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機関紙るうてる

るうてる2017年5月号

説教「天に昇られる時も」

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日本福音ルーテル稔台教会、津田沼教会 牧師 内藤新吾

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き 、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。(新約聖書ルカによる福音書24・50~51)

 主イエスの昇天の出来事を伝えるルカは、主が弟子たちをエルサレムから《ベタニアの辺りまで連れて行き》、《祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた》と記しています。ベタニアはエルサレムの東、約2・7kmに位置し、オリーブ山の南東斜面にある小さな村です。ご存知、マルタ、マリア、ラザロの村です。主イエスは十字架にかかる前、エルサレムに通うのにここを拠点とされ、連日都に行かれても、わざわざいつもこの村に戻って泊まっておられます。そして昇天の場も、この村入り口辺りです。これは単なる偶然でしょうか。
 死海文書の発見は、都の東方にハンセン病患者を隔離するよう規定があったことを示しました。このベタニアがその隔離村であった可能性は極めて高いです。エルサレムから見て山に隠れる場所であり、マルコ14章にもこの村に《重い皮膚病の人シモンの家》があったことが記されていて、それを裏付けます。主イエスは地上を歩まれた時もそして天に昇られる時も、人々から疎外されまた虐げられている人たちの側にいつも心をおかれ、それを弟子たちに託されたと見ることができるのではないでしょうか。滝澤武人さん(『イエスの現場』世界思想社)や月本昭男さん(『目で見る聖書の時代』日本基督教団出版局)、他にも同じ見方の方々はあり、私もそのように受け止めています。

 すべての人は神に愛されています。しかし、最も助けの必要な人々は誰か。そのことを私たちは思い起こすよう、主イエスから託されています。聖書が隣人について私たちに告げる教えは、一日一善的な優しさではなく、「正義と公平」という言葉にも集約されるように、誰が最も悲惨な状況に追いやられているか。それを解放し、また虐げる悪のくびきを折るようにということが第一となっています。そしてさらに、あなたのパンを裂き与えということも、大切であると示されています(イザヤ58・6、7)。これは主が言われた「地の塩」「世の光」の教えおよび順序とも符号します。

 ルター先生の時代、神が私たちにくださった救いの真理が歪められてはならないということが、何よりも再確認されなければならない重要な事柄でした。しかしそれはもはや解決されています。今や、神の救いの恵みに捕えられ、その愛に押し出されて、私たちは隣人に仕えていくということが、共に声かけ合い大事な時代となっています。

 パンを必要としている人は隣人であり、追いはぎに襲われて倒れている人も隣人です。どちらも助けが必要です。しかし、人によって苦しみを与えられるほど辛いものはなく、さらに、苦しみを与える側が大きな権力であったりする場合、受ける者の苦痛は何重もの悲しみや孤独も加わり絶望的となります。神様からも人々からも教会の関わりが待たれるなか、最も手薄となっている領域です。たぶん反発を恐れてでしょうが、経費と共に、個人で負うには大変です。私が出会ったのは原発廃止を訴える立地住民や被曝労働者の声でしたが、震災後さらに新たな様相を増しています。苦しめられている人々との連帯が求められます。他にもいくつも同様な課題がありますが、深刻度と緊急度を考えることが必要でしょう。

 私たちの教会は、社会的な問題には無色透明であろうとする傾向があります。しかしそれはルター先生の願ったこととは違うと思います。ドイツの教会が第二次大戦後、その反省と検証をしました。隣人のため、社会をよりよくしようと努めていくことは、ルター先生も説く聖書の教えです。

 人間の世界で、絶対なものはありません。何がより望ましいことか、時代や状況によって選ぶ答えが違うこともあるでしょう。白黒つかないものも多いです。でもそれを、能動的に選んでいくことが私たちに許され、またその責任が問われています。現代のベタニア、主イエスが最も心をおかれている方々に、私たちも寄り添って歩んでいけるよう、祈っていきましょう。

連載コラム enchu

14[What Is2+2?]

