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機関紙るうてる

るうてる2016年12月号

説教「イエスがお生まれになったとき」

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イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。その時、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。        (マタイによる福音書2章1節~3節)

クリスマスページェントは、
♬ 昔ユダヤの人々は神さまからのお約束、貴い方のお生まれを嬉しく待っておりました。
 貴い方のお生まれを皆で楽しく祝おうとその日数えて待つうちに、何百年も経ちました ♬
という歌から始まることが多いと思います。

 マタイによる福音書1章では、イエス・キリストの誕生の次第を、聖霊によって宿ったこと、そして、その誕生は700年以上前から預言者イザヤによって「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ書7・14)と告げられていたと伝えています。私たちもユダヤの人々はメシアの誕生を待望していたと聞いています。けれどもマタイによる福音書が語るクリスマスの出来事は違うのです。
 イエスさまがお生まれになった時に、東方の占星術の学者が星に導かれてヘロデ王のいる宮殿に訪ねて来ました。そして、「ユダヤ人の王」として主イエスがお生まれになったと東方の学者たちから聞かされて、ヘロデ王だけではなく、エルサレムの人々も、喜びどころか不安を抱いたと語るのです。生まれたばかりの主イエスは、泣き声をあげるだけで、何を語ったわけでも、何をしたのでもないのです。それにもかかわらず、多くの人々に動揺を与えたのでした。
 
 ここにイエスさまの誕生を巡る2通りの人間のドラマを見ることができます。東方の占星術の学者たちと、ヘロデ王とエルサレムの人々です。
 マゴスと呼ばれる東方の占星術の学者たちとは、天文学が盛んなペルシアやメソポタミアあたりの学者であろうと言われています。ユダヤから見れば遠い国です。彼らはユダヤ人ではなく異邦人です。他宗教の学者たちです。キリストとは縁もゆかりもないその人たちが、「ユダヤの王」として生まれたキリストを礼拝するために、星の導くままに旅をしてきました。どれほどの長旅だったのかわかりません。
 しかし、分かっていることは、その旅は危険に満ち、困難の伴う命がけの長旅であったということです。驚き以外何ものでもありません。マタイによる福音書ではイエスさまを礼拝したのは、この異邦人の学者たちだけです。彼らがイエスさまを「ユダヤ人の王」と認めたということは、イエスさまもまた異邦人の王でもあるということを意味しています。彼らはメシア(キリスト)に最も近い存在となっていたと言えるでしょう。
 他方、エルサレムの人々は預言者の言葉を聞いていた人々でした。預言者の言葉を身近に聞いていたはず、知らされていたはずです。にもかかわらず、それらの言葉を受け入れることができませんでした。祭司長たち、律法学者たちはユダヤ教の指導者、代表者であったのです。彼らはヘロデに問われ、聖書からメシア(「ユダヤ人の王」)が生まれる場所がベツレヘムであることを即座に言い当てています。しかし、それだけです。自分たちで確かめようとはしませんでした。メシア(キリスト)に近い存在であったにもかかわらず、実際には最も遠く離れた存在だったと言えるでしょう。
 「あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。」
(エペソ人への手紙2・13/口語訳)
日本福音ルーテル高蔵寺教会牧師 中村朝美

連載コラムenchu

9【 Sacra Familia 】

 今年もいろいろありましたが、待降節の季節になりました。
 さて、待降節を迎えると、教会によっては聖家族(をモチーフにした置物)を飾ったりします。そこには、たぶん、飼い葉桶に寝かされている幼子イエスを中心に、その両側に母マリアと父ヨセフがいます。それ以外の人物(及び動物)として、並べ方の違いはあるかもしれませんが、羊飼いと羊、占星術の学者とラクダ、そして、馬(ロバ?)、牛がいます。また、馬小屋の上には天使もいることでしょう。
 しかし、少し考えてみると、聖家族の登場人物たちは、私たちの社会が考える「家族」と異なる集団であることに気づかされます。「家族」を辞書で引くと、「夫婦とその血縁関係にある者を中心として構成される集団」と説明されていました。けれども、マリアとヨセフはまだ夫婦ではありません。そしてもちろん、羊飼いたちは、マリアとヨセフの血縁関係者ではありません。また、占星術の学者たちは、マリアとヨセフにとっては、明らかに外国人です。宗教も文化も違ったことでしょう。 そして何よりも、彼ら(彼女)の真ん中にいる幼子イエスは、聖霊によって処女マリアから生まれたと聖書は記しています。そう、キリスト教会は、私たちの社会が「家族」として想定していない構成メンバーによる集団を、聖家族と呼び、大切にしているのです。
 社会制度、血縁、民族、文化、宗教の違い超えて、最も小さい者(幼子イエス)を中心に集まった聖家族、私たちを固定概念から解き放し、大切なコトを教えてくれているようです。
岩切雄太  門司教会、 八幡教会、 佐賀教会牧

