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機関紙るうてる

るうてる2016年5月号

説教「『いのち』を与える聖霊」

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「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』 ニコデモは言った。『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。』 イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。』」(ヨハネによる福音書3・3~6)

 聖霊降臨の期節です。今日は、私たちの救いのために必要不可欠な聖霊のお働きについて、ご一緒に見て参りましょう。 イエス様は言われました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」
 ここでの「霊」は「聖霊」のことを意味しています。ですからイエス様の言葉によれば、《私たちは、聖霊によって新しく生まれるのでなければ、神の国に入ることができない》、ということです。
 今、「霊から生まれたものは霊である」という言葉に注目してみましょう。聖霊は三位一体における第三位格の神であられます。ですからこの言葉は、「神から生まれたものは神である」とも言い換えることができます。人間から生まれたものは人間です。しかし、神から生まれたものは神です。それでは、もしも私たちが、聖霊なる神によって新しく生まれるならば、その時私たちは、人間なのか?神なのか? その答えは、聖書に求めることができます。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1・12~13)
 つまり、私たちが聖霊によって新しく生まれること、そのことは、《神の子となる資格を与えられること》を意味しているのです。私たちは普段、当たり前のように「父なる神様」とお呼びします。しかし、実はそれは、自分自身を「神の子」とするに他ならない行為であって、もしも時代が時代なら、死罪に当たる冒とくの罪です。イエス様ご自身、「神の子と自称した」(ヨハネ19・7)という罪で訴えられている通りです。しかし私たちは、聖霊によって新しく生まれているがゆえに、「アッバ、父よ」と呼びかけることができるのです。 パウロもまた、次のように証ししています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」(ローマ8・15~16)
 聖霊を受けるということは、また、水を飲むことにも似ています。聖書に次のように書いてある通りです。(ヨハネ7・37~39)「『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている�T霊�Uについて言われたのである。」
また、イエス様が与える水(聖霊)を飲むなら、そこから永遠の命が生まれて来ます。次のようにイエス様が言われている通りです。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4・14)
 こうして私たちは、聖霊によって新しく生まれることにより、私たちの内に新しい《いのち》を宿すことになるのです。それをこそ、《永遠の命》と言うのです。このことは、私たちがいつも信仰告白しているニケア信条でも言われています。「主であって、いのちを与える聖霊をわたしは信じます。」その通りです。聖霊によって私たちは、《いのち》が与えられるのです。この《いのち》は、神によって生まれさせられた《いのち》であって、この《いのち》があるからこそ、私たちは神の子と認められ、神の国に入ることができるのです。
 どうか主が、この聖霊降臨の期節に、聖霊についての知識を少しでも私たちの内で増し加え、信仰を強め、豊かにしてくださいますように。
日本福音ルーテル知多教会牧師 花城裕一朗

連載コラムENCHU

2『sympathy』

 

「臨床哲学」を提唱する鷲田清一さんは、『「聴く」ことの力』という著書の中で、次のようなことを言われています。臨床哲学とは、「臨床」という、人々の「苦しみの場所」とでもいうべき場所において、わたしが、名前をもった特定のだれかとして、別のだれかある特定の人物にかかわってゆくなかで、問題としての「苦しみ」を解体するのではなく、問題をともに抱え込み、分節し、理解し、考えるといういとなみをつうじてそれを内側から超えてゆくこと、あるいは超えでてゆく力を呼び込むことである、と。鷲田さんの言葉を聴いて、私ははっとさせられました。自分はどこに立って「神学」なるものと向き合っているだろうか、と考えさせられたからです。
 また、ジャン・バニエは『コミュニティー』という著書の中で、「コミュニティーを愛する者は、コミュニティーを壊す。兄弟を愛する者は、コミュニティーを創る。」というボンヘッファーの言葉を紹介しています。私たちが、神学をアイデンティファイの方法としてだけ用いるとき、きっと、大切なナニカが損なわれてしまうのでしょう。
 主イエスは、たとえ話の中で、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ福音書25・40)と言われました。宣教について考えるとき、礼拝について考えるとき、私たちは、まず、傷つきうめき声を上げている生身の人間の前に立つことから始めたい、と思います。
岩切雄太( 日本福音ルーテル門司教会、八幡教会、佐賀教会牧師)

