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バイブルエッセイ

みことばは、私の道の光です

「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」
(詩編119編105節)

 私がこのみ言葉と最初に出会ったのは十代の頃、新改訳聖書ででした。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。一目で気に入りました。
 恥ずかしながら、私は暗闇が怖いのです。それは、少年の頃の原体験にもよるのでしょう。私が住んでいたところは、村内に信号機が一つしかないような、いわゆる「ど田舎」でした。当然、街灯も少なく、夜は真っ暗です。小学生の頃、少し離れた小さな町の剣道教室に通っていたことがありました。帰りは日が暮れ、一人バスに乗って帰りました。同じバス停で降りる人はいません。たった一人で、暗い道を家まで歩いていかなければなりません。重い防具を背負って。当時は、数十メートルおきにしか街灯はありませんでした。街灯と街灯の間は真っ暗。おまけに、途中にはお墓までありました。そんな怖さを紛らわすために少しばかり声を大きくして歌を歌いながら、街灯から街灯へと猛ダッシュを繰り返したものです。さすがに家の側まで来ると明るかったので、それがどれほどの安心感を与えたことか。そんな経験があるせいか、「光」という言葉に惹かれるのかもしれません。
 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。このみ言葉は、単にお気に入りだけでなく、私を支える言葉となりました。しかし、本当にその通りだったのでしょうか。少年時代、青年時代、壮年時代、人間関係においても、家族関係においても、仕事においても、また自分自身とにおいても、辛くて、悲しくて、苦しい、暗闇の中にいるとしか思えないような出来事が度々あった。そんな時、本当に暗闇を照らす光となってくれていたのか。むしろ、祈っても叫んでも答えられずに、神さまは本当におられるのか、と意気消沈してしまっていたのではなかったか。本当にそんな時に、み言葉が助けに、力になっていたのだろうか。そうも思うからです。
 確かに、そうです。私自身、そんな体験を積み重ねてきました。しかし、それでも、やはりみ言葉は、「私の足のともしび、私の道の光」だったと思うのです。それは、み言葉の一言一句とは限らなかったのかもしれません。細々と積み重ねて内実化されたみ言葉のエッセンスと言えるのかもしれません。しかし、いずれにしても、それらが私たちの重要な、決定的な決断を導き最悪の状態を回避したり、自分だけでは見出すことができなかった気付きを与えてくれたり、予想だにしなかった未来を掴むことができたり、諦めずに希望を見出すことが出来たのではなかったか。いちいち、あのみ言葉が、このみ言葉が、と意識することはなかったかも知れませんが、確かにみ言葉が私たちの内に働いて、私たちを守り、支え、慰め、力づけ、導いてくれていたのではなかったか。その結果として、今の私たちがいる(在る)のではないか。そう思うのです。
 脅すつもりはありませんが、今年も何が起こるか分かりません。戦後日本は比較的平穏な中を歩んで来ることが出来たと思いますが、国内においても、また世界においても、経済格差の問題、安全保障の問題、気候変動の問題など、喫緊の課題が溢れています。私たちも一市民として、自分達に出来ることで励んでいく必要があるでしょう。しかし、その前に原点を確認したいと思うのです。古くて新しい原点を。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。こんなことがおとぎ話のように思えるような時代だからこそ、その力に、確かさに、立ち返りたいと思う。そして、宣教によって、この経験を私たちだけのものとするのではなくて、より多くの人々の経験となっていけるように励みたいと思っています。

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