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機関紙るうてる

るうてる2014年1月号

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「おめでとう」と交わし合う一年を

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
ルカによる福音書 1章26~28節

 あけまして、おめでとうございます。新年もよろしくお願い致します。また日本の風習に従うならば、喪中の中お正月をお迎えになった方もいらっしゃることでしょう。主の慰めをお祈り申し上げます。
 新年を迎え、ご家族、ご近所や知人との間で「おめでとうございます」という挨拶を交わされたことでしょう。教会も同じです。元旦礼拝で、あるいは新年の初めての礼拝で互いに「おめでとうございます」という言葉を交換されたことでしょう。教会の中でも外でも日本に暮らすキリスト者は、区別することなくこの挨拶の言葉を交わしますが、しかしそれには違いがあるのではないかと思います。
 すでに教会の暦はクリスマスを迎えていますが、主イエスの誕生の前には様々な事が起こりました。その一つはマリアへの受胎告知です。天使ガブリエルはマリアに「おめでとう」と告げました。それはマリアにとってはとんでもない事で、おめでたくもないものでした。でも天使はそれを「おめでとう」と告げたのです。もっとも、この日本語訳は適切ではなく、「幸いあれ」という程度の日常的な挨拶であったと指摘する神学者もいるようです。そうなのかも知れませんが、この言葉の次には「恵まれた方」と言っていますので、いずれにせよ「おめでたさ」を伝える挨拶であったことには変りありません。「おめでとう」という挨拶は、マリアにはやっかいで、余計なものを背負わされたという思いがあったでしょうし、よりによってどうして「私が?」というやるせなさを覚えたことでしょう。
では、どうして恵まれた者なのでしょうか。その理由は「主があなたと共におられる」からなのです。
 私は、「主があなたと共におられる」という言葉ほど重要な言葉はないと思います。天使の告げたこの言葉が耳にした人の中で結実し、「本当にそうだ」と実感した時にこの言葉は力を持つのです。その人を励まし、希望を与え、喜びと感謝をもって生きる力を与えて行くのです。
 マリアが幸いだったことは、お腹の中でみ子の成長を実感できたことでした。「主があなたと共におられる」という言葉が結実していたのです。初めの不安と動揺は次第に小さくなり、「おめでとう」と告げられた言葉を実感していったのです。
 新年を迎えた私たちにもマリアと同じように、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」という祝福の言葉が語られています。ただ、私たちのお腹に神の子が宿ったのではありませんので、この言葉を実感することができません。でも幸いなことに、礼拝の際に与る聖餐がこの働きを担うのです。パンとぶどう酒にイエス・キリストがまことに現臨して下さっているのですから、それをいただくことによって、私たちもこの言葉を実感するのです。
 「主があなたと共におられる」という祝福は、マタイによる福音書では「神は我々と共におられる」と記されています。祝福はマリアだけに向かうのではないのです。すべての人に語られています。ですから、教会は主のご臨在を互いが確認し合う群れであり、それを第一に礼拝で体験していると言えるのでしょう。
 この一年間も礼拝において牧師の説教が語られ、讃美と祈りが唱えられることでしょう。諸集会で聖書が読まれることでしょう。家庭集会や病床訪問においても同様です。主のご臨在をみんなが実感でき、「おめでとう」という挨拶の言葉がいつも喜びとなり、生きる力となり、宣教の励みとなるような皆さんの一年をお祈りいたします。
日本福音ルーテル東京池袋教会  立山忠浩

宗教改革五〇〇周年に向けて ルターの意義を改めて考える(21)

ルター研究所所長 鈴木浩

 ルターは、律法の第一義的機能は、神の義の前での人間の罪と無力さを暴露することにある、と考えていた。その事実に直面した人間は、福音に寄りすがる以外には、この絶望的な事態から逃れる道はない、と悟るようになるためである。
 しかし、律法には二義的な意味がある。それは、罪に陥って堕落したこの世界が、これ以上悪くなることがないように、市民的秩序を維持するための機能である。ここでは、その秩序を、せめて我慢のできる枠内に収めるために、警察のような強制力が必要だとされた。
 ところが、そのうちに福音によって義とされた人が、義とされた人として、そのような社会の中で生きるためのガイドラインが必要ではないのか、と考えられるようになった。それが、いわゆる「律法の第三用法」と呼ばれる機能である。
 ここで一つの「判定基準」が導入される。ルターの盟友メランヒトンも、カルヴァンも、この第三用法の重要性を認識した。ところが、ルター自身は、この「第三用法」には、(多分、意識的に)深入りしなかった。それは、なぜであろうか。ルターがここで踏み留まったのは、ここである種の「神学的センス」が機能していたのだと思われる。

