るうてる2014年9月号
説教「人生に必要な荷物」 藤が丘教会牧師 佐藤和宏
自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。 (マタイによる福音書10章38節)
引越しをしました。
荷造りをしていると、見慣れないものや不明の箱、懐かしい品々が出て来て、しばし作業する手が止まることがありました。それらは前回、引越しをしてから一切手をつけていない荷物でした。私たちは余剰な荷物をたくさん抱えて生きている現実を、引越しをするたびに思い知らされます。しかし、余分な荷物をすぐに処分出来るかというと決してそうではなく、また使うときがあるかもしれないと次に持ち越してしまう私がいます。今回の引越しで見いだした余分な荷物も、そのまま引越しの荷物となり、開けられないまま物置に入ることになってしまいました。
私たちは人生を生きるにあたって、荷物を抱えていると言えるでしょう。生きるためにあれもこれも必要であると思えるため、日に日に私たちの人生の荷物は膨れ上がっています。それでも、余分な荷物を手放すことができず、ましてだれかと分かち合うこともできない私たちがいます。
不必要な荷物はそこに残して、人生を新たに歩み始めるならば、その足取りはこれまでより軽くなり、その後の人生は生きやすくなるはずです。本当はそのことがわかっているのですが、人は重さを増して行くばかりの荷物に押しつぶされそうになりながらも必死になり、その足取りは重くなるのです。
「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」と言われています。主イエスは人生に必要な荷物としてあれこれ抱え込んでしまう私たちに、必要な荷物はただ「自分の十字架である」と明らかにしているのです。
「自分の十字架」について考えるとき、私は自らの罪だけを思い描いていました。しかし、「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(ローマ書6章11節)というパウロの言葉は「キリストに結ばれて、キリストの十字架に結ばれて、キリストと共に死に、キリストと共に生きる」ことを教えています。つまり「自分の十字架」とは、まずキリストが担ってくださったものなのです。そしてその十字架を自分のものとして担って行く。私たちはこうしてキリストに結ばれて生きるのです。
ある日の聖書日課で、次のメッセージが目にとまりました。
「『どんな時にも人生には意味がある。誰かがわたしを待っている。何かがわたしを待っている。その誰かのために、その何かのために、わたしには出来ることがある』。
主イエスが言われた《自分の十字架を背負って》を考えるとき、このフランクルの言葉をわたしは思い起こします。自分の十字架とはけっして重荷のことではありません。主ご自身がその人のために備えてくださるものが自分の十字架です。それはわたしを必要としている誰かのために、またわたしを必要とする何かのために、主がこのわたしを用いてくださるためのものです(部分)」。(高橋誠・ディコンリー福音教団豊浜教会牧師)
「自分の十字架」とは、自分のためのものでも、自分に課せられたものでもなく、「主ご自身がその人のために備えてくださるもの」であると言われています。 私たちのために主は十字架の死を遂げてくださいました。これによって私たちは、もはや自分の人生のために多くの荷物を抱え込む生き方から解放されたのです。そして今や主は、この私を通して一人でも多くの人々に、神の恵みを与えようと望まれているのです。これが私たちが担う「自分の十字架」です。 そしてそれは苦しみではなく、「自分が生きていることに深い喜びを感じる、真の生きがいのある歩みである」と言われているのです。「自分の十字架」とは、この小さく弱い私が主に必要とされているしるしです。そのためにキリストはまず十字架を負われたのです。このキリストに結ばれて私たちは、自分の十字架を担って歩み始めることができるのです。
キリストの十字架に結ばれた「自分の十字架」が私たちには備えられているのです。キリストの十字架に結ばれて、このキリストの十字架に結ばれた「自分の十字架」は、私たちがだれかのために少しずつ担って行く、あらゆる人々に等しく与えられる神の恵みです。そしてこれこそ、私たちの人生に必要な荷物であり、その他の何ものでもないのです。
宗教改革五〇〇周年に向けて ルターの意義を改めて考える(29)
ルター研究所所長 鈴木 浩