議長室から

「宣教へジャンプした後に」総会議長 立山忠浩

春になりました。英語でspring。これには「飛び跳ねる」という意味があるようですが、動植物が春を待ちわびて跳び出して来る姿を連想します。
 教会はいま復活節を過ごしていますが、主イエスが大きな岩で塞がれていた墓から跳び出して来て、新しい生命を回復してくださったことにもつながるように感じられます。私たちの教会も同様に、隣人に対し、社会に向かって復活の喜びを伝えるべく、宣教へと跳び出して行く季節でありたいと思います。
 『ジャンプ・ブック』という写真集があります。ずいぶん古いものとなりましたが、ラトビア生まれで、米国で活躍したフィリペ・ハルスマンというカメラマンの作品です。政治家から芸能人まで 、様々な分野の著名人のジャンプした姿を収めたのです。
 人はカメラを前にすると、どうしても綺麗に写ろうとしてポーズをとり、自分を飾ってしまいます。著名人であればなお更でしょう。だからジャンプしてもらうのだそうです。ジャンプすることの方に集中しようとしますから、その瞬間には、飾らない本当の姿が表れるというのです。写真そのものから、著名人たちの虚飾のない本当の姿が見られるかどうかは、眼力のない私には分かりませんが、しかし面白い発想だと思いました。
 私たちキリスト者が宣教のために集中してジャンプしようとするときに、虚飾のない本当の姿として表れるものとは何であろうかと考えるのです。きっとそれはイエス・キリストなのです。使徒パウロの言葉から学ぶならば、それは「私たちの内に生きておられるキリスト」(ガラテヤ2・20)なのです。いや、宣教へのジャンプでは、何よりも自分を生かしてくださっているキリストの存在が見えなければならないのです。
 普通ジャンプという言葉からイメージすることは、どれだけ高く、遠くへ跳んだかということでしょう。これもパウロの手紙に「賞を得るように走りなさい」(コリント一9・24)とありますので、宣教も高さという成果を目指して跳ぶことが大切なことです。でももっと大切なことを忘れてはいけない。
 草花が香りを漂わせています。これに譬えるならば、自分なりに精一杯宣教へとジャンプした後に、キリストの香りが漂う者でありたいのです。

プロジェクト3.11 3・11を憶える礼拝

小泉 嗣(前東教区社会部長)

 2011年3月11日より5年目を迎える2016年3月11日の14時より、東教区「プロジェクト3・11」主催による「3・11を憶える礼拝」が持たれました。そう、あれから5年が経ったということです。「節目」と言われれば「節目の5年」ですが、私たちは5年前を振り返るのではなく5年経った「今」を見つめようと礼拝の準備をはじめました。
 震災後すぐに立ち上がったルーテル教会救援(JLER)も一昨年活動を終了しました。30代だった私は40代になりました。中学生は大学生に、高校生は社会人になっています。しかし日本ルーテル教団(NRK)は現在も支援活動を続けており、聖望学園は今年も高校生がボランティア活動に向かいます。日本福音ルーテル教会も東教区が窓口となり被災地支援を続けています。
 教会単位でもそれぞれの方法で活動を続けています。団体だけでなく個人で震災を憶え、ボランティアをしたり、物品を取り寄せたり、祈ったり、様々な形で、様々な5年を過ごした「今」があります。何より、痛みを負い、悲しみを負い、東北で、新しい土地で、生活を続けるそんな一人一人の「今」があります。
 そんな「今」を思い礼拝をおこないました。元JLER派遣牧師であり、今も東北大学で臨床宗教師の講座で語る伊藤文雄牧師が説教を行い、NRK東日本大震災支援対策責任者の安藤正泰牧師がオルガン奏楽を担当し、今年も被災地でボランティアをした聖望学園の学生が聖書を朗読しました。
 そして、14時40分頃から50分頃までのおよそ10分間、それぞれの「今」を持ち寄り、さまざまな「今」を思い、祈るためにリラ・プレカリアの2人の奉仕者にハープを奏でていただきました。76名の「今」が集められました。ちょっと前の「今」のワカメが販売されました。多くの方々の祈りが集められた「今」となりました。
 そして「今」はこれからも続きます。

