1. HOME
  2. ブログ
  3. 機関紙るうてる
  4. るうてる2018年3月号

刊行物

BLOG

機関紙るうてる

るうてる2018年3月号

機関紙PDF

説教「エロイ エロイ レマ サバクタニ」

日本福音ルーテル三原教会、福山教会 牧師 谷川卓三

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコによる福音書15・33~34)

エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ!この印象的な主の最後の言葉がなぜ原語で採録されたのか。それは、マルコが「これが福音の神髄である」と確信したからである。
今年はマルコ福音の年。マルコ典礼を奉ずるコプト教会が昨年日本に初めての礼拝堂を開いた。その時の記念礼拝がコプト教会の教皇を迎えて開催された。2時間に及ぶ礼拝は鐘太鼓も含め終始喜びの調べにあふれていた。
コプト教会は1世紀以来、エジプトでマルコの伝統を伝えている。そのマルコの福音書の1章1節に「神の子の福音の初め」とあり、そして最後の15章39節「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」とあり、神の子の福音が語られている。「神の子」の福音である。
コプト教会が今なお多くの殉教者を出しながら、喜びをもって耐え忍んでいるのは、彼らが人間的イエスではなく神の子としてのイエスを信じているからだと思う。しかし、そのマルコが福音書の中では「人の子」イエスを描いているのだ。その子イエスが「神の子」として奉じられる。これが私たちの主イエス・キリストである。
「人の子」として罪びとの仲間になられた。だが「罪びとの仲間」はまだ罪びと自身ではない。だが、十字架のあの叫びは、神の子が罪びとの一人に数えられた瞬間であった。神に捨てられ独りにされることが神の子における罪びとの標識である。この時のためにイエスの生涯は導かれた。そしてそれが神のご計画であった。神なき世にあって苦しむ人々との一致がこの瞬間に成った。神の子が私のために、もはや正しい事を言われず、ただ、同じ罪人となられた!
ボンヘッファーは「深いこの世性」と言った。それは「この世の一致」である。これには「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」が絶えず共振している。これによって、垂れ幕が裂け、二つの分裂したものが一つにされた。神と人とが共に生きる地平が開かれた。神の子が罪びととされた絶望のこの叫びによって、教会は仮現説から決別し、真の神の子の告白を選び取った。この世の一致とは罪びとの一致であることがわかった。
民族、宗教、人種、階級、能力、気質などの異なりを超えて人々を一致へと導く可能性は、それぞれの痛みや苦しみを寄せ合う交わりと連帯にあるのではないか。この点を出発点として全ての人が一致出来る。そしてその一致は神ご自身がその真ん中に立たれる一致である。そのことがイエスの十字架のあの叫びで成就したと、マルコはそう思ってあの叫びを、原語を残しつつ、福音の終わりとして、ローマの百人隊長をして「この人こそ神の子だった」と言わしめ、異邦人を含め全ての神の民を神の子とする福音を語り終えた。
神が私たちのために罪びととなられたことによって神の堕落論のロックが解除され始動する!絶望は悪魔の分断のしるしから神の恵みのしるしへと変えられた。神の子であるイエスにおいて、義人の矜持という自分をガードする何ものもなくなり、神の恵みが自由に出入りできるようになった。神の子の絶望によって!神の子が罪びととなることによって!罪びとは神的普遍性を獲得した。恵みによってのみ生かされる普遍性である!
その十字架の叫びから、全ての人間の苦しみを担い支える恵みが磁力線として発せられる。ヒロシマ―ナガサキ―アウシュビッツを経験した人類は、個人の罪に限定された十字架の神学の地平を、苦しむ人々全てと連帯することへと全面的に突破しなければならない。それは苦しむ一人ひとりが、自ら罪びととなって私たちをご自身へと結びつけてくださる方により、蘇る恵みに迎えられたからだ。
そうして全ての人は一つとされ、神と共に生きる者となる。神の福音はイエスの十字架の「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」から永遠に発せられる光である!

