1. HOME
  2. ブログ
  3. バイブルエッセイ
  4. これからのこと

刊行物

BLOG

バイブルエッセイ

これからのこと

この時節、どの教会も、教会総会を迎え、新たな年度へと向かっていることでしょう。教会の目標を掲げて、新たな旅立ちをしようとしているに違いありません。どうぞ新しい年度が、主に祝福された年となりますようにお祈りします。
ところで、目標や、目的を掲げて、目指すのは人間だけでしょう。しかし教会の目標や、目的は、一般社会に良く見られる、〈目標〉、〈スローガン〉とは異なっているように思います。つまり達成目標などと異質です。あくまで生きる目的に深く根ざしているからです。自ら生きることに関係しない、教会目標など無意味です。何を目指して生きるかは、私たちにとって、非常に重要な課題です。

〔まず、神の国とその義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな、加えて、あなた方に与えられる。〕(マタイ6章33節)
イエスが、〈山上の説教〉の中で説いた教えです。イエスは、私たちの生きて行く上での、処方箋を手ほどきしました。〈思い悩むな〉と。私たちの日常抱える、心配事は絶えません。次から次に起こります。また不安も底流に抱えながら生きています。それへの対処法を弟子に指南しました。しかしそれらへの細かい拘りを、根本的に解決する方法を、生きる目標という形で教えました。それが上記の言葉です。
果て、この目的をどのように進めるかが大きな課題です。今日、教会は足踏みをしているような状況です。最も大きな問題は、先が見えないということでしょう。
私は、この春引退しますが、今までの歩みを振り返ると、昨今の教会を取り巻く環境が厳しさを増しているとの認識を抱かざるを得ません。今教会は、まさに袋小路にぶち当たっているようです。
しかしキリスト教の歴史は、何と言っても、2000年間の歩みを控えています。これに学ぶことが肝要かと考えます。そうした時に、この今の困難は、これから迎える大きな発展の礎との結論に達します。私は、そのことを〈山上の変容〉程良く伝えている記事はないと考えます。

〔この話をしてから八日程経った時、イエスは、ペトロ、ヨハネ、及びヤコブを連れて、祈るために山に登られた。〕(ルカ9章28節)

山上の変容は、理性的には理解が困難な記事です。しかしルカの場合、重要な言葉は、《祈るため》との言葉です。マルコにも、マタイにもその言葉はありません。ルカ特有です。ルカは、ことのほか、重要な場面では、《祈り》がなされています。如何にそれが大切かとのことです。
イエスは、〈山上の変容〉の記事で、受難、十字架の向こうにある、復活を示しました。そしてそれこそが本当の目的だと示唆しました。

苦しみは、人間を無意味さに直面させます。結局は無目的にさせます。それが怖いのです。忍耐には限界があります。しかし目的がありさえすれば耐えられます。ドイツのナチス時代に強制収容所での過酷な経験を経て生き延びたフランクルが、辿り着いた結論は、〈生きる意味こそが、どんなに辛い経験をも耐えさせてくれる〉と言っています。それは言葉を変えて言えば、〈生きる目的〉があるか否かということに、生きる力を保持できるかということに煎じ詰めることができます。しかし人間は、目的を往々にして見失いがちです。だから祈るしかないのです。現在の苦しさの大きさに耐えかねて、目的を見失ってしまうのです。危機に直面すれば誰だってそうなります。

〔彼らは栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで成し遂げようとしておられる最期について語り合っていた。〕(ルカ9章32節)

イエスの最期とは何か? これが重要であると考えます。イエスの〈最期〉とは、言うまでも無く、十字架です。しかしそれが解放に繋がっているというのが、出エジプトとの関連で明らかになります。つまり最期が、新たな旅立ちなのです。これこそが、キリスト教の出発点と言えます。それを実現するには、〈祈り〉しかないのです。何かが終わるところで、新たな始まりが起こる。これこそが、主の導きと言えるでしょう。何故なら、主の働きとは、〈贖い〉に集約されて行くからです。

日本福音ルーテル栄光教会・沼津教会牧師 渡邉 進

関連記事