教会×公共

1 研究現場の今

宮本 新(日本福音ルーテル田 園調布教会牧師、日本ルーテル神学校講師)

 「俗っぽい」とはこの世の習いに浸りきっている様をいいます。では、反対語はなんでしょうか。神学なら聖―俗であり、生活感覚ならば公―俗(私)を暗黙としています。これは、キリスト者がこの世を生きる際の悩ましいことの一つでもあります。私たちは実感として、俗(私)―聖(信仰)―公(世)の三角関係に悩まされることがあるからです。
 また、「世俗化」という言葉がありますが、こちらは教会だけでなく、公共世界や社会を組み立てる際にここ数百年間用いられてきたキーワードです。元来、ヨーロッパで教会から国家へ、また宗教的な知識や価値観から自由に解放された社会の仕組み作りに用いられてきましたが、今、これが揺らいでいます。
 今年3月、『他者論的転回|宗教と公共空間』(ナカニシヤ出版)という学術論集が刊行されました。2013年春にシンガポールで開催されたシンガポール国立大学と東京大学共催の国際会議を発端に、シンガポールから京都、東京へと人と場所が変わりながら継続して話し合われてきました。それをまとめたものが論集として刊行されたのです。
 一部にキリスト教、とりわけルターの十字架の神学の考察が盛り込まれることになりました。いずれの討議も宗教と公共性の難しさを体現する会議でした。概念や論はある程度理解できても、それぞれの社会的背景や個人的な体験は異なるからです。
 多くの人はリベラル・デモクラシーを土台に、政教分離や信教の自由を社会の基本的枠組みと考えてきました。宗教や信仰は個人の心の内を豊かにするものだと考えてきたのです。しかし実際は「多くの人」とは曖昧で、また多くが「同じ」ともかぎりません。公共世界は多彩で、時代は刻々と変化し、多様性は広がるからです。
 私たちはいったい、どんな世界を生き、どんな社会で暮らしているのか。そして街場の教会はどんなかかわりでそこに立っているのでしょうか。私たちは変わらずイエス・キリストを主と告白し礼拝しています。
 「教会×公共性」。問いが問いを生む難問をひも解く糸口を探してみたいと思います。

宗教改革500年に向けてルターの意義を改めて考える(新シリーズ1・通算48)