連載コラムenchu

(24)【 MacGuffin 】

 

映画監督のアルフレッド・ヒッチコックは、自分の映画について語るとき「マクガフィン」という言葉を使うことがあります。そのヒッチコックが、フランソワ・トリュフォーによるインタビューの中で、「マクガフィン」とはスパイ映画などで敵味方が奪い合う「砦の地図」や「密書」のようなもので、それ以上の意味はないと答えた後、こんな小咄を紹介しています。『ふたりの男が汽車の中で会話を交わした。「棚の上の荷物は何だね」とひとりがきくと、もうひとりが答えるには、「ああ、あれは、マクガフィンさ」。「マクガフィンだって?そりゃなんだね」。「高地地方(ハイランド)でライオンを捕まえる道具だよ」。「ライオンだって?高地地方にはライオンなんていないぞ」。すると相手は、「ほら、マクガフィンは役に立っているだろ」』『定本 映画術』晶文社)。
この小咄が面白いのは、「ライオンが存在しない」という事実を実体の伴わない「マクガフィン」なるもののせいにしていることですが、この小咄は、私たちに大切なことを思い出させてくれます。それは、私たちの居場所を「ライオンのいない」場所…ライオンのいない場所とは、いつライオンに襲われるかという不安に怯えなくてもいい場所…にしていくためには、「マクガフィン」なるものが必要だということです。それは、直接目に見える高性能な武器(銃器やミサイル)のようなものではなく、パウロの言う「霊の結ぶ実」のようなものであり、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ローマ5・22~23)のことなのだと思います。(了)岩切雄太(門司教会、 八幡教会、 佐賀教会、 小城教会牧師)

議長室から

「それぞれの十字架を」

総会議長 立山忠浩

 

十字架を覚える季節になりました。諸教会の十字架の形が様々であるように、その意味もひとつではありません。もっとも重要なものは主イエスが負ってくださった十字架です。ご自身のためではなく、私たちの罪や弱さなどを背負ってくださった贖罪の十字架です。
それだけでなくイエスは「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16・24)と言われました。誰にでも、他者とは異なる自分自身の十字架があるのです。これも十字架の大切な意味です。
新約聖書では、十字架は別の言葉で表現されることがあります。パウロは「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」(ガラテヤ6・5)と記しています。重荷という言葉です。さらに「互いに重荷を担いなさい」(同6・2)と命じるのです。
このように言うと、十字架はまるでアクセサリーのように、よりどりみどりで、自分で好きなものだけを選び取ることができるように聞こえるかもしれません。しかしそうではありません。どの十字架も欠けてはならない重要な価値を持っているからです。私たちは時として、それらのひとつだけを選び取り、その意義だけを強調し、他のことが疎かになってしまっているのです。
例えば、福音書の十字架について詳しく、熱心に語ることがあります。聴衆の心を強く動かすほどに十字架を宣べ伝えたとしても、自分の背負うべき十字架についてあまりにも無感覚であるならば、それは聖書の十字架を受け止めたことにはならないでしょう。特に牧師たちの見落としがちな点であり、私自身においても忘れがちな課題です。
自分の十字架を他者やある出来事から突き付けられ、深い気づきを与えられることもあるでしょう。心砕かれるときであり、恵みの体験です。でもそれで終わるのであれば悲しいのです。そこから隣人や社会、自然界の十字架を少しでも担うことへと向かうことが期待されているのです。
それとは逆に、自分以外の他の十字架の存在を人々に知らせ、それを担うように啓蒙することに尽力することもあるでしょう。重要な働きです。しかし自分自身の十字架を見つめ、受け止めることが疎かになるならば、それも悲しいのです。
四旬節、それはそれぞれの十字架が自分のものであることを心に刻み、それらを担いながら毎日を生きることです。いずれの十字架もその中心には主イエスがいてくださること忘れずに。

プロジェクト3・11

今年度の活動報告

プロジェクト3・11企画委員   小泉 嗣

 

