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バイブルエッセイ

心を委ねる

わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。 喜んでわたしの道に目を向けよ。」箴言23章26節 精神科医の高岡健氏は、二つの精神鑑定例を紹介しています。ある重大事件を引き起こした少年は、事件後にこう言っています。「人生で一番辛かったのは、修学旅行の席決めです。一緒に座る人さえ決まったら、修学旅行は成功したも同然。ひとりだと自分だけ惨めで、ものすごく恥ずかしい。ひとりになったら地獄です」。また別の事件を引き起こした少年は、こう言っています。「人生をやりなおせるものなら、クラス対抗リレーの日からやりなおしたい。自分の足が遅いために、皆に迷惑をかけたことを、とても後悔している」。  彼らにとって、人生で一番辛かったことは、事件とは無関係の「修学旅行の席決め」であり、「クラス対抗リレーで、皆に迷惑をかけたこと」なのです。「皆と同じでなくてはならない」という考え、あるいは「友だちがいるのが正しい、いないことは脱落者だ」という考えが、彼らを苦しめている、と高岡健氏は述べています。 さて、詩編34・19には、次のように記されています。「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる」。「打ち砕かれた心」、「悔いる霊」とは、自分の行ないによって自分を作り直そうとするのではなくて、神が私たちを新しい人間にしてくださることを、受け入れる心です(H.J.イーヴァント)。  一人の少年が、修学旅行の列車の中で、一人で座っているのを目撃したら、「だれか、彼の隣りの席に座りなさい」と生徒たちを叱責することが正しい、と私たちは考えるかもしれません。しかしキリストは、叱責するのではなく、そっと彼の隣りにお座りになる方です。また、クラス対抗リレーで、自分の足が遅いために、クラスの皆に迷惑をかけたことを後悔している少年を目撃したら、「リレーに勝つことよりも、クラスが一つになって頑張ることが大切だ」と生徒たちを叱責することが正しい、と私たちは考えるかもしれません。しかしキリストは、叱責するのではなく、足の遅い少年と一緒にゆっくり走られる方です。  このような仕方で、神は、孤独な魂の近くにいてくださいます。ただし、そのことに気づくためには、自分の行ないによって自分を作り直そうとするのではなくて、神が私たちを新しい人間にしてくださることを、受け入れる必要があるのです。 例えば、渡辺信夫氏は、国立ハンセン病療養所の奄美和光園で出会った能津さんについて、次のように述べています。能津さんは、善い行ないを積んで救いに入ろうとして、奉仕活動に励んでいました。ところが、そこへ失明が襲いかかったのです。善い行ないを積む道は、断ち切られました。彼はその絶望と挫折から、「信仰のみ」にすがって、立ち直ったのです。この話を聞いて 、 渡辺氏は叫びました。「それはルターの体験と一緒じゃないですか」。  箴言23・26には、次のように記されています。「わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。喜んでわたしの道に目を向けよ」。この箇所について、D.ボンヘッファーはこう言っています。一人の人間がキリスト者となるということは、自分からは何もできないことをいつも認識して、「どうか、この世の事柄にかかずらっている私の心そのものを取って、それをあなたのみもとで堅く保って下さい」と祈ることです、と。  そのように自分の心を神に委ねるとき、修学旅行の列車の中で一人で座っている少年の隣りに、キリストが座っておられることに気づくことができます。またそのとき、クラス対抗リレーで足の遅い少年と一緒に、キリストがゆっくり走っておられることに気づくことができます。  そして、私たちもイエス・キリストの道に目を向けて、キリストがご自身を私たちに与えられたように、私たち自身を小さなキリストとして隣人に与えるようになるのだ、と思います(M.ルター『修道誓願について』参照)。  沼崎勇(日本福音ルーテル京都教会牧師 

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