海外研修報告 第一回「テゼ共同体」について

箱崎教会・聖ペテロ教会 和田憲明

 昨夏、私はELCA主催のショートターム海外研修で、独りフランスのテゼ共同体とバングラディッシュのラルシュ共同体を訪れた。一回目は前者についての報告をしたい。

 テゼ共同体はフランスの小村テゼにある超教派の男子修道会である。年間を通じ、世界中から多くの人々が巡礼のごとく訪れ、そこで歌われる賛美は国々の間で歌われている。
 創始者となったブラザー・ロジェは第二次世界大戦中、戦火を逃れてやって来る難民を迎え入れ、黙想の時、沈黙の場として教会を開放した。この時訪問客が泊めてくれた見返りに礼拝に出ようとすることを彼は恐れ、一切強制をしなかったという。
 すると信じるものが違うとも、人々が集い共に座り始めた。今日テゼ共同体は25ほどの国々から集まったプロテスタント教会の諸派やカトリック教会を出身とする約100人のブラザーたちから成り立ち、分裂された教派や人々の和解の印となっている(参照『すべての人よ主をたたえよ-テゼ共同体の歌』サンパウロ)。
 ところでこのテゼの本質が十分理解されないまま模倣されたり、祈りの形が新奇なものとして敬遠されたりすることも少なくない。しかし回数を定めず繰り返される簡素なメロディーは、初代教会の伝統を再発見することで生み出された。そして歌詞は、聖書や初代教父たちの言葉から取られている。
 私自身の現場においても、礼拝や「黙想と祈りの集い」、園の子どもたちの間で用いている。これまでもお腹にいる我が子に母親が子守り歌のように聴かせたり、天の国に迎え入れられる方の最期の時、耳元で歌われたりしてきた。この歌を通じて、何事にも何者にも決して奪われることのない信仰を感じずにはいられない。
 今世界や個々のレベルで教会の教勢が伸び悩み、その度毎に信仰継承がテーマにあがる。キリスト者は折がよくても悪くてもみ言葉を宣べ伝えるというが、どう遺すのか。このテゼの記憶される歌・み言葉・祈りをゆたかに用いて宣教に生かせないだろうか。
今世界や個々のレベルで教会の教勢が伸び悩み、その度毎に信仰継承がテーマにあがる。折がよくても悪くてもキリスト者はみ言葉を次代に託すという。ではどのように遺すのか。まだひと工夫必要な面もあるだろう。しかしこのテゼの記憶される歌・み言葉・祈りに宣教の可能性が秘められているのではないだろうか。