当時、人々が競って(罪の償いを免除する)贖宥状を買っていたことに見られるように、中世後期の人々にとっては、「罪の赦し」以上に「罪の償い」の方が事実上、大きな意味を持っていた。石を投げて窓ガラスを割ってしまった。その行為は赦されても、窓ガラスを元の状態に戻す責任は窓ガラスを壊した人にある。壊れた窓ガラスの補修、それが償いの行為に相当する。それが済まない限り、事は決着しないのだ。
この償いの行為がなかなか大変で、大部分の人は、現世でそれを果たすことができない。その場合は、死後、煉獄で償いの行為を続けねばならないことになる。ダンテの名作『神曲』の「煉獄篇」は、この煉獄の世界を描いたものだ。地獄、煉獄、天国、この三つが死後の人を待つ世界であった。
煉獄で償いの行為を続けている先祖の霊は、あなたがこの贖宥状を買えば、瞬く間に天国に昇るのだ、と販売人は宣伝していた。人々の心理を巧みについた宣伝だった。
ルターは、痛烈な皮肉でそれに反論する。「銭が箱の中へ投げ入れられて、チャリンと鳴るや否や、魂が(煉獄から)飛び立つという人たちは、人間的な教えを宣べ伝えている」(第二七条)。
議長室から
「ちょうどいい数」
総会議長 立山忠浩
日本福音ルーテル教会の全国の教会数は119です。この数字をどう見るか、意見が異なることでしょう。救急車を呼ぶ時のダイヤル数ですから、「我が教会は緊急事態に陥っている」と揶揄する人がいるでしょう。ある人は逆に、「助けを必要としてい700ですから、私たちの教会の15倍の数になりますし、日本聖公会は約350ですから3倍という具合に、比較するに便利な目安になる数字です。ただ、このような比較に用いることで、私たちの教会はこの二つの教派に較べると、まだまだ小さい規模であることをあぶり出すことにもなるのです。
119という数字は、さらに別の見方もできるように私は思います。「ちょうどいい」、この見方です。より正確に言えば、この数の有利さがあるということです。この数であれば互いの音信を交わし合い、協力し、助け合うことができるのです。この数であれば、全国のすべての教会がどこにあるのか把握できますし、牧師数もこれに近い数字ですから、互いの顔を知ることが可能なのです。顔と顔が見える交流とか、血の通った関係という言い方がありますが、まさにこれを可能にし得る数ではないかと思うのです。
私たちの教会が、この数字の有利さを十分に生かすことができるなら、さらにこの数字の意味が広がっていくに違いありません。その可能性を秘めているのが「るうてる法人会連合」です。ルーテルの社会福祉協会、学校法人会、幼稚園保育園連合会、そして教会が手を取り合っているグループです。連合会の総会や研修会にお招きした他教派の講師の方々が、共通して言われた言葉がありました。「この規模がちょうどいい」。このように直接言われたのではありませんが、要はこれほどのまとまりを持ったグループは珍しいということでした。教会の貢献はまだ十分ではないかもしれませんが、希望を持って共に歩みたいと願っています。
世界ルーテル連盟(LWF)の「Fast for the Climate」キャンペーンに対するリアクション
大和由祈(大岡山教会)
「気候変動を考え、温暖化を止めるために、気候変動の影響を受ける人々に連帯し、毎月1日に断食する」という“Fast for the Climate”キャンペーンの存在を私が知ったのは、去年の秋でした。4年前のLWFの世界会議で知り合った仲間たちが、COP19(国連気候変動枠組条約第19回締約国会議)の会議に出席し、かつ彼らが先頭に立ってこの活動を始めたというのは、私にとって衝撃でした。ニュースで耳にしたCOP19の会議に、まさかルーテルの青年が参加しているとは思ってもいなかったですし、このような活動を日本のルーテルの青年たちで思い付き実行するなんてことは考えられないからです。
確かに私たちも教会の行事や個人的に集まって色々な話をしたり聖書を読んだりはしていますが、そこで環境破壊や格差社会といった社会的問題について考える機会はほとんどないのが現状です。さらにそれらの社会的問題を私たち自身の信仰と結びつけて、「クリスチャンの青年として」考えるといったことは、ほとんどないと言えます。
また、日本のルーテルの青年たちが、このような世界の活動に乗り遅れてしまうのに、言語の壁があると思います。現在、この活動に関する記事は主に英語で書かれていますが、 私たちがそれらの記事を読み、世界の動きについていくというのは厳しいのが現状です。私もせっかくの機会なのでと思い、いくつかは日本語に翻訳しましたが、全てを扱うことはとても出来ません。