 ジョージ・オーウェルの『1984年』という小説は、近未来の全体主義国家の恐怖を描いたものです。この小説の主人公は、国家の発表が常に正しくなるように様々な記録(報道や歴史)の改竄を行う真理省で働くウィンストン・スミス。改竄された記録(報道や歴史)は間違った記録(報道や歴史)ですが、ほぼすべての行動を当局によって監視されている国民は、それらを正しいもの(真理)だと信じる思考を植え付けられていきます。またこの国家は、国民の思考を単純化し、国民が国家に反対する思想を持つことがないように、語彙の数を減らした新しい言語(ニュースピーク)を作り支配を盤石なものにするのです。もちろんこれは小説上の架空社会のお話です。
 しかし、今この小説を読むとき、背筋に冷たいものが走る感覚を覚えます。というのも、弁護士の渡辺輝人さんが昨今の日本の状況を簡潔にツイート(つぶやき)しているのですが、…「首相が国会で虚偽答弁をし行政が説明責任を負っている資料を破棄したと強弁。一方で学生には道徳を教えるという。そして、歴史学の発展は拒絶し、銃剣道なる旧日本軍へのノスタルジー満載のものを体育でやらす」…、私たちの社会が『1984年』的社会に近づきつつあるのではないかと思えるからです。
 「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの家の見張りとする。わたしの口から言葉を聞くなら、あなたはわたしに代わって彼らに警告せねばならない」(エゼキエル3・17)。「イエス」は不道徳だから「家巣」とせよ、となる前に…。
( 門司教会、 八幡教会、 佐賀教会、小城教会牧師)  岩切雄太

議長室から

 

「空気に流されることなく」総会議長 立山忠浩

 最近「教育勅語」という言葉を耳にすることがあります。戦前は用いられていたという死語かと思っていましたが、そうではないことが分かって来ました。この春に新設して出発することを目指していた小学校では、「教育勅語」を毎日唱える予定だったとのことでした。
 過去の歴史への反省から国会でも排斥されたはずの勅語が生きていることにも驚きましたが、もっと衝撃を受けたのは、現政権を担っている主だった面々が「教育勅語」の活用を非難するどころか、むしろ擁護するような発言をしていることでした。家族愛や公共に尽くすことの教えなどは、評価すべきではないかという見解があるようです。
 私自身が「教育勅語」なるものの内容を正確につかんでいませんので、良い機会と思い調べてみました。確かに断片的には、現代人がもっと大切にすべきではないかと思える教えが散見されることが分かりました。ただ、多くの識者が指摘しているように、根源的な問題が「教育勅語」には存在することも確認したのです。独特の皇室観を精神的支柱にしていること、過去の戦争へと邁進した原因がこの勅語にあることはどうしても否定できないのです。
 「この教えの一部は評価すべきではないか」という部分的な肯定論であったとしても、このような社会的な風潮に対しては警戒しなければなりません。暗雲が垂れ込めているような空気に押し流されることなく、その流れに抗し、自分自身が立つべき教えをしっかりと据えていなければならないと思います。「教育勅語」に限らず、諸思想や意見が渦巻く現代社会においては、自分自身の拠り所とする基盤を見失ってはいけないのです。
 もし、「教育勅語には今見失われている家族愛の教えがあるではないか」と強弁する声があるとすれば、私たちはそのためにわざわざ「教育勅語」を持ち出す必要はないのです。十戒があり、その十戒を実に適切に解説したマルティン・ルターの『エンキリディオン 小教理問答』があり、何にも増して主イエスの愛の教えがあるからです。
 ここから私たちの立つべき基盤に改めて気づかされるのです。家族愛はもちろん大切なものです。でもそれを強調し過ぎるときに生じる陰の部分も聖書は教えているのです。家族愛に留まらない愛の教え、そこに立ち続けるのです。

2012年に出版された『マルティン・ルター ―ことばに生きた改革者』(徳善義和著/岩波新書/宗教改革500年推奨図書)がフィンランドにて出版されました。翻訳の労を取られた引退教師のビリピ・ソベリ牧師よりの寄稿です。

「日本人のルター」

  ビリピ・ソベリ(引退牧師)