ルター研究所 所長 鈴木 浩

 機関紙「るうてる」でのこの欄の字数を増やしていただきましたので、今までの記事を念頭に、新たに書き続けることになりました。
 「ルターの意義」については、様々な立場から様々な評価があり得るだろうと思います。例えば、経済史の立場からすれば、それまで一貫して禁止されてきた商取引における「利子」を公然と認めた画期的な人物ということになるでしょう。マルクス主義の歴史観に立てば、エンゲルスの『ドイツ農民戦争』という著作に見られるように、ブルジョアとプロレタリアートの中間にいて、どちらの立場にも立てずに、様子見をしているばかりのプチブルということになるでしょう。
 ここでの「ルターの意義」は、無論「信仰者としての立場から見たルターの意義」ということになります。一言で言えば、ルターは埋もれていた「福音」を再発見し、その福音を鮮やかに、力強く、喜びに溢れて語った人ということになるでしょう。無論、「福音」という言葉が語られていなかったということではありません。しかし、「福音」という言葉がどれだけ語られていても、そこに「内実」が伴っていなければ、無意味になります。ルターはその「内実」を再発見したのです。
 もう一つの意義は、再発見された福音の内実を鮮やかに、力強く、喜びに溢れて語った、ということにあります。この点は非常に大事です。なぜなら、人々の共感を得るためには、誰もが「なるほど」と心の底から納得しなければならないからです。ルターはそれに成功したのです。その成功の裏には、様々な条件が必要でした。ルターの場合には、そうした条件がほとんど奇跡的に重なり合い、人々の共感が寄せられ、それに後押しされるようにして、宗教改革運動が進展していきました。
 そうした条件の一つをあげれば、印刷技術の発展です。グーテンベルクが発明した印刷技術が定着し、各地に印刷工房ができました。印刷で本が出版されるようになると、出版コストは飛躍的に低下しました。いわゆる『九五箇条の提題』は、たった一枚のパンフレットですが、一週間でドイツ中に知れ渡るようになった、と言われています。手書きよりもはるかに迅速に印刷し、発行できたからです。

ルター、バッハ、宗教改革500年

徳善義和

7 みことばを守る

み霊よ くだりて われらの心に(教会讃美歌122番)

 ラテン語からドイツ語の礼拝にした改革の中で、ルターは1523~1524年に会衆讃美歌を教会暦に従って次々と導入していった。それらは教会暦に応じて会衆と共に歌う宗教改革の信仰の歌だった。
 聖霊降臨日のためには2曲も残している。「み霊よ くだりてわれらの心に」はその2曲目のもので、14世紀から歌われていた1節だけのものはドイツ語にもなっていたが、ルターはこれに2、3節を加えた。
 第2節は特に聖霊とみことばと正しい信仰とを強調して、こう歌う。「あなた、聖なる神、尊い宝よ/いのちのことばをもってわれわれを照らし/われわれが正しく神を知り/心から神を父と呼ぶよう教えてください/主よ、異なった教えから守り/正しい信仰をもってイエス以外には/ほかの師を求めず/全力でイエスを信頼するようにさせてください」(直訳)と歌うのである。
 バッハは多分ライプツィヒに着任してすぐの、1723年(あるいは翌年)聖霊降臨節第1日の礼拝のためにカンタータ59を作曲した。「わたしを愛する人はわたしのことばを守る」(ヨハネ14・23)の合唱をもって始めて、このコラールを中心に置き、この世がいかに逆らおうと、聖霊に従ってみことばを守る信仰の生がどれほど祝福されたものであるかを歌い上げたのだった。
 「小教理問答」の使徒信条第3項「聖霊」の部分も読み返し、新たに心に刻むとよい。聖霊の導きを歌う讃美歌共々、信仰によって立つと言っているわれわれの信仰がいかほどこの聖霊によって支えられ、導かれているか、いささかなりと見えてこよう。
 聖霊、聖霊、とその働きばかりを強調する教派もあるが、ルター以来ルーテル教会は、三位一体の信仰の中に聖霊をしっかり位置づけ、その聖霊による信仰の導きを熱心に祈り、求め続けてきた教会なのである。

「ルーテルアワー」のサイト [さあなの部屋]より 
5 今、生きて働かれる イエス様 ヨハネ14・15~21

伊藤早奈

 神様、不安で眠れなくて十分に睡眠が取れない時、心配で心配で変な夢ばかりみてしまう時、一人一人が様々に迎える今があります。しかし神様あなたから与えられる目覚めは変わることがなく、またあなたから与えられる愛は確かなものです。私たち一人一人が誰にも変わってもらうことのできない、かけがえのない今を、精一杯生きられますように。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によってお祈り致します。アーメン