そしてやはり、日本の青年にとって、この「気候変動」「断食」といった事柄はなかなか身近なものではないのです。確かに日本にも、衣食住が充分でなくその日暮らしを余儀なくされている人はいますが、青年自身はほとんど苦労していないからです。 よってこの活動の意義がよく分からないという声もあるのです。
しかし、世界のルーテルの青年たちが始めたこの活動に、私も日本のルーテルの青年として関わりたいと思っています。1日断食ではなくまずは1食、そして1人ではなく何かイベントを通してみんなでという風に、活動の可能性を探っていきたいです。
(LWF-Youthに掲載された記事の日本語要約です。原文はこちらで。 http://urx.nu/aJTY)
ルーテルの東北支援は変わらない
石原明子(本郷教会 熊本在住)
熊本のルーテル学院中学・高等学校ハンドベル部の19名と教員2名が、7月29日から5日間、東北の被災地を訪問した。一行は、茨城県で開かれた「全国高総文祭 器楽・管弦楽部門」に出演し、その足で最初の訪問地であるいわき市を訪れた。 地元教会の住吉牧師のご案内で、双葉町の方が入居する仮設住宅、キリスト教会が連携して運営する食品放射能測定所「いのり」、そして保育園を訪問し交流した。
仮設住宅と保育園で行われたハンドベルの演奏の音色は、神様の呼吸のようにやさしく、ときにこれがハンドベルかと思うほどの躍動感にあふれた。「技術よりも祈りを届ける演奏を」と顧問の常定先生。「涙そうそう」の演奏が始まると、それまで宗教曲の音色に静かに耳を傾けていた仮設住宅に避難する皆さんが、静かな声で自然と歌詞を口ずさみ始めた。 誰が指示したわけでもない、こころから自然に湧き出た熊本の中高生と福島のおじいちゃんやおばあちゃんの合奏・合唱に、私は涙が止まらなかった。
熊本からの天使たちは、神様の呼吸をいわきに届け、また受け取り、次の訪問地、「となりびと」が支えた石巻に向かっていった。
宣教の取り組み「うたうた♪みしる」(復活教会)
名古屋城から徳川園一帯は「文化のみち」と呼ばれる。そこには歴史的建造物が多く残されているからだ。しかし、文化とは建造物ばかりでなく、人々が醸成するものでもある。
そこに注目し、その街に暮らす人が持つ得意なことを一緒に探検、体験、発見しながら、共に「育」まれ、文化の輝きを盛んに(「郁」)するために「見」て「知る」という企画が愛知県と名古屋市などの後援を受けて今年も開催された。それが「いくいくみしる(育郁見知る)」である。8月2、3日に行われたこのイベントに、11の体験ゾーンのひとつ「うたうた♪みしる」として復活教会が参加した。
プログラムは、日ごろ何気なく口ずさむ歌が実は賛美歌由来のものであるとの驚きを味わい、礼拝堂で共に歌うというものであった。また参加者は同じメロディで歌詞が異なる歌の歌くらべ、手話での歌、ルーテル教会とクラシック音楽家の関係についての話しなどを楽しんだ。運営の中心になったのは、3人の求道者と3人のオルガニスト、そして若い会員家族。
復活教会は、人がいない、高齢化、施設もないなど条件が整わないことを理由に何もしないのではなく、行動を起こすことが祈りとの思いで教会学校を再開し、また礼拝堂を登録有形文化財認定を受けた上で活用することに取り組んできた。
都合により他教派の会堂を使用したことが、却って、伝道とは個別の教会にではなく、いかにキリストにつなぐのかとの、意識の劇的な変化を与えられることになり、今、喜びにあふれている。 (広報室)
礼拝式文の改訂
式文改訂の理由について
白井真樹(日本ルーテル教団式文委員)
「言葉が軽い」「荘厳さに欠ける」。私たちが用いている現行の式文が発表された際に、また、使徒信条や主の祈りの口語化に対して、各地の教会で聞かれた感想です。現行の式文が初めて発表されたのが1982年ですが、私が所属する日本ルーテル教団の各教会では、ようやく最近定着したという印象があります。当初、冒頭のような批判的な感想もあった現行の式文ですが、長い歳月を経て、現在、私たちは、誇りを持ってこれを用いています。
さて、現行式文の発表からおよそ30年経った現在、ルーテル教会は、式文の改訂作業に取り組んでいます。今なぜ式文を改訂する必要があるのでしょうか。
まず、前回の改訂から礼拝式文の改訂30年以上の歳月が経過しているということ自体が大きな理由です。