 2015年の秋、フィンランドルーテル福音協会(SLEY)ミッションの歴史委員会より派遣されて、6週間の日本旅行をすることになりました。主な目的は、SLEYの日本伝道の歴史について資料を集めることでした。フィンランド系の教会を訪問したり、古くからの会員をインタビューしたりすることは、日本伝道史を書いている私にとって大きな励ましになりました。
 いただいたプレゼントの中に、札幌教会の日笠山牧師、そして徳善義和先生ご自身からも『マルティン・ルター ―ことばに生きた改革者』という本がありました。面白くて、読みやすいと感心して、フィンランドに帰国してからSLEYの出版部にも紹介しました。
 どこがフィンランドの神学と違うのか、そして何が魅力的なのか、はっきりとは分析できませんでしたが、日本の神学者による「日本人のルター」が、私たちに近い存在、生き生きした人間であることに惹かれたのでしょう。徳善先生の許可を得て、フィンランド語に翻訳することになりました。
 ところが、「読みやすい」と思った文章が、翻訳となると、全くそうではありませんでした!日本語の微妙なところを正しく理解できているかどうか、頭が痛い時が少なくありませんでした。一つの単語について何日も工夫を重ねる時がありました。
 徳善先生がお手紙に「自分で本を書くより、翻訳の仕事はずっと大変だと思います」と書いてくださった通り、それは大変な作業でした。ですから翻訳が完成、2016年末にSLEYーMEDIAによって出版されたことは、とても嬉しいことでした。
 日本、そしてフィンランドにおいても、この本がより多くの人に読まれることを期待しています。
 ルターはまことに「ことばに生きた改革者」で、その修道士の生活は「詩編漬け」でした。それに学んで、私たち一人一人もことばに生きるキリスト者となり、私たちの生活も「詩編漬け」または「聖書漬け」であるようにと祈ります。

第24回春の全国ティーンズキャンプ  空っぽの手を神さまに

  チャプレン 市原悠史

 3月28~30日、春の全国ティーンズキャンプ(通称・春キャン)が、高尾の森わくわくビレッジで行われました。キャンパー88名、スタッフ41名、引率してくださった方を含めるとそれ以上という、とても大きな規模になりました。
 宗教改革500年ということで、春キャンもテーマを「マルチン・ルター~空っぽの手を神さまに~」、主題聖句を「あなたがたは皆、信仰により、キリストイエスに結ばれて神の子なのです」(ガラテヤ3・26)とし、ルターの生涯を取り扱うことになりました。目的は「ルターを知る」、「ルターを身近に感じてもらう」、「ルターにそれ(宗教改革に関する様々なこと)をさせた方がいることを知る」の3つです。
キャンパーは新中1から高3にまたがる世代と幅広く、ルターに関する知識も教会との距離感もそれぞれ違います。そこに対して、どのようにルターを伝え、身近に感じてもらうか、様々な工夫を凝らしました。劇、聖書、クイズやゲーム・・・徳善義和先生がティーンズのために書かれた冊子も何度も読みました。詳しくは後日送付される感想文集にある、実際の声や写真などをご覧いただければと思います。
 プログラムの山場は2日目の夜でした。「ルターはどんな自分になりたかったのか」、「自分はどんな自分になりたいのか」などのテーマで話し合いました。神に認められるとは、親に認められるとは、義とされるとは・・・限られた時間の中で、今まで学んできたことや、普段経験していること、感じていることを振り返りながら、真剣に話し合いました。学校などでは出会えない友達と出会い、一緒に過ごし、普段の生活では話せないことを真剣に話し合えることが春キャンの良さです。
 このように集まって、交わりを持ち、一緒に御言葉を聞き、祝福されて派遣されていく。キャンパーたちにとって、春キャンもひとつの教会なのです。今回のキャンプで蒔かれた種が大きく豊かに成長するようにお祈りください。今回も子どもたちを送ってくださり、ありがとうございました。

宗教改革500年に向けてルターの意義を改めて考える 60

 ルター研究所所長 鈴木浩

 「信仰のみ、恵みのみ、聖書のみ」という言葉は、宗教改革の標語のように受け取られて、広く知られている。ルターの使ったラテン語では、sola fide、sola gratia、sola scripture(ソラ・フィデ、ソラ・グラティア、ソラ・スクリプトゥーラ)である。日本ルーテル神学校の校章は、ルターがデザインしたバラの花の周りをこの言葉が取り巻いている。
 ところで、ラテン語は名詞がいくつもの形に変化する。この場合は、フィデもグラティアもスクリプトゥーラも、「奪格」(だっかく)という格である。奪格の機能は、「手段、方法、離脱、分離」など、多様な意味を持っている。
 sola fide、sola gratia、sola scripturaは、厳密に言えば、「信仰によってのみ、恵みによってのみ、聖書によってのみ」という意味になる。
 ルターが意図せずに始めてしまった宗教改革は、「人はどうしたら救われるのか」という問いを回転軸とする運動であった。だから、sola fide、sola gratia、sola scripturaは、その根本的な問いに対する端的な回答であった。
 ルターがsola(それだけ)と言うとき、それは文字どおり「それだけ」なのだ。
 『95箇条』の少し前、ルターは『97箇条の提題』という極めて重要な文書を明らかにしていた。その第1箇条は、「異端者に反対して語っているとき、アウグスティヌスには誇張があると語ることは、アウグスティヌスがどこででも嘘をついていたと語ることに等しい」となっている。
 もし、わたしがルターを擁護して箇条書きの文書を書くとしたら、その書き出しは、「ルターが『のみ』と言うとき、ルターの言葉には誇張があると言うことは、ルターがどこででも嘘をついていたと語ることに等しい」となるだろう。

