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バイブルエッセイ

人生に必要な荷物

自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、
わたしにふさわしくない。(マタイによる福音書10章38節)

引越しをしました。
荷造りをしていると、見慣れないものや不明の箱、懐かしい品々が出て来て、しばし作業する手が止まることがありました。それらは前回、引越しをしてから一切手をつけていない荷物でした。私たちは余剰な荷物をたくさん抱えて生きている現実を、引越しをするたびに思い知らされます。しかし、余分な荷物をすぐに処分出来るかというと決してそうではなく、また使うときがあるかもしれないと次に持ち越してしまう私がいます。今回の引越しで見いだした余分な荷物も、そのまま引越しの荷物となり、開けられないまま物置に入ることになってしまいました。

 私たちは人生を生きるにあたって、荷物を抱えていると言えるでしょう。生きるためにあれもこれも必要であると思えるため、日に日に私たちの人生の荷物は膨れ上がっています。それでも、余分な荷物を手放すことができず、ましてだれかと分かち合うこともできない私たちがいます。

 不必要な荷物はそこに残して、人生を新たに歩み始めるならば、その足取りはこれまでより軽くなり、その後の人生は生きやすくなるはずです。本当はそのことがわかっているのですが、人は重さを増して行くばかりの荷物に押しつぶされそうになりながらも必死になり、その足取りは重くなるのです。

 「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」と言われています。主イエスは人生に必要な荷物としてあれこれ抱え込んでしまう私たちに、必要な荷物はただ「自分の十字架である」と明らかにしているのです。

 「自分の十字架」について考えるとき、私は自らの罪だけを思い描いていました。しかし、「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(ローマ書6章11節)というパウロの言葉は「キリストに結ばれて、キリストの十字架に結ばれて、キリストと共に死に、キリストと共に生きる」ことを教えています。つまり「自分の十字架」とは、まずキリストが担ってくださったものなのです。そしてその十字架を自分のものとして担って行く。私たちはこうしてキリストに結ばれて生きるのです。

 ある日の聖書日課で、次のメッセージが目にとまりました。
「『どんな時にも人生には意味がある。誰かがわたしを待っている。何かがわたしを待っている。その誰かのために、その何かのために、わたしには出来ることがある』。
 主イエスが言われた《自分の十字架を背負って》を考えるとき、このフランクルの言葉をわたしは思い起こします。自分の十字架とはけっして重荷のことではありません。主ご自身がその人のために備えてくださるものが自分の十字架です。それはわたしを必要としている誰かのために、またわたしを必要とする何かのために、主がこのわたしを用いてくださるためのものです(部分)」。(高橋誠・ディコンリー福音教団豊浜教会牧師)

 「自分の十字架」とは、自分のためのものでも、自分に課せられたものでもなく、「主ご自身がその人のために備えてくださるもの」であると言われています。 私たちのために主は十字架の死を遂げてくださいました。これによって私たちは、もはや自分の人生のために多くの荷物を抱え込む生き方から解放されたのです。そして今や主は、この私を通して一人でも多くの人々に、神の恵みを与えようと望まれているのです。これが私たちが担う「自分の十字架」です。 そしてそれは苦しみではなく、「自分が生きていることに深い喜びを感じる、真の生きがいのある歩みである」と言われているのです。「自分の十字架」とは、この小さく弱い私が主に必要とされているしるしです。そのためにキリストはまず十字架を負われたのです。このキリストに結ばれて私たちは、自分の十字架を担って歩み始めることができるのです。

 キリストの十字架に結ばれた「自分の十字架」が私たちには備えられているのです。キリストの十字架に結ばれて、このキリストの十字架に結ばれた「自分の十字架」は、私たちがだれかのために少しずつ担って行く、あらゆる人々に等しく与えられる神の恵みです。そしてこれこそ、私たちの人生に必要な荷物であり、その他の何ものでもないのです。

藤が丘教会牧師 佐藤和宏

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