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機関紙るうてる

るうてる2012年7月号

説教「主を喜びとする日」

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「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」マルコによる福音書3章1節~12節

この春から喜望の家の勤務が始まり、平日は朝の満員電車に揺られています。梅田駅で地下道を通って乗り換えます。群れをなして突進するように歩く人々の姿が、初めの頃は、サバンナのバッファローのようで、異様な光景に思えました。三か月が過ぎ、自分もその流れの中に乗って一緒に突き進んでいます。帰宅の車中はぐったりという日も少なくありません。そのような毎日を過ごしていると、日曜日の安息が待ち遠しい、本当に待ち遠しく思えます。

イエスさまは、ここで、安息日の用い方について、ファリサイ派の人々と議論しています。現代の私たちからすれば、律法を固く守って、絶対に譲ろうとしないファリサイ派の人々は、頑固で融通の利かない、変わり者のように思えます。イエスさまのおっしゃる言葉はもっともです。納得できるし、当然のこと。日曜日であっても、病人がいれば病院へ連れて行くし、手当てをして傷ついた人を助けるというのは、それこそ人の道で、道理に適って理解のできるところです。
そもそも安息日は天地創造の時に、神さまが6日間働いて、7日目に休まれたことに由来します。神さまは第7の日を祝福し、聖別されました。しかし、その安息の日を守ることのできない時代がありました。それはモーセの頃、イスラエルの民はエジプトで奴隷でした。モーセはファラオに、主に礼拝をささげたいと願い出ますが、ファラオはそれを許してくれませんでした。十戒を授かったのは、その後のことで、エジプトを脱出してからです。
また、バビロン捕囚の時代にも、エルサレムの神殿を失ったイスラエルの民は、主に礼拝をささげることができませんでした。ですから、聖書を作って、新しい礼拝の形を整えていったのです。そのような辛い体験と苦い時代を経て、安息日は重んじられるようになりました。
しかし、決まりごとというのは、いつしか形骸化してしまって、人間を生かすのではなく、人間を縛るものになってしまうことがあります。イエスさまの時代はそうであったわけです。そうしますと、私たちはどのように安息日と付き合えばよいのでしょうか。現代社会は安息日の規定よりも、この世の融通の方が優先してしまうような時代です。そのような時代にあっては、安息日を守ることの方が難しい。
ここで、イエスさまは、安息の意味を説いておられます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、殺すことか」。内容を見ますと、これは日曜日だけに限ったことではなくて、他の6日間についても、私たちの生き方全体について、それを問うておられます。
神さまが祝福してくださった安息日は、人のためにあります。人が生きるため。神さまは一週間の労働を終えて、その成果をご覧になって、「見よ、それは極めて良かった」、実りに対して満足して休まれたのです。そして、その日を聖別し、恵みの日としてくださいました。それは、私たちがみ言葉と霊とに満たされ、命を回復するためです。
主日礼拝が待ち遠しい。強制されるようなものではなく、恋人に会うような待ち遠しい気持ちです。
仕事帰り、疲れているであろうに夜の聖研に集う人の気持ちが、今にして分かるようになりました。すでに集会は始まっていて、それでも遅れて来られます。「無理をしなくてもいいんですよ」「お体を大切にしてください」と言っても来られます。終わりにいつも讃美歌を歌ってお祈りをしていました。そのひと時こそが安息です。イエスさまに触れている時でした。聖徒の交わりの中で、一緒に歌いたいんです。一緒に歌いたい、讃美歌を歌いたい、歌うことのできない平日の日、日中というものを過ごしていますから。
安息とは、このように、人がよみがえって、生きるためのもの。人々がよみがえって、明日への希望や明日への新しい力を得る。豊かな祝福、天からの恵みです。神さまは、そのような恵みの日をお定めになりました。主を喜びとする日です。
ディアコニア・センター喜望の家 豊中教会 牧師 小勝奈保子

宗教改革五〇〇周年に向けて
ルターの意義を改めて考える(3)