先ほど、私たちの教団では現行の式文がようやく定着したと述べました。発表から定着まで実に30年を必要としたのです。今、改訂しておかなければ、この先、現行の式文をさらに30年も40年も、見直しせず用い続けることになります。
もちろん良いものが長く用いられることは素晴らしいことです。同時に、この30年の間に、様々な変化がありました。まずは日本語です。かつて使われていた言葉が、現代の人たちには通じなかったり、違った意味を持つようになったりしています。
私たちが用いている日本語聖書も、『明治元訳』(1887年)、『大正改訳』(1917年)、『口語訳』(1955年)、『新共同訳』(1987年)と改訂が重ねられ、さらに、2016年に『標準訳』が発行される予定です。30年が改訂の一つのサイクルとなっています。
礼拝の神学の研究も進んでいます。私たちが生きる社会の状況も変化しています。大震災と原発事故を体験し、平和憲法が危機に晒されている今日です。 音楽もまた、古きよき伝統的なものとともに、新しいよいものがたくさん生み出されています。
現行式文に対する課題もいくつか指摘されています。そうした中で、今ここで、私たちが改訂作業をしておかなければ、そのような様々な変化や課題を踏まえないまま、毎週の礼拝を続けていくことになりかねません。
また、キリストの教会は、「今」の私たちのために存在しているのとともに、「未来」の次の世代の人たちのために存在しているものでもあります。私たちが慣れ親しんでいるものが変わることに、寂しさを感じたり、新しいものをなかなか受け入れることができなかったりすることは、よくわかります。だからこそ、30年前も、現行の式文に、必ずしも肯定的とは言えない受け止めもなされ、定着するまでに長い歳月を要したのでしょう。
けれども、私たちが宣教的な視点に立つとき、絶えず「今」と「未来」を同時に見つめなければなりません。「今」のものを大切にしつつ、「未来」のために見つめ直し、新たなものを生み出すことの大切さを思います。
宣教100年を機に、次世代の若者たちへの信仰の継承と宣教を目標に掲げ、取り組んでおられる日本福音ルーテル教会から、式文改訂の呼びかけがなされたことに敬意を表します。これは、500年を迎える宗教改革の精神に実にふさわしいことであるとも言えるでしょう。
礼拝全体を検討し見直すために設置された式文委員会の働き「式文改訂」について、日本ルーテル教団と共に、その解説をお届けします。
キリスト教手話と出会って
原田満留(小石川教会)
地域で手話を学び始めた頃、本屋で小嶋三義先生の「やさしい手話―キリスト教手話入門」(キリスト教視聴覚センター)に出会いました。冊子のような薄いものでしたが、教会手話の魅力にグングン引き込まれていきました。手話で「福音」は「神」+「愛」+「教え」。「信仰」は「主」+「受け入れる」と表すのです。いつも見聞きする聖句も、手話にすると生き生きと心に迫ってくるのを感じました。
ろう者がおられること、手話通訳があることに惹かれ、私は小石川教会に導かれ、それまでの所属教会から転会をしました。そして教会手話研修の場で、小嶋先生ご本人との出会いも与えられました。
小嶋先生には教会手話通訳をイロハから教えていただきました。「教会手話通訳は説教を聞き、心で感じて自分の内に絵を描き、それを手で表すのですよ。ろう者はあなたの手話の中に絵を見ているのです。」「手話通訳者は、牧師と同じストールをかけているのです。手話をしている時、イエスさまと繋がっているのですよ。」との教えは、私の教会手話通訳の原点になっています。
通訳は、大変でないと言えばウソになりますが、事前に送られてくる徳野昌博牧師の説教を何十回も読むものですから、いつも祝されている自分に気づかされます。
通訳の時、自分では分からない手話表現は礼拝前にろう者の方に教えていただいたりします。頷きながら温かく見守ってくれるろう者の方。手話が見やすいように照明に心を配ってくださる方。「通訳ご苦労様。ありがとう。」と笑顔の方。できたての原稿と共に「質問でも何でも聞いて!いつでも力になりまっせ!」と、ひょうきんにサポートしてくださる徳野牧師。励まし合える通訳仲間など、多くの方々に支えられながら、手話通訳者として立たせていただいています。
今回、小嶋先生の新刊「手話で福音を伝えよう」(キリスト教視聴覚センター)の発刊により、新しく手話通訳者が起こされることを祈っています。
第2回全国青年バイブルキャンプ報告
竹田大地(TNG―YOUTH)
