1. HOME
  2. ブログ
  3. 機関紙るうてる
  4. るうてる2016年10月号

刊行物

BLOG

機関紙るうてる

るうてる2016年10月号

説教「それでも赦しを語る」

機関紙PDF

日本福音ルーテルみのり教会 牧師 三浦知夫

 ぶどう園の主人は言った。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」(ルカによる福音書20章13節)

 ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して旅に出ました。収穫の時期になり、主人は収穫を受け取るために僕を送りますが、僕は袋だたきにされ、追い返されてしまいます。二人目の僕も、三人目の僕も同じでした。それで主人は愛する息子を送るのですが、農夫たちはぶどう園を自分たちのものにしようと考え、跡取りである主人の息子を殺してしまったというのです。
 最初の僕が袋だたきにされた時点で主人は、農夫たちが信用できる相手ではないと分かったはずです。それなのになぜ主人は、農夫たちにぶどう園を預けたままにし、彼らを信じて僕を送り続けたのでしょうか。私たちは、信用できない人、それも既に裏切られたというような人に再び何かを頼もうとはしないでしょう。
 主人に人を見る目がなかったということではありません。この主人は、信用できない者であっても信じ続ける、裏切られても相手を信じて待ち続ける人だったのです。
 ぶどう園は神様と神の民の関係を表しています。ぶどう園の主人は神様、農夫たちは民の指導者たちであり、また神の民のことです。人々は神様から任されたこの世界で自分勝手に罪を犯して暮らしていたので、神様は人々が悔い改めるように何人もの預言者を遣わしたのですが、人々は預言者を退け続けたのです。
 それで神様は「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」と独り子であるイエス様をこの世界に送られたのです。人々が信用に足る者たちではないとよく分かっていても、それでも神様は人々を信じ続けてくださったということです。
 たとえでは、主人が「戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」となっています。それでは実際のその続きはどうだったのでしょう。聖書は、イエス様を殺してしまった者たちも、すべての罪に生きる者が、神様の許に立ち返り、罪の赦しを受け取るように招かれていると私たちに告げています。そして、私たちは神様の前に繰り返し罪を犯し、神様を裏切り続けている人々の中に自分自身の姿を見いださなければなりません。信用できない者たちを信じ続け、徹底して赦しを与え続けようとされている神の愛にもう一度心を向けなければならないと思うのです。
 宗教改革から500年を迎えようとしています。私たちの在り方をもう一度見直し、恵みを確かめる時です。私たちルーテル教会がこれまでこだわり続けてきたこと、これからもこだわり続けていかなければならないことは、赦しを語り続けることだと、私は思っています。
 自分の罪に気づき、十字架の赦しを受け取った者であっても再び罪を犯します。その度に私たちは何度でも赦しの言葉を聞くのです。十字架の赦しを伝える務めは、牧師だけにではなく、教会に連なるすべての信徒にも与えられています。
 赦しの言葉を語り続けるところに留まるのではなく、赦された者が成長するための言葉に、語る言葉の重心を移していくべきだという考えもあるでしょう。赦された者として成長していくことは、もちろん大切なことです。しかし、信仰者としての成長の妨げになるから赦しを語ることはもう卒業しようとは考えないのがルーテル教会だと思うのです。
 赦しを語り続けることによって、私たちの中に甘えが生じてしまう危険があることも事実です。そのことは素直に認め、そうならないように気をつけていかなければなりません。けれども、だから赦しを語ることは少し控えようとはならないのです。それでも「あなたは赦される」と繰り返して語り続けるのがルーテル教会です。十字架の赦しを語り続けることが何よりも大切だからです。ただ神様の恵みにより、十字架をとおして私たちの罪は赦されるのです。私たちは赦しの言葉に「はい」とうなずくだけでよいのです。
 何度でも赦しに立ち返り、感謝と喜びに満たされ赦しの言葉を携えて神様から遣わされていきたいと思います。