ルターはもともと法律家になるべく大学で最後の学びをしていた。成績も良かった。少なくとも外面的には、将来は明るかったのだ。事業で成功していた父親も、息子が法律家として成功することを強く期待していた。
無論、ルターはそのことをよく知っていた。それでも、彼は修道院に入ってしまう。実際、父親との関係は決定的に悪くなる。修道院に入れば、友人たちとのつき合いもこれまでのようではありえなくなる。ルター自身はそのことをあまり大きく考えなかったようだが、修道院に入ることは、一生涯、独身で暮らす、という意味も持っていた。そうした一切のことをルターは引き受けた。
彼は模範的な修道士になった。学歴もずばぬけていた。結局、修道会の指示で、ヴィッテンベルク大学の聖書学教授になった。ここからルターの聖書との本格的な取り組みが始まった。
修道院では詩編を毎日唱え、一週間でその全体を唱え終わる習慣があった。ルターも詩編をほとんど諳んじるほどになっていた。大学でのルターの講義も、詩編から始まった。いわゆる「第一回詩編講義」である。
ルター研究所 所長 鈴木 浩

牧師の声

復活教会、文化財登録される ~夕刻に光り輝く、十字架のステンドグラス~
復活教会 花城裕一朗

してしまいました。その悲しい現実を乗り越えて、1953年復活祭の時に、現在の礼拝堂が献堂されています。当時の教会員たちは、戦争の焦土の中からの礼拝堂の復活とキリストの復活を重ね合わせて見、希望を抱いたのでしょう。この時、「復活教会」という現在の名前が付けられました。
今回の登録は、この礼拝堂が著名な建築家ヴォーリズの設計によることに基づいています。名古屋市内の建築家の間でも評判で、実際に訪ねて来られた方は、当時のまま保存されている設計図を見て非常に感激されていました。教会を訪れる一般の方々も「頭の中にある教会のイメージにぴったり」と言ってくださいます。ヴォーリズ建築事務所からもお祝いのお葉書を頂き、感謝の思いでおります。
この礼拝堂の一番の特徴は、聖壇が西側にあり、大きな十字架のステンドグラスが取り付けられていることです。会堂内から見るその十字架は、夕刻になると眩いほどに光り輝き、会堂内を黄金色に染め上げます。神が、その光景を通して、「世の終わりの日には、このように、キリストの救いが光り輝く」と語りかけているように私は感じます。一日が終わる時に、世の終わりのことを想い起こすようにと、ヴォーリズは考えたのかも知れません。
復活教会がその名の通り、主の復活の栄光を証しする教会へと導かれていきますように、祈りつつ、宣教の務めに励んで参ります。

信徒の声

「受けとめて」 小倉教会 池松綾子 

――池松綾子さん(小倉教会)は、現在、長野県上田市に拠点を置き、裂織を中心に制作活動を展開しています。今年の3月11日の礼拝の際、一つの作品を教会へ献品してくださいました。作品名は「受けとめて」。それは震災後、制作活動に向かうことができなかった池松さんが、ようやく手がけた作品でした。

昨年の3月11日の東日本大震災で津波など災害を受けられた方々は、もちろんたいへんだと思います。同時に原発事故が起こったわけですが、これまで私は、反対はしてきたけど、皆が危ないと思うまで、きちんと伝えてなかったと思いました。そういう意味で、反対して来た人にも責任があると思ったのです。生きている間に、こんなことが本当に起こると考えてなかったのではないか、言葉だけで反対を唱えていたのではないかと…。もちろん危ないと言ってきたけど、本当に生きている間に起こるとは思ってもいなかったのです。

年に2回展覧会に出展する機会があるので、それまでには作り上げたいと思っていました。そのうちに何か自分自身が事実を受けとめて、どういうふうに神さまは私に示しておられるのか、考えているうちにとにかく受けとめて、そして助けていただく、そういう気持ちを表わしたいと思うに至って、ようやく作り始めることができたのです。

この作品はなかなかできなかったので、7月の展覧会には「不安の中から」という作品を作って出しました。8月に広島で展覧会があるので、それはまだ一月ありましたので、これを手がけたわけです。自分の思いを言葉にできないから、作品を作るのだと思います。

(制作は)まず、縦の糸を巻いてしまうのです。何カ月も前なので、ただ漠然とした思いを巻いていくのです。普通の織機と違って、あらかじめぐるぐる縦糸を巻いておけるので、漠然とした思いを巻くことができるのです。タイトルは、「現実をお前はどう受けとめるのか」と問われているように思い、付けました。

改訂共通聖書日課(Revised Common Lectionary)

