「処置台のキリスト」

イースターの朝、石が転がりました。しかし、転がったのは、イエスが葬られた墓の石ではありません。
あれは、私が牧師になって2年目のイースターの朝のことでした。このとき、私には一つだけ気になっていたことがありました。それは、洗礼盤の位置です。
この日は、当時1歳を過ぎた娘の洗礼式を予定しておりました。前の日に礼拝の準備は終えていたのですが、当日の朝になって、洗礼盤の位置が気になってしまいました。なぜなら、会衆席から見えにくい位置に洗礼盤があったからです。けれども、前日に、私は洗礼盤を動かさないでおくことにしました。なぜなら、この洗礼盤は石でできていて、とてつもなく重かったからです。
それにもかかわらず、当日の朝に、やはり洗礼盤の位置が気になってしまった私は、会衆席から見える位置に洗礼盤を動かそうとしました。そして、石が転がりました。段差のところで、ほんのちょっとバランスを崩し、一気に洗礼盤が倒れてきたのです。その結果、右手の中指が洗礼盤の下敷きとなりました。そのおかげと言いますか、洗礼盤は無傷で済みましたが、私は大けがをしてしまいました。
妻の運転で救急外来に行き、6針ほど縫う処置を受けました。処置台で横になりながら、心の中は、イースターの司式・説教、そして洗礼式をすることができない申し訳なさと情けなさとでいっぱいになっていました。
けれども、私の心に迫ってくるものがありました。それは、「今日は、イースターだ」という思いです。つまり、自らの不注意で牧師としての務めを果たすことができず、大けがをして処置台に横たわるしかない私だったのですが、十字架の傷を負ったまま復活したキリストが、この処置台の上にも共にいてくださる実感のようなものが湧いてきたのです。
「復活の主が出会ってくださった」と神秘的に言うことができるかもしれません。しかし、それ以上にやはりみことばが共にあったように思います。ヨハネによる福音書は、復活したイエスの手と脇腹に十字架の傷痕が残っていたと記します。ヨハネが伝える復活の主は、十字架の傷を負った主です。そして、復活の主は、「見ないのに信じる人は、幸い」(ヨハネによる福音書20・29)と言いつつも、「わたしの手を見なさい」と十字架の傷を見るようにと促される主です。
私たちは、何を促されているのでしょうか。キリストは、私たちと同じように体を持ち、痛みを負い、傷つかれた方です。これを見なさいと言われます。復活して、傷一つないキリストではなく、ボロボロになるまで痛み、十字架で処刑されることになっても、それでも私たちのために生き抜かれたそのキリストを見なさいと言われるのです。このキリストがみことばとして私たちに届けられています。だからこそ、私は処置台の上でも、復活の主を身近に感じることができたのかもしれません。
体に傷を負ったまま復活したキリストは、自らのために復活したのではなく、私たちと共に生き抜くために復活されました。キリストの手と脇腹の傷は、キリストが私たちと共に生きておられることのしるしです。ですから、私たちも、それぞれにからだを持ち、傷を負う弱さがありますが、だからこそ他者とつながることができます。社会的弱者、経済的弱者を排除するのではなく、共に弱さを負う者として生きることができます。他者の手を取ろうとするとき、私たちの手は傷つくかもしれません。しかし、私たちに手を伸ばされるキリストは、その手に傷を負っても、私たちと共に生きることを諦めませんでした。「わたしの手を見なさい」。傷ついたキリストの手が、私たちと神とを、私たちと他者とを結びつけるのです。
「聖トマスの不信」(1634年)レンブラント
