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機関紙るうてる

るうてる2011年6月号

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説教「不安のきわみで歩き出す」

「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」(ヨハネ福音書9章1節~3節)

 渡邉純幸議長、松木傑牧師、LWF特別アドバイザーのマタイさんと共に、4月18日から21日かけて車で東日本大震災の被災地である仙台、石巻、気仙沼、陸前高田を訪ねました。津波ですべての建物が全壊した地域に入った時は、何度も途中、車を降り、道路の真中に立ち、お互いに声も交わすことが出来ずに身の震えを内に感じました。
 このような災害は「天罰」ではないかという不穏な言葉を吐いてしまった人もいましたが、今回の未曾有の大地震をどのように理解してよいのかという戸惑いを多くの人が持っているのではないでしょうか。
 このヨハネ福音書9章でイエスは生まれつきの目の見えない人をいやしています。イエスの癒しの前に、弟子たちはイエスに「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と問うています。
 弟子たちがイエスに問いかけた言葉、これは「応報説」というものです。私たちの身に降りかかる不幸、苦しみ、病気などは神に対して何か悪いことをした不義のゆえに、神からの応報的な罰として与えられるという考えです。
 今から、30年前の、昭和52(1977)年11月15日夕刻、中学校一年生の横田めぐみさんが、新潟市の中学校から帰宅する途中で拉致されました。横田めぐみさんのお母さんである早紀江さんは、めぐみさんが居なくなって7年が経った1984年5月に、バプテスト教会の宣教師であるマク・ダニエル宣教師からキリスト教の洗礼を受けています。
  彼女は1999年に日本福音クルセードが発行している機関紙にめぐみさんを失ってからの辛い日々のことをこのように書いています。
 「それからは、大変な捜索となりました。新潟県警始まって以来のヘリコプター、巡視船まで出た捜索活動が、毎日続けられました。私たちは、失神しそうになりながら、ポスターを全国に貼り、またテレビの呼びかけ番組にも4度出演し、少しでも似た少女の写真や絵を見かけるとすぐに問い合わせたり、出かけたり、本当に気が狂ってしまうような毎日でした。」「ですが、どんなにしても何一つ手がかりがなく、目撃者もなく、一ヶ月、半年、一年と時だけが過ぎて、私はただ打ちひしがれ、虚しさだけが心に満ちてくるばかりでした。」「主人や息子たちが勤めや学校に出かけた後は、悲しみがどっと押し寄せてまいりました。こんなに悲しい目にどうして合うのでしょうか。どうすれば立ち上がれるのか。どんなに号泣してみても、息も止まれと止めてみても、悲しい朝はやってきます」。
 さらに、ある人々、ことに宗教的な匂いを持っている人が冷たい言葉を投げかけ、それにより惑わされた辛い日々の気持ちをこう綴っています。「『子供は親の鏡、親の全てを現します。』とか『因果応報』とか、いろんな宗教の人が来て、悲しい心に突き刺さるような言葉を残していきました。私は祖先に思いを馳せて、誠実で質素な温かい父母を思い、泣きました。」
 そのような涙に暮れる日々を送っていた時に、娘と同学年のお母さんのとの出会いが与えられます。その時の心境を早紀江さんはこう書いています。「あまりに悲しむ私に、クリスチャンの友は聖書の言葉で励ましてくださいました。生まれつきの目の見えない人を見て、イエスの弟子がその理由を聞きますとイエスは次のように答えられました。初めて聞く不思議な言葉でした。『この人が罪をおかしたのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』という新約聖書 ヨハネの福音書9章3節に触れました。」
 彼女は旧約聖書ヨブ記1章21節の「私は裸で母の胎からでた。また、裸で私はかしこに帰ろう。 主は与え、主は取られる。」という言葉にはじめて出会ったときに、「始めて深呼吸ができ、久しぶりに空気がおいしく思えました」と語っています。
 また、「人知の及ばないところにある神の存在は、この世の悲しみ、苦しみ、すべてのことを飲み込んでおられるのだ。私の悲しい人生も、人間という小さな者には介入できない問題なのだ。聖書は私にそう語りかけてくるようでした。」と書いています(「めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる」草思社)。
 私たちにとって誰もが願うことは幸福です。でも、予期せぬ試練と苦難の中にあっても人生に対する新たな希望と意義が見出されることもあるのです。そして、苦難を苦難としてそれなりに耐え忍ぶところに真の信仰が与えられ、そこから神に出会い、真の喜びへと導かれることにもなるのです。
   宣教室長 青田 勇

