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バイブルエッセイ

「キリストの平和」

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、~中略~こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」
(エフェソの信徒への手紙2・14~16)

 平和主日の日課からになります。
 「平和」について辞書で調べてみると、おおむね二つの意味が書かれていました。まず「戦争、紛争がなく、世の中が平安な状態にあること」。二つ目が「心配やもめごとがなく、平穏なこと」。ですから一般的に多くの人は、平和について問われるなら、戦争がない状態。平穏無事な状態と答えると思われます。

 日本という国において平和主日が8月に守られるのは、戦争が終わった月にあって、戦争によってもたらされた苦しみ、悲しみを覚え、二度と戦争をしてはならないと、国民一同、共に平和を希求する思いからなのでしょう。戦争がない世界、平和な世界を求める。そのために心を合わせること、これらが『平和主日』にあって大切な要素の一つであると言えるでしょう。

 しかし、この平和主日に与えられている聖書が告げているのは、「キリストがわたしたちの平和である」という事実にほかならないのです。さらに聖書は告げています。キリストがわたしたちの平和であるのは、十字架によって二つのものを一つにし、敵意を滅ぼされたからであると。つまり聖書が私たちに告げている平和とは、すべてがキリストによって獲得されたものであるということなのです。ここに平和主日にあって、本当に私たちが聞くべき『平和』があるのです。

 このように平和について、一般的な理解と聖書が告げている内容との間に違いが見られることが分かります。私は平和について思う時、マルコによる福音書4章の一場面は、その違いを明確にする良い例であるように思います。弟子たちが主イエスを乗せたまま湖にこぎ出したのですが、突風が吹き荒れ、穏やかであった波が高波となって舟が沈みそうになりました。弟子たちは恐れ、「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(マルコによる福音書4・38)と主イエスを起こしたのでした。主イエスは起き上がると、風と波を静め、弟子たちに言われたのです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(同4・40)と。

 この場面を振り返りますと、舟をこぎ出したときは風はなく、波も穏やかな状態であったことがわかります。いわゆる、絵に描いたような平和という状態の中にあったのでした。弟子たちは平和を味わい、それが続くものと思っていたことでしょう。イエスに従うことで、それが得られるのだと確信したことでしょう。

 ところが、突然の激しい風によってその平和は一瞬のうちに吹き飛んでしまったのでした。すでに触れたように一般的にいう平和とは、戦争がなく平穏無事であることです。言い換えるなら状況の平和となるでしょう。しかしこの聖書の場面から教えられるのは、いつそれが失われるかわからない、実に不安定なものでしかないということなのです。一方、この場面には波が穏やかなときも波が荒れたときにも、変わることがない『平和』が示されているのです。それは、主イエスがその舟に乗っておられるという事実です。先の『状況の平和』に対するなら、それは『関係の平和』と言えるでしょう。状況が整えられることで獲得される平和ではなく、このキリストこそがわたしたちの平和である。これが聖書の告げる平和なのです。このことこそ平和主日にあって、私たちが聞くべき福音に違いありません。人は状況に目を奪われ、それに従って判断するでしょう。しかし神は関係に目を向け、そこに本物の平和を見いだすようにと招かれるのです。

 キリストこそ、わたしたちの平和であり、この主イエス・キリストが私たちと共にいてくださる。この事実にあって、私たちは波が穏やかなときはもちろん、たとえ波が荒れる危険のときにも平和のうちに生きることができるのです。たとえ、私たちが頑張ってキリストの愛にとどまることができないときにも、十字架の主自ら、その愛をもって私たちの間にとどまってくださるのです。私たちが人の目にどう映るとしても、キリストが私たちと共にいてくださいます。ですから誰かと比べることなく、私は私らしくあることが許されていると確信できるのです。そして、そのキリストと共にあることで、たとえ今困難に直面している現実にあるとしても、変わらずキリストの平和のうちに生きることができる。これが平和主日に私たちが聞く福音の言葉なのです。

「嵐の中で眠るキリスト」(1853年)ウジェーヌ・ドラクロワ

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