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機関紙るうてる

るうてる2015年7月号

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説教 「心動かされて」 

           
 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(マタイによる福音書9章35~38節)     
 
 弟子たちとガリラヤ地方を巡り歩くイエス様。イエス様は方々の町や村で福音を宣べ伝え、病を癒すわざを行っていきます。そこでイエス様は、人々が飼う者のない羊のようなありさまであるのを見ます。世話をするもののない羊に例えられる姿、それは、生活に疲れ果て、不安や心細さ、あるいは苦痛を抱え、訴えながらも、どうしたらその状態から脱出できるのか判らない人々を表しています。
 その状態を見て、イエス様は「深く憐む」のです。この深く憐れんだという言葉は、「彼らのことで腸のちぎれる想いに駆られた」ということを意味します。それは上から見下ろすような同情とは違うのです。腹の底から突き動かされるような衝撃を受けたということです。この思い、体験。それがイエス様を次の行動へと突き動かしていくのです。12人の弟子たちを宣教と癒しのわざを行うために派遣するのです。
 その弟子の派遣。およそ現実的とは思われない勧めがなされています。つまり、弟子たちは身に付けた衣類以外の物は、何も持つことを許されないのです。そこでは手ぶらで出発するようにといわれています。
 ここで、この手ぶらで出かけるということの意味を、少し自分のこととして考えてみたいのです。
 人が何かを始めようとするとき、資格や技術があることは、確かに役に立つことのように思えます。しかし実際のところ、過去の経験の中では、「私にはこんなことが出来る」とか、「こんな技術を持っている」ということは、さほど私を助けてはくれませんでした。むしろ「自分はまだまだだなぁ」と思うことの方が多かったし、今もそうです。だから「私は何かを持っている」とか、あるいは「他の人に上げることのできる何かが自分にある」と考えることは、おこがましいのかもしれません。
 実際、そのとき必要だったことは、「私が教えてあげる」という姿勢ではありませんでした。あるいは自分自身の技術や資格に対する自信でもありませんでした。むしろいろいろな人たちとの出会いの中から、私自身が何かを学ぶ、教えられることの方が多かった、ということです。ですから、たぶん弟子たちが出かけるときに、手ぶらでいることを求められているのは、そうした「出会って、聴き、学ぶ」姿勢を持つことを意味するのです。
 イエス様が語る「収穫」とは、「人々の思いを聴くこと」であるともいえます。人々の感じる苦痛や悩み、怒り、あるいは喜び、それを聴いて集めていくこと、それが収穫なのではないか、と思うのです。弟子たちがなすべきことは、人々の思いを携えてイエス様の前に差し出すことです。そのことが癒しを起こすし、癒しそのものであるといえます。それはまた、派遣された弟子たちにだけ命じられていることではない。 今の教会に対しても、私たちに対してもまた、命じられていることなのです。私たちが出会う人たちの思いを、また私たち自身の思いを聴き、集め、イエス様の前に携えていくこと、その「収穫」と癒しのわざが求められているのです。
 最後に、弟子たちは、自分たちだけが派遣される者として立てられているのではないということも重要です。弟子たちに求められているのは、働き手が増し加えられるようにと祈ることです。そのために心を砕き、思いを巡らして祈ることです。この働き手が与えられるように祈るとは、決して「誰か他の人がやってくれる」と任せっきりにしてしまうこととは違います。ふさわしい働き手を、信頼に足る働き手を、探し育てることでもあります。
 それゆえに弟子たちは、イエス様自身が感じたように、出来事や出会いの中で、心深く憐れみ、心突き動かされる体験から感じとることを、やはり求められているのです。
 今、現代に生きる私たちが、弟子たちのように、伝道へ、福音宣教へ、癒しのわざへと召し出されていくことを望むならば、私たちもその感性を磨くことを忘れてはならない、そう思うのです。

宗教改革五〇〇年に向けてルターの意義を改めて考える(39)

