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バイブルエッセイ

試練の中で

「人はパンだけで生きるものではない。/神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」
(マタイによる福音書4章4節b)

 教会の暦では、「顕現節」が終わると「四旬節」(受難節)と呼ばれる季節が始まり、歴史的な聖書日課では、この時、イエスが荒れ野で悪魔の試みにあわれたという箇所が読まれてきました。
 これがこの季節に読まれるのは、この誘惑の出来事が、単なる誘惑や試練に打ち勝つということではなく、私たちの生き方全体の問題だからです。
 私たちは、自分の人生や生活をより楽しい方に、出来るなら苦しいことや悲しいことではなく、豊かで、安心して、楽に暮していきたいと願います。しかし、この願いが、実は、私たちに苦しみや悲しみを起こしていることも事実です。だから、イエスの誘惑は、まず、そういう私たち自身の姿と問題をはっきりさせているのです。
 イエスの誘惑は、彼が洗礼を受けてからの出来事であると記されています。私たちで言えば、洗礼を受けてクリスチャンになってからということです。これは大変象徴的です。神を信じて生きるというのは、人生を、本当の意味で深く豊かに生きるということですが、神を信じたから苦しいことがないのではなく、苦難や試練の中でこそ、本当に深く生きる道が開かれることをイエスはここで示されたのです。
 聖書は、ここで三つの誘惑を記しています。その第一は、イエスが40日の断食後に悪魔が来て、「あなたがもし神の子なら、その石ころをパンに変えたら良かろう。そのような力があなたにはあるではないか」と誘ったというのです。これは、断食後の喉から手が出るほど食べ物が欲しい時のことです。しかし、ここで注意深く聖書を読むと、悪魔の誘惑の言葉は、パンを食べることではなく、石をパンに変えることです。つまり、生きることそのものではなく、石をパンに変えるような生き方のことが問題になっているのです。
 その他の誘惑については、誌面の都合上省きますが、これらは誘惑というより、むしろ、私たちが積極的に良いことだと思って求めていることです。少なくとも食べることに困らない生活をし、権力や権威というほどではないにしても、人から良く思われたい、認められたいと思っています。自分がないがしろにされるといって腹を立てることは沢山あります。また、安心して暮したいと願っています。だから、何とかしようとあくせくします。ここで「誘惑や試練」として記されていることは、実は、私たちが普段、願い求めていることです。むしろ、私たちがこちらからそうしてもらいたいと思うようなことばかりです。
 しかし、聖書はこれが誘惑であり試練だと言うのです。
 なぜなら、豊かになり、安心して暮したいがゆえに、そして、他の人に認められたいがゆえに、恐れや不安に捕らわれるからです。
 そこで、イエス・キリストはどうされたかを考えてみましょう。キリストは、ここで単純に神の言葉に依り頼まれています。神の言葉に立つことで、ご自分の生きる姿勢を明確にされました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の言葉で生きる。神を試みてはいけない。仕えられるのではなく仕えること。」このイエス・キリストの誘惑への答えは、彼の生涯を見ると、その姿がはっきりしてきます。
 私たちは、無意識に、知らず知らずのうちに、聖書が誘惑として示したことを望んで、大切なものを失い、不安や恐れに駆られて生きているのかもしれません。しかし、私たちは、キリストの言葉を、今日、思い起こしたいと思うのです。
 「私はパンだけで生きるのではなく、神の言葉によって生きる。私は神を試みずに、神に信頼して生きる。私は、人から仕えられることを望むのではなく、人に仕えて生きる」(私訳)。それが、試練の中で苦難や辛さを担って、人生を切り開いて行く時の一つの姿勢であること。そのことを聖書から教えられるのです。私たちは、その神の言葉を聞きながら日々を本当に豊かな思いをもって過ごすことができればと思います。

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