全国ディアコニア・ネットワーク 第21回秋のセミナー報告

ネットワーク事務局長 山内恵美

 去る11月17、18日の二日間、大阪・釜ヶ崎喜望の家を会場に、全国ディアコニア・ネットワーク第21回秋のセミナーが開催された。関東から九州まで20名の教職信徒が集まり、「私たちの平和」をテーマに学びと活発な意見交換が行われた。
 一日目は来日中のワルター元宣教師より、1950年代から始まるJELCとドイツ教会とのディアコニアに関する交流の歴史やドイツでのディアコニアの働きなどについてスライドを交えお話を伺った。
 二日目は、名古屋めぐみ教会員の内河惠一弁護士から、「今こそ平和を考える」と題して、世界金融(資本)の力が支配している世界の動向や、日本の国が今どこに向かおうとしているのか、また憲法改正案の問題点などについて学んだ。
 ワルター氏は講演の中で、ディアコニアの働きは、専門職の働きだけではなく、教会員各自が隣人の困窮に関心を持ち、自分で課題を見出してその「人」に関わることだ、と示してくださった。このことは、「ディアコニアはイエス・キリストであること。仕えるために来た主であること。…ディアコニアは、特殊な領域の業でなく、キリスト者の全生活である。それは教会全体の中で捉えなおさなければならない。信仰は、常に生きて働く運動である。その運動こそ、ディアコニアである…」(森勉、第五回定期総会諸報告)の言葉と重なることも覚えたい。
 今回のセミナーの中で、当ネットワークの代表であった故三浦謙牧師の後任として、谷川卓三牧師を代表とする新体制が承認された。三浦前代表の姿がみえない淋しさを感じつつも、その遺志を受け継いで、教会にとって両輪の片側を担うディアコニア(私は、これを「愛の実践」と同義と捉える)の働きがますます広がることを願って、心熱くされたセミナーとなった。
 また、、当ネットワークのホームページやフェイスブックを立ち上げることとなった。より身近にディアコニアについて語り合い、学び合い刺激し合える場となることを願っている。
 当ネットワーク機関紙『緑豊かな国に』をぜひお読みいただき、次のセミナーにはぜひ一人でも多くの参加者が与えられることを祈り願っている。  

JLER(ルーテル教会救援)対策本部現地からのレポート

 
JLER派遣牧師 野口勝彦  

 新年あけましておめでとうございます。ルーテル教会救援の活動もいよいよ残り3ケ月となりました。これまでの皆様のお支えとお祈りに改めて感謝いたします。
 さて、ルーテル教会救援では、活動終結後も地元団体等が継続的な支援ができるよう支援者支援活動を行っています。今月号では、昨年の11月から始まった支援者支援活動と長期的な支援が可能な新たな支援品販売(仮設支援)についてご報告いたします。
【支援者支援】
 先月号でご報告しました、石巻市社会福祉協議会所属の仮設住宅の見守り活動を行っている訪問支援員の方を対象としたカラーセラピー講習会の第1回目が、昨年の11月28日に石巻市社会福祉協議会河北支所会議室で行われました。
 当日は、仙台市の色彩心理カウンセラーお二人の指導により、12名の訪問支援員と2名の地域福祉コーディネーター・地域福祉アドバイザーの合計14名の方が受講されました。最初は緊張気味であった皆さんも講習が進むにつれリラックスした雰囲気となり、講習の最後には個性あふれる作品ができあがりました。(写真上)講習会は来年2月まで計5回行われます。
【支援品販売(仮設支援)】
 先月号でご報告しました通り、これまで、ルーテル教会救援が各支援先と各教会等との間を仲介して行ってきた支援品販売については、今月から、各支援先と各教会等との直接販売に切り替わります。それに伴い、新たに二つの仮設団地で製作されている支援品の販売を開始します。
 その一つは現在、女性会連盟を通じて、材料支援を行っている「布草履」(写真右)とその隣の仮設団地で製作している「つるしびな」です。仮設団地の方が新たな住居である災害公営住宅(復興住宅)等に全員入るまでにはまだ5年近くの時間が必要と言われています。
 各種支援品販売を通じて、ルーテル教会救援の活動終了後も長期的な支援をよろしくお願いいたします。詳しくは、担当者(野口k-noguchi@jelc.or.jp)までお問い合わせください。

牧会者ルターに聞く

第三章「家庭の食卓」から
その三 ちゃぶ台での「教理問答」を生活の跳躍台に

石田順朗
   
一九四九年春、他教派より京都のルーテル教会へ転会を願い出たところ、早速にルターの『小教理問答書』と『キリスト者の自由』を読むように言われた。後者は偶々テキストになっていた青年会の読書会で、『問答書』の方は自宅で、声を出して、できれば家族と共に、ということだった。 「問答無用」の戦争も末期、疎開で遠縁の仏寺に身を寄せていた頃「禅問答」など意にも介せず、むしろ座禅を幾分心得て読経の経験もあったせいか、素直に納得した。でも「自宅で家族と共に」には少々戸惑ったように覚える。

 問答書といえば、『日曜日に読む荘子』、『もしも老子と出会ったら』、『下から目線で読む「孫子」』や『孔子はこう考える』の著者、山田史生弘前大教授の最近作『はじめての『禅問答』自分を打ち破るために読め! 』を思い出す。著者は禅問答理解の鍵に「いま・ここで」を挙げているようだが、全く同感。それに「わが家」でという場所、つまり「生活の座」を付け加えて強調したいのが今の心境である。