連載コラムenchu

7【society】

 「東京2020大会協賛くじ」なるものが発売されていたのですが、そのキャッチコピーをご存じでしょうか。それは、「私たちも、ニッポンのお役に立ちたい。」というものです。 この宝くじは、2020年に東京で開催する五輪を応援する目的で販売されたものです。ですので、「東京オリンピックを応援しよう」みたいなものであれば、「トホホ」と笑って販売所の前を通り過ぎることができたでしょう。
 けれども、「私たちも、ニッポンのお役に立ちたい」というキャッチコピーを前にして、なんともいえない嫌な気持ちになりました。それは、このキャッチコピーが、東京五輪を応援することと日本という社会の役に立つことを同義に考えているからです。そしてここには、ニッポンの五輪を応援しない者はニッポンの役に立たない者という排除の考えが含まれています。たぶん企画者はそこまで考えてはいないのだと思いますが…。
 しかし、昨今の社会には、人間の価値を、「社会(ニッポン)のために役立つかどうか」で評価するという空気が充満してきているのではないでしょうか。
 主イエスは、安息日に麦の穂を摘む弟子たちが批判されたとき、食べ物がなく空腹のダビデと共の者たちが、祭司のほかは誰も食べてはならない供えのパンを食べたことを話した後に言われました。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2・27)と。
 私たちは、ここに住む一人ひとりが、生きていくために「結びつき」「分かち合う」ために社会ができたことを、肝に銘じたいのです。
岩切雄太( 門司教会、 八幡教会、 佐賀教会牧師)

議長室から

「ルターの正と負の遺産」 総会議長 立山忠浩

宗教改革500年まであと1年となりました。これからは、全国総会や常議員会を経て皆で決めた記念事業を実行するのみです。各自がそれぞれのやり方で、500年に一度の記念事業に積極的に参加いただければ幸いです。
 企画された記念事業の他にも、取り組むべき課題がまだまだたくさんあることを最近改めて気づかされました。それらは、各自あるいはあるグループで取り組んでいただき、それを全体に分かち合っていただくことが期待されていることです。
 8月に開催された「第4回るうてる法人会連合全体研修会」で基調講演をしてくださった阿部志郎先生(神奈川県立保健福祉大学名誉学長)は、北欧を中心に社会福祉政策が充実している国々はいずれもルーテル教会を基盤としているが、何か関連があるのだろうかと問われました。カトリックやカルヴァン派が主流の地域では見られないことだと言われるのです。
 この問いを耳にしてすぐに思い起こしたのが、ある日本の社会学者のこの社会現象の分析でした。それは、ルター自身が貧者の救済に尽力したこともさることながら、誰もが貧者になり得るし、失業する可能性があることをルター派は肯定する性格がある、これが主因だと言うのです。だから、誰にも一様に適応できるような社会制度、つまり福祉社会へとつながったという解釈です。
 さらに重要なことは、このルター派的な性格がキリスト教の本来的な条件だと述べていることでした。キリスト者ではない社会学者がルター派の性格を評価するのです。ならば、ルター派の教会こそが教会の立場から、神学的立場からこの問いに答えることが課題であり、期待されていることだと思ったのです。
 課題はルター派の肯定的なことだけではありません。ある著名な執筆家はつい最近出した本の中で、農民戦争の際のルターの言動が、多くの農民を殺戮することにつながったことを指摘し、驚くべきことに、日本のあるカルト集団の指導者と似ているとさえ書いているのです。
 さすがにそれは言い過ぎとしても、ルターのユダヤ人への言動など、その時代の状況を差し引いたとしても好ましくない負の遺産があることも事実です。
 ルターの優れた遺産を大切に受け継いで行く。でもそれは、負の遺産にも目をそらさないものでなければならないのです。

 

ルーテルこどもキャンプ報告

キャンプ長 甲斐友朗

 8月8日~10日、第18回ルーテルこどもキャンプが広島教会を会場に行われました。今年は、小学5、6年生のキャンパー32名、スタッフ28名、総勢60名がキャンプに参加し、恵み深い3日間となりました。
 今年、広島では大きな出来事がありました。オバマ大統領の来訪です。そのため、原爆資料館や平和公園内には大勢の海外の方の姿が見受けられました。子どもたちも、原爆資料館や原爆の子の像、原爆ドームなどをめぐりながら、原爆の被害や平和について思いをめぐらせました。そして、教会に帰ってからは、「平和なこと」と「平和でないこと」を、それぞれ紙に書いて模造紙に張る作業をしました。予想以上に様々な意見が出て、子どもたちの考えの深さに驚かされました。
 しかし、ここで終わらないのが教会のキャンプです。2日目の夜には、聖書が語る平和についても学びました。チャプレンの伊藤節彦牧師からは、聖書が語る平和(キリストの平和)は、ジャイアンのように、人を威圧し、支配することによってもたらされたものではなく、顔をあげるアンパンマンのように、自らを犠牲にし、自ら弱くなることによってもたらされたものだということを聴きました。
 子どもたちにとっては、「広島のこと」と「聖書のこと」、2本立てで平和について考えることになり、大変だったことでしょう。でも、子どもたちは最後まで、自分の頭で考え、自分の言葉で意見を言おうとしていました。きっと、この3日間の経験は、子どもたちにとってかけがえのない財産になったことでしょう。
 最後に、子どもたちを送り出してくださった各教会、教区の皆様、場所を提供し、献身的にご奉仕してくださった広島教会の皆様、やる気と賜物に満ちたスタッフの皆様、このキャンプを覚えてお祈りくださっていた全国の皆様に心より感謝申し上げます。

