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バイブルエッセイ

喜び祝う神

「どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。

(詩編104編31節)

 各個教会規則(雛型)第3条には、教会の目的が次のように規定されています。

 「この教会は、キリストの命に従って、信仰の交わりをなし、福音の宣べ伝え、みことばを教え、愛による奉仕をなし、これらのことによって神に仕えることを目的とする」。

 教会はキリストの命じられたことに従って、伝道をし、教え、人々に奉仕をするのですが、それらはすべて神に仕えるためである、というのです。私はこの「教会の目的」の大切さを共有するため、毎年教会宣教計画の冒頭に、前提として明記することにしています。教会が教会であるために、その目的を見誤ってはならないと思うからです。

 教会の宣教と聞くと、私たちは人数や財政といった結果に目を奪われてしまうことがあります。いかに人が増えたか、経済的にどうかなど、これらを宣教の成果としてしまうのです。しかし大切なことは、目的なのだと思うのです。私たちのなす業がいかに乏しく、成果がみえなくとも、それが神に仕えるとの目的に沿う限り、それは尊いのです。反対に、私たちのなす業がどれほど効果的にみえ、人の目に輝いて映ったとしても、神に仕えることを忘れているなら、それは虚しいのです。いずれにしても、私たちが先の教会の目的から知らなければならないのは、教会は内に向かうものではなく、外に向けて働くものであるということです。すべての人々に仕えることを通して、神に仕える。これが教会なのではないでしょうか。

 聖霊降臨を指して「教会の誕生日」と言われることがあります。それは聖霊降臨の場面(使徒言行録2章)に、教会が教会であるために欠かせない要素が示されているからにちがいありません。それは「一同が一つになって集まっている(1節)」、「(霊が)一人一人の上にとどまる(3節)」、「〝霊〟が語らせるままに…話し出す(4節)」の三つです。「〝霊〟が語らせるままに…話し出す」ということですが、宣教は人から出るものではなく、聖霊によるということです。たとえ無力に思われても、聖霊が語らせるままに話し出す、これが教会なのです。そしてそのために、「(霊が)一人一人の上にとどまった」のでした。それは一人一人の違った個性が、それぞれに大切にされているということです。聖霊によって、その一人一人を通して宣教がなされる。これが教会なのです。

 「一同が一つになって集まっている」ということについてです。礼拝に集められる私たちは決して同じではなく、違う考えを持った者の集まりですから、違いを認め合い、赦し合いながら集まっていると言えるでしょう。これが一つになるということです。それは牧師によってでも、役員会によってでもなく、ただキリストの名のもとに、違いを尊び、一つとされるのです。そしてこの「一つになる」とは、各個教会にとどまらず、ルーテル教会全体についても、同じように言えるでしょう。ルーテル教会は一つの教会であるのですが、どうしても目に見える各個教会のことを思ってしまいます。しかしキリストの名のもとに、全国のルーテル教会が一つとされているのです。互いの違いを認め合い、大なるものも小なるものも、違いを認めつつ、一つになれる。これがルーテル教会なのだと思います。

 「改訂共通聖書日課(RCL)」によると、ペンテコステには詩編104編24節以下が選ばれています。31節に「どうか、主の栄光がとこしえに続くように。/主が御自分の業を喜び祝われるように」とありました。

 「主が御自分の業を喜び祝われるように」とは、御自分の業である私たちを含めたすべての被造物を喜び祝われるということなのでしょう。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創世記1章31節)という場面を思い起こします。

 私たちが神に喜び祝われるようになるのは、私たちの努力によるのでも、私たちが役に立つからでもありません。ただ、私たちがキリストの名のもとに違いを認め合って一つとされ、植えられたそれぞれの地において、ただ神に仕えるために人々に向かって宣教の業に励むようにと、聖霊が注がれたことによるのです。すべて神の御業によって、私たちは教会とされて生きるのです。神はそのような私たちを、ご自分の業として、喜び祝われるのです。

日本福音ルーテル藤が丘教会牧師 佐藤和宏

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