ルター研究所所長 鈴木 浩

 預言者のエレミヤは「主よ、わたしがあなたと論じ争う時、あなたは常に正しい。しかしなお、わたしはあなたの前に、さばきのことを論じてみたい。悪人の道がさかえ、不信実な者がみな繁栄するのはなにゆえですか。」(エレミヤ書12章1節・口語訳)。エレミヤはこの世の不条理に腹を立て、神に異議申し立てをする。
 ヨブ記は苦難の問題を真正面から取り上げる。不条理な苦難に苦しむヨブの問いは、「なぜだ!」 ということに尽きる。 人は「意味」が分かれば、かなりの苦難・苦痛に耐えられる。しかし、その意味が分からないとき、「なぜだ!」と問わずにはいられないのだ。
 しかし、神は沈黙したまま、肝心の答は出さない。旧約の問いは答えられないまま、事実上、放置される。
 イエスは十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶望の声を上げて死んでいく。ここでも「なぜだ!」という問いが響く。
 神は、イエスの姿の中で不条理を背負い込んで、「なぜだ」と問う人間に連帯する。神は、「なぜだ!」と自分も苦しむことによって、回答としたのだ。ルターはそこに真の神を見た。

議長室から

地道な、足元からの信仰告白

総会議長 立山忠浩

 6月上旬に「ルターセミナー」(ルター研究所主催)が開催されました。テーマは「アウグスブルク信仰告白」。諸発題は『宗教改革五〇〇周年とわたしたち 3』にまとめられる予定です。
 セミナーのテーマに合わせて、昨年は『エンキリディオン 小教理問答』が出版されましたし、今年は『アウグスブルク信仰告白』が刊行される予定です。いずれも私たちルーテル教会の信仰的遺産を学び直し、それを信仰生活の励みにできる優れた書ですから、牧師の指導をいただきながら、あるいはグループでの学習会の題材として用いていただければ幸いです。また、今年初めに出版されたルーテル教会とカトリック教会が共同で発行した『争いから交わりへ』も同様に有効に用いていただけることを期待しています。
 「アウグスブルク信仰告白」に戻りますが、「信仰告白」という言葉からすぐに頭に浮かぶことは「信仰告白文書」ではないでしょうか。神学校で学んだ牧師たちは第二次世界大戦下の『バルメン宣言』を挙げるかも知れません。身近なところでは「宣教百年信仰宣言」(1993年)や「原発をめぐる『声明』」(2012年)を思い起こす人もいるでしょう。さらには、憲法改正や戦後70年の首相談話などに対して、教会が積極的に「信仰告白文書」を世に表わすべきだと考える方もいらっしゃるに違いありません。
 そのような文書を作成することの重要性は論を待ちませんが、信仰告白の原点を見失ってはいけません。それは、キリスト者であるならば誰にも共通していることです。使徒パウロは「心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ローマの信徒への手紙10章10節)と教えました。心の中にキリストを閉じ込めているのではなく、それを隣人に分け与えることで、私たち自身に救いの喜びが実現すると言うのです。
 このような信仰告白は「証し」という言葉に言い換えることができるでしょう。この言葉はもともと「殉教」という意味を持っていたと言われます。見た目の麗しい言葉を並べるのではなく、欠けた器を神様に用いていただいて、生涯をかけて証しするのです。地道な、足元からの信仰告白の上に、神様の祝福をお祈りいたします。

宣教の取り組み 小教理問答の学び

伊藤節彦(広島教会)

 昨年、『エンキリディオン 小教理問答』が発行されたのに伴い、西教区が購入価格の半額補助をしてくださることになりました。そこで、「善は急げ、この機会を逃すな!」とばかりに早速40冊を購入しました。
 広島教会の広島礼拝所では、既に前年に旧版『小教理問答』をもとに4ヶ月かけて学んだばかりでしたので、多くの皆さんが関心をもってお求めになりました。また、教区の補助を受けた分は、受洗希望者や堅信教育用に無料で差し上げられるように教会在庫として揃えることが出来、早速、この4月に高校に進学した4名の若い兄弟姉妹にプレゼントしました。
 一方、呉礼拝所では毎週水曜日に聖餐礼拝を守り、昼食を挟んで午後から6名ほどで聖研を行っています。昨年までは石田順朗先生の『神の元気を取り次ぐ教会』を学んでいましたが、今年の1月からはいよいよ『エンキリディオン』を学んでいるところです。
 学べば学ぶほど味わい深いなあというのが感想です。牧師は本書を通して、現代に生きる私たちの生の現場のど真ん中で、信仰とは何かを改めて問い、その答えを教会の皆さんと共に紡ぎ出していくことが求められるのだと思います。信仰に生きようとすればするほど「これはなんですか?」という信仰の問いは真剣なものとなってくるからです。
 本書は伝統的に洗礼教育に用いられますが、繰り返し学び直すことでその真価が鮮やかさを増してくる不思議な書です。 呉礼拝所では近年受洗者もなく、何十年も前に小教理を学ばれた方ばかりです。しかし、様々な信仰の旅路の経験が、ルターの言葉を立体的に浮かび上がらせ鮮やかなイメージで迫ってくるのです。また小さな群れだからこそ、毎回皆さんの表情や息づかいを感じながら、時に楽しく、時に厳しく学びを行っています。
 聖書のみ言葉と『エンキリディオン』は、まさに信仰の戦いに「必携」な神の武具です。これからも心に刻み込むほどに学びを深めていきたいと願っています。

