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「平和の基がここに」~平和主日を覚えて

「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(ミカ書4・3)

 聖書は珠玉の言葉に溢れている。この預言者ミカの言葉もその一つだ。初めて出会った時の不思議な感動を今でも覚えている。『剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする』。ここに平和を求める人間の姿が、鮮やかに示されている。

 今年は戦後70年、あの夏に生まれた人も古稀を迎える。戦争には人間の罪が100%現れる。隠れていた人間の罪が伝染病のように広がり、闇が光を覆い尽くし、人を狂気へと駆り立てる。勝利を得ようと「何でもあり」 に堕ちてゆくことが、深刻な問題だ。70年前、沖縄戦に続く無謀な作戦の継続によって、多くの人命が失われていった。特に、若き命が散らされたことに心が痛む。最終的には全軍へと変貌した特別攻撃(特攻)、広島と長崎への原爆投下、そして降伏へと突き進んだのである。

 あの悲劇的な戦いの中、命を慈しんだ一人の軍人がいたことをご存知だろうか。愛知県豊田市出身の旧海軍芙蓉部隊長、美濃部正である。全軍特攻が至上命令となる中、抗命による死を覚悟しつつ、 最後まで航空特攻を拒否した指揮官だ。彼の部隊は必死の特攻に代え、決死の夜間攻撃に徹した。部下たちも指揮官の捨て身の姿に報い、特攻に劣らぬ多大な犠牲を払いながら、最後まで運命を共にしたのである。

 箴言は「憎しみはいさかいを引き起こす」( 10・12a)と教える。その通りだ。憎しみがいさかいを引き起こし、いさかいが新たな憎しみを生み出してゆく。憎しみの連鎖が人間の歴史を形作った。それはミカの預言とは正反対の出来事である。憎しみが『鋤や鎌』を『剣や槍』に打ち直し、恐怖が梵鐘や金属像を武器へと鋳直させた。愚かである。本当に人間は愚かで罪深い。その愚かな人間の罪の世界は今も続き、その中に私はいる。あなたもいる。私たちはここに置かれているのである。

 10年程前、8月になると私の心の中で一つの声が響いたことがあった 。 「私は人殺しの子なのか」と。多分、父が太平洋戦争に4年程従軍したことが関係している。父が戦争で人を殺めたかどうかは定かでない。その可能性は否定できない。だから、後に国際公法が戦争における殺人行為に罪科なしと定めても、心にストンと落ちない。神様との関係は一体どうなのか。そのことが気になっていたのである。父の罪を子は負うのだろうか?

 十戒等に「・・・わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」(出エジプト20・5他)とあり、「アコルの谷」(ヨシュア7・24〜26)の出来事は父の罪が子に及んだことを示唆する。一方、後の預言者エゼキエルは「子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである」(エゼキエル18・20)と語る。どういうことなのか。時の経過と共に 「罪理解」 に変化が生じたのか。

 いやそうではない。大切なポイントを私が見失っていたのだ。救いは律法ではなく福音にあることを。イエス様もそのことをお教えくださった(ヨハネ9章、ルカ13章)。父祖の罪の規定には、加えて「・・・戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみが与えられ、罪と背きと過ちが赦される」と明記されているのだ。三代、四代どころではない。幾千代である。信じる者にはとこしえに神様の慈しみと罪の赦しが与えられるという。ここに神様の愛の絶大さがある。ここに私たち人類の救いの道が示されているのである。もう、私の心にあの声は響かなくなった。

 イエス様の十字架の愛により、人類すべての罪は覆われ、贖われていると信じる。「愛はすべての罪を覆う」(箴言10・12b)とある。その通りだ。イエス様の十字架の苦難を信じる者には、とこしえの慈しみと赦しが与えられるのである。ここにすべての平和の基がある。戦争を悔い改めつつ、平和を実現する者として歩みだすための基が。共に福音宣教の道を歩もう。

日本福音ルーテル挙母教会牧師 ミカエル鈴木英夫

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