議長室から

ルターは「ルーテル」のこと 総会議長 立山忠浩

 2016年10月31日。宗教改革記念日の夜、インターネット放送をご覧になった方がいらっしゃることでしょう。スウェーデンはルンドで開催されたルーテル教会とローマ・カトリック教会の「共同の祈り」の放映です。鈴木浩牧師(一致に関するルーテル=ローマ・カトリック委員会委員)、浅野直樹Sr.牧師(ルーテル世界連盟理事)も参列し、歴史的できごとに立ち会われました。またこの日に宣言された「共同声明」の翻訳の労を徳善義和牧師がいち早く進んでとってくださいました。今号に間に合うことができ、感謝すべきことでした。
 『義認の教理に関する共同宣言』や『争いから交わりへ』という共同文書に代表される世界レベルでの両教会による共同の取り組みがあって、今回の「共同の祈り」へとたどり着くことができたのです。携わってきた奉仕者たちの長年の労を覚えずにはおられません。  この対話の流れを汲んで、日本でも来年の11月23日には長崎の浦上天主堂(カトリック浦上教会)で、日本福音ルーテル教会と日本カトリック司教協議会による合同礼拝とシンポジウムが開催されることになっています。記念すべき会に皆さんが参加くださり、歴史的証人になっていただければ幸いです。
 この「共同の祈り」が日本のある新聞の記事になりました。教皇フランシスコの名前はあっても、ルーテル世界連盟のユナン議長の名がないことにやや不満が残りましたが、全国版の新聞社が取り上げてくれたことは感謝であり 、「宗教改革500年」への追い風が教会の外でも吹き始めていることを感じました。
 その記事で「ルーテル派」という呼称に目が留まりました。私たちは通常「ルーテル教会」と自らを名乗りながらも、教派を名乗る場合には「ルーテル派」とは言わず、「ルター派」と呼んでいるからです。そして「私たちルーテル教会のルーテルとは、宗教改革者ルターのことですよ」と、「ルーテル」の名を説明しようとしているはずです。しかし一般紙が「ルーテル」という名称を認知していることは新鮮でした。ここから、「宗教改革者ルターは、私たちルーテル教会のルーテルのことですよ」と語り始めるべき時が来ているように感じたのです。
 いよいよ来年は宗教改革500年の年。「ルーテル」の名をさらに日本中で認知していただくこの上ない機会です。教会に招くための第一歩。その働きに私たちが用いられるものでありたいのです。

プロジェクト3.11  気仙沼・前浜マリンセンターより

気仙沼市本吉町前浜地域 畠山友美子(KEPPAPPE)

 2011年3月11日のあのときから6年が経とうとしています。
 ルーテル教会のみなさまには多大なるご支援を頂き、現在でも応援頂いていること、とても心強いです。ありがとうございます。
 最近は、災害が日本のいたるところで発生し、発生直後は災害の様子が多く報道されますが、徐々に様子が見えなくなるというのが現状です。前浜地域の現在について、ほんの一部ですが、伝えさせて頂きたいと思います。
 まず、私の住んでいる前浜地域の仮設住宅についてです。当初50軒の入居がありましたが、現在は10軒をきり、防災集団移転での自宅再建や災害公営住宅などへの引っ越しが、やっと本格化してきています。一方で、まだ新居がみつからない方もいらっしゃり、「仮設住宅に住めただけでもいいほうだと思いつつ、今が一番辛いとも思う」とおっしゃる方もいました。引っ越し先では、再度コミュニティのつくりなおし。日々の積み重ねでつくられるコミュニティは、そう簡単につくることはできません。