教会・公共

6レイトゥルギア(礼拝する民)その(2)

宮本 新(田園調布教会牧師、日本ルーテル神学校講師)

 アメリカの教会を訪れたとき、敷地のフェンスにprivate property(私有地)と書いてあり驚いたことがあります。そこで営まれているのはpublic worship(公の礼拝)だからです。
 その公(public)は「官」や「お上」ではなく、ここでは人々と「共(common)に」を標榜するというユニークな公私の組み合わせが見られます。
 ルターの宗教改革もこのパブリックとしての公共論に一役買っています。ルターのドイツ語訳聖書は「民衆訳聖書」と言われ、讃美歌(コラール)や小教理問答には人びとの日常世界で経験的に習得されていく「礼に宿る超越性」が秘められています。ルーテル教会が街角にあるのも偶然ではないでしょう。
 伝道といえば教会へ「人を招く」と考えられがちですが、もう一面に「人が遣わされる」が組み合された宣教論が求められています。
 一般的にプロテスタントでは「巡礼」旅行はしても、それを宗教行為として行わないし、礼拝に行くといって山の頂きや深い森の中に行きません。世俗(地域・日常)の真っただ中にある町の教会に集います。人々の日常生活に宿る「聖」、つまり「俗」における「聖」へと心眼を開いて、み言葉に耳を傾けます。そこでは昇天と再臨のキリストよりも、むしろ馬小屋に生まれ、市井の人々と共に歩んだイエスを黙想する機会が多となることでしょう。私たちは天の高みに昇るのではなく、地の低みに降りてこられる神の愛と憐れみに触れて讃美の声を挙げます。人々の暮らしの中に「教会」は信じる群れとなって「生まれる」。あのパンと葡萄酒にキリストが現臨されるのを信じて集うように、「今、ここで」み言葉を求めます。
 礼拝では日常の言葉で神のことばが語られ、讃美し、生かし生かされるリズムを整えます。プロテスタントは巡礼の神学を持たないのではなく、より深く「俗」なる世界を巡礼的に生きる舞台を見つめます。俗のただ中に「聖なるお方」が共におられることを信じるからです。「ここは神の世界」と「俗」のまっただなかにおいて聖を祝い、この世の国のまっただなかで「神の国の宣教」に身を投じているのが町の教会の姿のようにも見えます。祝福をもって「派遣」で結ばれる礼拝はそれを物語っています.

宗教改革500年に向けて ルターの意義を改めて考える (53)

ルター研究所長 鈴木 浩

 どこの大学でも、すべの授業がラテン語で行われていた。だから、外国で学ぶことも特別なことではなかった。例えば、ヴィッテンベルク大学の学長になるショイルは、法学研究が進んでいたイタリアのボローニャ大学で学び、そこで法学博士の学位を得ていた。
 大学生は誰でも、ラテン語で話し、読み、書いた。ルターもそうであった。中国文化圏のもとにあったどの国でも、かつては、知識人は漢文を読み、書くことができたのと同じである。ただ、漢文では話すことができなかったのとは違って、ラテン語では会話も可能だった。
 ラテン語はときどき奇妙な表現をする。例えば、大学を首席で卒業すると、「スンマ・クム・ラウデ」(最大の称賛をもって)と呼ばれた(アメリカでは今でもそうである)。しかし、語順を単純に英語に置き換えると、the highest with praiseとなる。同様に「この箇所で」は「ホック・イン・ロコ」(this in place)となる。前置詞がどういうわけか「前に」置かれず、「中に」置かれるのだ。ルターには、数は多くないが、同じ本文をラテン語でもドイツ語でも書いたものがある(例えば『キリスト者の自由』)。比べて読むと、ラテン語本文はいかにもラテン語風の響きがし、ドイツ語本文はいかにもドイツ語の特徴が出ている。メランヒトンが書いた『アウグスブルク信仰告白』もその点では同じだ。
 ルターもメランヒトンも完璧にラテン語をものにしていた証拠である。当時の大学生は、みんなそうであった。だから、ルターのおかげでヴィッテンベルク大学が一躍「有名校」になると、外国からも大勢の入学者が出て来るようになった。そのせいだろうか、ルターの給料は突出していたようである。それでも生活は大変であった。

