るうてる2026年7月号
説教 「主が共に」
日本福音ルーテル大江教会牧師 中島和喜
「イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』」
(ヨハネによる福音書2・19)
6歳の息子がよく歌を歌っています。教育テレビなどで聴く「みんなのうた」よりもよっぽど賛美歌の方がなじんでいるようで、お気に入りはずっと「きよしこの夜」です。冬でも夏でもいつもきよしこの夜を聞かせてくれます。ご丁寧に「教会讃美歌37番」と教えてくれるので、番号を覚えるのが苦手な私も「きよしこの夜」の番号だけは記憶に刷り込まれることとなりました。
最近はただ歌うだけでなく替え歌も歌うようになりました。ちゃんと意味を考えた上で替え歌を歌っていることに感心しつつ、時折ツッコミを入れたくなることもあります。ある時、「十字架の主イエスが心に満たされて、その愛に、その言葉に、心を癒やされる~」という自分で考えた賛美歌をご機嫌に歌っていました。ご丁寧に前奏から口ずさむので割と気に入っているのでしょう。ただ、普通に歌うのに飽きてしまったのか、はたまた2番以降が分からず適当に歌ったのかは分かりませんが、この賛美歌の最初の「心」の部分を変えて、「十字架の主イエスが僕に満たされて~」や「十字架の主イエスがお父さんに満たされて~」と歌い始め、随分と福音に満ちた替え歌だなぁと感心させられました。しかし、歌っていたのがお風呂場だったからか次第に「お風呂に満たされて~」と少しばかり方向性が変わり始めたかと思えば、最後には「トイレに満たされて~」となっていきます。イエス様が‶トイレ”に満たされるのはどうなんだと苦笑いしつつも、楽しそうだからいいかと何も言わず私はただぼんやりと湯船に漬かって聞いていました。
しかし、ぼんやり湯船に漬かりながらふと「何で‶トイレ”はダメだと考えたのだろうか」と自分自身の考えに疑問を持ち始めました。「僕」や「お父さん」、はたまた「お風呂」までは特に何も感じずに聞いていましたが、なぜ「トイレ」には苦笑いしたのだろうかと。別にイエス様に満たされるのはどこであってもよいはずです。にもかかわらず、私は心のどこかで神の居場所を限定してしまっていたのでしょう。何となく汚いイメージがあるから「トイレ」はダメだと感じてしまっていたのです。結局は私も、新約聖書のユダヤ人たちが神の居場所を「神殿」に限定してしまったように、神を「美しい場所」に閉じ込めたくなってしまっていたのでしょう。
「イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる』」(ヨハネによる福音書2・19)。ユダヤ人たちが抱えていた、神殿を神の居場所とし、一方で神の居場所を神殿に限定してしまう、いわゆる神殿崇拝をイエス様は破壊されました。どこであっても神が共におられるのだと語られたのです。そのことは分かったつもりであっても、私たちはいつの間にかまた別の「神殿」を心に作り上げてしまいます。どこかで、美しい場所こそ、あるいは正しい姿こそが神にふさわしいと。
ここで大切なことは、その神殿をまた壊しにイエス様がやって来てくださるということです。私が作り上げていた神殿は、息子の無邪気な替え歌によって見事に壊されていきました。神は必要に応じて恵みをお与えになる方であることが示されたと同時に、やはり素直に生きていくということが信仰者の目指すところであり、そういう意味では子どもの姿は最も豊かな信仰者の生き方なのでしょう。主が共におられる。どのような私たちであろうとも、それは変わりません。どこであっても、主はおられるのです。子どものように、ただ信頼していきましょう。