 農民戦争によって疲弊した教会再建のためザクセン候の指名でルターは、同僚たちと一五二六から二九年にかけて領土内の宗教情勢を数回巡視した。信徒の多くがキリスト教の教えに疎く、それに牧師たちの指導力不足を目撃した挙句、まず牧師向けに『ドイツ・カテキズム』(後に『大教理問答書』と呼ばれる)信仰書を著し、続いて一般信徒向けに、十戒、使徒信条、 主の祈り、洗礼、罪の告白、聖餐式などの意味を問答形式で「一家の主人がその家族に教えるために」極めて簡潔平明に編纂、一五二九年『小教理問答書』として出版された。
 読み通しての感慨を集約したい。それは『十のいましめ』での「なにものにもまして、」、「むしろ」の繰り返しと、『主の祈り』における「わたしたちの祈りがなくても、」、「しかし ・・」の執拗な反復だ。「第一のいましめ」への答「わたしたちは、なにものにもまして、神を恐れ、愛し、信頼すべきです」が、「第二のいましめ」以降 すべての「答」の筆頭に繰り返される。  ついで「それで、むしろ」に導かれる「肯定、積極化した能動的な答」の列記である(例,「第五のいましめ」の意味への答、「殺すな」�「助け、励ませ」)。『主の祈り』の第三のねがいへの答は、「わたしたちの祈りがなくても、神のよい、恵みあるみこころは、たしかに実現するのです。しかしわたしたちはこの祈りにおいて、みこころがわたしたちのところでもまた実現するように祈るのです」。  
 これはキリスト教入門、信仰の手引き、教理解説を超えて、まさに信徒必携。『十のいましめ』と『主の祈り』に至ってはそれこそ「座右の銘」よろしく、万人の日常生活への跳躍台となる「人生必携」である。
いしだ よしろう 引退牧師、九州ルーテル学院大学名誉学長、LWF元神学研究部長

聖夜(羊飼いと天使)

ステンドグラス工房 アスカ 山崎種之(松本教会会員)

 晩秋になると早くも商業主義に毒されたクリスマス商戦が始まります。
 噪音と華美な装飾がくり広げられ、聖夜が掻き消されてしまいます。聖書の聖夜は清く貧しく静寂の中でありました。
 アジアの片隅の小さな田舎町ベツレヘムです。
 住民登録令で遠くナザレ村から旅してきた二人の若者、大工ヨセフとマリアには宿がなく、家畜小屋に泊まりました。身重だったマリアは月満ちて初子を生みました。明かりも火もなく、水さえ乏しい家畜小屋には助け手もありません。神にすべてをゆだね、信頼するしかありません。
 みどり児を包んだのはヨセフの上着だったでしょうか。ゆりかごには飼い葉おけでした。この夜ベテンドグラスに制作しました。家庭で親や祖母たちから静かにクリスマスを語り伝えてほしいと願いながら。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。
ルカ福音書2章14節

ブックレビュー 「ルターの祈り」石居正己 編訳、 出版:リトン

定年教師 田中博二

三年後の2017年は、宗教改革500年の記念の年です。ご紹介する「ルターの祈り」はその時を覚え、備えていくのにふさわしい一冊です。もともと聖文舎から「ルター選集1」として出されたのを、今回リトン社より復刊されたものです。
 ルターの宗教改革者としての働きと教えについては知られているところが多いのですが、そのルターの背後にある祈りの人としてのあり方は見過ごしにされてきたのではないでしょうか。ルターが日々の暮らしの中、現実の生活の只中で祈ることを通して、みことばに仕える姿を示していることが明らかにされています。ルターがまことに砕かれた祈りの人であったことをよくよく知ることが出来るのです。
 「単純な祈りの仕方」「魂の神との対話」そして折々の「礼拝の中での祈り」などの項目が記されています。その中で、「罪人への恵みを願って」で次のように述べています。
 「罪のゆるしと救いを求め、神の恵みの中に生きようとする信仰そのものを願う祈り」。ルターにとって、信仰は個人のなかにあるものではなく、神へ願う祈りそのものだということです。また、説教者として召された者が神のみ前にて執り成しを願う「牧師控え室での祈り」など具体的な祈りのことばが語られています。神のみ前でへりくだり、謙遜であった改革者ルターの姿が彼の祈りのなかに込められています。
 ルターの祈りのことばは、黙読するだけではなく、ことばに出し音読して全身で聞くことによって、より豊かな実りとなります。ぜひ、あなたの声に出して祈ってください。
 翻訳・編集された石居正己先生のお人柄も伝わってきます。神学校で熱意を込めて語られた日々を思い出します。
 出版社リトンはルーテル教会関係の著作を多数出してくださりその努力に心から感謝します。