ルターによせて(2) 「食後の感謝」について

 ルターの小教理問答の第二部は簡単な祈祷集となっていて、その最後に「食後の感謝」の祈りがある。食前の祈りは今でもよく唱えるが、「食後の感謝」は、現代では、フィンランド以外では殆ど見られないように思われる。
 ルターがなすべき祈りとして「食後の感謝」を記した理由は何だったのだろう。
 彼が結婚した一五二五年はドイツ農民戦争が勃発した年でもあった。この二年後ヴィッテンベルクではペストが流行し、大学がイェナに移った。娘のエリザベートが生まれたが、翌年死亡した。 戦争の傷跡と病気と食糧難が当時の状況だった。まだジャガイモなどは普及しておらず、明日の糧が保証された世界ではなかった。こういう状況でルターは「食後の感謝」を祈った。 
 主の恵みと慈しみは、雛の面倒を見ない親鳥に見捨てられた子ガラス達が主に鳴き求めれば養われるほど、深く絶えることがないと祈っている。
 彼はこの世の悲惨の底に恵みを見出し、感謝を献げた。
東日本大震災の被災者が「五日間おにぎり一日一個でしたが、感謝しています。」と言っていた。この窮乏のさなかの感謝の言葉はルターの食後の祈りと通底しているように思えてならない。

牧師の声 私の愛唱聖句

宮崎教会 木下 理

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節)
           
 洗礼を受けて間もないある夜のことです。わたしは12時ごろ目がさめました。いつもは明日の仕事のことを考えて、またすぐに眠ろうとするのですが、何故だかその夜は、無性に聖書を読みたくなりました。聖書を開きますと、わたしの耳を通して聞こえて来たというよりも、わたしのからだの内側から、小さいけれどもしっかりとした声がしました。部屋には、わたしのほか誰もいません。それは、「ガラテヤ」と言う声でした。わたしはその夜、「御心を示してください」、と祈って休みましたから、祈りに対する神の応答が「ガラテヤ」だったのだと、しばらくしてから気づきました。人間の理性では、到底理解の出来ないことが起きたのです。
 神はその時、「ガラテヤの信徒への手紙、何章、何節の御言葉をしっかり読みなさい」と、はっきり示されたのではありません。ただ一言、「ガラテヤ」と言われただけでした。ですから、その時から今日に至るまで、わたしはガラテヤ書と、ガラテヤの信徒へ手紙を書き送ったパウロに、関心を持ち続けざるを得なくなりました。神学校1年生のときです。どんな牧師になりたいですかと質問されたとき、パウロのような牧師になりたいと答えました。ルーテル神学校の卒業論文は、ガラテヤ書を中心に、「パウロによるイエスの死の救済的意義」をテーマに執筆しました。ある信徒の方から、「先生、わたしの新しい聖書に御言葉を書いてください」と依頼されたとき、ガラテヤの信徒への手紙を読み返して書いたのが、2章20節に記されている「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」という御言葉でした。
 牧師となって四年目の今でも、礼拝の前はかなり緊張します。しかし、この聖句を唱えますと、緊張の中にも平安が生まれてきます。洗礼を受けて間もない夜、わたしに「ガラテヤ」と言われたお方が、わたしの内に生き続けておられるから、取るに足りないわたしも説教壇にあがることができるのです。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」これがわたしの愛唱聖句です。

信徒の声「神さまの豊かな恵み」~ルーテルこどもキャンプ~

三鷹教会 河田晶子

 1999年、女性会連盟の信仰継承プログラムとして始められた国際少年少女キャンプは、2004年の第5回より、TNG子ども部門が引き継ぎ、JELAの支援のもと、ルーテルこどもキャンプとして今日にいたります。今年で第13回を迎えるルーテルこどもキャンプは、5、6年を対象に「平和」&「国」の2年1サイクルの学びを通して、生きることの意味、いのちの大切さをテーマに毎年続けられています。
 私自身を振り返ると、小学校5年生の時に関西のCSキャンプでキャンプデビューして以来、さまざまなキャンプを経験してきました。そんな中で、多くの仲間と出会い、神さまと出会い、洗礼へと導かれたのです。キャンプには、本当に不思議な力が働きます。普段、おとなしい?!私もキャンプとなれば、パワー全開フル回転で、全身に血が流れるのを感じます。まさに、生きる喜びに満たされるのです。
 特に、ルーテルこどもキャンプは、子どもたちからたくさんの感動をもらいます。私にとっても神さまの豊かな恵みを肌で感じるときでもあります。たった3日間の間に、子どもたちの顔がキラキラと輝いていくのがはっきりとわかるのです。このキャンプのために、スタッフ達は、約1年かけてプログラムを煮詰めていきます。時には、1からやり直しになったり、伝えたいことがあり過ぎて悩んだりもします。でも、1番の願いは、子どもたちに「み~んな、神さまから愛されているかけがえのない子どもなんだ」と気づいてもらうことです。また、小学5、6年の多感な時期に、キャンプを通してたくさんの友だちと出会い、ティーンズキャンプへつなげ、さらに神さまとつながっていくことを願っています。ここ数年、何度か、こどもキャンプの卒業生が受洗したという朗報を聞き、神さまが、ちゃんと育ててくださっているのだと、とても嬉しく思います。
 今年は、震災の影響で、会場を東京から愛知県の挙母教会&幼稚園に変更し、カンボジアの国をテーマに行います。ぜひ、教会の子どもたちを送り出してくださいますようよろしくお願いします。