ルーテル教会救援 支援先の現状

元ルーテル教会救援 派遣牧師 野口勝彦

 震災から4年4ヶ月、ルーテル教会救援の活動終了から1年4ヶ月が過ぎようとしています。私は、ルーテル教会救援の活動終了後、個人的に支援先の支援を継続してきましたが、その中から最近いただいたお便りの抜粋をご紹介します。

石巻市・仮設追波川(川前)河川団地 武山久仁男さん

 「此方、川前河川団地は当時91戸分の部屋も昨今は70戸分足らずとなりました。・・・私は集団移転を希望しまして、その土地はここからおよそ2キロメートルの所ですが、田んぼですので地盤改良・盛り土中で来年半ばまでその工事が続くらしいです。その後、区画を整備し完了は3~4年後とのことで、老人達は「俺ァそれまで生き延びられるかなあ」などと苦笑しています。・・・この頃はいささか冷えてしまいまして、支援物資の配布会、またカラオケ会もほとんど来てくださらなくなりました。さびしい限りです」

石巻市・宮城県漁業協同組合石巻地区支所 役職員ご一同

 「震災から4年、浜の現状は、岸壁等完全に復旧はしておりませんが、かき、海苔、漁船漁業共に震災前に近い水揚げをすることができました。今回お送り致しますかきですが、震災後一番品質の良いかきを作ることができましたのでご賞味いただければと思います。まだまだ浜は復興途中ですが、組合員、役職員一同一丸となり、浜の早期復興を頑張りたいと思います。」

 また、先日は、仮設住宅で「つるしびな」の製作指導を行った「河北ボランティア友の会」の方も信州に来られ、復興公営住宅完成後の支援についてのお話もしていかれました。支援品の販売も継続していますので、引き続きお祈りとご支援をお願いいたします。