「ルーテルアワー」のサイト [さあなの部屋]より
わたしがあなたを選んだ

  伊藤早奈

 土の香りや風の音、太陽の光の中で生きていると感じる時、ちっぽけに見え、孤独を感じていた自分がそのまま大切な存在として、神様あなたに生かされていることを感じます。
 「私はあなたにとって大切な存在なのでしょうか」と不安になる時があり、疑いを向けることが何度もあります。それでも神様は必ず私に「あなたを愛しているよ」と語りかけてくださいます。神様、あなたに疑いよりも信頼を向ける勇気を持てますように。アーメン。

「行け、あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」(使徒9・15)

 神様は特別な人だけ選び、まるでその人を物であるかのように扱う方なのでしょうか。いいえ違います。世界中にいる全ての一人一人が神様に必要とされ、その一人一人は神様に造られた存在として大切に大切に用いられているのです。
 私は青年の頃に通っていた教会で話される、教会へ通われている一人一人がイエス様と出会われた体験の話を聞くのが好きでした。ただ、心の中では漠然と「この人は特別な体験をするように神様が選ばれた人なんだろうな」と思っていました。
 聖書からみ言(ことば)に聴き思いを馳せる今、「特別な人」とは神様にとっては全ての人へ向けられているのだと思います。私たちが一般的な価値観で「特別な人」と考える時は、どうしても誰かと比べて優れた人とか、大勢の人の中の誰か一人を指すのではないかと思います。
 しかし、神様にとってはあなたが特別な存在なのです。その他大勢の中から選ぶのではなく、神様に造られたあなた自身が神様に選ばれているのです。そして神様はご自分で造られた大切な器であるあなたを用いられます。
 器の中には何を入れればよいのでしょうか。それは一人一人違います。神様から一人一人に与えられる賜物によってあなたはあなたらしく神様の前で輝くのです。神様は全ての一人一人へ呼びかけます。「生きなさい。あなたのままで、あなたは私が選んだ器です。私にあなたが必要です。」と。

ディアコニア環境・人権・平和 名古屋セミナーに参加して

 嶋 昭江(なごや希望教会)

 第15回ディアコニア環境・人権・平和・名古屋セミナーが2月11日に名古屋めぐみ教会で開かれた。『農業の視点から暮らしと平和を考える』というテーマで中井弘和さん(農学者)が基調講演をされた。
 農業の本質は自然の摂理に従い土本来の力を生かすことにある。生態系の要である土を軽視すると食料や健康問題、ひいては人類の深刻な問題を引き起こしかねない。また、生産性や美しさを追及するあまり農薬を使いすぎ健康問題にまで及んでいる。EUで全面禁止の有機リン剤が日本では解禁されている。残留農薬の基準値もEUよりずっと甘い。私たちはあまり知らされていないので日本の野菜は世界一安全で美しいと思っているが違っている。栄養面でも化学肥料の使いすぎで土に力がなく、昭和20年代に比べると半分以下といわれている。遺伝子組み換え(GM)作物も問題だ。これもEUでは撤退しつつあるといわれていると話された。
 このように考えると日本の農業政策は、やはり永続可能な農業をもう一度立ち止まってよく考えるべきだと思う。剣を鋤に槍を鎌に替えたのだから。
 午後は「グローバリズムと国民主権」と題して岩月浩二弁護士と「TPPと人々の暮らし・人権」と題して長峯信彦さん(憲法学者)より、お話しを伺った。
 関税をゼロにすれば日本が儲かるかといえばそうではない。安い輸入食品により食料自給率は下がり、薬漬けの食品や遺伝子組み換え食品が入ってきて健康が脅かされるのも心配である。国家の関税自主権を否定し、市場原理主義を最優先させるものとなる。グローバリズム=自由貿易も基本原則があり、ISDS条項も定められているが国家の主権を侵害する問題を引き起こしかねないと話された。
 報道だけではわからない問題を知ることができた。多くの人々が平和に永続的に暮らせるためには何が大切で必要なのか、神のみ心を祈り聞かねばならない。