忘れられない一日がある。忘れてはならない一日がある。しかしその一日は過ぎた一日であり、そこから更に新しい一日を積み重ね、私たちは今を生きている。
2011年3月11日、あれから私たちは2500日ほど一日を積み重ねた。被災地に生きる人、その地を離れ新しい土地に生きる人、被災地を訪れた人、今なお訪ね続ける人、それぞれの積み重ねた一日がある。ある人は悲しみが増し、ある人は苦しみや痛みが増し、ある人は自らを悔い、ある人は悩みを深める…。希望を見いだした一日、不安が増した一日、笑った一日、泣いた一日、悩んだ一日、みんな色んな一日を積み重ねてきた。
プロジェクト3・11はルーテル教会救援(JLER)の活動終了に伴い始められた東教区の被災地支援活動である。といっても具体的な大きな活動をすることは出来ず、募金を呼びかけることと、東日本大震災によって出会った人々、あの時同じ一日を過ごした人々と出会う機会を一年に一度もつことを目指して活動を続けている。それは被災地に生きる人々の一日と、被災地を思う人々の一日をつなぎ合わせる活動であるともいえる。
残念ながら当プロジェクトとして東北に足を運ぶ機会を設けることはできなかったが、関わりを持つ学生や女性会の被災地訪問にメンバーが同行させていただいた。また本年も全国の個人、教会、集会から59万6543円の献金が献げられ、教区の支援金と合わせ、いわき放射能市民測定室「たらちね」、いわき食品放射能計測所「いのり」、キッズケアパークふくしま、北海道寺小屋合宿(原子力行政を問い直す宗教者の会)、松本こども留学、福島移住女性支援ネットワークの6か所を支援させていただいた。感謝と共に報告させていただく。
また東教区では今年も3月11日に「東日本大震災を憶える礼拝」を持つ。一日を積み重ねることが叶わなかった人々を憶え、今なお厳しい一日を積み重ねる人々を想い、私たちが積み重ねてきた一日を思う。祈りをあわせる一日としたい。

カトリック教会は、日本のカトリック教会の皆さんに宗教改革500年共同記念の意義を知らせるため、リーフレット『カトリックと宗教改革500年』(発行・カトリック中央協議会、制作・宗教改革500年記念行事準備委員会)を作成しました。編集責任を負われた光延一郎神父(イエズス会・上智大学教授)よりご提供いただき、紹介します。

カトリック宗教改革500年⑤

宗教改革小史(1)

1.近代の幕開け
中世末期、教会は分裂(1378~1417)し、その権威は失墜していました。 他方、この時代は新しい時への過渡期でもありました。新大陸の「発見」、ビザンツ帝国滅亡(1453)、イベリア半島のレコンキスタ運動終結(1492)、グーテンベルクによる活版印刷術の発明、コペルニクスらによる自然科学の台頭です。またルネサンス人文主義という、人間性の追求とその尊厳の自覚を促す思想が広がっていました。 そんな中、キリスト教会においてもすでに15世紀には、教会改革が勢いを増していました。免償状売買悪弊改善や聖書の多国語翻訳、また「デボチオ・ モデルナ(新信心)」と呼ばれる信徒運動などです。ルターが入会したアウグスティヌス隠修士会も改革修道会の一つでした。宗教改革の先駆的な運動も、英国のウィクリフ(1320頃~1384)やボヘミアのフス(1369頃~1415)、イタリアのサヴォナローラ(1452~1498)などにより始まっていました。

2.ルターの問題提起
1517年、マルティン・ルターが『九十五ヵ条の論題』において、ドイツにおける免償状販売の不当を訴えつつ、当時のローマ教会のあり方への討論を呼びかけたことから、ドイツの宗教改革が始まりました 。彼の主張の根本は、人が救われるのは、免償状を買うことによってではなく「信仰によってのみ義とされる」(信仰義認)ことでした。
・第37条「真のキリスト教徒はだれでも、生きている者であれ死んでいる者であれ、免償状がなくとも彼自身への神からの賜物として、キリストと教会のすべての財宝にあずかっている」
・ 第62条「教会の真の宝は、神の栄光であり、恵みである最も聖なる福音である」