ちなみに、その歌がすっかり気に入った私はまた息子に歌ってもらおうと「もう一度歌って」と日々お願いしているのですが、お願いされるとやりたくなくなるようで、二度と歌ってはくれなくなりました。おかげで今では私が一人寂しく口ずさむだけです。
「十字架の主イエスが心に満たされて、その愛が、その言葉が、心を癒やされる~♪」
エッセイ「命のことば」 伊藤早奈
(76)「一人じゃありません」
「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。」(ヘブライ人への手紙4・1)
「逆のことをしようとすると難しいときあるよね。」と言われて少しびっくりして考えさせられました。それはこういうことでした。他の人が不便そうにしているときに手伝うときは、気持ちが楽だけど、その逆で自分が不便で他の人が気づいてそれを手伝っていただくのは苦手だという意味の「逆」という言葉でした。
そういえば昔よりいろんなことを他の人に手伝っていただくようになりました。その度に「ありがとう」と言うけれど申し訳なさでいっぱいになってしまいます。「他の人に手伝っていただくのは手伝う人も手伝われる人にも恵みなのよ」と言われたことも思い出しました。
何が恵みなのだろうか?手伝っていただくのは申し訳ないだけのような気がして心もとないのに。あれ?私たちが意識してないところでたくさん関わってくださっている方がおられる。その方がたくさん関わっても「ありがとう」と少し言ってみたりするだけで偉くなった気分になったりする。
あなたが誰かを思いやったり、手伝ったり、関わろうとするときも私たちにたくさん関わってくださる方も必ず一緒におられて、必ず一緒に心を添えてくださる。他の人に手伝っていただくその手と一緒にいつもあなたと関わってくださる方の手も添えられているから。誰かが不便そうなとき手伝うことも、自分が手伝ってもらうことも特別じゃありません。いつものように関わってくださる方が一緒におられるから。
リレーコラム「全国の教会・施設から」㊲
日本福音ルーテル松本教会
中村紋子(日本福音ルーテル松本教会代議員)
松本教会は北アルプスの麓、国宝松本城の近くにあります。
教会の歴史はフィンランドミッション、ライティネン宣教師の伝道、一九五九年借家で塩原久牧師が始められた集会にさかのぼります。一九六三年現在の地に土地を購入。新築の牧師館での礼拝が始められ、礼拝堂の完成は一九六六年の12月でした。ラジオのルーテルアワーを聞いて集まった人も多いと聞いています。一九九三年には広大な甲信地区の信徒が集まれる場所をと、多くの方の祈りとお支えにより甲信地区センターが完成しています。二〇一一年には耐震への対応のため会堂を改修、教会の垣根を低くという皆の思いから正面には大きな窓が設けられ、いつでも外から礼拝堂が見られるようになっています。また教会員でもある山崎種之さんのステンドグラスに囲まれ、礼拝中もとてもきれいな光が入ります。翌年にはワークキャンプが行われ、教会内外の青年たちの手でウッドデッキも作られました。
コロナ禍前には1日バザー、お昼を囲んで手仕事や学びを行う昼カフェ、夜には歌や食事を楽しむルターナイツなど教会内外の方が集う場がたくさんありました。現在は高齢化や担い手不足により行っていませんが、新たな会も生まれています。女性会が中心となり教会のお掃除やお話しを楽しむパーチェの会、ジャンルを越えて歌を楽しむルーテル歌の集い、アドベントバザー等です。いずれにしてもできる人ができる事をこつこつ行って下さり、今の松本教会があるように思います。
