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バイブルエッセイ

大きな淵を越える

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』

 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」(ルカによる福音書16・19〜31)

 今から40年以上前のことだが、わたしは1冊の小説を読んでいた。ギリシャの作家・詩人であるニコス・カザンツァキスが書き、英語に翻訳されていた『キリストの最後の試練』(The Last Temptation of Christ)という小説である。かなり分厚いペーパーバックだったが、物語に引き込まれて一気に読んだ。きわどい描写がいくつもあって、カザンツァキスがギリシャ正教会を破門されたのも理解できるような気がしたのだが、その中に忘れられない一場面があって、その場面に押されるようにして神学校の願書を取り寄せた。

 それは、イエスが「金持ちとラザロ」の話を弟子たちにしている場面であった。イエスは弟子たちの前でこの話をしているのだが、「アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう』」とこの話を締めくくった。それが締めくくりだと弟子たちは思ったし、そこで語られている警告も理解することができたと弟子たちは思っていた。
 ところがイエスは、この話にはまだ続きがあるのだという雰囲気で、弟子たちを見回し、イエスの目がフィリポに注がれる。そしてイエスはこう言う。「フィリポ、フィリポ、お前がラザロだ。お前がラザロならさあどうする」。フィリポは動転し、どう言っていいのか分からずにドギマギするばかりだ。すると、イエスはさらに「どうしたフィリポ、どうしたんだ。お前がラザロだ。お前がラザロなら、さあどうする」とフィリポに迫る。

 イエスに迫られたフィリポは蚊の鳴くような声で、「主よ、もしわたしがラザロなら、陰府にまで降りていって、指先を水に浸し、あの方の舌を冷やしてやりたいと思います」と語り、更に「わたしも食卓から落ちたあの方のパン屑をいただきましたから」と続ける。すると、それを聞いたイエスは満面の笑みを浮かべ、「よく言ったフィリポ。よく言った。お前は神の国から遠くない。アブラハムにはできないが、神におできにならないことはない」と答える。あの金持ちにも救いの道が開かれた。ラザロはイエスその人なのだ。

 わたしはこの小説のこの場面にいい知れない衝撃を受けた。そして、これこそ「福音」だと思った。わたしはいつしか泣き出していた。「言は肉となり、わたしたちの間に宿った」(ヨハネ1・14)というヨハネの証しは、このことなのだと思った。イエスは、神の世界と人間の世界の間の「越えることのできない大きな淵」を越えて来てくださったのだ。ラザロはイエスだ。

 アブラハムの言葉は「最後通牒」のように響く。物語そのものもそこで終わっている。しかし、他のたとえ話と違ってこのたとえ話は異例だ。神が王とか主人の姿で現れて語る他のたとえ話と違って、最初から最後まで、語るのはアブラハムという 一 人物である。登場人物がこのように具体的に特定されるたとえ話は、多分、これだけだ。つまり、この物語には神が出てきていないのだ。何らかの意味でアブラハムが神の代理のような役をしていて、それこそ「最後通牒」のように響くアブラハムの言葉も、言ってみれば「最後から 一 歩手前の神の言葉」(スイスの神学者カール・バルト)なのだ。「最後から 一 歩手前の神の言葉」、それは「律法」だ。このたとえ話は、「神の最後の言葉」(福音)が語られる余地を残した話なのだ。わたしはそう思った。福音の神髄に少しだけ触れた気がした。

 それから40数年、いつの間にか定年退職の時期になった。病弱だったから長生きでないと思い込んでいたが、いつの間にか主イエスの没年(30代前半)を越え、ボンフッファーの没年(39歳)を越え、愛するトマス・アクィナスの没年(49歳)を越え、ルターの没年(62歳)さえ越えた。この間、わたしなりに「福音とは何かの説明」を語る機会を与えてくださった日本福音ルーテル教会には、いい知れない感謝の思いを持っている。
感謝!

ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校 鈴木 浩 牧師

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