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(ヨハネ14・18)とイエス様は語られます。
 乱暴な聖書の読み方だなと思われる方もおられるかもしれませんが、私はよく何かに悩んだり、行き詰まりを感じたり、悲しくて誰にもわかってもらえないのではないかと心が追いつめられた時、聖書を適当にパッと開いてそこにある、み言(ことば)を読むことがあります。この聖書の箇所もそのような時に与えられ、私を洗礼へと導いたみ言でもあります。
 「何で今なの?」「今私がこれを必要としているの?」と理解が難しいこともありますが、聖書のみ言は私たち一人一人に今、生きて働かれる聖霊と共に語られます。「何年も前に同じ言葉を聞いたよ。」と思われる方がおられても、聖書からのみ言に限らず、あなたの身近な文章や香りや音、物が今を生きるあなたに、そっと語りかけて来る時があります。「あなたは決して独りではないんだよ。」と。
それが今もあなたと共におられるイエス様の語られる声なのです。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」
 聖霊というと何だか理解しにくい方もおられると思います。それは共におられるイエス様の、私たち一人一人に働かれる愛の形を表現したものです。
 あなたがイエス様を知らなくてもイエス様はあなたをご存知です。かけがえのないあなたと共におられます。あなたは決して独りぼっちではありません。

日本福音ルーテル教会九州教区 平和を求める声明を採択

 日本福音ルーテル教会九州教区は、3月20~21日に行われた第45回定期総会において、「平和を求める」声明を採択しました。
 これは、昨今の日本社会において、平和憲法を改悪し、この国を戦争が出来る国に改変していこうという動きが強まっていることを受け、平和を求める決意を表明するためです。

声明「平和を求める」

 わたしたちは、平和を愛するキリスト者として、平和憲法の精神を貴び、すべての軍備増強と基地建設に反対するとともに、近隣諸国と、信頼と和解に基づく平和的な関係を築くことを希求します。 日本福音ルーテル教会九州教区

キリストへの信頼と祈りの人 故松隈貞雄牧師を偲んで

長岡立一郎(九州学院理事長)

 今から51年前、松隈牧師は九州学院高校を卒業し、日本ルーテル神学大学に入学されました。同時代を共に歩んだものとして私は、神学大学入学時のことを思い出しています。
 かつて桜並木のあった鷺ノ宮の神学大学ならびに神学校のキャンパスは閑静な住宅地にありました。神学校の学舎も寮も同じ場所にありました。松隈牧師とは、寮生活もご一緒でしたので、毎朝6時30分からの寮生による朝祷会から一日中、苦楽を共にした仲間でした。松隈牧師は、思春期に長期闘病生活をされたので、高校入学が遅くなり、私と同時代を共に歩むこととなりました。年齢は私より10才も先輩のお兄さんでしたが、いつも同じ目線に立って共に歩もうと努力しておられたことを思い出します。若い時期に苦しい闘病体験をされた松隈牧師は、人一倍日々の食生活や規則正しい生活をすることに気をつけておられたように記憶します。

 1971年に日本ルーテル神学校を卒業され、その後、バルト神学全盛期の時代でもありましたので、東京神学大学大学院での学びを深められ、研鑽を積まれました。1975年按手を受けられ、同年4月板橋教会に任命を受け、宣教・牧会の職務にあたられることとなりました。それから32年間、板橋教会をはじめとして三原教会、福山教会を兼務され、2007年3月には定年を迎えられたのです。その後、宇部教会でしばらく嘱託で牧会を務められた後、故郷の熊本に戻られ、健軍教会で引退教師として、また一信徒としてご奉仕を全うされました。
 私の心に深く刻まれている松隈牧師の姿は、一貫してキリストへの信頼と服従の歩みであり、祈りの人であったということです。またルーテル教会の業として「ディアコニア」の働きに強く関心を持ち、その活動に積極的に参加され、貢献されたことは印象深いことでした。松隈牧師の働きに感謝しつつ。