長い間、長野、松本教会は兼牧体制で、通信による礼拝も行われています。4月より諏訪教会が一緒となり3教会兼牧となりました。元々甲信地区で集まっていた信徒同士です。牧師に感謝し、集められ、つながれた者として祈りつつ共に歩んで参りたいと思います。お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。
恵泉幼稚園
江口由実(恵泉幼稚園園長)
「祝福に満たされたこころ育む幼稚園」
「おはようございます!」と元気に登園する子。あいさつをするのは恥ずかしくてしずかに登園する子。いちばんに保育室に入りたくて大急ぎで走り抜けていく子。しばらく廊下でごろーんと寝転んでから身支度を始める子。お母さんとのお別れがとっても悲しくて涙が止まらない子。たくさんの親子がいる玄関はちょっと緊張するため誰もいなくなってからそっと入ってくる子…。恵泉幼稚園の毎朝の風景です。どれもありのままのその子の表現…その一人一人の思いや個性をうけとめることから一日が始まります。毎日の生活の中でも「子どもを信じて見守ること」「子どもが自分で気持ちを立て直すことができるよう援助すること」「その子に合ったオーダーメードの支援をすること」を大事にしています。
好きな遊びを見つけてじっくり遊び込むことのできる環境と時間が保障され、落ち着いた雰囲気の中で安心して過ごし、そこに集う誰もが(子どもも保護者も保育者も)かけがえのない存在として尊重される幼稚園でありたいと思います。
現在、地域の子育ての場としての役割を果たすべく毎週開いている「子育て支援おやこであそぼ」(園内・園庭開放)が周知され始め、毎回10組~15組の親子が来園されています。年齢や発達に合わせたおもちゃやあそびの提供・育児相談を行っています。また子育て世帯や社会のニーズとして2歳児の保育にも注力することが求められ、二〇二六年度より2歳児保育をはじめました。幼い子どもたちが安全に過ごすことができるように、その発達に応じた保育を行うことができるように環境を整え、学びを重ねているところです。
恵泉幼稚園は今秋創立95年を迎えます。子どもたちを取り巻く環境や社会がめまぐるしく変化するこの時代にあって、幼稚園は変わっていかなければならないことと変えてはいけないこととをしっかりと見極めなければならないことを感じる日々です。創立当初から変わらず行われてきた一人一人を大切にするキリスト教保育を基として、神様から託されている子どもの存在そのものを受容し、育ちを信じて待つ保育に心を尽くし、これからも「祝福に満たされたこころ育む幼稚園」としてあり続けたいと思っています。
改 宣教室から
小泉基(日本福音ルーテル札幌教会牧師・宣教室長)
谷口こずえ(広島教会信徒・るうてる食堂クレヨンボランティア)
小泉 るうてる食堂クレヨンのFacebookを拝見しました。たくさんの子どもや大人がたのしそうに集まって食事をしておられますね。どのくらいの頻度で、どのくらいの人たちが集まっておられるのですか?
谷口 はい、わたしたちの食堂は、毎月第2、第4火曜日の4時からスタートして7時くらいまで。おいで下さる参加者は、大人と子どもを含めて、120人から180人くらいです。
小泉 主催は「神様のクレヨン」会という任意団体になっているのですね。この食堂がいつ頃、どのような経緯で始められたか教えてください。
谷口 教会をすべての人の居場所とし、寄り添いの場としたい、という立野泰博牧師(広島教会・松山教会)や信徒の思いから、このるうてる食堂クレヨンは発足しました。毎回、調理や配膳などのために、幼児さんから学生、シニアの方々まで含めて、35名くらいのボランティアで準備をしています。食堂がはじまる前の時間には、認知症予防カフェ「るうてるクレヨン」が開催されています。
小泉 なかなか大変なお働きですね。谷口さんは、どのようにこの食堂にかかわりはじめられたのですか?
