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機関紙るうてる

るうてる福音版2011年4月号

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イースターを迎えます

 イースターがやってくると、いよいよ本当の春がやってきたように思います。新しい命の季節を迎えたような気持ちです。そしてイースターといえば「卵探し」です。復活祭の楽しいイベントになっています。私のところでは、教会前大通りにイースターエッグ(ゆで卵)を300個かくしておきます。復活祭礼拝のオルガン後奏が終わるとすぐに大通りに飛びだしていき、100人で卵探しをしています。最近では地域行事になったようで、気がついたら町内の人々も参加してくださっています。イエス様の復活を地域全体でお祝いするイベントになっており、お祭りのようです。
あるとき、黙想集「実る人生」に次のような文を見つけました。  「外面の静けさと内面のあらしといった対照的な状態がよくあるものです。重要なのは、どこにいるか、ではなく、なにを考えているか、ということです」  イエス様が死からよみがえられた復活の朝、弟子のペトロは婦人たちから知らせを聞き走って墓を見に出かけています。ペトロにとって、この知らせは内面のあらしではなかったかと思います。十字架の上で死んだイエス様が墓の中におられないのです。外面上は静かな時間が過ぎていました。イエス様は十字架の上で死なれたのです。この大きな出来事に打ちのめされていた弟子たちは失望と悲しみの中にいたのです。  ペトロは空っぽの墓をのぞいたとあります。そこには亜麻布しかありませんでした。このとき何をペトロは考えていたのでしょうか。大切なことは、この出来事を前にして何を考えたかということです。いったい何を教えられているのか。ペトロはそこでイエス様の「三日目に復活をする」という言葉を思い出したのです。イエス様のみ言葉のとおり、その出来事が確実におこったことを信じたのです。  復活は私たちに喜びをもたらします。私たちもまた同じように復活させてくださる希望を与えてくださったのです。これが、救いの完成なのです。
 
 良寛さんの詩に次のようなものがあります。  「花開くとき蝶来たり、蝶来るとき花開く」  あたりまえのことですが、あたりまえでないことってたくさんあります。花が開くときに蝶はやってくる。誰が教えたわけでもないのに。そしてまた、蝶が来るころになると花が開く。これまた誰が教えたことでもありません。この不思議さを見る目をどれくらいの人がもっているのでしょうか。この日常に感謝出来る人がどれくらいいるのでしょうか。

 東北関東大震災が起こりました。あたりまえの日常がいつ戻ってくるでしょうか。イエス様は復活していまここにおられます。その復活のイエス様が被災された方々、遺族の方々と共におられます。かならずあたりまえの日常がやってくると信じて歩みましょう。復活のイエス様は共におられます。(Y.T)

「オーバーアマガウ・キリスト受難劇」を鑑賞して

10年に一度南ドイツの小さな村オーバーアマガウ(人口5,000人)で行われる世界最大のキリスト受難劇「オーバーアマガウ・キリスト受難劇」。昨年7月、ルーテル教会のフィンランド旅行団の一行は、途中ドイツに立ち寄り、この歴史劇を鑑賞しました。1632年に近隣の街でペストの大流行のあと、この街までそれが及ばなかったことを感謝して1634年より始まりました。出演できるのはこの街の出身者か長年の住人に限られますが、10年に1度の祭りとあって、世界中から多くの観光客が押し寄せます。

昨年の7月8日金曜日、日本・フィンランド交換宣教ツアー参加者30名は、ツアーの大きな目的の一つであるオーバーアマガウ受難劇を観賞するため、南ドイツの小さな町にいました。小さな町は、10年に一度行われるこの受難劇を見るために世界中から集まってきた人々であふれていました。ディズニーランドのようなメインストリートを抜けると、5千人も入る大きな、素朴な劇場がありました。入場を待つ間にも、出演者と思われる村人や家畜などが近くを通っていきます。
 いよいよ劇の始まりです。
「万歳、万歳、ダビデの子!」「ホサナ、ホサナ、いと高き所に神の栄光が!」
イエス様のエルサレム入城場面で、舞台は出演者でいっぱいです。そのうちイエス様の神の子論争が始まります。しかし、出演者は同じような服装でドイツ語のセリフです。客席では事前に配られたドイツ語と英語のテキストを見て理解していきますが、残念なことに私にはよく分かりませんでした。
 2時間半の休憩をはさみ、6時間近い劇の中で、強く印象に残っているのは、始まりのエルサレム入城と十字架にかけられるイエス様の場面です。セリフの理解は十分できませんでしたが、いつか聖書の学びを通して、舞台の上で語られていたセリフ部分を日本語で埋め、改めてオーバーアマガウの受難劇を味わっていきたいものだと思っています。
   栄光教会会員 櫻井 隆

 南アルペンの人口5千人余りの小さな村オーバーアマガウで受難劇を鑑賞する機会に恵まれました。5年の準備をかけてノーメークで演じる生身の人の舞台はとても臨場感がありました。舞台の暗転の度に旧約聖書のお話がタブロー(活人形)でセットされます。それは圧巻でした。 村には木彫りの優れた技術があってイエスやマリアの姿を彫って売っています。その技術が生かされているそうです。10年に1度西暦の末尾が0の年に上演される受難劇のチケットは入手困難とささやかれていました。昨年は41回目でした。鑑賞できたことは幸運だったと感謝です。受難、十字架のイエス、イエスの叫び「エリ、エリ、レ
マ、サバクタニ」人間の罪の深さを改めて心に留めました。復活の場面がとても静かに思えました。その静けさがひっかかっていて立山先生にお伺いしました。日の出の前の黎明を思ってください。復活をその情況に重ねて見えないでしょうかと説いてくださいました。
 高山の夜明け前、暗く寒く静かです。東の山の端がかすかに紅をおびてくる、秒単位で濃く染まっていく黎明の数分を想い起しました。福音の恵みが湧いてくるようです。
 368年前、オーバーアマガウの村人はペストの終息を願って祈りました。今、急速に変化している自然界、世界情勢も不安定、身近でもウイルスや核の脅威と不安はいっぱいです。   主よ憐れんでください、主よ平和をお与えください、と祈ります。復活祭はもうすぐです。
 東京池袋教会会員 坂根耀子

