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バイブルエッセイ

揺らぎつつ信じる信仰

「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」(マタイによる福音書 28・16~20) 「

 マタイ福音書巻末の宣教命令へと続く段落の中で、《主イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた》と書かれている事に、昔から興味をひかれて来ました。ここに集っている者は、裏切ったユダを除いて、十一人の主だった弟子たちです。その誰が、「疑う者」なのか、最初の関心は、その様なものだった気がします。ところが、神学校に入り、ギリシャ語の勉強をし、改めてこの部分を自分なりに読み直してみると、どうしても、「彼らはひれ伏して礼拝したが、同時に疑ってもいた」になってしまうのです。

 これはどういう意味だろう?と考えているうちに、ふと、「疑う」という訳は、本当にそれで良いのか、という疑問が生まれてきました。調べてみると、まず、この単語は、新約聖書では、2カ所にしか出てこない事が分かりました。そしてそのもう1カ所も、マタイ福音書の中なのです。この単語は、やがて、2世紀の使徒教父時代には、盛んに使われる様になり、明らかに、「疑う」という意味を持ってきます。しかし、旧約聖書のギリシャ語訳(七十人訳)では、この語はむしろ「躊躇う」という意味で用いられています。この七十人訳聖書では、「疑う」の訳には、また別の語が使われており、はっきり区別されているのです。また、古典ギリシャ語の用例で見てみると、原義は「2つの世界に立ち、決めかねている心の状態」なのですが、発展して、優柔不断、揺れ動く心、ためらう、などと訳されています。つまり、「疑う」とはっきり訳せるような例は、紀元1世紀までは皆無です。それで、1世紀末に使用されたマタイ福音書のこの二つの箇所についても単純に「疑う」と訳すわけには行かなくなります。

 以上、弟子たち全部が「疑っていた」かもしれない、また、この「疑う」という訳は本当にそれで良いのだろうか、という二つの視点が出てきました。これらを考慮に入れ、改めてこの16節を、私なりに解釈し直してみると、「弟子たちは主イエスを見て、ひれ伏し礼拝した。しかし、同時に彼らは、揺れ動いていた」となるでしょう。弟子たちは、信仰の世界へと入ろうとしつつ、まだこの現実世界に重心を残しているのです。中途半端な信仰だった、とも言えますが、主イエスは、その彼らを宣教へと派遣して行くのです。彼らが持っている現世への拘り、その部分は弱さでもあるのですが、同時に、そこがなければ宣教も空しいとさえ言える程、重要な何かでもあるのです。
 そもそも、信仰というものは、神の与えたもうもの、という視点も、ここで重要になります。強固な信仰も、ぐらついた信仰も、神が与えてくださった信仰という意味では、優劣ないという事です。私たちの周囲に居る人々を考えてみても、強い人も居れば弱い人も居ます。そういう多種多様な人間たちに語りかける教会は、それなりの柔軟性、多様性を持っていなければならないのです。

 そこで主イエスは、揺れ動く弟子たちに一つの方向性を与えられます。すなわち、天と地一切の権威を持って、《あなたがたは行って、すべての民を弟子としなさい》と言われるのです。《父と子と聖霊の名によって洗礼を授け》《命じておいたことをすべて守るように教えなさい》と命ぜられた時、《信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する》というヘブライ人への手紙11章の冒頭の言葉が実現します。ここでの「見えない事実」、それは主イエスの与えられる、天地一切の権威、また、主イエスは《世の終わりまでいつも共にいる》という事柄をもって、望みつつ確信する信仰、揺らぎつつも信じる信仰へと彼らを導いてくれているのです。その信仰が「躊躇い」を含むものであるからこそ、それは、長い歴史を隔てた私たちの心にも共鳴し、波紋を広げ、やがて、望み、確認し、そして救いに至らせる力を持つのです。
  
 新年にあたり、各教会では、今年の宣教方針を考え、練っている事と思われます。その際、主イエスは、揺らぎつつ信じる弟子たちを選び、あの宣教命令を下された、その事実をも覚えていてほしいと思います。そして、弱い私たちにこそ、その命令が受け継がれている事を信じつつ、現在の各教会をめぐる、厳しい状況へと、また一歩踏み出していければ、と思うのです。

 日本福音ルーテル小岩教会牧師 松田繁雄

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