谷口 外に開かれた教会への奉仕として、主婦の経験を役立ててもらえるのではないか、と参加しましたが、多くの方々の善意の中にわたしも加えていただき、みんなで作業できることをとても心地よく感じています。食材の多くは、地域の方々から提供されていて、それらを用いてみなさんに食事を提供できていることも、わたしにとっての大きな喜びです。
小泉 最後に、谷口さんと教会との出会い、そして愛唱聖句を教えてください。
谷口 キリスト教と出会ったのは幼少の頃のことでしたが、紆余曲折ありながらも今日まで教会に連なり続けて来られたことは、主の導きの故であると感謝しています。これまでつらいことなどあると、いつもルカによる福音書12章27節~29節を思い起こし、この聖句に支えられてきました。「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。(中略)明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。(中略)あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。」
小泉 本日はありがとうございました。お働きに神様の祝福がありますように。
教会とディアコニア⑦
石居基夫(ルーテル学院大学学長・日本ルーテル神学校教授)
神学大学にキリスト教社会福祉コースが設置された一九七六年、10月号の「神学校だより」に、当時の間垣洋助学長は、本学で学ぶ者はこの世界の能力主義や巨大主義に絶望し、それを捨てて、「新たな意味で、もっと積極的にこの世に入りこんでいかねばなら」ないと言い、そのための模範は「イエスの公生涯」にあると書いています。
当たり前のことですが、教会の宣教と奉仕はイエスご自身の宣教に始まります。イエスは「仕えられるためではなく仕えるために」来たと言われ、「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合」うように教えられました。そして、主ご自身が貧しい人や病や障がいを持つ人たち、女性や子どもなど困難を生きる人々のところに出かけ、癒やしと慰めを持って仕え、率先して神の恵みを分かち合われたのです。当時の政治的宗教的権威が神の恵みを占有し、人々を幾重にも差別し抑圧していたのに対し、イエスは何よりも「この最も小さい者の一人」のために生きることを求められ、命を賭してその宣教に生きられた。それが「イエスの公生涯」だと言って良いのです。ペンテコステ後の教会もまた、キリストによる救いを受けてこのイエスの宣教と奉仕を生きるように招かれ、互いに助け合い、神の恵みを共に生きる実践を生み出していきました。信徒一人一人が、イエスに倣って自分の一切を惜しまず人を愛するように導かれていきました。
もちろん、教会に問題がなかったわけではありません。例えば、ギリシャ語を話す者たちからヘブライ語を話す者への苦情の声が上がったことを聖書は伝えています。言葉や文化の違いも重なり、より弱い立場の寡婦に対し食事の分配に不公平をもたらしたようです。その具体的な課題に対して、使徒たちは7名の奉仕者を選びます。これが後に、ディアコノスという教会の職務となりました。
しかし、忘れてならないことは、ディアコニアとは何よりもまず、教会そのものの性格だということです。困難を抱えた人々の声を聞き、その課題に向き合い、神の恵みを分かち合うために仕えていく。この世界に絶望しても、なお「積極的にこの世に入りこんでいく」とは、今を生きる人々、その困窮する現実に目を向け、耳を傾け、関わり、問題解決に向けて諦めないで取り組んでいくということでしょう。
これが「ディアコニア」の姿なのだと思います。
「献金」問題によせて
多田哲(日本福音ルーテル合志教会・水俣教会牧師・ルター研究所研究員)
近年、「献金」という言葉は、必ずしも良い響きで受け止められていないかもしれません。カルト団体による過度な献金要求や、信者・家族の生活を損なうような金銭的圧力が社会問題として取り上げられてきました。教会においても、信徒ではない家族から献金に対して疑念を持たれるケースが報告されています。そのため、教会が献金について語るときにも、そもそも献金とは何か、そして何であってはならないのかという前提をあらためて丁寧に確認する必要があります。