式文の改訂

14 教会暦と聖書日課の検討

日本ルーテル教団式文委員 白井真樹

 式文委員会では、礼拝式文の改訂に伴い、礼拝を行う際の暦(教会暦)と、礼拝で聴く聖書日課(朗読配分)の検討も進めています。その資料として、2012年より教会手帳の巻末に、「共通改訂聖書日課」(RCL)という表を掲載しており、その一覧表に記載されているものが、現在検討している暦と日課です。
(1)教会暦
 現行の教会暦と比べて大きく目立つ変更点は、主に二つあります。まず一つ目は、現行の暦では、顕現主日の次の週を「主の洗礼日」とし、さらにその翌週を「顕現節第3主日」とし、以下、「顕現節第○主日」としてきました。これを改め、「主の洗礼日」の後は「顕現後第2主日」とし、以下も 「顕現後第○主日」とすることを検討しています。これは、救い主の顕現を祝い記念する特別な日は、主の洗礼で一旦終わり、その後は典礼色も緑となり、通常の期節を過ごすとの理解からです。聖霊降臨を祝った後の緑の期節が「聖霊降臨後第○主日」と位置付けられるのと同じです。この変更に伴い、顕現節第○主日の現行の暦と比べ、顕現後第○主日のほうが、○の中の数が一つ少なくなります。
 二つ目は、現行の教会暦では、復活祭の次の週は「復活後第1主日」となり、以下も「復活後第○主日」となります。これに対し、復活祭の翌週を「復活節第2主日」とし、以下も「復活節第○主日」とすることを検討しています。 これは、顕現とは逆に、復活祭当日の後もご復活を祝う期節は、なおも続くとの理解からです。ですから、典礼色も白のままです。現行の復活後第○主日と比べ、検討されている復活節第○主日のほうが、○の中の数は一つ多くなります。
 この他、「聖木曜日」、「聖金曜日」、「復活徹夜祭」の「聖なる3日間」を重要視します。また、現行で「聖霊降臨後最終主日」としてきたものを、①現行のままとするか、②『王なるキリストの日』、『キリストの支配』、『終末主日』、『永遠の主日』などの位置づけにするか、③『教会暦最終主日』と呼称するか、現在、協議を重ねています。
(2)聖書朗読配分(聖書日課)
 主日礼拝での聖書朗読配分として、新たに『改訂共通聖書日課』(RCL)の導入を検討しています。RCLは、最初、北米で、カトリック教会の朗読配分をもとに、聖公会、プロテスタント諸派で協議を重ねて策定したエキュメニカル(教派横断的)な聖書日課です。その後、世界的にも様々な教派で用いられるようになり、日本でも、カトリック教会と聖公会は、基本的にRCLで定める同じ福音を毎週の礼拝で聴いています。
 今回、日本のルーテル教会でも、これを用いることで、世界中の多くの信仰の兄弟姉妹と共に、同じ日に、同じ聖書のみことばを聴く恵みに与かることが可能になります。また、RCLは日曜以外の月曜から土曜日の聖書日課も定めており、主日(日曜日)を中心に、日々、みことばに聴き従う生活をするように構成されています。これについては、機会ある時に改めて紹介します。

連載 マルティン・ルター、人生の時の時(6)

江口再起

 さて、ここで宗教改革の神学(思想)をまとめておきましょう。3点です。
 第1に「信仰義認」というか「恩寵義認」です、つまり「恵みのみ」です。(「恵みのみ」と「信仰のみ」は同じことですが、「恵みのみ」は神の側から、「信仰のみ」は人間の側から表現しているのです)。第2に「聖書主義」、つまり「聖書のみ」です。先述しました。そして第3に「万人祭司」です。 万人祭司主義の要点は次の2点です。
 第1に、当たり前ですが、すべての人は神の前に平等だということです。そして第2に、どんな人であれ神様に対してはまるで祭司のように真剣に生きようということです。(ですから、牧師と信徒の間には当然、役割上の区別はあるのです。ちょうど「八百屋さん」と「時計屋さん」は、人間としての存在価値は全く同じですが、仕事には区別があるのと同じです)。
(6)結婚(1525年、42歳) 生きることは、 山あり谷あり
 人生、生きることは山あり谷ありです。ルターもそうでした。
 まず結婚。ルターは42歳のとき、元修道女だったカタリーナ・フォン・ボラと結婚しました。従来、 神に仕える修道士は独身制でしたから、この結婚は歴史的結婚です。その結果、形成された家庭は、しかし、どこにでもあるごく普通の家庭でした。いろいろ楽しいこともあり、また苦しいこともある。特別に「聖家族」というわけではありません。しかし、そこがいい。
 残された肖像画などを見ますと、ルターはがっちりしていて健康そうに見えますが(ややメタボ)、実は人生の後半、3分の1は病いの人でした。便秘、胃の不快感、耳鳴り、めまい、腰痛、腎臓結石、狭心症、痛風、頭痛それに鬱。ルターの人間論を表す有名な言葉に「罪人にして同時に義人」という言葉がありますが、その説明として「病気にして同時に健康」ということもルターは言っています。ともかく、いろいろ大変でした。それでもルターは生きていく。(つづく)