7月11日から13日、2泊3日の日程で、日本ルーテル神学校を会場として第2回全国青年バイブルキャンプが行われた。青年10名、スタッフ4名の計14名で聖書と向き合い、メッセージを作成した。
このプログラムの目的は信徒育成である。参加者の中にはすでに教会学校などで奉仕をしている者もいるが、 将来的に教会学校、幼稚園、保育園、諸施設そしてキャンプでの伝道の業を担う青年たちが、メッセージを語るために、そのヒントとなる聖書の読み方を学んだ。
高村敏浩牧師を講師として、『だれにでもできる楽しい聖書研究法―聖書研究の手引き―』(森優牧師著)から「深層法」と「経験法」を学び、それを手がかりにして、み言葉から、イエス・キリストが私に何をしてくださったのかということを聴き、味わい、それを受けて参加者それぞれが5分程度のメッセージを作成した。
このキャンプは、参加して終わりではない。むしろ始まりである。キャンプからそれぞれの生活の場に戻り、その歩みの中で聖書により一層親しみ、神が私にしてくださったこと(福音)をいつでも、どこでも問いながら信仰生活を送ってほしいという願いを込めている。そして受け取った福音を証しする者として歩むことへと遣わされるのだということを。
最終日、三鷹教会での主日礼拝の説教を聞く参加者の佇まいから、説教に対する姿勢もまた変えられていくだろうと思わされた。福音を受け取ろうと聴く者へ、み言葉による神の養いが鮮やかに示されていることを実感した。
手法を学ぶという気軽さをイメージしていたかもしれない参加者にとって、み言葉との関わり方を根本的に変えられる機会となったことは大きな恵みであった。思いがけない恵みを神が備えてくださった。
教会にとって重要なこのプログラムをこれからも継続していきたいと考えている。この働きを覚えて、福音の宣教とルーテル教会を担う人材が育まれる豊かなキャンプとなるよう祈りで支え、また参加者を送り出していただきたい。
「日本福音ルーテル教会における社会問題への関わり方」について(下)
事務局長 白川道生
前回は「信仰者として、一人ひとりが、それぞれに暮らしている社会の中で、まず祈り、そして行動し、発言する。」これがJELCの基本理解であるという考えについて説明しました。これを踏まえた上で、続いて二つの事柄を考えてみたいと思います。ひとつは、どのようにして「信仰と良心に基づく考え」をもってゆこうとするのか、との疑問です。
個人の判断に任せられているとする以上、個々人が諸々の情報から判断してゆくのが基本になります。聖書を読み、書物等から学び、メディアを通した諸々の意見を聞きながら考えるわけです。その一方で、暮らしに影響を及ぼしている社会問題に対して、「信仰者にとっても大事であるから、個々人でしっかりと考えてください」と呼びかけるだけで良いのか、といった議論を、昨第25回総会期のJELC常議員会で行いました。現実的に考えると、社会問題とは、人々の意見や態度が分かれる「問題」なので、容易には答えが出にくい難問となっているのが通例だからです。
そして昨年、 「 社会委員会規定」の改訂がありました。社会委員会の任務で、「(教会の内に向けて)JELCに連なる人々が、考えるべき『信仰と良心に基づく視点』について関連する学習情報を提供し、問題に対する理解や涵養を促すための役割を負う」と規定されました。すなわち、考える主体は個々人であるが、問題への理解が深められるように、信仰者及びJELCとの二要素を意識した専門委員会から速やかに一定の見解が示され、これを取り掛かりとして、出発するために活用してもらうよう意図されました。
※直近では2014年8月 に、「真の平和を実現する ために―集団的自衛権の 行使容認を鑑みて―」と の表題で、社会委員会見 解がでました。
もう一つは、個人でなく、全体教会として信仰的決断による発言や行動をするような事態への対処です。
教会全体の意志形成となれば、信仰者がそれぞれにおかれている立場・状況の異なりがあることは理解されるべきであり、全員一致ということには大変な難しさがあるのは事実でしょう。しかしながら、時に社会問題の深刻さや緊急度が高じてきて、看過しえない状況に進むならば、個人を超えて社会的・政治的な発言をするという姿勢をとってきました
2008年の答申にも、「正義や平和、人間の尊厳については、これが欠けたら神の意志に添わなくなると判断し、あるいは、その増進が神の意志に叶うことだと判断すれば、その信じるところを世に向かって教会が語ることを躊躇してはならない。」とあり、社会的・政治的な発言をする教会の姿が想定されています。