ルーテル教会において、献金は救いを得るための条件ではありません。私たちは献金によって神の恵みを買うのではなく、すでに与えられている恵みに対して、感謝をもって自由に応答することができます。したがって、献金は信仰の義務というよりも、信仰から生じる神への応答であり、それは隣人に仕えるために、与えられたものを分かち合うことです。現代社会では、しばしば献金が市場経済の感覚で誤解されることもあります。教会に所属するための「会費」、礼拝や牧会サービスを受けるための「利用料」、あるいは教会から何かをしてもらうための「対価」のように考えられてしまうこともあります。しかし、教会はサブスク商品ではありません。
ルターは『共同金庫規定への序文』で、貧しい人々を支え、教育を整え、福音の説教が継続されるために信徒の献金が用いられるべきだと考えました。そこでは、教会の財政は単なる組織維持の問題ではなく、共同体全体が隣人に仕えるための器として理解されています。とはいえ、私たちの状況は決して簡単ではありません。「隣人への奉仕」や「社会への働き」と言いながら、多くの教会では献金の大部分が牧師給に充てられている現実があります。また、信徒数の減少や高齢化、物価上昇の中で、教会財政はますます厳しくなり、一人一人の負担感が大きくなっています。献金が自由な応答であるはずなのに、いつの間にか重荷やプレッシャーとして感じられてしまうこともあるでしょう。だからこそ、ここで確認したいのは、献金が礼拝、牧会、教育、隣人への奉仕というさまざまな働きを支えており、それは牧師の働きも含めた教会全体の宣教であるということです。牧師一人が宣教を担い、信徒がその費用を負担する、という構図ではなく、むしろ、教会全体がキリストの体として宣教に参与し、そのために必要な働きを共同で支えています。これをルーテル世界連盟では神の創造と恵みに応える「ステュワードシップ」(責任ある管理)であると捉えています。
献金は、無理して差し出すものでも、誰かに強いられるものでもありません。また、ささげた額で信仰深さが測られるものでもありません。大切なのは、私たちが神から与えられている恵み、時間、力、財を、どのように隣人と世界のために用いることができるのかという問いです。献金はその一つの具体的な形であり、適切に管理していく責任が私たち皆にあります。そのために、教会の財政難を分かち合うことも必要です。しかし、それが恐れや圧力による呼びかけになってしまうなら、献金の本来の意味を見失います。私たちは、福音が先行する神の恵みであることを土台にしながら、その恵みに生かされていく者として、教会の宣教を共に担っていきたいのです。献金の話はしにくいと考えるのではなく、あらためて献金について考えることは、これからの教会の宣教ビジョンを考えていくために大事なことです。神の恵みに応え、どのように教会が無理なく宣教を続けてこの世界に福音を証しすることができるか、共に考えていきましょう。
るうてる法人会連合第16回総会・研修会開催のご案内(続報)
本紙2026年4月号にて、るうてる法人会連合総会・研修会の開催についてお知らせいたしましたが、申込フォームなど詳細が決まりましたので、改めて読者の皆さまにお知らせをいたします。
記
るうてる法人会連合第16回総会・研修会
〈日時〉
2026年9月29日(火)13時~30日(水)12時
〈会場〉
日本福音ルーテル大阪教会(総会・研修会)
〈対象〉
各法人・施設の理事長・理事・施設長・管理職・教区長
〈主題〉
「ルーテルとしての理念と使命・今私たちは何をなすべきか」
〈講師〉
大柴譲治牧師(日本福音ルーテル大阪教会牧師・社会福祉法人るうてるホーム理事長)
「るうてる法人会連合の理念について」(仮)
石倉智史氏(社会福祉法人るうてるホーム常務理事)
「私たちは何をなすべきなのか」(仮)
〈参加費〉
参加費 1名千円
(部分参加の場合も全参加と同額のご負担をお願いいたします。)
懇親会 1名5千円
〈申し込み先〉
申込は左記Googleフォームからお願いいたします。
