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バイブルエッセイ

「主が共に」

「イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』」
(ヨハネによる福音書2・19)

 6歳の息子がよく歌を歌っています。教育テレビなどで聴く「みんなのうた」よりもよっぽど賛美歌の方がなじんでいるようで、お気に入りはずっと「きよしこの夜」です。冬でも夏でもいつもきよしこの夜を聞かせてくれます。ご丁寧に「教会讃美歌37番」と教えてくれるので、番号を覚えるのが苦手な私も「きよしこの夜」の番号だけは記憶に刷り込まれることとなりました。

 最近はただ歌うだけでなく替え歌も歌うようになりました。ちゃんと意味を考えた上で替え歌を歌っていることに感心しつつ、時折ツッコミを入れたくなることもあります。ある時、「十字架の主イエスが心に満たされて、その愛に、その言葉に、心を癒やされる~」という自分で考えた賛美歌をご機嫌に歌っていました。ご丁寧に前奏から口ずさむので割と気に入っているのでしょう。ただ、普通に歌うのに飽きてしまったのか、はたまた2番以降が分からず適当に歌ったのかは分かりませんが、この賛美歌の最初の「心」の部分を変えて、「十字架の主イエスが僕に満たされて~」や「十字架の主イエスがお父さんに満たされて~」と歌い始め、随分と福音に満ちた替え歌だなぁと感心させられました。しかし、歌っていたのがお風呂場だったからか次第に「お風呂に満たされて~」と少しばかり方向性が変わり始めたかと思えば、最後には「トイレに満たされて~」となっていきます。イエス様が‶トイレ”に満たされるのはどうなんだと苦笑いしつつも、楽しそうだからいいかと何も言わず私はただぼんやりと湯船に漬かって聞いていました。

 しかし、ぼんやり湯船に漬かりながらふと「何で‶トイレ”はダメだと考えたのだろうか」と自分自身の考えに疑問を持ち始めました。
「僕」や「お父さん」、はたまた「お風呂」までは特に何も感じずに聞いていましたが、なぜ「トイレ」には苦笑いしたのだろうかと。別にイエス様に満たされるのはどこであってもよいはずです。にもかかわらず、私は心のどこかで神の居場所を限定してしまっていたのでしょう。何となく汚いイメージがあるから「トイレ」はダメだと感じてしまっていたのです。結局は私も、新約聖書のユダヤ人たちが神の居場所を「神殿」に限定してしまったように、神を「美しい場所」に閉じ込めたくなってしまっていたのでしょう。

 「イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる』」(ヨハネによる福音書2・19)。ユダヤ人たちが抱えていた、神殿を神の居場所とし、一方で神の居場所を神殿に限定してしまう、いわゆる神殿崇拝をイエス様は破壊されました。どこであっても神が共におられるのだと語られたのです。そのことは分かったつもりであっても、私たちはいつの間にかまた別の「神殿」を心に作り上げてしまいます。どこかで、美しい場所こそ、あるいは正しい姿こそが神にふさわしいと。

 ここで大切なことは、その神殿をまた壊しにイエス様がやって来てくださるということです。私が作り上げていた神殿は、息子の無邪気な替え歌によって見事に壊されていきました。神は必要に応じて恵みをお与えになる方であることが示されたと同時に、やはり素直に生きていくということが信仰者の目指すところであり、そういう意味では子どもの姿は最も豊かな信仰者の生き方なのでしょう。主が共におられる。どのような私たちであろうとも、それは変わりません。どこであっても、主はおられるのです。子どものように、ただ信頼していきましょう。

 ちなみに、その歌がすっかり気に入った私はまた息子に歌ってもらおうと「もう一度歌って」と日々お願いしているのですが、お願いされるとやりたくなくなるようで、二度と歌ってはくれなくなりました。おかげで今では私が一人寂しく口ずさむだけです。

 「十字架の主イエスが心に満たされて、その愛が、その言葉が、心を癒やされる~♪」

「マルタとマリアの家のキリスト」(1618年)ディエゴ・ベラスケス

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