式文委員会 平岡仁子

私達ルター派は礼拝に於いて聖書日課を用います。何故なら、説教者が自分自身でテキストを選ぶ時、その選択は多くの制限をもつことになると考えるからです。例えば、説教者個々人の教育的背景や説教者が会衆の好みに傾くと言ったような。私達は聖書から御言葉を聞きます。全てのキリスト者は毎週日曜日に聖書を通して神様が語られると信じています。そしてこの聖書朗読のリストが聖書日課と呼ばれます。聖書日課の使用は礼拝に於ける一致を表します。それ故、聖書日課は説教者のためにあるのではなく、会衆全てのためにあると言うことが出来ます。聖書日課は教会暦に従って作られ、歴史的に西洋の教会は毎週日曜日2つの聖書朗読による1年周期の聖書日課をもっていました。そしてルターはその中世の聖書日課を受け入れました。しかし聖職者達にキリストによって示された神の福音に明確な焦点を置いて説教するよう力説したのでした。ルター派は 20世紀の中ごろまで、中世の1年周期の聖書日課を伝統的に良い物として使用してきました。
しかし20世紀半ば、世界のキリスト教は大きな変化を体験します。カトリック教会の典礼刷新により聖書日課は3年周期の3つの聖書朗読となり、この聖書日課が世界のプロテスタント教会に広く受け入れられていきました。3年周期の聖書日課は20世紀においてキリスト教が教派を超えて成し遂げた最も重要な成果であるとさえ言われています。
70年代、多くのプロテスタント教会(ルーテル、聖公会、長老派等)は各々独自にこのカトリックの聖書日課への適応・部分的改訂に着手しました。しかしエキュメニカルな動きと共に、共通の聖書日課をもつ要望が高まり、1983年、「共通聖書日課」(Common Lectionary)が出版されます。私達の青式文の聖書日課はこの「共通聖書日課」(CL)にさらに部分的に独自の改訂を加え作られた日課です。そしてその後「共通聖書日課」(CL)は再検討され、1992年「改訂共通聖書日課」(Revised Common Lectionary)として現在世界に普及しているのです。

バッハのカンタータを聴くc~

 「ただ神を望みて」カンタータ93(BWV 93)
日本ルーテル神学校名誉教授 徳善義和

手元にバッハの『カンタータ便覧』とでも言うべき、読んで面白くはないが、大変便利な本がある。巻末にはバッハがカンタータで用いたコラールのメロディーについての索引もある。カンタータやオラトリオ、受難曲まで含めると、教会讃美歌八一「血しおに染みし主のみかしら」が一番よく用いられている。マタイ受難曲に何度も用いられるほか、クリスマスオラトリオでも二回歌われる。しかしカンタータだけで見ると、教会讃美歌三二四「ただ神を望みて」が一番多い。バッハはこのメロディによってオルガンのためにいくつものコラール前奏曲も作曲していて、名曲が多い。
歌詞もメロディーもゲオルク・ノイマルク、バッハより五十年ほど前の人である。職人の家の生まれながら音楽と詩を学ぶ志を立てて大学町に向かう旅の途上で強盗に襲われすべてを奪われ、無一文になった。放浪の末キールでようやく家庭教師の口を得て、教えつつ学ぶことができるようになった。その時に神の守りと養いを感謝して歌った詩と曲がこの讃美歌なのである。歌詞もメロディーも優れていて、私の愛誦讃美歌の一つである。バッハは早く少年期に母と父を相次いで失い、長兄に引き取られて厳しい青年前期を過ごし、一八歳で自立してオルガニストとして働き出したから、自分の若い日を、この苦労して学んだ青年の姿と重ね合わせて、このコラールを愛し、多用したのだろうか。
聖霊降臨後第六主日には、 当時ルカ五章一節以下の福音書によって会衆は、不漁の一夜の後の、主のことばによる豊漁というペトロたちの体験を聴いた。それぞれ青年だったノイマルクとバッハの若い日の体験とも重なりあっているのだろうか。カンタータの七曲のうち、五曲でバッハがコラールの原詩を用いているところにもそれが現れてはいないだろうか。こうしてこのカンタータはコラール・カンタータの典型とでも言うべきものになっている。
第五曲のレツィタティフには「ペトロは夜通し働いて、空しくなにも得ず。イエスのことばにいま一度漁を試みる。貧しさと十字架と苦しみの中で、イエスのいつくしみに」すべてを托す、と歌われて、音楽による説教となっている。ルカ五章を思い起こし、讃美歌三二四を繰り返し口ずさみながら聴くことのできるカンタータにほかならない。