ルター、バッハ、宗教改革500年。

徳善義和

12.慰めと励ましの歌

力なる神は わが強きやぐら(教会讃美歌450番)

 どの教会でも宗教改革主日や記念日の礼拝では必ずこの讃美歌を、それも力強く歌うだろう。ほとんどの人がこの讃美歌はルターによるものだと知っているだろうが、その背景や歴史を考えてみたことはあまりあるまい。
 これは元々このような勇ましい歌ではなかった。反対者に囲まれ、改革は停滞し、いわば四面楚歌の中で自らはうつ傾向に陥っていたルターが自らを慰め、励ますために詩編46編の始めを歌詞とし、さらに敵に囲まれなす術がなくとも、自分に代わってキリストが戦ってくださるから、最後の勝利は神のみ手にあると歌ったものだった。従って原曲はテナーのソロ曲、もっとゆっくり慰めと励ましを込めて歌うものだった。似てはいるが元気のよい、宗教改革行進曲のような現在のメロディーになったのはルターから100年か150年経ってのことだったろう。ドイツ北部から北欧にかけてルーテル教会が揺るぐことのない位置を占めるようになった頃である。
 バッハもその勇ましいメロディーを使って、カンタータ80番を作曲した。死後その息子の一人が演奏したときにはさらにトランペットまで加えて、勝利の歌の響きを強めたという。
 原詩をできれば直訳ででもよいから静かに読んでみると、作詞当時のルターの姿をいささかなりと心に浮かべることができるだろうか。これを原曲で静かに歌って信仰の励ましとするということもまた、ルターに即して意味深いことだろう。教会讃美歌改訂版にはこの原曲をぜひ並べて載せて欲しい。
 罪ゆえに無力のわがために、キリストが一人で戦って勝ちを収めてくださると歌う意味を噛み締めたい(教団讃美歌がこの箇所で「われと共に」と歌うのは誤訳も誤訳、神学的にも誤りである)。心してルターのこの信仰歌を心に刻みつつ歌いたい。

敬愛する兄弟姉妹へ、退任にあたり

ボーマン・ナタン

 私の日本との関わりはその誕生以前からものでした。父ジョン・ボーマン牧師は、当初は進駐軍として終戦直後に日本に着任し、軍警察として日本人を米兵から守る役割に就きました。また母の弟はその前に沖縄戦で戦死しています。仙台のある教会の教会学校の子ども達が父に、「日本に戻って、子ども達にイエス様の話をしてください」と呼びかけたことが、その後の父の人生を大きく変えることになりました。そしてそれはまだ生まれていなかった私の人生を方向づけることになりました。
 東京で生まれ、湯河原、大垣、東京で過ごし、その後29年にわたり神水教会、松橋教会、熊本教会の国際礼拝、慈愛園など様々な宣教の場に関わる恵みが与えられました。
 熊本地震により、宣教師館が耐震性に乏しく、安心して生活を続けることができないことが分かりました。最初は野宿し、雨が降り出すと車に、暑くなると別棟の倉庫に宿りました。こんな時には宣教地を離れるものではないと確信しました。関わりのある3つの教会はひどい被害を受けており、施設も学校も同様でした。地震の度にグラウンドに集まり、一緒に避難する生活が続きました。
 同時に教会や施設を通して、周りの方々を守る大切な絆作りの時ともなりました。コミュニティーは被災の副作用である「人震災害」を止める大事な予防線です。コミュニティーを失えば、希望も残らず、人としての基盤が揺れることを「人震災害」と名付けました。災害時に人々の心が繋がらなければ、人はその災害に負ける。このことは阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本地方大震災などから学びました。被災者に対するゴールデンルールは、被災者の選択権を先ず認め、応援することです。
 そのような中、私は重大な決断をしなければならなくなりました。派遣元のアメリカの教会より辞任を命じられたのです。結果、8月1日付で辞し、渡米しました。
 皆様の愛と励ましを受け、深く感謝しています。教会と慈愛園と近所のコミュニティーを通して子どもが3人与えられ、合わせて5人の子ども達とその家族も日本の影響を受け育つことができました。
 新しい出発をしますが、熊本と日本のことを忘れることはありません。高倉師、末竹師、重野師、 本師という素晴らしい先生方と共にイエス・キリストの愛を証し、福音宣教に生きる歩みが許されたことを光栄に思います。
 この度皆様が熊本の教会、施設、学校のためにささげてくださった祈りと励ましと支援にも感謝します。
 自分よりも神様を愛する者、人に仕える者、そして、神様の憐れみに生かされた者として歩んでください。
 皆様に聖霊が豊かに注がれますように。愛する日本の国が癒され、神の愛に導かれますように祈っています。

