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るうてる2007年

るうてる《福音版》2007年2月号

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バイブルエッセイ 「生けるものみな表現者」

また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。 マルコによる福音書4章21節~22節(日本聖書協会・新共同訳)

峠に向かって山道を登っていました。左側はそそり立つ絶壁、右側は千尋の谷。道はでこぼこ。古びた頼りないガードレールがあるにはあります。神経を集中してこの道を登っているときに、ふと第六感が刺激されました。こんな時は必ず思いがけない贈り物があります。車を留め、ガードレールの向こうに広がる千尋の谷をのぞいてみました。ありました。3メートルほど下に、薄紫よりもややピンクががかった数輪のつつじがぽつんと咲いています。つつましやかに、でも精一杯豪華に。このような瞬間はわたしにとっても至福の時です。自分だけの風景がそこにあり、自分だけの出会いがそこにあります。わたしがそれに気づいたことを彼らは喜んでくれたでしょうか。それはわかりません。この数本のつつじは、精一杯に咲いて、しおれてゆくといういとなみを繰り返すだけです。しかし、誰知らずとも彼らはまさしく表現者なのだと思いました。隠された命の表現者です。だから感動を与えてくれます。
障がいをもった一人の娘さんを知っています。アメリカではエンゼル・チルドレンと呼ばれる障がいです。その家族は世界を股に活躍してこられた家族なのですが、その中心は娘さんで、彼女は家族の光源、そして暖炉です。彼女の笑顔はすべての人を和ませます。彼女もまた、隠された命の表現者なのです。愛の表現者です。
表現者と言うと、いわゆるアーチストと呼ばれる特別な人々を想像するのが常です。その人たちは「表現」ということを生業としているプロですから、そう呼ばれても不思議はありません。でも、プロが表現しようとしていることは、そんなに特殊なことなのでしょうか。
ピカソの作風を、常識の枠を超えた作風に一変させたのは、1枚の子どもの絵だったと聞いています。プロはたゆまず表現の技術を磨きます。技術は足し算です。反比例して、表現の内容は限りなく単純化されるのです。引き算です。それはただ有るもの、一つなるものでありながら限りなく多様なものだとわたしは思っています。
生きとし生きるもののすべてが、有限なものとして、その命を表現し、その命を終えます。そのすべてがもっとも単純なものを表現しようとしています。もっとも単純なものとは、創造者の愛です。なぜなら、生きとし生けるもの、一輪の花、一羽の空の鳥に至るまですべて神ご自身の表現体だからです。被造物が、意識無意識を問わず、自分を通して、創造者の愛を映そうとする。それが生きることです。それが表現です。
K.S