 ご支援いただき再建された、前浜地域の自治会館「東日本大震災復興記念前浜マリンセンター」は、相変わらず、前浜地域の役員会やイベントなど、順調に住民の方々に利用されています。
 前浜地域の住民に限らず、気仙沼で子育てサークルを行っている若いお母さんや子どもたち、障がいのあるお子さんがいらっしゃる保護者の方々の交流会、ピアノ教室など、2~3日に1回のペースでセンターが利用されています。建物の中は仕切りがあるので、2つの団体が同時に利用したり、1日に3回以上利用されることもあります。利用は予約制ですが、1ヶ月前の予約でも取れないことがあります。また、被災した両隣の地域の自治会館も、今年落成式を終えました。
 震災から思うと、確実に復興に近づいていることを実感します。震災の影響はまだ続いていますが、気仙沼はみんな一生懸命がんばっています。元気な気仙沼を見に、ぜひ気仙沼にいらしてくださいね。

 

NCC主催・宣教会議2018に向けた取り組み

佐藤和宏(NCC主催・宣教会議2018プレ集会準備委員)

 NCC(日本キリスト教協議会)は、1948年に設立されたプロテスタント諸教派が属する組織で、私たちの教会もその一員です。私たちの教会からも、諸委員会に多くの委員を派遣し、協力しています。
 NCCでは、2018年に設立70年を迎えるにあたって、「宣教会議」を主催することとなり、現在、それに向けてプレ集会を計画しています。

 9月24日、第1回のプレ集会が早稲田にある日本キリスト教会館にて開催されました。テーマは「〈宣教=ケリュグマ〉×〈青年〉―み言葉に聴き、伝えること」でした。各教派と諸団体による、テーマに即した取り組みの報告とパネルディスカッションを中心に、プログラムは進められました。
 日本福音ルーテル教会からは、本郷教会の取り組みの報告が安井牧師によってなされました。孤立しがちな子育て世代に目を向けたプログラムの展開や地域にある教会としての様々な試みはたいへん興味深い内容でした。特にフェスタは、地域の商店等を巻き込んで展開されていることで、地域とのつながりが強くなっていることがわかりました。

 今後、2018年の宣教会議までに、プレ集会が第2回「〈奉仕=ディアコニア〉×〈いのち〉」(2017年2月4日)、第3回「〈証し=マルトゥリア〉=〈世代間協働〉」(2017年9月9日)、第4回〈「祈り・礼拝=レイトゥルギア〉×〈多様性〉」(2018年2月3日)が予定されています。これら4回のプレ集会を経て、宣教会議は「〈交わり=コイノニア〉×〈包括的な宣教〉―主にある交わり、共同体となること」というテーマで、2018年4月以降に開催される予定です。

 また今回注目したいのは、加盟教派だけではなく、カトリック教会や日本福音同盟からも青年担当者が参加し、発題があったということです。教派間の違いを越えて課題を共有し、キリスト教界全体で祈りを合わせる機会になることを願っています。

「熊本地震」支援募金(第2期)へのご協力お願い

 皆さんからの厚いご支援に感謝致します。熊本県内の教会の建物損傷への補修を進めていますが、さらなる支援を必要としています。また教会に加えて、ブラウンチャペル(九州学院)並びに阿蘇山荘(九州ルーテル学院大学)の復旧を合わせ「被災建物設備の建築支援」として募金の呼びかけを致します。
■募金期間 
 2017年4月30日まで
■送金先 
 郵便振替00190-7-71734  宗教法人日本福音ルーテル 教会
※ 「熊本地震」と明記ください。