るうてる法人会連合第4回全体研修会報告

事務局 滝田浩之

 8月23~24日、ルーテル学院大学を会場に「るうてる法人会連合」の主催で第4回の全体研修会が行われました。全国から80名の方々が参加してくださり「るうてるグループ」の一員としての思いを新たにし、再び現場へと帰っていく力を与えられる時でした。
 基調講演は阿部志郎先生(神奈川県立保健福祉大学名誉学長)にお願いして「わたしたちが大切にしているもの」という題でお話しを頂きました。先生は「なぜルーテル教会のある北欧は福祉の最先端の実践を世界に示してきたのか」ということを、ルーテルの方からお答えをお聞きしたいとおっしゃいます。今回は、真正面からご自身がそれに答えてくださる形で講演をしてくださいました。教会、社会福祉施設、教育施設が一体となってキリストの愛を伝えようとする「るうてる法人会連合」の可能性と責任を示してくださる内容で、先生からたくさんの宿題を頂くような思いでした。
 原島博先生(ルーテル学院大学)のワークショップでは、目の前の隣人を支える時、時に限界を感じてしまう私たちの目を、そこに仕えることによって世界の苦しみを支える働きをなしているのだというダイナミックな、そして開かれた視点を与えて頂くことができました。
 宮本新牧師は、私たちが目の前の人を「支える」ということは、実は一方的に私たちが隣人に愛を注ぐということではなく、その隣人に自分も「支えられている」という気づきと感謝が生み出されていくところに、キリスト教らしさがあり、「るうてる」らしさがあるのだという視点をお話しくださいました。
 2度行われた分科会では、活発にそれぞれの抱える現場の課題が共有されました。どの課題も深刻であり特効薬はないことも分かち合われました。しかし、それを担い続ける勇気が、互いにそれを支え続けている仲間がいることを知ることで与えられました。
 来年は宗教改革500年を意識しつつ、熊本にて総会を開催する予定です。今からご予定ください。

「ルーテルアワー」のサイト [さあなの部屋]より
9 救いは主のもとにあります。(詩編3)

伊藤早奈

 神様、新しい目覚めをありがとうございます。自分が目覚めたその現実を喜ぶこともあれば、こんな現実の中なら目覚めたくなかったとあなたを恨むこともあります。しかし神様、あなたは本当に必要な「時」を今、与えてくださっています。感情的に出したり引っ込めたりするような駆け引きはあなたの愛にはありません。当たり前に見えるような些細なことも、丁寧に与えられる恵みとして感謝できますように。主イエス・キリストのお名前を通して祈ります。アーメン
——————————————–
 もし、自分が透明人間だったらどうしますか? 考えたこともないわ、という方もおられるかもしれませんが考えてみてください。私は幼い頃、反抗期の真っ最中だった時くらいに「透明人間になりたい」と思いました。そうしたら誰にも干渉されず、監視されず、自由になれるような気がしたからです。
 でもどうなのでしょうか。本当に今、誰からも見えなくなり、誰からも干渉されず誰にも監視されなくなったら。「ただいま」と家に帰っても誰にも気付かれず、何か失敗しても誰もわからない。笑っても泣いても怒っても自由ですが誰にも解ってもらえない。それは孤独です。
 実際に姿が見えていてもそのようなことは起こります。特に現代には多いのかもしれません。「無関心」という世界です。「愛」の反対は「無関心」です。
 しかし、神様はあなたが誰かから見えても見えなくても、たとえ自分の存在を否定して自分を見ないようにしていても、あなたが透明人間のようであっても、あなたというかけがえのない一人の存在を愛されます。だから誰も孤独ではありません。
 聖書にある「救い」とは孤独からの解放との意味もあります。助けを得ることや物を与えてもらうというような一時的な助けより深く、神様は私たち一人一人に関心を持ち、愛してくださっています。
 たとえあなたが透明人間になったとしても、神様の眼差しに影響はありません。一人一人がそのまま神様に愛されていることをいつも感謝できますように。