蒲田教会にオルガン設置

蒲田教会 渡邉純幸 

私たちの日本福音ルーテル蒲田教会は、1999年にあるご家族から貴重なパイプオルガン指定献金が捧げられました。そして、2001年の臨時総会で、蒲田教会へのパイプオルガン搬入設置が決議され、オルガン献金が始まりました。その後、諸般の事情により中断しておりましたが、一昨年の2011年1月に開催された年次総会にてオルガン搬入設置が再決議され、長年来のパイプオルガン搬入設置計画がやっと実現する運びとなりました。
 ご存知の通り、オルガンは百年単位で音を奏でる楽器であり、このオルガンもメインテナンスにより数百年は十分に持つもので、建物が壊れても、オルガンは生きるのです。そして、オルガンはそれ自体のすばらしさを持つ楽器です。その特性は次世代への信仰の継承のためにも、また、地域の文化的財産としても貴重なものとなり得るものです。
 ルーテル教会のオルガニストでもあったJ・S バッハの宗教音楽をはじめ、バロック音楽、またフランス古典音楽に至る楽曲を奏でるに相応しい楽器として、礼拝はもとより、蒲田ルーテル幼稚園をとおしての幼児情操教育、音楽教育、更には地域の方々への音楽の発信地としての役割を担いつつ、癒しの空間と場所を分かち合いたいと願っています。
 直近では、奉献聖別感謝礼拝の翌日の12月2日午後1時過ぎより、蒲田ルーテル幼稚園児94名とその保護者、そして授業の一環として、大田区立仲六郷小学校5、6年生の生徒約120名と校長先生はじめ担任教師をお迎えしての、フランシス・ヤコブ氏(フランス・ストラスブルク国立音楽院教授)の演奏によるミニコンサート(公開演奏会)が開催されました。
 これから更に、蒲田教会のパイプオルガンを通して、教会はもとより、地域の方々も含めて、多くの人々の魂の慰めの場となることを願っています。
 ところで、パイプオルガン設置についてですが、教会役員会では、パイプオルガンの様々な制作会社の検討に入り、機種選定等の準備を具体的に進めて参りました。礼拝音楽から一般コンサート用としても幅広く用いられることを基本に入れ、質的要素および実績、そして購入金額等、大所高所から検討した結果、最終的に、フランスのオーベルタン社のパイプオルガンの購入が確認されました。オルガン仕様は、14ストップの837本のパイプ(金属パイプ737本、木管パイプ100本)からなっています。
 詩編150篇最終篇には、「息あるものはこぞって」とあります。当時は角笛、琴、竪琴、太鼓、シンバルや踊りで神を賛美をしました。蒲田教会ではパイプです。
 この837本、一本一本のために全国各地から、祈り支えて下さったお一人おひとりを覚えます。パイプオルガンの購入決定から、すでに14年もの歳月を経過しました。しかしこの「時」を、神さまは今日のために、時空を越えて備えて下さいました。14年前の始まり、選定、契約、搬入設置、そしてこの奉献のために、蒲田教会信徒のみならず、面識のない多くの方々までも、この奉献に向かって祈り、支えて下さいましたことを覚えるとき、837本によって奏でられていることの大きな意味を、私たちは知ることができます。これからも、この地域に、全国に、このオルガンの音と共に高らかに救いの喜びを歌いたいと思います。