フィンランド教育事情

将来と希望

 今年のフィンランドの学校の修了式は6月4日です。みんな夏休みを楽しみにしていますが、その日は特に学校の勉強を無事に終えた高校3年生にとって大きなお祝いです。生徒たちは卒業試験に合格したという印として白い帽子を被って、将来の夢に胸をふくまらせています(写真)。
 日本の教育社会と同様に、フィンランドでも子どもたちは長い間勉強します。私たちの息子は6歳の時に、もうそのことが分かりました。サッカ–が大好きな彼は、学校が始まったばかりのある日、家に帰ると「ママ、僕は12年間も学校の机の前に座れやしないよ」と将来を心配して言いました。
 フィンランドの義務教育は日本のように9年間続きます。けれども、それは子供が7歳になる年に日本より一年遅れて始まります。基礎教育と呼ばれる義務教育は高校もしくは職業専門学校に続く中等教育に連なっています。高等教育には、大学と科学技術専門学校とがあります。大学では、3年間で学士の資格、更に2年間で修士の資格がとれます。また、その後、博士課程に進学することもできます。
 親たちが子供にいい教育を受けさせたいと思うのは当然のことでしょう。けれでも、人生は思った通りにはいかないものです。道半ばでいろんな理由で希望を失う大人も若者も少なくありせん。教育は大切なことですが、確かな将来への道は別です。それは、私たちの喜びと悲しみを知ってくださる神様なのです。
 「わたしはあなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレミヤ29・11)。祈りの中に、子供たちの将来を全能の神様にお委ねしましょう。
 Paivi Poukka
  ポウッカ・パイヴィ
     スオミ教会

日本福音ルーテル教会の社会福祉施設の紹介 その14

福祉法人レインボーハウス福祉会障害福祉サービス事業所 レインボーハウス

施設長 鶴 順子

 今から24年前、自分たちの暮らす街の中に安心して障がい者の人たちが集える場所が欲しいとの願いのもと、レインボーハウス設立準備会が発足しました。九州教区や佐賀教会のご好意により、教会の敷地内にプレハブを建てさせていただき、お菓子作りの作業を始めることになりました。
 左の写真のとおり、戦後のバラックのような建物で、こんな所でよく保健所が菓子製造許可を出してくれたものだと、今、この写真を見ながらしみじみ思っています。
 当時、佐賀教会でご奉仕くださっていた三浦芳夫牧師先生ご夫妻、宣教師のジェームズ・サック先生ご夫妻、信徒の方々、特に灯火会(聴覚障がい者の会)が、いつも祈り、助けてくださいました。バザーやお祭り等、人の集まる場所があると聞くとクッキーを持って行っては販売し、また、自分たちの趣旨をアピールして回りました。
 レインボーハウスの働きが少しづつ広がり始めた1992年、日本福音ルーテル教会の宣教百年記念事業の一環として佐賀教会が改築されることになりました。濱田道明牧師先生ご夫妻や教会員、役員会の方々のご好意により、教会の第二集会室を作業所として拝借できることになりました。
 2004年4月からは、社会福祉法人としての法人格を取得し、濱田先生が理事長になってくださり、今日までご指導いただいております。月に二回の職員の聖書の学び、月に一回は利用者共々、「讃美歌とおはなし会」等をしています。
 最初は2~3人の小さな働きから始まった活動ですが、現在は総勢55名を数えます。佐賀教会はもちろん、各地のルーテル教会や信徒の方々にいろいろな形でご支援をいただき、感謝いたしております。
 神様は、時にかなって必要なものを与えてくださいました。
 恵みも試練もすべて神様の愛の内にあることを思います。
 あの屋根に畳の乗った小屋から始まったレインボーハウスも、これからどんどん変わっていくことでしょう。しかし、どんなことがあっても、変わらない神様の愛の中で、みこころを尋ねて成長していきたいと切に願っています。