 

第27回総会期 第3回常議員会報告

 事務局長 白川道生

▼宣教態勢

 27期常議員会は「人事委員会」を設置して、教職人事提案の検討と調整を付託しました。執行部3役と各教区長の8名からなる同委員会は、常議員会への上程を任務に、7月から最長翌年2月まで協議を積み重ねる、この筋道は例年同様でした。
 日本福音ルーテル教会の教職人事調整は、5つの教区から教区長を通して挙がってくる招聘を応諾につないでゆく、これを原則に進めますが、今年度は難航した経緯が常議員会に報告されました。
 3月をもって定年退職なさる教職が3名、新任教師2名を迎え、2017年の教職態勢は、現任教師・宣教師(J3含む)、牧会委嘱を合わせて102名に、そのうち87名が各個教会での働きとなる宣教態勢が承認されました。
 ルーテル教会はひとつ。この理念を堅持しつつ、全国の教会がつながっているとの相互理解を保ち、ひとつのからだとしてのあり方(フォーメーション)をどう組むか、教職数の減少、各個教会と各教区の財政減少傾向、複数教会の兼牧増加が及ぼす具体的影響は、人事委員会で繰り返し議論されます。関連する教職の他職務兼務のありかたも「ルーテル法人会連合」並びに「憲法規則改正委員会」との協議を視野に、検討の取り組みが指示されています。

▼収益事業に関する協議

 本常議員会では、収益事業の将来計画に関する協議を行いました。この協議は、市ヶ谷会館の老朽化を背景に持つものですが、立山議長は、当初の出発から営んできた収益事業の歴史には是非の議論も含んでおり、次に進む検討を行う際には、きちんと評価と議論をしなければならないと意向を示し、議事設定となりました。
 協議は、収益事業開始からの収支成績の確認に始まり、過去の合意から継承する収益事業に設けた制限事項や基本形態の確認、総体予算における適正な比重、資産の有効活用と用途、収益事業と宣教の定義など、JELCにとって収益事業の必要性の根本的な位置づけに関して、活発な意見交換が行われました。
 協議の終わりに立山議長は「これまで進めてきた収益事業によって得られた収益と、このために労した方々の働きに対して感謝を表すべきであるが、しかし、収益への依存には節度を欠いてはならず、教会が過剰に収益事業に頼るようなあり方とならぬように留意すべき」と、認識を示されました。
 詳細は教会宛送付の議事録をご覧ください。
(本稿では主要な協議のみ報告を記しています。)

2017年宗教改革500年「カトリックとルーテルの 共同声明」に学ぶ2

 石居基夫(日本ルーテル神学校校長)

【本文から】

●感謝の心をもって
 この共同声明をもってわたしたちは、宗教改革500年を覚える年の始まりに当たり、ルンドの大聖堂において共同の祈りを捧げるこの機会のゆえに神に喜びをもって感謝していることを表明いたします。カトリックの人々とルーテルの人々との間にもたれた、実り多いエキュメニカルな対話の50年がわたしたちにとって多くの違いを乗り越える助けとなり、わたしたちの相互理解と信頼を深めてきました。同時にわたしたちは、しばしば苦難や迫害の中で苦しんでいる隣人に対する共同の奉仕をとおして互いにより近しい者となりました。対話と分かち合った証しとをとおしてわたしたちはもはや他人同士ではなくなりました。 むしろわたしたちは、わたしたちを結び付けるものがわたしたちを分かつものよりも大きいことを学んできました。

【学び】

 この「共同の祈り」がもたれるということは、先に記したようにこの50年間の両教会の代表によって積み重ねられてきた粘り強い取り組みがなければ、決して実現できなかったものだ。それまでも、もちろん互いの神学的主張についてはそれぞれに研究対象であったが、どちらかと言えば批判的傾向が強かったと言えるだろう。しかし、この対話の時期に入ってからは、お互いをより深く学び、認め合うものとなった。
 折しもルーテル教会の大切な信仰告白である「アウグスブルク信仰告白」450年やルター生誕500年などのきりの良い時がこの50年の歩みの中に重なっていて、それでなくてもルターやルーテル教会について神学的検証が起こることが必然でもあった。その時期に、この両教会間の対話がなされることは特別な恵みであったといってよいかもしれない。