いのち、はぐくむ(19)

「復活」

中井弘和 静岡大学名誉教授 農学博士

『イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしく私だ。・・・」』(ルカによる福音書24章26-39節)

 ウィーンでとある国際機関に勤務していた30年ほど前のことです。4月の初め、家族でスキー旅行から帰宅してみると、玄関前に美しく彩色された卵やチョコレートで一杯の花模様のバスケットが3個置かれていました。不審に思っているうちに、それらはアパートの大家さんから届けられた3人の子供たちへのイースターのお祝いだということが分かりました。山間のスキー場はなお吹雪に見舞われていましたが、山を降りると、野は草木が萌えやわらかな陽光に包まれていました。街はといえば厳冬を耐えて待ちわびた春の到来とともに迎えるイースターを祝う人々の喜びにあふれているようでした。
 イースターが当地ではクリスマス以上に熱狂的に祝福されていることに驚かされました。日本にいては、まして洗礼を受ける前の私には想像できないことでした。イエスが十字架の死から蘇り、その身体を弟子たちに現しながら、いのちは永遠であることを証した「復活」がなければキリスト教は存在しなかったといわれます。イースターが重要視されるのは当然のことでしょう。しかし、当時すでに聖書を紐解きながら、私は、圧倒的な力を持って迫ってくるこの奇跡の物語には戸惑うばかりでした。
 私が洗礼を受けたのはウィーンから帰国後しばらくしてのことです。「復活」すなわち永遠のいのちを信じる道を歩む選択をしたことになります。人の心に絶えず空洞が巣食うとしたら、それは死によって自らのいのちは途絶えるといったむしろ生物学的な死の概念に支配されることによるでしょうか。そんな空洞を満たしたい。私の選択の背景にはそのような希求があったのかもしれません。
 その後取り組み始めた稲の自然農法研究を通しても多くいのちのありようを学ぶことになります。自然農法で栽培される稲は、大冷害などの逆境にあっても、変動する環境によく適応しその生命を全うしていきます。自然に寄り添えば、いのちは本来の生きる力を取り戻す一つの例でしょう。人や動植物を含めこの自然に存在するあらゆるものは互いに繋がりあっていのちをめぐらせている。そのいのちは神の息、という聖書の示唆も今は理解できるようになりました。
 イエスの復活に遭遇したとき、絶望感で心を硬く閉ざし身を潜めていた弟子たちは、驚愕し戸惑いを隠せません。しかし、やがてその心は大きく開かれ春の光に包まれるエルサレムの地を躍動し、歓喜に震えながら、広い世界に向かってイエス復活の証しの旅に立ち上がって行きます。
 今、私たちはイースターの緑萌える空気の中に、大きな時間の流れを超えて、あの弟子たちの心の震えを感じ取ることはできないでしょうか。それは、何よりも私たち自身が、いかなる困難にも耐えて生き抜き、そして、いのちの復活を果たすことができるというゆるぎない希望を伝えているはずです。

ウクライナのイースター・エッグ
Ukrainian Easter Eggs

私はカナダ在住の折にウクライナからの移民の女性から美しいイースター・エッグを教えていただきました。ウクライナのイースター・エッグで良く知られているのはクラシャンカ(Krashanka)とピサンカ(Pysanka)です。クラシャンカは「色」を意味するクラスカ(kraska)という言葉に由来し、鮮やかな単色で染められた卵です。ピサンカは「描く」を意味するピサティ(pysaty)という言葉に由来し、卵の上にデザインが描かれ様々な色に染められます。卵は復活祭に教会で祝福してもらい、友人と交換したり子どもたちや家族、恋人に贈ったりします。                 ピサンカの色や描かれるモチーフには意味が込められます。たとえば卵の周りをぐるっと囲む線は永遠、魚はクリスチャン、葡萄は豊かな収穫を表します。ピサンカは主に女性たちの手仕事です。冬の夜子どもたちが寝静まった後、女性たちは時には歌を歌いながら祈りを込めて模様を描いてゆきます。卵を作る日は噂話や争いごとをさけ、家族にはやさしく、母親はおいしい料理を作るなど心の清浄が前提とされるようです。
ピサンカはろうけつ染めの重ね染めの要領で絵を描いてゆきます。キストカという金属の小さな漏斗がついた筆記用具を使い、ろうそくの火で溶かした蜜ロウをペン先につけて白い卵の上に絵を描いてゆきます。まず、白く出したい模様をロウで描き、次に黄色の染料に浸け卵が黄色に染まったら黄色に残したい所を描き、同様にオレンジ、赤と描き重ねてゆき最後に黒に染めます。黒く染まったタマゴをろうそくの炎の横に近づけ、ロウがとけてきたらティッシュでまめにふき取ってゆきます。真っ黒な卵からロウをふき取るたびにあざやかな色とモチーフが顔を出し、闇から光を見出すようです。ウクライナのイースター・エッグ作りは心ときめく手仕事です。
和田雪香(小鹿教会)

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