震災ボランティアに参加して

二日市・福岡西教会 野口勝彦

 2011年3月11日から2ヶ月が経過した5月11日。
 被災地では、地震発生の14時46分18秒に地震によって召天された方を覚えて一斉に黙祷がささげられました。
 私はちょうどその時間に、石巻の民家で津波による泥かきのボランティア作業に従事していました。
 その中で私が忘れられないのは、その民家のご主人のお話です。津波が襲った状況を延々と話をされるその姿に、その痛みの深さを感じました。
 また、どのお宅でも、被災されながらもボランティアの私たちに、写真のような軽食を用意し、感謝の気持ちを表されるその心も忘れることができません。
  地震発生から2ヶ月以上が経過しても、まだ、泥だけらの異臭がする自宅で生活せざる得ない方々が被災地では少なくありません。
 また、沿岸部は写真の通り、壊滅状態が延々と続いています。
 私は、これからも息の長い支援とお祈りを続けることができればと考えています。

園長日記 毎日あくしゅ

園長室より

 私がキリスト教保育の世界に身を置くようになって、はや5年目。子どもたちと共に、私自身も園長としての成長を経験しています。新しい発見もたくさんありました。 まず、幼稚園の仕事をするようになって、40年以上前の私自身の幼稚園生活を思い出しました。いえ、正確に言えば記憶が曖昧なので、両親に尋ねたり、インターネットで検索したりして、私自身の幼稚園時代を追体験しようと試みたわけです。
 私はもともとクリスチャンホームで育ったわけではなく、中学校からミッションスクールに入学したことがきっかけで、キリスト教と出会いました。ですから、私は常々「学校育ちのクリスチャン」を自認しておりました。ところが、私が通ったふたつの幼稚園(1年数ヶ月通った最初の幼稚園と、引っ越し後に数ヶ月だけ通った転園先の幼稚園)のうち、最初に通った幼稚園のホームページを見つけ、その幼稚園の標語に「かみさまとともにあゆむこども」という文字を発見して、私は自分が「学校育ち」以前に、「幼稚園育ち」のクリスチャンだったということを知ったのです。
 まさかこの歳になって、記憶の底に沈んでいた「最初のキリストとの出会い」に気づくとは。加えて、私に最初に伝道してくれた方と思しき幼稚園の先生の記憶が、曖昧によみがえってきたのです。名前は「あだちせんせい」。細面で小柄な先生だったと記憶しています。
 そして、ここからはもしかしたら後になってねつ造された記憶かもしれないのですが、ある場面で(それはたぶん引っ越しをする直前だったと思うのですが)、母と私を前にして「あだちせんせい」が「やすのりくんは、かみさまをしんじるこどもになってね」と言われたことを、おぼろげながら思い出したのです。
 幼稚園時代の記憶は曖昧なものです。しかし、その幼稚園での生活が、私のパーソナリティーの形成に大きな役割を果たしたであろうことは、否定できません。キリスト教保育の果たす役割は、一般に考えられているより、はるかに大きいと思います。
(雪ヶ谷ルーテル幼稚園) 田島靖則

現地入りして1ヶ月がたちました

ルーテルとなりびとにつながってくださる皆様へ

現地スタッフの遠藤です。
今まで活動のご報告が出来ず、申し訳ありませんでした。
宮城県に入ってから5月13日でちょうど一ヶ月となりました。
ルーテルとなりびとのボランティアさんや牧師先生方と共に無我夢中で走りぬけた1ヶ月でした。

最初の約3週間は県の災害ボランティアセンター(以下、ボラセン)に派遣され、各地のボラセンの運営のお手伝いをさせていただいておりました。
ボラセンは、全国・世界中から集うボランティアをコーディネイトする重要な役割を担っています。
ボランティアコーディネーションについて実地で学びつつ、現場(石巻、東松島、亘理)に派遣され、特にボランティアバスパックという団体ボランティアグループの方々の受け入れと地域清掃のお手伝いをさせていただきました。

現在は、ボラセンでの活動を通してつながりが強まりつつある石巻に滞在し、物資が行き渡っていない地域を訪問して「生活のお困りごと」の御用聞きをしながら、長期的な支援活動に向けての調査・準備を行っております。
少しずつではありますが、避難生活をなさっている障がいをお持ちの方々も訪問させていただいております。

「救援活動」と銘打ってはありますが、実際には食事をさせていただいたり、道案内をしていただいたり、地元の方々を紹介いただいたりと、私のほうが石巻の皆さんから助けていただいている状況です。
また、日本基督教団・石巻栄光教会のご好意により教会に宿泊させていただきながら活動を続けています。

たくさんの方々のご支援とお祈りなしには乗り切ることの出来なかった1ヶ月でした。
この場を借りて御礼申し上げたいと思います。

震災から2ヶ月が経過し、緊急的な支援から、きめ細かい個人個人のニーズに合わせた
支援が必要な段階に移ってきました。ご支援いただいている皆様の気持ちを丁寧に現地にお届けする活動が展開できるよう準備を進めてまいります。

遠藤 優子
ルーテル教会救援
現地スタッフ

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