福音と美術 2-2

永遠性の象徴
小鹿教会 寺澤節雄 静岡大学名誉教授(美術教育学)

私たちが永遠の運動に惹かれるのは、それが生の元型(根源的イメージ)と言えるものだからです。元型は精神医学者ユングの概念ですが、連続・無限・永遠の観念は、元型に根ざすものだと言えます。ユングは「元型によって語るものは、千の声を以て語る。…表現しようとする理念を一時的なものから永続的なものへと高める」と言っています*。 ところで、今日の芸術家は、無限に関心をもっているでしょうか。図6は日本で活躍する韓国人芸術家、李禹煥(リー・ウーハン)氏の作品です。一見メビュウス・リンクのように見えますが、なぞってみると表裏は繋がっていません。この作品は表裏の乖離を解くものではないのです。図7は、オランダの画家エッシャーの作品ですメビュウス・リンクの中を蟻達が這い回るさまは、シシュフォスの神話にも似て空虚などうどう巡りを思わせます。このような絵画は、だまし絵とかトリック・アートなどと呼ばれていますが、文字通りそれは生の循環を出口のない反復と観ているようかのようです。循環の運動をどうどう巡りと観るか、永遠の運動と観るかには、紙の表裏ほどの違いがあります。図8は、「無窮環」と題された抽象彫刻です。題名からして作者が無限の運動に惹かれていることが判ります。静岡大学の同僚であった登坂秀雄氏の作品です。基本形態はドーナツ様の同心円です。同心円は幾何形態ですから、隠れた中心があります。私たちはまるで重力に引き付けられるように、無意識裏にこの物理中心に引きつけられるのです。しかし、作者は誘引する物理中心を躱(かわ)す精神的足場を堅持することによって円環を優美な造形にしてます。その優美さは、まさしく無限循環の美しさであり、永遠性の象徴とも言えるものです。
このように、自然的生の拘束を解く新たな精神が無限の表現に通じるのであり、同様にキリストによって新しく生まれる精神が、死を以て終わる人間の生の虚無性を、滅びることの無い永遠の命につなげるものであると理解出来るのです。
*W・G・ロリンズ著 ユングと聖書」教文館

TNG

松本教会 佐藤和宏
翻訳プロジェクトについて

TNGの活動において4つの部門(幼児、子ども、ティーンズ、ユース)が世代ごとに働きかけていることはご存知でしょう。実はその他にも部門があり、地道に活動を続けています。今回は「翻訳プロジェクト」 という部門の働きについてご紹介したいと思います。
翻訳プロジェクトは、その名の通り、翻訳することを中心にしていますが、ただ翻訳をするということだけでは、その働きが完成したことにはなりません。私たちは、海外のキリスト教教育関係の教材やプログラム等を翻訳し、日本でも使えるようにすることを目的としています。
キリスト教の歴史が長く、クリスチャンの多い国々では、キリスト教の教材開発が十分に商売となりますから、 内容は充実したものが揃っています。これらを日本でも使えるようにすれば、教会教育の助けになると考えています。しかし、ただ翻訳しただけでは案外使いものにならないのが実情です。なぜなら、そこには文化の違いをはじめ、ありとあらゆる違いが存在し、それらを含めた�T翻訳�Uが必要となるからです。時には思い切った修正をしなければならないこともあります。
かつてアメリカの出版会社が提供していた堅信教育の教材を扱っていたことがありましたが、その中のクイズ等はアメリカの子どもたちには面白いのでしょうが、日本ではその面白味がわからないような内容がありました。そこで私たちは翻訳をしつつ、新たなクイズ等を考えていかなければなりませんでした。最近、私たちはキャンプのマニュアル、リーダーの心得などの翻訳を手がけています。様々なプログラム作りのお役に立てればと思っていますが、そこでもやはり言語上だけではない翻訳を必要としています。
遅々として進まないように思われる作業の繰り返しですが、いつか皆さんの各種プログラムの企画に役に立つ情報を提供できる日を夢見て、準備を進めています。これからも皆さんの声に応えられる活動を目指したいと思っています。