(二次元コードもご利用ください。)
https://forms.gle/VWLDDKbns6D1c3Wq7
〈締切〉
2026年8月25日(火)必着
〈お問い合わせ〉
るうてる法人会連合事務局(日本福音ルーテル教会事務局)
電話:03―(3260)―8631
FAX:03―(3260)―8641
もしくは左記サイトから、件名に「るうてる法人会連合第16回総会・研修会について」としてお問い合わせください。
https://jelc.or.jp/contact/
※宿泊並びに交通については、各自でお手配いただきます。予め、各所属機関との調整をお願いします。
以上
世界の教会の声
森田哲史(日本福音ルーテル大森教会牧師・世界宣教委員)
「ティ・シエン宣教師自己紹介」
2026年4月から東京教会にメーガン・ティ宣教師をお迎えしております。ご伴侶であるティ・シエン氏をご紹介いたします。シエン氏は、カンボジアのご出身です。日本福音ルーテル教会は、アジア宣教に関わっていくことを決議し、特にカンボジアでの働きを見据えて、アメリカ福音ルーテル教会(ELCA)とどのような働きができるか検討をしている最中です。今号では、そのような関わりを結ぼうとしているカンボジアのご出身であるシエン氏に自己紹介をしていただきました。シエン氏とお会いする機会が与えられた際には、どうぞお声がけくだされば幸いです。
私たちの主イエス・キリストから、恵みと平安がありますように。
私の名前はティ・シエンです。私は、ELCAより召され、日本福音ルーテル東京教会において国際アウトリーチ宣教師として奉仕することになりました。 高校生の頃に教会での働きを始めて以来、私は、国や文化、言語の異なる人々の間に共同体を築くよう、神から招かれていると感じてきました。東京では、特に近くに家族のいない外国籍の方々にとって、人とのつながりを失い、孤独を感じやすいように思います。
私の召しは、そのような方々を迎え入れ、支え、共に歩むことです。私は、彼らの生活がより平安で幸せなものとなるよう、実際的で意味のある形で、イエスの愛を分かち合いたいと願っています。
私の背景には、宣教とテクノロジーの両方があります。私は香港ルーテル神学校でディアコニアの修士号を取得しました。そこで、信仰と実践的な社会奉仕を結びつけながら、仕える者として、また思いやりをもって導くとはどういうことかを学びました。また、情報技術とサイバーセキュリティーの分野にも強い経験があります。この経験により、対面でのアウトリーチと、デジタルでのアウトリーチの両方を支え、教会が地域の人々や、オンライン上の人々とつながる助けをすることができます。
これまでの働きでは、教会、学校において技術サポートの役割を担い、複数のキャンパスで学生や職員を支援してきました。この経験を通して、忍耐力、問題解決力、そして多様な背景を持つ人々に仕える力が養われました。私は、宣教とは忠実な奉仕であり、日々の関わりの中で、思いやり、信頼性、そして信頼を示すことだと信じています。
日本福音ルーテル東京教会での私の働きの重点は、次のことを含みます。・国際的なコミュニティーとの関係づくり・異文化間の宣教の支援・アウトリーチのためのデジタルツールやコミュニケーションの開発・家族や一人一人が信仰において成長するための励まし
私の願いはシンプルです。あらゆる国のすべての人々にとって、教会が温かく迎え入れる場所となる手助けをすることです。
アウトリーチは、関係づくりから始まると私は信じています。耳を傾け、理解し、信仰のうちにともに歩むことから始まるのです。
平安と喜びをこめて。
ティ・シエン
全国教師会・退修会2026報告
坂本千歳(日本福音ルーテル保谷教会牧師、日本ルーテル神学校チャプレン、全国教師会相互扶助会計)
ゴールデンウイーク明けの5月18日~20 日、小田原駅に近接したホテルを会場に、2年ぶりに全国教師会・退修会が行われました。今回の退修会では、昨年から今年にかけて、体調を崩し休職を余儀なくされ、中途で退職をされる同僚が相次いで出ていることに胸を痛め、今、私たちの教会、また教職が直面している課題を共有する時となったように感じます。