宗教改革500年に向けて、ルターの意義を改めて考える

ルター研究所所長 鈴木浩 

 前号でも書いたように、「義認」という言葉は、ルターにとっては、救いの出来事全体を指す言葉であった。
 しかし、救いの出来事は救われた人に、何らかの変化をもたらすはずだ、と誰しも考える。聖書では、「生まれ変わり」、「刷新」、「新しい命」など、その変化を表す言葉が使われている。パウロも、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6・4)と語っている。
 「義と認められた」とは、「救われた」という意味である。だから、そこには大きな変化が起きている。ルターは使わなかったが、その後、その変化を「義認と聖化」と呼ぶ傾向が出て来た。「聖化」とは「聖なる存在になる」という意味である。
 ルターの場合には、「義認」という言葉の中にその変化を表す「聖化」という言葉の意味も含まれていたが、「義認と聖化」という具合に横並びになると、「義認」という出来事と「聖化」という出来事とが区別されて考えられるようになる。
 そうするとどうなるか。「義認」は、「聖化」という出来事の入り口になる。やがて、それは「入り口でしかない」と思われていく。アウグスティヌスと激しい論争をしたペラギウスはそう考えた。
 つまり、「義認」は「無試験での入学許可」であり、「聖化」は一生懸命学んで「卒業する」ということになる。大事なのは、こちらの方になる。
 「義人にして同時に罪人」というルターの言葉を考えてみよう。律法に照らせば、自分はどう見ても罪人でしかない。しかし、神はそのような罪人を義人と見なし、汚れたこの身を「聖なる存在」であると見なしてくださる、というのだ。

全国ディアコニア・セミナーに参加して

松岡俊一郎(大岡山教会)

 10月9日~10日、「第24回全国ディアコニア・セミナー」が熊本市の健軍教会で開かれた。テーマは「和解~キリストにおける愛と平和を学ぶ」。
 小副川幸孝牧師による「響きあう者たちー和解から和解へ」の講演、石原明子さん(熊本大学教員/本郷教会)による講演「和解と正義による再生と希望ー水俣と福島が出合い、熊本へつながる希望」と、水俣でのスタディ・ツアーと語り部・杉本肇さんの証言を聞いた。水俣病と言えば「闘争」と「環境問題」しか思い浮かばなかったが、むしろ「ゆるし」について深く思索を求める旅となった。
 水俣病は発生から60年が経ち社会の関心は薄くなっているが、水俣病患者とそのご家族の苦痛と苦悩、差別は依然として続いており、認定と損害賠償の有無、保障額の違い、それによるコミュニティーの分断が存在する。
 しかし、水俣病が極めて宗教的な問いを我々に投げかけていることを知った。それは「ゆるし」の問題である。私たちの今の社会はバッシングと責任追及が盛んな「ゆるし」のない社会である。今回、語り部・杉本さんから、患者であったお母様杉本栄子さんが何十年という水俣病の苦痛と苦悩の中で、「国を許す。県も許す。チッソも許す。」と言われたこと、また同じように水俣病で家族を亡くしご自身も患者であった緒方正人さんが、苦しみからの変容体験を経て、「わたしがチッソだった。この世で最も許されなければならないのはチッソである」と言われ、闘いから祈りの生活に変わられたことを聞いた。そこに「キリストの受難とゆるし」が重なると言われていることも教えられた。
 私自身はまだそれは未消化で本当の意味で理解はできていないが、頭から離れない。苦しみの体験は、恨みや憎しみ、攻撃に変わる。それは復讐の連鎖を生み出す。しかしお二人の言葉は、その苦しみの極みからその連鎖を止める願いに変わり、願いが祈りとなって赦しへと変えられたと受け止める。大きな問いを与えられた有意義なセミナーであった。

100歳を迎えた札幌教会

栗原朋友子(札幌教会百周年委員会事務局長)

 2016年10月10日、札幌教会宣教100年を記念して聖餐礼拝が札幌礼拝堂において行われました。収容能力150人の礼拝堂に出席者が200人を超える盛会でした。
 総合司式は岡田牧師、説教は日笠山牧師、配餐補助は加納牧師、小山牧師と、まさに北海道内の宣教力を結集しての記念礼拝でした。200人を超える出席者全員が整然と順序をなして聖餐あるいは祝福を受けました。
 礼拝で歌われた『教会讃美歌』の213番は北海道で生まれ、291番、337番、「喜びはむねに」(『ともに歌おう』)は、フィンランドで生まれた賛美歌です。「喜びはむねに」は『教会讃美歌』にはありませんが、シベリウスの作曲、歌詞は江口武憲牧師と牛丸省吾郎牧師の共訳によるもので、特に百年記念礼拝のために選ばれ、数か月前から毎週礼拝において歌われてきた美しい賛美歌です。札幌教会形成の基盤を築いたフィンランドのルーテル教会への感謝を込めて歌われました。
 礼拝出席者には記念品として『宣教100年記念誌』と増田友子さん作画の3礼拝堂の絵はがきを渡しました。記念誌は全国のルーテル教会に郵送されますから、札幌教会の100年の歴史についてはそれによってご理解ください。
 記念礼拝に続いて祝賀会が隣接のめばえ幼稚園を会場として昼食を共にして行われました。歴代牧師の武村協、賀来周一、浅見正一、内海望、星野徳治、宮澤真理子、ビリピ・ソベリの諸牧師、総会議長の立山忠浩牧師、それに久米芳也牧師のご伴侶がご参加くださいました。諸先生からはそれぞれ温かい有意義な挨拶のお言葉を頂戴いたしました。
 札幌教会100年は過去を懐かしむ記念碑ではなくて札幌・札幌北・新札幌の3礼拝堂が一致団結して宣教2世紀へ向かう最初の道標です。大輪眞理子さん作成の次世代へのバトンタッチを表すロゴマークはそのことを意味しています。