教会音楽祭テーマ曲「歌詞」募集

 2017年6月に開催が予定されている第33回教会音楽祭のために、テーマ曲の歌詞を募集します。テーマは「心ひとつに~争いから交わりへ~」です。
ふるってご応募ください。なお、審査は教会音楽祭実行委員会にて行います。
■応募要件
1.1人1作品とし、未発表のものに限る。
2.歌詞の題は「心ひとつに」とすること。
3.応募作品が採用候補作品とされた場合でも、作者と相談の上、教会音楽祭実行委員会で添削する場合がある。
4.入選作品の著作権は教会音楽祭実行委員会 に帰属するものとする。
5.応募の際、いずれかの教派・教会に所属し ている場合は、教派・ 教会名を明記すること。
 尚、採用作品は広く教派を超えて自由に用い られるものであることを理解の上、ご応募ください。 
■提出先
 〒105 0011 東京都港区芝公園3-18  
 日本聖公会 東京教区事務所内
 礼拝音楽委員会(「教会音楽祭 歌詞応募」と 明記のこと)
■応募締切
 2016年8月1日(月)〔消印有効〕
■発表
 採用作品の作者には8月末日までに直接通知 します。一般には「曲 募集」を持って発表にかえさせていただきま す。
■問い合わせ先
・「教会音楽祭」ホームページ http://cmf.holy.jp/
・松岡俊一郎(大岡山教会)
 電話 03(3726)7317
 メール matsuoka@d06.itscom.net      

※曲の募集は、採用された歌詞の発表と同時に行います。第33回教会音楽祭の日時、場所等の詳細は決まり次第お知らせします。
※「教会音楽祭」は、キリスト教の教派を超えて神さまへの讃美をささげようと、1968年から続けられている音楽祭で、日本最大の教会一致(エキュメニカル)礼拝です。

日本福音ルーテル社団(JELA) 世界の子ども支援チャリティコンサート

 JELAは世界の様々な地域の助けを必要としている子どもたちやその家族を、経済的・精神的に支えています。その働きを紹介し、また支援の輪に連なる機会として、各地の教会を会場として、チャリティコンサートを開催しています。
 第13回となる今年は、真野謡子さん(ヴァイオリン。オランダ・デンハーグ王立音楽院卒業。オランダ弦楽四重奏アカデミー、ロッテルダム音楽院にて研鑽を積む。パレスチナにてバレンボイム・サイード財団の教育プロジェクトに携わる。)と前田勝則さん(ピアノ。東京芸術大学大学院音楽研究科首席修了。ピティナ・ピアノコンペティションデュオ部門特級最優秀賞受賞をはじめ、数々の賞を受賞。)のデュオによる演奏です。
 曲目は「歌」と「踊り」をテーマとして演奏される予定です。・エルガー「愛の挨拶」・クライスラー「3つの古いウィーンの舞曲」・ショパン「ポロネーズ 第3番 イ長調 作品40-1『軍隊』」・バルトーク(セーケイ編曲)「ルーマニア民俗舞曲」・J.S.バッハ「G線上のアリア」・山田耕筰(矢代秋雄編曲)「中国地方の子守唄」他 どうぞおでかけください。また、お知り合いにもお声がけくださり、宣教の機会としてください。

<日程と開演時間・会場>
5月 7日 (土)14時  日本福音ルーテル松本教会
5月 8日 (日)13時30分 日本福音ルーテル大森教会
5月14日(土)14時 日本福音ルーテル岡崎教会
5月15日(日)14時 日本福音ルーテル沼津教会
5月21日(土)14時 日本福音ルーテル熊本教会
5月22日(日)14時 日本福音ルーテル宇部教会
6月12日(日)13時30分 日本福音ルーテル保谷教会

日本福音ルーテル教会2016年度人事(追加報告)

●人事異動(2016年4月1日付)
【西教区】松本義宣 三原教会(主任)、福山教会(主任)
※西教区総会での教区長選任後の決定となったため、本号においての報告となりました。

 

 

 

 

 

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