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バイブルエッセイ

傷ついた癒し人

 71年前、アメリカは人類史上初の原子爆弾を広島と長崎に落としました。この原爆を積んだ爆撃機は、戦争を終結させる平和の使者として、従軍チャプレンによって祝福祈祷を受けて送り出されていきました。悲しいことに、広島に飛び立ったエノラ・ゲイを祝福したのはルーテル教会の牧師。長崎の場合はカトリックの神父でした。浦上天主堂の真上で原爆が炸裂した時、礼拝堂では罪の懺悔告白の最中でした。
 人間同士の憎悪や不信、恐怖の結晶が原爆です。その破壊力は天地万物をお創りになり、命を生みだされた神さまへの反逆、その罪の深さを表しています。
 今年5月、現職大統領として初めてオバマ氏がヒロシマを訪問しました。そこで誠意あるスピーチをしましたが、現実は大統領が絶えず携行する「核爆弾のスイッチ」を平和記念公園に持ち込み、「核なき世界の実現は、私の生きている間には無理かもしれない」と告白せざるを得ませんでした。ここに武力を背景とした「パックス・アメリカーナ(アメリカの平和)」の限界があります。
 主イエスは最後の夜、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15・12)と命じられました。なぜなら、もし互いに愛し合わなければ、私たちの前にあるのは破滅だからです。私たちはヒロシマ・ナガサキをはじめとする、戦争による多大な犠牲の痛みを共に担うことへと十字架の主によって招かれています。それは日本人だから、広島に住んでいるからということではなく、この痛みを通して、他国の、そして他者の悲しみ、苦しみ、傷を負っている人たちと連帯することを、主が求めておられるからです。

 平和主日の旧約の日課は、「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」というミカ書(ミカ4・3)ですが、同じ言葉がイザヤ書にもあります。どちらもバビロン捕囚の時代のものです。国破れ、神殿に火がかけられ、民は奴隷の有様でバビロニアへ強制連行される民族の悲劇。かつて味わったことのない痛みと絶望が襲いました。

 そして捕囚からおよそ50年が経った頃、キュロスという王様がペルシャに登場します。ペルシャはバビロニアの敵対国。そこで、囚われていたユダの民はかすかな希望を持つのです。イザヤは45章で「主が油を注がれた人キュロス」と語ります。つまりこの段階で、キュロスこそが我々を救う神からのメシアなのだと語っているのです。そして現実に、ユダの民はキュロスによって解放され、祖国への帰還が許されるのです。

 イザヤの預言は成就し、平和が訪れ、祖国を再建できる。神さまは私達を見捨てていなかった。多くの人たちはそう思ったことでしょう。ところが一番に喜ぶべきイザヤはこれを良しとしませんでした。むしろ立ち止まり、疑うのです。人間の武力によってもたらされる平和の中に、真の救いはあるのだろうかと。 そして彼はこの末に、遂にイザヤ53章の「苦難の僕」と呼ばれる預言へと辿り着くのです。イザヤは人間の強さの中に救いを求めません。むしろ救いは弱さの中に現れる。人間的な弱さの極みに立って、黙々と隣人の罪と痛みを負う人、傷ついた癒し人こそメシアだと告げるのです。

 この平和の君は、十字架の上で苦しみを担われた神でありました。聖書が語る救い、癒しとは痛みや悲しみを取り去ることではありません。そうではなく、私たちが悲しみ、苦しんでいるこの痛みの経験は、より大いなる痛み、すなわちキリストの痛みに連なっているということを指し示すのです。

 それが象徴的に示されているのが聖餐式です。エフェソ書にあるように、敵意や隔ての壁、私たち人間の破れを全て包みこんで、主は和解と平和を実現してくださいます。その時私たちは、ご自身の傷をもって私たちに仕えてくださったキリストの愛を心に刻み直すのです。
 礼拝から派遣され、「御国を来たらせ給え」と祈りつつ行動する勇気と知恵が与えられていくのです。

日本福音ルーテル教会広島教会 牧師 伊藤節彦

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