JELAアメリカ・ワークキャンプ2018 参加者募集

1977年にアメリカのキリスト教青年書専門出版社である「グループ」社がはじめたボランティアキャンプに、2001年より日本から毎年青少年を派遣しています。キャンプでは全米から集まる200~400人の青少年と共に、高齢者、障碍者や低所得者などが自力では難しい家の修繕を支援しながら、クリスチャン向きのプログラムを提供します。ノンクリスチャンの方でも参加できます。
日程:2018年7月25日(水)~8月7日(火)14日間
対象:2018年8月1日現在で14歳~20歳の方
募集人数:5~10名前後(人数調整のため、選考があります。)
内容:ペンシルベニア州で1週間のワークキャンプ(家屋修繕、聖書の学び等を通して参加者の信仰的・人間的成長を促す催し)に参加し、近隣の州でホームステイもします。
参加費用:20万円
*割引き制度あり。海外旅行保険、パスポート・ビザ取得費用、派遣確定者向け説明会会場や出発・帰国時の集合場所(成田空港)から本人の居住地までの交通費及び前泊・後泊する場合の宿泊費は、上記の参加費とは別に個人負担となります。
申込方法:所定の申込書に必要事項を記入の上、JELAアメリカ・ワークキャンプ係まで、メールjela@jela.or.jpまたはFAX 03-3447-1523にてお送りください。
締切:2018年4月30(月)必着(選抜を行い5月上旬までに参加の可否をお知らせします)
参加者説明会:2018年6月中の予定。場所はJELAミッションセンター(東京都渋谷区恵比寿1-20-26)

*参加者の都合により日程等を変更する場合があります。
*この他、注意事項などの詳細は、以下のURLからご確認ください。
http://jelanews.blogspot.jp/2017/09/2018_20.html

 

宗教改革500年共同記念の意味

ローマ・カトリック教会の青年たちの手によって制作されている、インターネットラジオ番組「カトラジ!!」が毎週土曜日に配信されています。番組内の「出張!えきゅぷろ!」というコーナーで、昨年11月に長崎で行われた「共同記念企画」について、白川道生宣教室長のインタビューが配信されました。聞き手は、2017年夏にルーテル教会、カトリック教会、日本キリスト教団の青年有志が企画したエキュメニカルプロジェクト「えきゅぷろ!」の実行委員の青年たちです。

【インタビュアー】宗教改革500年共同記念を長崎で行われましたが、この意味と意義についてどのように感じていますか。将来、この日はどのように見えてくると思いますか。

【白川】寄せられた感想としては、「こういう時間や空間を作ることができるのだと驚きと喜びを感じた」、「それぞれの教会が別々な感じがしなくて、とてもいい時間だった」といった声が多くあります。
色々と相違を抱えている両者ですが、別々なものではないと感じる時間を体験した、これはこれからの歩みに大きな意義をもつのではないかと思います。

【インタビュアー】カトリック教会から参加した青年からは「同じように、祈ることができるのだなと思った」、「普段の礼拝とは違うものと感じたとは想像しますが、同じ方向を向いているのだなと強く感じられた」、「雰囲気がとても温かくて、一緒の家に住んでいるのだと感じた」(笑)といった感想を聞きました。

【白川】「双方がこのような体験を持った、そこに意味があるのではないか」と印象を語られた方も多かったですね。すべてが一致しているわけではなく、あい変わらず違いがあるわけです。それでも一緒にいられるようにと努めた。これについては、今回の宗教改革500年共同記念の取り組みを通して学ばせてもらいました。
『争いから交わりへ』の中に繰り返し出てくるのですが、過去の宗教改革の記念を振り返って見えてくるのは、どちらの教会も、今こそ自分の正しさを語ろうとエネルギーを注ぎ、新たな緊張というか衝突が生まれていったのだという気付きです。
確かに「正しさは何か」とは大事な問いであるのですが、一方で、「どうしたら他者と共に居られるのだろうか」と考えるのは、もっと大切だと思います。今回、その問題意識を両教会が共同で考えた、これはものすごく大きな意味があったと考えています。どう思いますか。

【インタビュアー】これまでカトリックとルーテルに、お互いの交流はありませんでした。無関心というのか、「向こうは向こう、こっちはこっち」、そんな感じでした。でも長崎に集まって空間・時間を共有できました。また、私たちは夏に「えきゅぷろ!」を開催したのですが、同時代に生まれた同年代の人々が集まって、結構同じようなことを考えているってわかりました。信じているものは同じという安心感もあって、共に神に造られた存在なのだ、私はそう感じました。

【白川】私たちは教会の外の人から「キリスト教さんは愛の宗教だから、いつも仲良くやっているのでしょう」と見られているように思います。そこが現代社会からの宗教に対する期待でもあると感じるのですが、果たしてこの期待にキリスト教会は応えられているのだろうかと疑問を持ちました。ですから、同じ時代を生きている人が一緒にいるためにはどうしたらよいのか、反対にどうなると一緒にいられなくなるのか?たくさんの違いが存在している今の時代に、違いを持ちながら一緒にいるにはどうしたらよいのだろうかと考えました。イエスさまの「平和を実現する人は幸い」とのみ言葉に重なってゆくように感じられました。
平和の実現をたずね求め、対話し、一緒に祈る。そこにみんなが意味を見出して集った。この姿を通して一つの証しができたのではないかと思っています。

