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るうてる2015年4月号

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説教「神の新しさで」

        
 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。 (マルコによる福音書16章1~8節)

主イエス・キリストの復活を喜び、祝うことができますことを心から嬉しく思っています。復活は、新しい生命の始まりであり、キリストの復活を祝うことは、私たち自身が新しい希望をもって生きることを意味しています。イエスの復活は、私たちに「神の新しさ」が与えられて、その「神の新しさ」の中で生きることができるということのしるしです。
 聖書が伝えるイエス・キリストの復活の出来事は、大変意味深い象徴的なことに満ちています。たとえば、墓の入り口をふさぐ「大きな石」は、私たちの願いや思い、将来の希望を妨げるものと言ってもいいでしょう。入り口をふさぐ大きな石は、自分の力ではどうすることもできないこと、不可能に思われることの象徴に他なりません。
 私たちも、ずいぶんとそんな思いで生きることがあります。自分の将来がふさがれてしまっている。何かにふさがれて閉じ込められている。そんな状態が、「入り口をふさぐ大きな石」です。現代人の多くは、未来の展望がない閉塞感を感じながら生きているといわれています。まことに「大きな石でふさがれている状態」といってもいいかもしれません。
 ところが、行ってみると、この「大きな石」は、その日の朝には転がされていました。キリストのもとに行く者に、その石は取り除けられ、入り口は開いていたのです。このことは重要な復活のメッセージです。キリストのもとに行く者には、その石が取り除けられ、入り口は開いている。復活の朝の出来事を伝える共観福音書は、こぞって、このことを伝えてくれます。
 また、婦人たちが準備した香油や「空の墓」は、生きることの徒労と空しさを表しています。彼女たちが準備したものは無駄に終わりました。イエスの遺体が そこには なかったからです。 準備した香油が無駄になり、墓には何もなく、空虚でした。これは、私たちが生きることの「空しさ」そのものでもあります。それは、私たちの人生の根幹に関わることです。
 人生は徒労の連続であり、生きる意味や充実感もなく、空しくさびしい。私たちは、ずいぶんとそんな思いで生きることがあります。一所懸命準備したことが無駄に終わり、何の意味もなくなる。私たちは、自分の日常でも、そのことを度々経験しますし、どんなにがんばっても、どうせ老いて、やがてひとりで寂しく孤独のうちに死ぬだけではないかという暗い不安に襲われたりもします。人生は徒労の連続で、空しい。私たちの心の奥底にはそういう思いが常に潜んでいます。空しさは絶望につながります。
 聖書が伝える「無駄に終った香油」 や 「空の墓」は、 そうした空しさと絶望の象徴です。言うまでもなく、「墓」は、絶望と死そのものに他なりません。しかし、この復活の朝、空しさと絶望の空の墓の中で途方に暮れている婦人たちに、神の言葉が伝えられます。そして、キリストの復活が告知されるのです。それはまさに「新しい朝」なのです。
 言い換えれば、私たちが自分の人生の中で求めているものは、絶望と死の中にあるのではない、ということです。つまり、神の告知を聞き、復活を信じる者は、自分の人生が、どんなに苦労が多くても、絶望と死のうちには終わらないのです。復活を信じる者は、自分の心の奥底にある空しい思いや絶望的な思いの代わりに、キリストの復活を置くことができる。どんなに徒労や空しさが襲ってきても、私たちは神の復活の強さで生きることができるのです。復活の出来事を伝える聖書の言葉は、そのようなことに満ちているのです。ですから、イエス・キリストの復活を祝う私たちも、自分の中にあるどうしようもないことや暗いことをキリストの復活に置き換えて、神の復活の力、「神の新しさ」で生きていきましょう。

宗教改革五〇〇年に向けて ルターの意義を改めて考える(36)

ルター研究所所長 鈴木 浩

ルターがアウグスティヌスの原罪論を強化して、原罪論にあった曖昧さから決定的に決別し、「自由意志などは、真っ赤な嘘、単なるフィクション」と言い放ったことが、「信仰のみによる義認」の出発点であった。無論、ここでもルターの発言の前提は、「神の前で」というあの座標軸である。
 ルターの罪の理解が、あれこれの悪事のことを指すのではなく、「絶えざる自己正当化」であったことは、繰り返し指摘してきた。「転んでもただでは起きない」 のが、人間の底知れない罪性だというのだ。
 これもすでに指摘したように、われわれは目的地(天国)を目指して車を運転する運転手ではなく、サタンに運転された自動車だというのが、ルターの基本的人間理解だった。だから、われわれは、サタンの意のままに、操られている。無論、われわれはそんなことは悟っていない。パウロによれば、サタンは「光の天使」に偽装しているからである。
 さあ、どうしたらいいのか? 運転席でわれわれを操っているサタンをキリストが追い出し、そのキリストにハンドルを握っていただく、それしか手段はない。まさに「キリストのみ」なのだ。 

