1. HOME
  2. ブログ
  3. バイブルエッセイ
  4. 違うけれど同じ

刊行物

BLOG

バイブルエッセイ

違うけれど同じ

「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。」
(コリントの信徒への手紙一12章14節) 

 早いもので、牧師になって20年が過ぎました。思い起こせば「阪神淡路大震災」や「オウム地下鉄サリン事件」など、日本社会の転換点にあたる年に、私は牧師としての歩みを始めたわけです。前任地は大学でしたが、現任地は附属幼稚園をもつ教会です。右も左も分からない状態からスタートした幼稚園の園長職も、8年経ってようやく板についてきたのではないかと思っています。

 また不思議なことに昨年度から、私が卒業した二つの大学より兼任講師の依頼を受け、久しぶりに大学の教壇でキリスト教倫理を講じる機会をいただいています。生殖補助医療や人工妊娠中絶、安楽死・尊厳死の問題をあらためて論じる必要に迫られて、この20年間の経験を通して、私の視点も変化してきたことを実感しています。この8年間、幼稚園で出会った様々な園児たちと保護者たちとのかかわりが、私を成長させてくれています。

 世界で最初の幼稚園を創立したのは、ドイツ人フリードリッヒ・フレーベルです。彼はその著書 『人間の教育 』のなかで、こう述べています。「遊戯すること ないし遊戯は、幼児の発達つまりこの時期の人間の発達の最高の段階である。というのは、遊戯とは‥‥内なるものの自由な表現、すなわち内なるものそのものの必要と要求に基づくところの、内なるものの表現にほかならない‥‥あらゆる善の源泉は、遊戯のなかにあるし、また遊戯から生じてくる。力いっぱいに、また自発的に、黙々と、忍耐づよく、身体が疲れきるまで根気よく遊ぶ子どもは、また必ずや逞しい、寡黙な、忍耐づよい、他人の幸福と自分の幸福のために、献身的に尽くすような人間になるであろう‥‥母親よ、子どもの遊戯をはぐくみ、育てなさい。父親よ、それを庇い、護りなさい」。

 私の園では毎年、卒園する年長さんとのお別れ焼きそばパーティーを行っています。年中・年少児が野菜を刻み、先生たちが大きなフライパンで作ってくれた山盛りの焼きそばを、皆で食べるのです。
 ある年のパーティーでのこと、年少さんのRくんとKちゃんが、同じテーブルに着いて2人で泣いています。Rくんはダウン症児。ちょうどそのそばを通りかかった私は、頭の中で勝手に想像を膨らませ、Rくんは泣いているKちゃんに共感し、一緒に泣いているんだろうと考えました。実際、Kちゃんはちょっとしたことで泣いてしまうことが多い園児でした。まさしく「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12・15)という聖書の言葉を、Rくんは自然に実践しているのだろうと。

 後になって、クラス担任の先生から事のいきさつを聞きました。Rくんはいたずら好きで、テーブルに置いてあったKちゃんのランチョンマットをわざとテーブルから落としたというのです。泣いて訴えるKちゃんに気づいた先生がRくんを注意したので、2人そろって泣いていたというわけです。もちろんRくんに特別な悪気があったわけではなく、ちょっとしたいたずらのつもりだったことは明らかです。しかしこの一件を通して、KちゃんはRくんに悪気がなかったことを学び、Rくんは自分のいたずらが他人を傷つけることがあることを学んだのだと思います。そして私は、ダウン症児はいつも無垢で善意に満ちているという、ステレオタイプの障がい観の間違いに気づかされました。園児たちも、園長先生も、こうして成長していきます。

 もしもこの幼稚園に、テーブルからわざとランチョンマットを落とすような園児が1人もいなくなったら、園児たちも先生たちも成長する機会を奪われるということに気づく人は少ないと思います。
 「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。」(コリント一12・14)

 多様性の担保される社会は、豊かな社会です。教会はぜひ、多様性の擁護者であって欲しいと思っています。

日本福音ルーテル雪ヶ谷教会牧師 田島靖則

関連記事