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バイブルエッセイ

それでも赦しを語る

 ぶどう園の主人は言った。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」(ルカによる福音書20章13節)

 ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して旅に出ました。収穫の時期になり、主人は収穫を受け取るために僕を送りますが、僕は袋だたきにされ、追い返されてしまいます。二人目の僕も、三人目の僕も同じでした。それで主人は愛する息子を送るのですが、農夫たちはぶどう園を自分たちのものにしようと考え、跡取りである主人の息子を殺してしまったというのです。

 最初の僕が袋だたきにされた時点で主人は、農夫たちが信用できる相手ではないと分かったはずです。それなのになぜ主人は、農夫たちにぶどう園を預けたままにし、彼らを信じて僕を送り続けたのでしょうか。私たちは、信用できない人、それも既に裏切られたというような人に再び何かを頼もうとはしないでしょう。
 主人に人を見る目がなかったということではありません。この主人は、信用できない者であっても信じ続ける、裏切られても相手を信じて待ち続ける人だったのです。

 ぶどう園は神様と神の民の関係を表しています。ぶどう園の主人は神様、農夫たちは民の指導者たちであり、また神の民のことです。人々は神様から任されたこの世界で自分勝手に罪を犯して暮らしていたので、神様は人々が悔い改めるように何人もの預言者を遣わしたのですが、人々は預言者を退け続けたのです。

 それで神様は「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」と独り子であるイエス様をこの世界に送られたのです。人々が信用に足る者たちではないとよく分かっていても、それでも神様は人々を信じ続けてくださったということです。

 たとえでは、主人が「戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」となっています。それでは実際のその続きはどうだったのでしょう。聖書は、イエス様を殺してしまった者たちも、すべての罪に生きる者が、神様の許に立ち返り、罪の赦しを受け取るように招かれていると私たちに告げています。そして、私たちは神様の前に繰り返し罪を犯し、神様を裏切り続けている人々の中に自分自身の姿を見いださなければなりません。信用できない者たちを信じ続け、徹底して赦しを与え続けようとされている神の愛にもう一度心を向けなければならないと思うのです。

 宗教改革から500年を迎えようとしています。私たちの在り方をもう一度見直し、恵みを確かめる時です。私たちルーテル教会がこれまでこだわり続けてきたこと、これからもこだわり続けていかなければならないことは、赦しを語り続けることだと、私は思っています。

 自分の罪に気づき、十字架の赦しを受け取った者であっても再び罪を犯します。その度に私たちは何度でも赦しの言葉を聞くのです。十字架の赦しを伝える務めは、牧師だけにではなく、教会に連なるすべての信徒にも与えられています。

 赦しの言葉を語り続けるところに留まるのではなく、赦された者が成長するための言葉に、語る言葉の重心を移していくべきだという考えもあるでしょう。赦された者として成長していくことは、もちろん大切なことです。しかし、信仰者としての成長の妨げになるから赦しを語ることはもう卒業しようとは考えないのがルーテル教会だと思うのです。

 赦しを語り続けることによって、私たちの中に甘えが生じてしまう危険があることも事実です。そのことは素直に認め、そうならないように気をつけていかなければなりません。けれども、だから赦しを語ることは少し控えようとはならないのです。それでも「あなたは赦される」と繰り返して語り続けるのがルーテル教会です。十字架の赦しを語り続けることが何よりも大切だからです。ただ神様の恵みにより、十字架をとおして私たちの罪は赦されるのです。私たちは赦しの言葉に「はい」とうなずくだけでよいのです。

 何度でも赦しに立ち返り、感謝と喜びに満たされ赦しの言葉を携えて神様から遣わされていきたいと思います。

日本福音ルーテルみのり教会 牧師 三浦知夫

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