的な研修プログラムを神学校と共同して検討する。
③宣教を推進する担い手としての自覚の育成について、各委員会等、その専門性を生かしプログラムを策定し実施する。
④信徒説教者については、「信徒説教者実施要項」について、信徒の執事としての働きとしての「み言葉の奉仕」として位置付けると共に、信徒の執事職(信徒奉仕者)をより幅広く教会の中で理解していくことも含めて、改正を検討する。
⑤配餐補佐についても「信徒説教者実施要項」の中で、神学的な課題についても整理した上で適切に位置付けていく。
⑥教会の執事的働き(管理や事務など)については、個々の教会、あるいは教区内で今後、有給の可能性も含めて検討され位置づけられていくものと考える。
6.教職の役割
⑴現任教職
 現在、教職の働きは、多重責任・役割、多様化、孤立化の傾向にある。教職としての守備範囲が解りづらくなっており、職務の明確化が求められる。
①宣教する教会であるためには、それぞれの教職が宣教への使命と職務を的確に果たすことが重要である。そのためにも神学的自己研鑽に取り組み、宣教と教会形成への責務を自覚することが求められる。
②「牧会力の成長」を促すことは教会の責任として捉え、本教会としても按手後、5年以内の教職については継続的な研修プログラムを神学校と共同して検討していく。
③人事配置については人事委員会がその実務を担っているが、教会財政も加味しつつ、全体的宣教力を図り、個々の教会、地区の将来像について教区の方向性を加味しつつ、常議員会の責任のもと確認していく。宣教拠点は2か所(教会、または施設)までを一つの目安として用いることができる。
④牧師の重要な任務に「役員会の形成」を明記する。役員の成長こそ、牧会力の回復につながることを確認する。
⑤職務を果たしていくために、健康管理への自覚的取り組みが必要であることを認識し、必要な手立てを教師会と共に検討する必要がある。
⑥教職の立場を教会の制度と組織に正当に位置づけると共に、教職の質の向上を高めるために必要な機会を、本教会、教区及び教師会は適宜提供していく。
⑵定年教職
①資格
 日本福音ルーテル教会の教職は定年制度に従って70歳を迎えて現職の務めから退いてきたが、これまでの実態と課題を整理した上で、「牧会委嘱規定」を見直し、主任の委嘱についても検討する。また、定年後も「説教とサクラメント」を行う資格を持つ者として、教区の主体的な判断の中で日本福音ルーテル教会の教職としての責務を果たすことを期待する。
②働き
 定年教職が教区及び関連施設の要請に応じ、期間を限定して牧会委嘱、巡回説教者、チャプレン等を担い、それによって宣教の働きが補われ、支えられていることに、全体教会として感謝する。

■解説

 宣教とは何かが明確に確認されたところで、その具体的な担い手が確認されています。
 このことを考える上で重要なのは「宣教の働きは、教職、宣教師だけに与えられたものではなく、教会の全信徒に与えられている」、この文言につきます。「全信徒祭司性」です。宣教は教職と信徒の共働の業であることを確認したいと思います。
 第7次綜合方策では、これまで自明のこととのように行われてきた信徒奉仕の働きを、教会の働きとして再確認していく必要があると考えています。教会はこれまで有形無形の信徒たちの働き、献財、祈り、奉仕によって支えられてきました。そしてこれからも、その支えがなしには教会は宣教の働きをなすことができません。一つ一つのそのような働きをきちんと確認して、次の世代に手渡していく。そこで大事なことは、今まで通りの形では手渡すことは難しいということだと思います。変えられるもの、変えられないものを見定め、変えられるものは大胆に変えていくことが求められています。
 同じように教職の役割も節目を迎えています。戦後、多くの宣教師とキリスト教ブームの中で与えられた多くの牧師(両方合わせて200名)で支えられてきたルーテル教会は、現在、現役の牧師は80名となっています。この面からも持続可能な教職の働き方を考えていく時が来ているのです。
 この共働の業を担う「役員会」の働きは、これからさらに大きなものになると考えます。同時に「役員会」がきちんと機能できるか否かが、その教会を組織として維持できるか否かも担っていることになります。

第28期 第15回 常議員会報告

事務局長 滝田浩之

 11月15〜16日にオンライン会議にて行われた標記の件についてご報告いたします。
⑴協力金の件
 2022年度から10%に戻す予定であった協力金ですが、2021年度のCOVID|19による非常事態宣言が想定以上に長引いたことを鑑み、引き続き8%に据え置くことが承認されました。但し、建築会計からの一般経常会計への繰入について協力金算定に含めないという措置については2021年度で予定通り終了とすることを確認しました。なお2023年度は10%に戻すことを予定しています。
⑵集計表の件
 2021年度の集計表より教勢報告について男女の区別を廃止することが承認されました。詳しくは社会委員会からの報告をご覧ください。
 またインターネット礼拝の出席者と対面による礼拝の出席者を区分して記入できるように集計表が変更されています。インターネット礼拝の出席者とは、基本的には主日礼拝にオンラインで同時参加くださっている方と理解しています。また一つのPCで複数の参加がある場合のカウントについては個々の教会のご判断に委ねたいと思います。
⑶定期総会の件
 2022年5月3〜5日に予定されております定期総会については、すでに「ガイドライン」で確認しています通り一か所に参集し、また2泊3日での開催を準備しています。会場については400名収容の会場に200名の出席議員とするなど、感染予防対策を徹底した上での開催となります。当然、感染拡大の中で開催が難しいということになれば更に延期ということも確認しているところです。
⑷ルーテル学院大学からの長期貸付の受入の件
 ルーテル学院大学の積立資金の一部を、日本福音ルーテル教会の収益会計が長期貸付金として受け入れることを確認しました。このことによって教会側は大学側に利息という形で支援することになります。教会としては予定されております市ヶ谷耐震工事について銀行からの借入を減少させることで借入に伴うリスクを軽減できることになります。契約内容については市況一般的な利息を適用することで教会と大学で合意が行われているところです。
⑸市ヶ谷耐震補強工事の件
 定期総会での議案となる市ヶ谷耐震補強工事については、収益部門の減収に伴い計画を見直し、事業費を1億5千万円ほど減少させる案が財務委員会より提案されました。事業費を当初の9億円から7億5千万円とし、耐震補強工事に特化することとしました。定期総会でのご審議をお願い申し上げます。
⑹人事案件
 教師資格者であった坂本千歳牧師が嘱託任用での復帰願いを出され、面接の後、これが承認されました。関野和寛牧師については一般任用から嘱託任用への任用変更願が提出され、これが承認されました。加えて12月1日付けで津田沼教会(主任牧師・小泉嗣牧師)に嘱託任用での任用が承認されました。関満能牧師は9月1日付けで水俣教会、八代教会、阿久根教会の主任牧師に病気休職から復職が承認されました。

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