【インタビュアー】対話の前に、難しさをイメージしてしまう感覚があります。向き合うこと自体が難しいのではないかと感じてしまうのです。今回、「えきゅぷろ!」とか「共同記念礼拝」を実現できた、そのこと自体に意味があったと思います。教皇フランシスコが「外へ出てゆきなさい。自分たちが外に出てゆく、そこに意味があるのだ」と訴えています。そしてルーテル世界連盟のユナン前議長さんもそれを訴え、実践しています。私自身はそれを知ったのは大きいかなと。

【白川】今回の共同記念の成立要件を挙げるとすれば、そのひとつは世界規模で呼びかけられたメッセージの存在です。カトリックの教皇フランシスコとルーテル世界連盟のムニブ・ユナン議長が、2016年10月31日にスウェーデンのルンドにおいて共同主催で礼拝を行いました。ここから発せられたエネルギーは世界に向けて一つの希望になりました。
かつて争った両者は既に争いを克服して、共通の責務に立って共に歩んでゆきます、とその姿を目に見えるかたちにして発信したのです。この道に今回の日本での企画もありました。このポジティブなエネルギーを絶やさないように心がける、それがこれからの課題ではないかと思っています。
長崎での共同記念のような大きなレベルだけでなく、全国の様々なレベルに拡がってゆき、各地からの呼びかけが響きあうようになれば、もっとエネルギーが大きくなり、意義も強く感じられてくるのではないでしょうか。「えきゅぷろ!」も、その点では一つのシンボリカルな意味があると感じます。全員が出席できるわけではないし、「所詮、東京でしょ」、などと言われてしまうかもしれないけど(笑)、そこは希望のシンボルでしょう。

【インタビュアー】「えきゅぷろ!」は宗教改革500年だからという背景で実施できました。けれど、今後続けていってよいものなのか、次回に続けてゆくべきなのだろうか、そうであればどのような方向でしていけるのだろうかと悩んでいるのです。ですから、たとえ小さな動きでも行う、そこには意義があると言われると嬉しい思いがします。

【白川】いいですね。そうやって、答えがわからないけれど、どうせわからないからとやり過ごさず、立ち止まって一緒になって「これってどうよ?」と話を交わしてゆく、若いうちにそのような体験があるのは大事だと思うのです。若いうちに悩むべきことに悩む。悩まなくなると無関心になり、もうこの現状でもいいとなって、流れてしまうことが少なくないと思うからです。
今の時代には、沢山の「これってどうよ?」という問題が起きているでしょう。悩む感性を持っていれば、悩まざるを得ないと思います。一人で悩んでも解決できない難問の前で、それを解決してゆくために誰と一緒に悩むか。求められる役割や使命に共通性を見つけられるか。ここも今回、教会に問われた点だと感じています。
「エキュメニズムに関する教令」(1964年)からも学ばせてもらいました。「教会を外に開く」というとき、いったい何のために開くのか。伝道によって人を教会に引っ張り込むために開くのか。そうではなくて、この社会、時代、世界にある現実の中に、福音がどういう風に証しされているのか、福音の実践は拡がっているのか見つけてゆく、そのための開放ではないかと思います。

【インタビュアー】私はカトリック教会のメンバーなのですけれど、カトリックの中だけではなくて、違う立場の青年が同じ悩みを共有してくれるというか、一緒に悩んでくれ、一緒に答えを出してくれる。それはありがたいし、凄く力になります。「えきゅぷろ!」のトークセッションで語られたのですが、宗教改革運動当時のルターも青年だった。そして伝道をしたイエスもまた青年だったということにとても励まされます。

【インタビュアー】ひとつの課題を共有しようとする時、そこに考え方や立場の異なる人が一緒に考えることで、それまで自分が見えなかった考えが多角的に見えるようになると思います。「えきゅぷろ!」もそのような場であってほしいし、今後もがんばって続けてゆこうと思います。