議長室から

感謝をもって始め、そして終える

  
総会議長 立山忠浩

4月は教会にとりましても人事異動の季節です。私ごとになりますが、東京池袋教会での21年間の働きが終わり、この4月から都南教会でご奉仕させていただくことになりました。感謝をもって前任教会の働きを終えられ、そしてまた感謝をもって新たな教会の働きへ赴けることを喜んでいます。
 3月には5人の牧師が定年をお迎えになりました。それぞれの説教が機関紙「るうてる」に連続して掲載されましたので、毎回楽しみにして読ませていただきました。 これまでのお働きや辿り着いた福音理解がよく伝わって来るようでした。長年の良きご奉仕、本当にお疲れ様でしたという思いを新たにしました。
 3月に定年をお迎えになる牧師が 毎年いらっしゃるわけですが、締めくくりの説教や挨拶を読む際に、私にとって一番気がかりなことは、牧師の職務に感謝をもって終えられたのかどうかということです。お働きの内容、奉職の年月が異なったことは当然ですが、 神様への感謝、教会や関連施設や園への感謝は同じであって欲しいのです。同様に、奉仕された教会や関係者の感謝をもって退任されたことをただ願うのです。 今年もそれぞれの牧師から感謝を込めた言葉を聞くことができ、心から嬉しく思っています。
 4月には4人の新任教師を迎えることになりました。昨年は新卒牧師がいませんでしたので、喜びもひとしおです。本人たちはもちろんですが、赴任教会や関係施設の方々は着任を心待ちにされていたことでしょう。
 牧師の職務、働きは多様です。若い牧師たちゆえに様々な働きへの期待も大きいことでしょう。ただ、最も重要な牧師の働きはみ言葉を宣教し、聖礼典を執り行うことです。按手式の説教で申し上げたことですが、特に新任教師の数年間は、説教作成、聖書会などの準備には時間と労力を必要とするものです。本人の努力と心構えは当然のことですが、適切な備えの時間を確保するために、信徒の皆様のご協力と励ましをいただければ幸いです。
 やや気の早い話ですが、4人の新任教師の定年の時を私は見届けることはできないでしょう。でもその時の私の願いは、感謝をもって迎えて欲しいということです。

九州教区「礼拝と音楽講習会」

九州教区教育部長 立野泰博

 九州教区では隔年で、「教会学校研修会」と「礼拝と音楽講習会」を行ってきました。今年は「礼拝と音楽講習会」の年でした。2月11日午後1時より、日本福音ルーテル博多教会のオーバーホールされたパイプオルガンの演奏で講習会がはじまりました。
 今回のテーマは「礼拝式文を学ぼう」でした。講師として、式文委員会の松本義宣牧師(西教区)をお招きしました。日本キリスト教団出版局「礼拝と音楽」の編集委員である松本師に、「とにかくわかりやすく式文を学ぶ」ことをお願いしました。 
 九州教区ではこれまでも式文の学びをしてきました。しかしとても難しい話という印象でした。また現在作業が進んでいる式文の改訂に関しても混乱があり、「新式文」「改訂新式文」「新改訂式文」等など受け取り方が様々でした。
 松本牧師は「礼拝よもやまばなし、式文うらばなし」と題して、「宗教改革までの礼拝の歴史概観」から「宗教改革における礼拝改革」、「日本福音ルーテル教会の式文史」をわかりやすく興味深く話してくださいました。
 宗教改革500年を迎える私たちが、宗教改革は礼拝改革であり、それは福音の再発見と回復、それに基づく改革であったこと。ルターの礼拝改革は、典礼思想の大転換であり「神の奉仕、神が奉仕」の礼拝とし、伝統に則った形式を「信仰義認」「恵みのみ」に基づいて構成したものであることを学びました。
 参加者の感想からは「とっつきにくい式文が興味あるものとなった」「式文の意義がよくわかった」「はじめて式文の神学が学べた」というものでした。参加者は九州各地から46名。宮崎から飛行機で参加された方もありました。ただし、改訂新式文の内容についてまでは話がいかなかったことが心残りでした。
 九州教区では7月に教区主催で改訂新式文についての学びを行う予定です。次期総会で提案が行われる式文について学びを深め、教区としての意見が言えるように準備したいと思っています。