ルーテル世界連盟ーローマ・カトリック教会
宗教改革共同記念「共同声明」

 キリスト教会の2000年の歴史において、重要な到達点、そして出発点とも言うべき礼拝が、宗教改革499年となる10月31日、ルーテル世界連盟(LWF)とカトリック教会により、スウェーデンのルンド大聖堂で行われました。礼拝では、世界の様々な地域からのそれぞれの服をまとう、世代もまちまちの人々による聖歌隊が賛美し、両教会の代表者が共に祈りを合わせました。LWFのユンゲ事務局長と教皇フランシスコが「まことのぶどうの木」(ヨハネ15・1~5)からそれぞれ説教を語り、日本福音ルーテル教会から鈴木浩牧師(一致に関するルーテル=ローマ・カトリック委員会委員)と浅野直樹Sr.牧師(ルーテル世界連盟理事)も出席しました。
 礼拝の中で、LWFのユナン議長と教皇フランシスコとが署名した「共同声明」を紹介します。
………………………………

共同声明

2016年10月31日、ルンドにおいてカトリックとルーテルが宗教改革を共同で覚えるに当たって

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」(ヨハネによる福音書15章4節)

感謝の心をもって

 この共同声明をもってわたしたちは、宗教改革500年を覚える年の始まりに当たり、ルンドの大聖堂において共同の祈りを捧げるこの機会のゆえに神に喜びをもって感謝していることを表明いたします。
 カトリックの人々とルーテルの人々との間にもたれた、実り多いエキュメニカルな対話の50年がわたしたちにとって多くの違いを乗り越える助けとなり、わたしたちの相互理解と信頼を深めてきました。同時にわたしたちは、しばしば苦難や迫害の中で苦しんでいる隣人に対する共同の奉仕をとおして互いにより近しい者となりました。対話と分かち合った証しとをとおしてわたしたちはもはや他人同士ではなくなりました。 むしろわたしたちは、わたしたちを結び付けるものがわたしたちを分かつものよりも大きいことを学んできました。
 

争いから交わりへと変わっていく

 宗教改革によって受けた霊的、また神学的な賜物に深く感謝しながら、わたしたちはまた、ルーテル教会もカトリック教会も教会の目に見える一致を傷つけてきたことをキリストのみ前でざんげし、悲しみます。 神学的違いには偏見と争いとが伴いましたし、宗教は政治的な結果に至る手段となりました。イエス・キリストを信じるわたしたちの共通の信仰とわたしたちの洗礼はわたしたちに日毎の悔い改めを求めています。 それによってわたしたちは、和解の務めを妨げる歴史的な争いと不一致とを捨て去ることができるのです。過去は変えることができないのですが、何が記憶されるのか、それがどのように記憶されるのかは変えられうることです。わたしたちお互いの見方を曇らせてきた傷と記憶の癒しをわたしたちは祈ります。
 わたしたちは過去と現在のすべての憎しみと暴力、特に宗教の名によって言い表されてきたそれらを強く斥けます。今日わたしたちはすべての争いを捨てるようにとの神のご命令を聴いています。わたしたちは、神が絶えずわたしたちを召しておられる交わりへと向かうように、恵みによって自由にされていることを確認しています。