申し込みがはじまりました!2015ルーテルこどもキャンプ

ルーテルこどもキャンプ  スタッフ 中村沙絵 

 毎年夏に行われているルーテルこどもキャンプ。1999年に開催されたルーテル国際少年少女キャンプから始まり、2006年からルーテルこどもキャンプと名前を変え、平和について学ぶキャンプと世界の国々について学ぶキャンプが毎年交互に行われています。
 17回目の今年は、「フレンドリーアイランド トンガ王国へようこそ!」をテーマに8月6~8日の2泊3日間、東京のルーテル学院大学で行われます。
 今年のテーマ国はトンガ。オセアニアに位置し、青い海に囲まれ、緑の椰子の木が並ぶ南の島、トンガ。キリスト教国で、あちこちに教会があり、日曜日は安息日として法で守られ、家族そろって教会へ行きます。私は2年間トンガで生活し、家族を大切にして助け合って生きることの素晴らしさ、何より神さまに支えられて日々生かされていることに気づきました。
 キャンプではテーマ国についてはもちろん、3つの伝えたいことがあります。 
(1)いのちの大切さ。日本と離れていて、違いもたくさんある国だけど、全ての命が大切で、命はつながっていること。(2) 友だちの大切さ。言葉は違っても、神様に愛されている同じ友だちであること、その国の子どもたちが何を大切して生きているのか、子どもたちの目線で世界の友だちに何ができるだろうか?と考えるきっかけになっていくことでしょう。
(3)信仰の大切さ。友達や家族、自然に感謝する気持ちから、神さまへの感謝の気持ちが芽生え、どんな時も共に神さまが歩んでくださっていることを確認できる時間となります。
 主題聖句である「我らは神の中に生き、動き、存在する」(使徒言行録17章28節)のとおり、トンガを通して子どもたちは、”わたし”だけではなく様々な国で生活をする”わたしたち”が神さまによって生かされ、存在していることに気づくことでしょう。どうぞたくさんの子どもたち、そしてスタッフを送りだしてください。私たちと共に、トンガを知り、楽しみ、味わいましょう! キャンプの詳細は、各教会宛に送付済みの案内、もしくはhttp://bit.ly/1c1zakJからご確認ください。

LCM会議報告

世界宣教主事 浅野直樹

 6月12日から14日にかけて海外宣教協力会議LCMが開催されました。これは、Lutheran Cooperative Missionの略で、JELCの宣教を支援する海外教会や宣教団体との合同会議のことです。
 現在JELCは、アメリカ福音ルーテル教会(ELCA)、フィンランド福音宣教会(LEAF)、ドイツのブラウンシュバイク教会(ELCB) の三つから宣教協力をいただいています。 近年、ブラウンシュバイクの参加がなかったのですが、今回久しぶりにトーマス・ホーファ事務局長が出席できたことで関係団体がすべてそろいました。各教区からも選ばれた代表者が1名ずつ参加し、全体会議は総勢15名となりました。また各国との個別協議も行われました。
 今回のテーマは、「宗教改革500年へ、これからの宣教」です。まずは宮本新牧師が「われわれはなぜ集まるのか?」と題して基調講演をしました。宣教によって「何を伝えるのか」を考えるためには、日本がそして世界が、今どういう状況なのかを踏まえて論じることの必要性、今日の世俗化の問題とそれに対処するための「文脈の神学」という考え方、教会の個別性は互いに浸食しあうプロセスの中で絶えず変化していくことを、宗教改革500年とこれからの宣教を考えていく際に踏まえておくべきこと、アウグスブルグ信仰告白はルター派教会のアイデンティティであると同時に、ここにこそ世界への広がりをもった宣教的原点があること、公同性を捉える新たなキーワードとして、複数の歴史が重なり合う現実を包む「共棲」(cohabitation)という概念、さらにはウェブ上の公同性の可能性へと及びました。
 講演に引き続き、JELCからは白川事務局長、ELCBからはホーファ事務局長 、LEAFはフフィティネン伝道局 長、ELCAは石田アジア・太平洋局長が発表し、宗教改革500年にむけての具体的取り組みを紹介、それぞれの脈絡における国内宣教の課題、海外伝道の進展、10~20年後の自分たちの教会の姿と宣教ビジョンを展望してもらいました。
 久しぶりの全体会議でしたが、各教区代表者の顔ぶれが幾分若返り、「これからの宣教」に取り組むのにふさわしかったといえます。

全国教師会 宗教改革 500年記念事業

 全国教師会として宗教改革500年を記念し、教師会として意義があり、また教会や社会に対して責任を果たしていくために、2つの事業を推進することとしました。
 このことを通して、教師間の連帯を励ますことになることを期待し、また宗教改革500年の節目に教師の働きの今を切り取る「説教」と「ルターを語る」という作業を通して、ルーセランアイデンティティを表現することになればと考えています。現任教師の皆さんにはすでに依頼をしており、数件の原稿が寄せられています。教師の皆さんはご協力をよろしくお願いいたします。