     

プロジェクト3.11 「北海道寺子屋合宿」について

原子力行政を問い直す宗教者の会 大河内秀人
 
 「原子力行政を問い直す宗教者の会」では、福島第一原発事故の被曝の影響を受ける地域の子どもたちを対象とした保養事業「北海道寺子屋合宿」を、寺院や教会の協力を得て、2011年から毎年夏休みに実施しています。
 6年目の今年は、チェルノブイリでも子どもの甲状腺疾患が増加し始めたといわれる5年が経過する時期に当たり、すでに福島だけでも172人が癌または癌の疑いと診断され、131人が手術を受けました。さらにリンパ節転移や遠隔転移、再発など、深刻な症例も報告され、福島県外でも子どもたちの甲状腺癌が報告されています。
 一方、国は「原発事故の影響とは考えにくい」とし、不安や風評被害につながるとして甲状腺検査の縮小の動きもあり、人々が不安を口にしにくい状況です。
 今年事業の実施に当たり、2月に札幌と旭川で、福島の現状とチェルノブイリでの対応について詳しい独立メディア「アワー・プラネットTV」の白石草さんを講師に、受入先関係者や地元協力者と共に学び、あらためて保養事業の意義を確認し合いました。
 今年も3期に分けて実施し、地域や学校のスポーツ団体や教会などのグループ、家族単位の一般参加、引率者も合わせて206名が参加しました。基本的な日程は、仙台港集合、フェリーで苫小牧へ渡り、初日は札幌の東本願寺青少年研修センター宿泊、アイヌ文化を知る講座や交流会などの後、それぞれの受入先施設で過ごしました。また、北海道の協力医療機関とボランティアで同行いただいた医師による甲状腺エコー健診も行いました。
 子どもたちは、福島ではできない外遊びや自然体験などのびのび過ごし、大人たちもタブーになっている放射能対策や不安に関する話題を口にすることのできる開放感を味わいました。
 被曝環境や健康状況などを見ても、より重要になる保養事業ですが、国の原発推進政策や関心の薄れにより、全国的に保養事業が縮小されつつあります。そのため、当会の事業は抽選で多くの希望者にお断りをしなくてはならないことにもなりました。今後一層のご支援、ご協力をお願いいたします。
(プロジェクト3・11では本プログラムへの支援を行っています。)

「宗教改革(499年)記念日」各地の集会の情報

<北海道特別教区>
 宗教改革合同礼拝(JELC道央地区・NRK札幌地区)
 日時:10月30日(日)15時
 会場:日本ルーテル教団札幌中央ルーテル教会
 司式:粂井豊牧師
 説教:日笠山吉之牧師

<東教区>
 宗教改革合同礼拝
 日時:10月31日(月)19時
 会場:ルーテル市ヶ谷センター

<東海教区>
 宗教改革合同礼拝(尾張・岐阜地区宣教委員会主催)
 日時:10月31日(月)14時
 会場:岐阜教会
 説教者:末竹十大牧師
 司式者:斎藤幸二牧師

 東海教区 第41回信徒大会
 日時:11月3日(木)10時30分~15時
 会場:愛知県岡崎市せきれいホール
 テーマ:「聞いて見て歌って ルターを感じて」
 
<九州教区>
 2016年宗教改革記念行事(熊本地区宣教会議)
 日時:10月30日(日)14時
 場所:ルーテル学院中高チャペル
 オルガン演奏:加藤麻衣子さん
 講演:「宗教改革とオルガンの歴史・構造
    ~オルガンの歴史から見た礼拝改革(宗教改革)~」    中井邦夫さん(中井オルガン工房)

 

関連記事