心の旅を見つめて

「有用性よりも存在の仕方」こそ

退職後に新しい可能性が
個人差はあるものの長寿国日本では、退職してから20、30年も生きる時代になって来ました。これは人生全体の時間的割合から言っても大変長い期間です。ライフ・サイクル(人生周期)のこの最後の段階をどう生きるかは、誰にとっても大きな課題であると言っていいでしょう。
ある人たちは、それまで出来なかった趣味や教養を身に付け、新しい可能性に向かって挑戦しています。今まで知らなかった分野を探求するのもなかなかのことです。気づかなかった才能を発見するようなことも意外に多いのではないかと思います。何よりも、それまでの職場のような限られた中での人間関係とは異なり、多種多様な人たちとの出会いを通して自分の人生観や物の考え方を見直すという機会に恵まれます。また利害関係が付きまとう競争社会では得られなかった友情や人間的な交わりも社会的な枠組みを離れてから芽生えてくる場合もあるのではないでしょうか。
「する」から「ある」へ
けれども、この最後の周期を心の旅という視点から考えると、何かを「する」ということだけにしてしまうならば、もったいないというだけでなく人生に宿題を残すようなことになってしまうのではないでしょうか。何か新しいことを「する」ことも意味のあることなのですが、人生の円熟期と言われる老年期の大切な課題は自分が今どんな人間で「ある」かを振り返り、内面的な生活を深めていくことではないかと思います。
 ポール・トウルニエは、老年期の人々にとって重要なことは「彼らが現在どういう人間であるかということなのであって、彼らがこれから何ができるかということでもなければ、自分で持ち運ぶことができない所有物でもない」と述べ、「ある」ことの大切さを強調しています。彼はまた「主として内面生活のあり方しだいで幸不幸が決まるのだ、ということを理解し、容認している人々……こういう人は大抵の老人を非常に強く打ちのめすところの、あの自分はもう無用の存在なのだというおそろしい感情におそわれることが割合すくない」と、やはり「ある」ことの重要性を語っています。
「存在のしかた」によって
聖書を見ると、この内面性について「年老いた男には、節制し、品位を保ち、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように」(テトスへの手紙2章2節)と、それこそ「内面生活のあり方」が指摘されています(年老いた女にも言及)。これらは高齢者のあるべき姿、言い換えると人格的成熟といったものが求められているわけですが、現代は若さが強調され過ぎているためでしょうか、「80歳なのに○○が出来る」などとといった具合に、どうも「する」ことが称えられる傾向があるのではないでしょうか。
 これは、かつて今のような高齢社会が存在しなかったため生き方のモデルがなかったことによるのかも知れません。ことに効率主義、生産性至上主義の高度成長時代を生き抜いてきた世代の人たちは、何かやっていないと落ち着かないという生き方になってしまっているようです。これでは趣味も娯楽も競争になってしまいます。身についた行動パターンは修正が難しいかも知れませんが、神谷美恵子が言うように、「有用性よりも〈存在のしかた〉そのものによってまわりの人びとをよろこばす」ような老年期でありたいものです。
堀 肇(ほり はじめ)/鶴瀬恵みキリスト教会牧師・ルーテル学院大学非常勤講師・臨床パストラルカウンセラー(PCCAJ認定)

HeQiアート

Mary Magdalene by He Qi, www.heqiarts.com

ベタニアで香油を注がれる

 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。 
ヨハネによる福音書 12章3節

たろこままの子育てブログ

番外編「逃れる時」

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。(コリント信徒への手紙一10章13節)
 例えばマザーテレサが言ったのなら深く頷けるものの、事情を知らない人に気軽に言われたり、気休めに発言されるとこの上なく複雑な思いを味わうとても難しい句です。
 こちらからも相手を励ましたいときにもこの句は中々口にしづらかったりしますが、実はこの数行あとに「試練と共に、それに耐えられるよう逃れる道をも備えて云々」とあります。皆さんはこれをどう読まれるでしょうか。
 話は飛びますが、私には2歳年上の従兄弟がおりました────過去形なのは、彼がもうこの世にいないからです。おととしの秋、原因は過度な仕事に追い詰められての飛び降り自殺でした。
 線香の立ちこめる一室で、静かな笑顔を浮かべる彼を見ながら思ったことが、「逃げて欲しかった」これだけです。男の子だから頑張りなさい、泣くんじゃない……私たちはふとした拍子にこの言葉を使ったり耳にします。きっと真面目だった従兄弟もその通りに頑張って頑張って頑張って、糸が切れてしまったのかな、と思うと涙が止まりませんでした。
 そんな節目に冒頭の句だけ読むと辛かったのですが、あとに続く「逃れる道」の言葉に少し救われた気がしました。戦わなくていいんです。頑張らなくていいんです。人はときに────泣いたっていいんです。逃げたっていいんです。  
 学歴社会だの、能力主義だのと言われて久しい昨今、試練も一昔前より多種多様に根深くなったのではと感じます。でも変わらないのは、親の誰一人子どもが己で命を絶つことを望んでやしない、そんなことのために子どもを育ててやしないということではないでしょうか。今、いじめにより自殺を図る子の悲しいニュースも多いですが、命を絶とうと思うほどに辛いときは、どうか逃げてください。そして周りの大人も、逃れる道にも心を向ける必要があるのかと思います。

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