「古財学校は閉校しました。」

市川教会牧師 中島康文

1955年に神学校を卒業された古財克成先生は、山口県の防府教会を皮切りに、大森、市川、東京、札幌、帯広・池田、釧路の各教会を牧会された。古財先生に1954年生まれの私がお会いしたのは、1975年の夏、市川教会を牧しておられた時であった。九州を離れ自分の将来像が見えなかった私だったが、数カ月もすると私は古財家の一員になっていた。
その古財家はお茶目でユニークな家族であった。生みだしていたのは、もちろん大黒柱の古財先生。「本教会事務局長や東教区長、北海道特別教区長と歴任された先生に向かって何ということを」とお叱りを受けるかもしれないが、お茶目でユニークという評価が私の中で変わることはない。だから、お子様たちが「日曜日に遊ぶには友だちを教会に呼ぶしかなかった」といって連れてきた子どもたちが居つくようになったし、礼拝が終わってもあれこれと理由を付けて居残ろうとする青年たちが沢山いたのだ。よく遊び、よく食べ、よく学んだ…かは忘れたが、若者が(もちろん年配の方々も)集まっていたのは、先生の傍(そば)がとても居心地良かったからだ。
当時市川教会には、入れ代わり立ち代わり神学生が派遣された、日曜実習であったりインターンであったり…。いつしかそれが神学生の間で「古財学校」、別称「古財再生学校」と囁かれるようになっていた。在学が一番長く「再生」させてもらった私が学んだことは、「神様が伝道してくださる、私たちはそのお手伝いをすること」ということであった。早朝のマンション伝道(ビラ配り)、ロウ原紙の桝目に一文字一文字書かれた印刷物、社会正義への真摯な取り組み等、「神様が伝道してくださる」ということを、黙々となされる先生の姿から学ばせていただいた。

古財学校は閉校しました、校長先生が天に召されたからです。卒業証書は、天上で再会した時に、地上での働きを校長先生に報告することでいただけますよネ。だから今は、「古財先生、ありがとうございました。待っていてください」とだけ言っておきます。
[2012年5月13日召天]

ルーテル海外教会協力会議」(LCM)開催

5月28日から29日にかけて「ルーテル海外教会協力会議」(LCM)が東京教会を会場に開催された。2年ごとに開かれるセミナーが今年は行われ、テーマは「多文化・多宗教・多民族社会の宣教」。日本からは11名が各教区から出席、石居基夫神学校教授が基調講演、宮本新牧師がJELCの事例発表を担当した。海外からはELCA(アメリカ福音ルーテル教会)とSLEY(フィンランドルーテル宣教会)がそれぞれの取り組みを報告した。
キリスト教からみた場合、日本は多宗教という観点から考えやすいが、今後海外からの労働者を日本が受け入れていった場合、多文化、多民族も重要な宣教課題となりうる。そこですでにそうした取り組みを進めている国々から学ぶことにした。
テーマから推測できるように議論は宣教全般に及び、ひとつの課題に集中するという内容ではなかったが、東日本震災救援活動と宣教に話題が及んだときは、宣教論の核心にも触れる話へと発展、それぞれの立場を明確にするとともに相互理解を深める機会となった。また今回は各教会から初参加の出席者も多数あり、これまでとは違った広がりを感じることができた。
最終日の30日にはJELC事務局との個別協議が行われ、アメリカ、フィンランド双方と現在の宣教師派遣と今後のあり方を具体的に話し合った。

敬愛するストローム先生へ

2月2日、90歳になられたストローム先生への、時の総会議長渡邊純幸牧師の挨拶の抜粋です。

90歳のお誕生日おめでとうございます。 心よりお祝い申し上げます。
ドイツから遠く離れた日本に来られた当時、日本福音ルーテル教会においては、 まったく異なった状況で大変だったことを思い起こします。そして、来日して数年後、先生は大阪の釜ヶ崎で子どもの働きをご自分で始められました。
そこに、先生は、当時「西成ベビーセンター」を開設し、後に幼稚園としての「子どもセンター」が認知されました。
先生は、釜ヶ崎で日雇い労働者にも関わり、そこで特に、断酒会にもご尽力戴きました。先生は、それらの働きのために「喜望の家」を開設されました。
ストローム先生、私はあなたを「日本のマザー・テレサ」 とお呼びしたいと思います。あなたは忍耐をもって日本の社会で受け入れられない人々のために私たちの教会が存在するということを示してくれたからです。
私たちは先生の釜ヶ崎でのお働きを何度も神に祈り神の祝福が豊かにこれからもそなえられますようにお祈りしています。
先生のこれからの歩みの上に神様の祝福をお祈りしています。
渡邊純幸

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