全国教師会退修会二〇一三報告 主題「神学する教会」教会の苦悩と神学

全国教師会会長  永吉秀人

 去る二〇一三年一一月一八日~二〇日、千葉県幕張にて四年ぶりとなる全国教師会による退修会(リトリート)が行われました。一〇一名中、九〇名の参加を得て、盛会とされました。全国レベルでの退修会は三年から四年に一度開催されて来たもので、その都度、全国教会総会に先駆け、教職者集団として宣教の現場(教会)における旬の神学的課題や社会問題への取り組みについて情報を共有し、進むべき方向の確認がなされてまいりました。
 今回は、「神学する教会」教会の苦悩と神学と題し、日本福音ルーテル教会としての神学(考えと方向)は誰が決めるのか、どのようにして決定されて来たのかについて、まずは初代教会に始まるキリスト教会の神学成立の歴史に学び、さらにここ三〇年来取り組まれて来た、日本のルーテル教会の神学的変遷とその成果を辿りました。
 この作業が必要であると全国五地域(教区)の教師会長を交えながら全国教師会拡大役員会として設定したのは、近年、教会の(特に教会を牽引すべき牧師の)考える力、行動する力が弱まってきたのではないかと危惧されるところによるものです。 神学は、教会の在り方、活動を決定します。教会は、その神学がなければ一歩も身動きはとれないのです。ゆえに、神学を鍛えることにより、教会の宣教力を深め、拡げて行こうとするのが第一義的狙いでありました。
 また、現在に至る数年来、本教会常議員会の下で式文委員会が設置されており、「主日礼拝式文改定試案」の検討が重ねられています。 この作業日程として、ルターによる宗教改革五〇〇年祭となる二〇一七年に出版が目指されているため、今回の全国教師会での試行、協議、調整、共有が必要となりました。何よりも、これからの日本のルーテル教会として、その神学の方向性が式文の内容と構成、そして派遣という展開に色濃く反映されるため、現在の、そしてこれからの神学が問われているのです。
 第一日目、開会礼拝は主日礼拝式文改定試案によって行いました。 続く主題講演は、神学校の鈴木浩氏により、先に述べましたように講演をいただきました。
 第二日目、朝祷では安井宣生氏より本郷教会の礼拝改革における伝道的視点の紹介。午前の発題は、神学校で礼拝学を担当する平岡仁子氏より、礼拝式文改定の指針とアウトラインについてと、それに伴う検討課題について聴き、議場からも大いに活発な発言をいただきました。
 午後、初めの発題は、神学校校長である江藤直純氏より神学校の将来計画と改革について聴き、従来の認識とこれからの神学教育の使命を新たにしました。
 午後の後半は、退修会の中心であるパネルディスカッション。「神学教育における宣教的視点と宣教の現場における神学の営み」というテーマの下、三者の立場から発題を受けました。三者とは、神学校の立場から石居基夫氏、教会を持ちつつ神学校の立場から宮本新氏、教会の立場から小副川幸孝氏の三氏。これらに対して一名ずつリアクターを立て、順に角本浩氏、太田一彦氏、西川晶子氏の応答をいただきました。
 続く分団協議では、①式文改定、②神学校将来計画、③牧師の神学的研鑽、④原発問題、の四組に分かれ、それぞれに熱心な討議が展開されました。晩祷は和田憲明氏によりフランスのテゼ共同体での体験の紹介。
 第三日目、朝祷はエリック・ロス氏。残された午前中に、①牧師レビュー制度の東教区実施状況について大柴譲治氏、②となりびと活動について野口勝彦氏、③核問題について内藤新吾氏、の各氏より活動報告を受けました。閉会礼拝は、岡田薫氏。
 日本福音ルーテル教会の教職者集団として、教会に託された課題は多く、使命は重いものばかりでありますが、絶えず情報を発信し合い、共有を怠らず、頭と心と体というそれぞれに与えられた分を駆使して、課題に取り組んでまいりたい。

訃報

ラッセル・サノデン牧師 1111月27日逝去。享年89。
アメリカの「福音ルーテル教会」(ELC)の宣教師として1952年に来日。ELC日本伝道本部であった小石川教会に、1954年から1958年まで宣教師として働き、その後東海福音ルーテル教会、そして東海教区で働き、九州教区の宮崎教会を最後の任地として、1988年に離日、帰国されました。

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