共に証しすることに向けてのわたしたちの参与

 わたしたちの重荷となっている、歴史上のこれらのできごとを乗り越えて進むとき、わたしたちは十字架にかかり、挙げられたキリストにおいて見えるものとされている神のいつくしみ深い恵みに応えて、相共に証しすることを堅く誓います。
 わたしたちが堅く関わりをもつあり方こそが福音へのわたしたちの証しを形作ることを意識して、完全な一致を得ることからわたしたちを妨げている、まだ残っている妨げを取り除くことを求めて、わたしたちは洗礼に根拠づけられている交わりにおける更なる成長に深く関わります。キリストは、わたしたちがひとつとなって、この世が信じるようになることをお望みです(ヨハネによる福音書17章23節参照)。
 わたしたちの共同体の多くの会員たちは、十全な一致の具体的な現れとして、ひとつの聖卓で聖餐を受けることを心から願っています。全生活を共にしながら、聖餐の聖卓において神の救いの現臨を分かち合うことができない人々の痛みを経験しています。
 わたしたちはキリストにあってひとつとなるという人々の霊的な渇きと飢えとに応えるべき、わたしたちの牧会的な共同の責任を認識しています。わたしたちはキリストのからだにおけるこの傷が癒されることを切に願っています。これは神学的な対話へのわたしたちの関わりを新たにしていくことによってもまた、わたしたちのエキュメカルな努力の目指すところなのです。
 わたしたちは神に祈ります。カトリックの者たちとルーテルの者たちがイエス・キリストの福音を共に証しし、神の救いの働きを受け入れるべく人々を招くようになることを。
 わたしたちは共に奉仕の務めに立って、特に貧しい人々のために、人間の尊厳と権利とを高め、正義のために働き、あらゆる形の暴力を斥けることにおいて共に奉仕に当たることができるよう、霊の導きと勇気と力とを神に祈ります。
 尊厳、正義、平和、和解を切に求めているすべての人々にわたしたちが近づくようにと、神は呼び掛けておられます。今は特に、多くの国々や社会で、またキリストにある数え切れないほどの姉妹や兄弟たちに影響を及ぼしている暴力や過激主義を終わらせるよう、わたしたちは声を挙げねばなりません。
 わたしたちはルーテルやカトリックの人々に、知らない人々を受け入れ、戦いや迫害のゆえに逃れることを強いられた人々に助けの手を差し伸べ、難民や亡命を求める人々の権利を守るよう、共に働くことを強く求めます。
 以前に増して一層わたしたちは、この世界におけるわたしたちの共同の奉仕が開発や飽くことを知らない欲望にさらされている神の創造へと拡張されねばならないことを認識しています。 わたしたちは将来の世代が神の世界をその可能性と美しさのすべてにおいて享受する権利を認めます。わたしたちは、この被造の世界のために愛と責任をもってこれを導くよう、心と思いが変わっていくように祈ります。

キリストにあってひとつ

 この絶好の機会にわたしたちは、ここに同席し、わたしたちと祈りを共にしている、世界のキリスト教諸教会や交わりを代表しているわたしたちの兄弟姉妹にわたしたちの感謝を申し上げます。
 争いから交わりへ進もうと取り組むに当たってわたしたちは、洗礼によってそこに加えられている、キリストのひとつのからだの一部分としてそうしているのです。
 わたしたちはわたしたちの努力を思い起こさせ、また、わたしたちを励ましてくださるよう、エキュメニカルな同志にお願いします。 わたしたちはこの同志に、わたしたちのために祈り、共に歩み、今日表明している、祈りを込めた努力を生き抜くに当たってわたしたちを支え続けてくださるよう求めます。

世界中のカトリックとルーテルの人々への呼び掛け

 わたしたちはすべてのルーテルとカトリックの教会員と教会に、わたしたちの前にある大きな旅を続けることに加わって、大胆であり、創造的であり、喜びをもち、希望をもつよう呼び掛けます。
 過去の争いよりもむしろ、わたしたちの間における一致という神の賜物が協働を導き、わたしたちの連帯を強めてくださるでしょう。キリストを信じる信仰において近付けられ、互いに耳を傾け合い、わたしたちの関係においてキリストの愛を生きることによって、わたしたち、カトリックとルーテルの者たちは、三位一体の神の力に心を開きましょう。
 キリストに根ざし、キリストを証しして、すべての人に対する神の限りない愛の信実の使者となるという定めをわたしたちは新たにするのです。

(ローマ・カトリック教会) 教皇 フランシスコ
(ルーテル世界連盟)   議長 ムニブ・ユナン

(訳・日本福音ルーテル教会エキュメニズム委員会)

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