また、改訂された社会委員会規定にも、「(教会を超えた外に向けて)生じている事案や行為に対して問題性の指摘など、直接的な発言を行い、事態の解決に向けて速やかに発言と行動するための役割を負う。」と、教会の名をもって意思表明や行動をしようとする場面に関する言及が含まれました。
これは、単に声を合わせて発言すれば、当然、個人よりも大きな声として影響をもつことになるといった意味合いというよりも、深刻さや緊急度が高まる状況とは、およそ社会全体に混乱も生じている状況ですから、そこで教会はその特性上、苦難を抱えている社会のただ中で共に歩む姿を取り、社会との関わりに必然をもつ、その表現であると理解されます。
なお、全体教会の見解や立場の表明に際しては、「教会の一致は『福音の核心部分についての一致のみ』によって図られるものであって、社会的・政治的な見解の一致によるのではない。見解の相違は、教会を分裂させることに用いられてはならず、少数意見の者を排除する作用をしてはいけない」と、厳にルーテル教会の一体性と一致が保たれないことのないよう配慮と慎重さが求められるとの指摘が繰り返されております。
第21回 東教区宣教フォーラム報告「宗教改革を語れる 信徒になろう!」
準備委員会副委員長 金子直美(蒲田教会)
7月5日に東教区宣教フォーラムが蒲田教会で行われた。今年で21回目を迎えるこの企画は「信徒の、信徒による、信徒のためのフォーラム」として発足し、第13回以降は中央沿線・総武・城北・城南神奈川の地区の教会が2年毎にもちまわって続けてきたものだそうだ。というのも私自身が今回この企画に初めて携わった者の1人だからだ。他に2人を新たに迎え、今年は12名の準備委員で企画を進めてきた。
毎年テーマや内容を変えていたが、昨年の東教区50年記念大会を第20回目とし、それを区切りに、今後3年間を宗教改革500年へ向けてシリーズ化したものを企画しようということになった。そのテーマこそ「宗教改革を語れる信徒になろう」人生で起きた印象的な出来事の数々、その中で培われた信仰と思想を分かりやすく講義していただいた。
午後は『ワールドカフェ』という手法で、各々講義の感想や考えを自由に語り合った。特にゴールも無い語らいの中からどんなものが生み出されるのか個人的にはとても楽しみにしていたが、各グループの発表を聞くとなるほどと頷くものばかりであった(10月に報告書発行予定)。そしてもう一つ参加して良かったと感じたことは信徒が信仰について語る姿を間近にできたことだ。私のような若輩者は普段の教会生活では興味があっても大先輩の信徒の方々に、信仰とは、教会とは、はたまたルーテルとは!などという話題はなかなかもちかけにくい。しかし同じテーブルで互いに笑顔で、時に熱くそして時には虚空を見つめ呟くように語るその姿からは、ひしひしと感じるものがあった。164名の参加者に感謝したい。来年の第2弾も、乞うご期待!
宗教改革500年記念事業シンボルマーク募集
マルティン・ルターによる宗教改革運動は1517年10月31日に始まり、2017年には「宗教改革500年」を迎えます。
日本福音ルーテル教会でも、様々な記念企画がなされており、今後、広く社会の注目を集め、親しんでいただけるような、本事業のシンボルマークを募集します。
●募集要項(詳細は必ず公式HPで確認ください)
1.募集内容
宗教改革500年記念事業シンボルマーク
①マルティン・ルターによる宗教改革と500年の歴史的経過がイメージできること
②キリスト教会の伝統や品位が感じられること
③「1517-2017 マルティン・ルター 宗教改革500年」 の文字をマークと含めてデザインすること
④単色加工また、縮小拡大加工にも対応できること
⑤自作の未発表作品に限る
2.日程
応募締切 2014年10月31日必着
3.応募方法
提出物(作品とその解説 住所、氏名、電話番号)を提出先まで郵送・持 参・ もしくはメールにて送付
4.賞
優秀賞1名
賞金500ユーロ
5.提出先・問合先
〒162l0842東京都 新宿区市谷砂士原町1l1
日本福音ルーテル教会 宗教改革500年
シンボルマーク募集係」
メール koho@jelc.or.jp
6.結果発表
2014年11月27日 受賞者本人へ連絡
7.公式ホームページ http://jelc-orjp.check-xbiz.jp/bosyu.html