 50年に渡る「エキュメニカルな対話」は今までのところでは5つの期に分けられている。
 第1期(1967~1972年)この時期に、今一度、それぞれの教会の福音理解を共にしていることを確認した。その果実が1972年の「福音と教会(マルタレポート)」。
 第2期(1973~1984年)この時は、「聖餐」、「一人のキリストのもとにあること」、「教会の職務」などのトピックが取り上げられた。
 第3期(1986~1993年)ここでは「教会と義認」をテーマに対話を重ねた。
 第4期(1995~2006)第3期をうけて、1999年「義認の教理に関する共同宣言」と、2006年の「教会の使徒性」を成果とする実りある対話がなされた。そして、
 第5期(2009年~)2017年を両教会で迎えるための準備をかさねてきた。2013年に「争いから交わりへ」の文書が出され、両教会の歴史の中の過ちを告白し、これからの両教会の宣教の責任とまた教会一致への歩みを宣言している。
 つまり、この対話においては実践的な協力という側面よりもむしろはっきりと神学的課題を正面に据えてきたものだということがわかる。言葉を換えるなら、自分たちの信仰の内実、とりわけ福音の理解ということでの一致を確認するための歩みだったといってよいだろう。
 しかし、その一致を求める対話の中でこそ、それぞれの信仰の具体的な姿、内容が共有され、自らの伝統をよりよく理解することにも、またそこでの特徴や課題についても気づかされていくものとなったといってよい。そして、相手の姿の中に、信仰の新しい発見も導きも見出していくことにもなった。エキュメニカルな対話はそれぞれに教会を豊かに実らせているように思う。
 そして、こうした対話とともに、より具体的な世界の課題で協力し合う、実践的交わりももちろんあったのだ。具体的な協力関係がお互いを本当によく理解し合う原動力になったことも確かなことだといわなければならない。

西教区宗教改革500年 記念大会報告

 伊藤節彦(広島教会)

 全国で行われる宗教改革500年関連行事の皮切りとして3月19~20日にかけて大阪教会を会場に西教区記念大会が開催されました。初日は106名が集い、西教区女性会「花みずきの集い」が持たれました。
 開会礼拝に続いて、日本キリスト教団讃美歌委員会の委員長である水野隆一師により「私たちが信じ、歌うこと~宗教改革500年は讃美歌誕生500年~」と題して講演を頂きました。最初に「食物が私たちの肉体を形成しているように、礼拝こそが私たちの信仰を形づくっている」と話され、「歌う教会」であるルーテル教会と教会讃美歌の特徴を14曲もの讃美歌を実際に歌いながら分かりやすく説明され、改めてその豊かさを認識する機会となりました。更に、21世紀を生きる教会は、「どんな歌を誰と一緒に歌うのか?」が問われているという課題提起もあり、心新たにされる思いでした。
 講演の後は懇親会が行われ、旧交を温め新しい出会いを感謝する喜びの時となりました。また、来日されていたサウスキャロライナ・シノッドのヨース監督をはじめとする訪問団も加わり、124年に亘るパートナーシップを深める機会ともなりました。
 2日目は180名が集い、教区全体の記念大会礼拝が行われました。この日は1日通して礼拝という構成で、午前中は「開会~み言葉の部~奉献の部」まで、説教は鈴木浩師。昼食の交流タイムを挟んで、午後は釜ヶ崎ディアコニア活動・喜望の家の報告。また昨秋ルンドで行われたルーテル=カトリック合同礼拝の報告がなされました。続いて大阪ハインリッヒ・シュッツ合唱団による特別演奏会が行われ、最後に派遣聖餐式をもって終了致しました。
 今回の大会を通して、改めてルーテル教会が福音の喜びに満ち溢れ「歌う教会」となっていくことの中に、宣教の希望があるように感じました。最後に、企画から運営まで担ってくださった女性会役員の皆さまのお働きに感謝します。「新しい歌を主に向かって歌え!」(詩149・1)

 

 

 
  

 

 
 
 
  

  

      

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