【白川】とてもいいなと思いますね。というのは、もし、回答を持っている人だけが集まるのが「えきゅぷろ!」という感じになったら、人は来なくなるのかなと思うのです。答えがない人もそこに一緒に居て、みんなで「どうよ?」と話ができる、そのような場を若者に提供してくれる、それは大きな役割だと思うので、応援しています。

【インタビュアー】多様な立場を持ちながら一致をしていくために何が必要なのか。私たちはどうやったら一致していけるのか、そのことを考えるためにも「えきゅぷろ!」を続けていこうと思います。今日はありがとうございました。

退職にあたって

青田 勇

1975年より聖ペテロ教会、その後、二日市教会、大江教会で、計17年、九州教区での働きを与えられました。その後、広報室長の任を受け、事務局長に選ばれ、7年間全体教会の職務を担わせていただきました。その後、再度教会の現場に戻り、稔台教会、静岡教会を歴任させて頂き、また2008年からは副議長及び宣教室長、次いで管財室長、そして2015年からは管財室長・参与との兼務で東京池袋教会の牧師とさせていただきました。
今から52年前のクリスマスに湯河原教会で洗礼を受けましたが、その礼拝後、教会の中心的存在の女性に語られた言葉を今でも忘れません。「青田君、今からはこの教会はあなたのものですよ」という言葉です。それから9年後、九州の教会の牧師として赴任していった時に、その言葉の意味がよく分かってきました。「この教会はあなたのものですよ」という言葉は単に教会の建物、組織を言ったものではありません。「あなたはこの教会の群れに招かれ、神の救いのみ業に召されているのだから、与えられた教会の職務と神の宣教のみ業を担うものとしての自覚を持つのです」という願いと祈りが、その言葉の中に込められていたと思っています。
今まで長い間支えてくださった多くの方々に感謝いたします。

江藤直純

締め括りの時が来ました。ふさわしくないにも拘わらず、罪の赦しの福音に生かされ、神様と教会の忍耐に支えられ、牧師として42年間ルーテル教会の働きに加えていただき、幸いでした。健康上の理由で一年早く退きます。
ルーテル神大・神学校と大学院で準備をし、1976年春に按手。初任地は熊本の大江教会。シカゴ留学の後、母校での神学教育とキリスト教に基づく他者援助の専門職養成を任じられました。34年間に百人余が牧師となり今のルーテル教会を担っています。福祉や臨床心理を学ぶ多くの学生・院生にもキリスト教倫理を中心に多くの科目を教授。12年間は神学校長、最後の4年間は学長。ご後援に深謝します。
教会担当は大江と兼務した三鷹だけでしたが、その代わり、宣教百年記念事業室長を4年併任、その後、全国伝道セミナー、聖書日課、パワーミッション21等に関わり、また長年の講壇奉仕で全国の信徒の方々と親しく交われ、信仰と教会の成長に携われて大きな喜びでした。信仰職制やエキュメニズム委員、ルター研究所員を務め、宗教改革500年を共に記念できました。
福音はますます必要とされます。皆様に主の祝福と力づけを祈ります。心から感謝しつつ。

齊藤忠碩

神戸教会のぞみ幼稚園で「主の祈り」を教えていただき、70歳に至るまで、救い主イエス様に恵みに次ぐ恵みをいただき、36年間の牧師生活を送ることができました。皆様のお支えと祈りに感謝します。
思い返せば、初任地の松山教会では夏休みの間、教会の庭でラジオ体操を行なったこと、ルーテルズという小学生野球チームを作り子ども達と汗を流したこと、進行性側索硬化症という難病患者の全国組織を結成したこと、また室園教会ではタイの女性を一年間牧師館で預かったこともありました。それから札幌教会、次いで市ヶ谷教会そして日吉教会とそれぞれに充実し、恵まれた牧師生活を送らせていただきました。
この間、心に決めて取り組んだことがあります。初任地での最初の役員会でのこと、代議員より「漫然と牧師をせず、目標をしっかりと持ってやってください」と言われ、「はい、分かりました」と答えました。それを今も思い出します。そして「今年はあの人、この人に洗礼を」、「今年はこんなプログラムを」と祈りながら牧師生活を送ってきました。
私は教会で神の愛をいただき、救われ、教会生活で喜びをいただきました。そして宣教へと押し出され、喜びの日々を過ごしてきました。もちろん家族の支えがあってのことでした。「敬天愛人」まさに恵みの人生が与えられました。感謝。