①説教集の作成

 この節目に、み言葉に立つ教会の教師集団として説教に取り組み、後世に残すために説教集を編纂し、発行します。

■執筆依頼対象 
 2015年度時点での 現職全教師、牧会委嘱を 受けている教師
■募集期間
 2015年5月~20 16年3月末
■内容 
 説教(とっておきの1 編。あまり古いものでな ければ、過去のものでも 可能。主日礼拝でなされ た説教と限らない(例え ば『るうてる』へ寄稿さ れたもの)。テーマは自 由。宗教改革をテーマと する必要はありませ ん。)
■文字数  
 本文4000字以内
■体裁   
 タイトル、聖句(説教の 中心となる1~2節)、 執筆者名(実名)
 

②ルターを語る

 宗教改革やルターについてのリソースとして社会に貢献するべく、「街のルター博士」としての役割を果たす。そのために、全教師が「ルターを語る」とのテーマで自由に執筆し、それを順にJELCのウェブサイト上において公開します。

■執筆依頼対象 
 定年教師を含む全教師
■募集期間 
 2015年6月~20 17年3月末
■内容   
 「ルターを語る」
■文字数  
 無制限(あまりに長いも のは読んでいただけな いと思われるので、ご配 慮ください。)
■体裁   
 タイトル、執筆者名(実名)
 いずれも、 ワードやテキ ストなどのデータ形式  とし、Eメールにて提出 をお願いします。

■宛先
jelc.kyoushikai@gmail.com  (全国教師会書記:安井)

 尚、寄せられた原稿につきまして、全国教師会の編集方針に従い、不快語、差別語を中心に修正と編集を行ないますこと、ご了承ください。

ひかり工芸舎新舎を与えられて

社会福祉法人 光の子会 理事長 岩切雄太

 光の子会の働きは、日本福音ルーテル門司教会付属門司幼稚園の園庭を、知的障がい児の遊び場として開放したことに始まります。その出会いから、教会が中心になり1972年に社会福祉法人光の子会を設立、翌年、知的障害児通園施設光の子学園を開園しました。
 ところで、当時の光の子学園には0歳から18歳の方が通園していました。そのような中、光の子学園の卒園者が ( また地域の障がい者が)仲間と一緒にいきいきと働くことのできる場所として、1976年に知的障害者通所授産施設ひかり工芸舎を、また在宅の障がい者を受け入れていくために、1998年にひかり工芸舎谷町分場(現:たにまち光舎)を開設しました。
 現在は、法制度が変わり、光の子学園は児童発達支援センターになり、ひかり工芸舎は就労移行支援事業・生活介護事業を行う多機能型事業所、たにまち光舎は就労継続支援B型事業を行う事業所になりましたが、子どもたちや利用者が、遊び働くことを通して成長していく場所であることに変わりはありません。
 さてこの度、ひかり工芸舎の新舎が完成し、引っ越しをしました。新舎は、光のたくさん差し込む素敵な建物です。またそこは関門海峡を望む気持ちのよい場所です。
 そしてまた、私たち光の子会は、子どもたち、利用者の遊ぶ場所・働く場所に加え、安心して生活できる場所として、ひかり工芸舎の隣にグループホームを開設するための準備をしています。
 私たちは、 法人設立からこれまで、子どもたち、利用者一人ひとりが「この世の光である」という思いを大切に守ってきました。というのも、パウロは次のように言っているからです。「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(コリントの信徒への手紙一12章22節)。
 この社会の中で、(知的)障がい者は、弱い存在かもしれません。しかし、力や強さというものが、人々を分裂させてしまうのに対して、周りの助けを必要とする彼(彼女)たちは、人々を集めて一つにします。そして、助け合うこと、思いやり、心を開くことの大切さを呼び起こしてくれるのです。
 これからも、一人ひとりの命の光を輝かす灯台のような場所として、光の子である彼(彼女)たちと歩んでいきたい、と思います。

 

 

 

 

  

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