最も教職数の多かった一九九二年(教会数144に対し、邦人牧師152人、宣教師48人)に比べ、現在の教職数は62人(教会数116)であり、複数教会の担当と施設との兼務や、行政や神学教育の働き等、ほぼすべての牧師たちがオーバーワークといってよい状態にあり、このままいくとさらに休職者・退職者が出るのではないかという危惧を抱かざるを得ません。また、実際に若手の牧師たちからの「次に倒れるのは自分ではないかと思う」との不安の声や、「既に体調を崩しつつ必死で持ちこたえながら働いている」との苦しい声が聞こえてくる中で、教師会役員会としては、教会にこのような現状をシェアし、共に考えていただくために何らかの意思表明をしたほうがよいのではないかとの提案をいたしましたが、話し合いの結果、教師会としては、牧師の職務における神学的意味づけをすること、また牧師の困り事を共有するしくみを作ることが確認されました。
また、二つのセッションでは、高村敏浩牧師から、アウグスブルグ信仰告白が二〇三〇年に五〇〇周年を迎えるにあたり、世界のルーテル教会での理解と取り組みについて報告があり、神学校教員の石居基夫牧師、松岡俊一郎牧師(神学教育委員長)からは、この春、新カリキュラムがスタートした神学教育における教会側の役割・責任についてお話がありました。最終日には、「牧師服務規則」についてディスカッションが行われました。
今回は、内容的にはハードな話題を取り扱うことの多い退修会となりましたが、しかし、食事の席は和やかで、共に旧交を温め合いながら、来春、定年を迎えられる大柴譲治牧師、末竹十大牧師からの味わい深い言葉に耳を傾けました。
退修会に牧師を送り出してくださった教会・関係施設のご協力に感謝します。また、さまざまなご都合のため、やむを得ず参加できなかった同僚のことをお祈りに覚えます。
台湾ルーテル教会からの熊本訪問を受けて
多田哲(日本福音ルーテル合志教会・水俣教会牧師)
4月27日(月)~29日(水)にかけて、台湾ルーテル教会(TLC)、ノルウェー宣教会(NMS)からの熊本訪問団を受け入れました。訪問団には、台湾ルーテル教会の高堂恩監督やNMSアジア宣教主事メレテ・ハレン氏をはじめ、ELCAアジア太平洋宣教主事の石田順孝牧師ら12名、日本福音ルーテル教会から李明生世界宣教主事ら5名が参加しました。
一行は、九州ルーテル学院大学、九州ルーテル学院インターナショナルスクール小学部、ルーテル学院中学・高等学校、九州学院中学・高等学校、合志教会、神水教会、慈愛園などを訪問して熊本におけるルーテル教会の伝道・教育・奉仕の歩みに触れ、特に、熊本の地にキリスト教教育が一〇〇年以上にわたって根付いてきたこと、また、慈愛園に代表されるディアコニアの働きが地域社会と深く結びついて展開されてきたことに、大きな関心を寄せました。
初日には合志教会で協議の場が設けられ、その中で、近年のTSMCの熊本進出に伴い、工場がある熊本県の菊南エリアに多くの台湾人が移り住んでいる現状が共有されました。言語や文化の違いから地域コミュニティーに入れず孤立感を抱える台湾人家族も少なくないことを踏まえ、台湾からの先行短期宣教団メンバーである普翰屏氏は、「福音は言語や文化の壁を越えて人々を結び合わせる力を持つ」との宣教方針を示し、日本のルーテル教会に協力を呼びかけました。
一方、日本福音ルーテル教会からは、人手不足、財政的制約、若手牧師のバーンアウトなど、日本の教会が抱える課題も率直に示されました。そのため、大規模な宣教協力ではなく、まずは各個教会間の関係として、台中めぐみ慕義教会と合志教会が協力し、熊本華語ミニストリーを開始する可能性が確認されました。今後は定期的にオンライン会議を行い、進めていく予定です。
今回の訪問は、熊本における、また、日本社会全体における多文化共生の現実と、そこに教会がどのように仕えていくのかを考える大切な機会となりました。地域社会はすでに大きく変化しています。台湾ルーテル教会からの呼びかけは、日本の教会のこれからの宣教ビジョンを考える上で、具体的なきっかけとなるように思います。祈りと対話を重ねながら、福音によって言葉と文化を越えて人々が結ばれる働きが始まることを期待しています。