谷川卓三

42年間の牧師職の定年を迎えるにあたり、これまでに任ぜられた、掛川・菊川、清水、神戸東、高蔵寺、拳母・元町、大江・宇土、三原・福山の7つの諸教会群の天使たちに書き送ろう。
①教会は聖徒の交わりである。聖徒の交わりとしての教会は主の教会として永遠に続く。その教会は主が守り導く聖徒の交わりである。②霊的な義務を自覚してこそ力強いキリスト者となる。献身献財はその意識化を促すために重要である。③「私は洗礼を受けた者」との誇りを持ち、主と共に、主と一つとなって、主に委ねて雄々しく歩め。④礼拝はキリスト者にとって地上の天国である。その力によってキリスト者の日毎の生活は確かなものとされる。⑤牧師はそのために奉仕する者である。教会共同体に仕えた歴代牧師たちの連綿と継続された主の業を信徒共同体として大切にすること。⑥牧師の不足がある今、牧師の教会から信徒共同体としての教会へと意識変革の良き時が到来している。聖徒の交わりとして共に喜び泣く者たれ。⑦一致の主と共に、世界の民の一致のために存在する教会たれ。民族も宗教も人種も貧富も相性も異なる者が、争いではなく一致するために教会とキリスト者は霊において一つとなってひたすら尽くせ。

J 3 退 任 ・ 着 任 挨 拶

ブレント・ウィルキンソン

あっという間の4年間でしたが、そろそろアメリカに帰ります。2016年6月、熊本に戻った時に、初めて震災の被災地を見ました。完全な復興はまだですが、あの時に比べると、皆の努力で、大変進歩してきたのではないかと思います。
アメリカに帰ったら、教師になるために就職活動をするつもりです。日本で体験したこと、そして日本人の友達や生徒、同僚、教会のメンバーを絶対に忘れません。4年間、ありがとうございました。

スコット・カルズニー

私が日本での生活に慣れ、神さまが用意された働きをするために、お支えくださることを感謝します。私はキリストの福音を分かち合い、英語を教えるために来日しました。学生時代、聖書研究の顧問でもあった日本人教授にお世話になりました。教授は地球上のこの場所で神の国が前進するために私の研究を用いることを励ましてくれました。私は学校での仕事に加えて、熊本教会の仲間と夕食会を開き、まだ神の愛を知らない人との交わりを作りたいと思っています。あなたの人生に神の愛が豊かに示されることを祈ります。

 

ブックレビュー『ルーテル教会の信仰告白と公同性』(石田順朗著/リトン)

宮本 新(田園調布教会・日本ルーテル神学校)

 

2015年11月5日、石田順朗先生が召天された。翌月の本紙で清重尚弘先生による「実践する神学者」と題された追悼文を拝読した。あれから2年。この度の刊行により、再び「神様の元気」を取り次ぐ石田先生の肉声に触れる思いがした。
内容はルーテル教会について、知っているつもりで知らないことばかりであった。戦後ルーテル教会再編の頃のこと、開拓期の稔台教会はじめあちこちで起こった「神の出来事」、そして世界とその歴史と共にあるルーテル教会の姿など、折々の宣教の断面が「臨場感」をもってつづられている。 いずれも石田先生ご自身が身を投じて関わられた宣教の現場であった。それ故に「神学的自伝」である。しかしいわゆる回顧録とは趣を異にしている。本書の焦点は生ける神の働き(恵み)に向けられ、しかもそれが世界とそこに生きる人々に介在するという信仰の証言となっている。それ故に未来への励ましと提言に満ちている。先生のご活躍と多方面にわたる貢献もさることながら、本文から伝わる一貫した調子は神の恵みへの絶対的な信頼と期待であり、出会った人々への温かなまなざしであった。 是非、手に取って確かめていただきたいゆえんである。
ところで本書は『神の元気を取り次ぐ教会―説教・教会暦・聖書日課・礼拝』(2014年刊行)の続編にあたるという。未完のご遺稿をご伴侶グロリアさんと、ご遺志を形にしたいと願った方々によって世に出された。一人のキリスト者の生涯になんと多くの人が関わり、なんと多くのことが起こるものかと思わされた。刊行会の寄稿が含まれているのはそのためであり、これも恵みの証言となっている。
感謝!

関連記事