プロジェクト3・11より いわき食品放射能計測所「いのり」について

プロジェクト3・11企画委員  安井宣生

 不安に寄り添う。
 この地で生きていくこと、収穫された作物を食べること、子ども達を外で遊ばせること、その成長のこと、健康のこと、そのひとつひとつに対して、深い不安を抱え続けています。そして、その不安のひとつを口にすることさえ、家族の中に溝を生じさせることになりかねず、ためらわねばならない辛さがあります。見えず、匂いもしないものに壊され続ける恐怖と痛み、そして深刻な分断。それが、東日本大震災により引き起こされた原子力発電所事故がもたらしたことであり、4年という時間の経過も、未だ不安の軽減とはならない厳しい現実です。
 仙台キリスト教連合の「東北ヘルプ」と「いわきキリスト教連合震災復興支援ネットワーク」 が協力し、「食品放射能計測プロジェクト運営委員会」を立ち上げました。2011年9月のことです。このプロジェクトは、放射性物質による汚染に不安を覚える一人ひとりの魂をケアするために、仙台といわきの両市に食品放射能計測所「いのり」を立ち上げ運営しています。
 震災発生から早い時期のこと、福島で三世代が同居する家族で祖父が作った作物を、食卓においてその孫にあたる自分の子どもたちに食べさせることへの不安を抱える母親がいました。心配はないとマスコミも地元生産者も報告していると言う義父に対し、母親は不安を口にすることができません。 その作物の安全を確認しようにも、公的機関での計測は名前こそ伏せられても様々な情報が記録・公表されるため利用できず、不安は募るばかりです。
 まさにそのような人の不安に寄り添うために、民間計測所である「いのり」は必要とされ、無料で計測を担っています。1時間を要する計測時間は、ようやく不安を口にする方の心を受けとめるケアの時間ともなります。こうして不安に寄り添われることが、生きることへの力となることでしょう。これこそ、教会の業です。その歩みに?がり、少しでも支えることになればと、年間25万円の支援を祈りと共にお送りすることを継続していきます。

式文の改訂

「アンケートQ&A」(その1)

式文委員 松本義宣

 前号で紹介したアンケートで頂いたご質問やご意見に、限られた紙面ですがお答えいたします。ただその前に、これまでご紹介した試案の基本的なコンセプトを改めて整理します。幾つかの不明点やなんとなくの「もやもや感?」の払拭に繋がれば幸いです。
 全体の構成が「招き」「みことば」「聖餐」「派遣」となったこと、これは初代教会以来の基本構成で、エキュメニカルな視点でも、その長短や強調点の違いや内容の濃淡は別にして、共有されているものです。ことに私たちルター派として、宗教改革の基本理念たる「礼拝は神の業」、人が神に奉仕するのではなく、まず神が人に奉仕してくださる出来事(もちろん、だからこそ人は感謝をもって応じるのですが)、その神の主体性、先行性が根本です。この4部構成も、すべて神が主語です。つまり、神が「招き」、「みことば」を語り、いのちの糧「聖餐」で養い、この世に「派遣」する。派遣から再び神に招かれて礼拝に集う(帰る)、その派遣から招きへの間も、私たちは礼拝で受けた恵みと祝福を携えて生きるのですから、私たちの全生涯がある意味「礼拝」そのものとなる、そんな理解です。
 さて、現行式文の「奉献の部」がなくなったこと、とりわけ献金が「派遣」に置かれたことにご意見がありました。献金の持つ感謝、自己献身の思いが薄れる、あるいは、この世の奉仕ではなく、具体的には「教会のため」に捧げていて(実際全部そうなのに?)、その意欲が削がれるし、ある種の偽善ではないか等です。それはまず、この連載(「聖餐」(12月号))にあるように、奉献が、聖餐における「人が神に捧げる犠牲」と結びついてきたことを完全に払拭し、人が主語となる要素を主要構成とはしないためです。自分自身を神に感謝をもって捧げるのであれば、それは「派遣」にこそ相応しいのです。確かに私たちは持ち物の一部を献金しますが、本来それは100%神から頂いているものです。捧げるなら、お返しするなら「すべて」です。その場ではとても無理!でも、私たちは「この世」 に (それもまた神のもの!)分かち合い奉仕するために派遣されるのです。何よりイエスの「すべての民を…弟子にし…、…洗礼を授け、…教えなさい」(マタイ28・19~20)との委託を担う、この世に仕える最先端が教会なのですから、貴い献金先としてお許し頂きたいものです。また、具体的には、献金後の「奉献の祈り」と「教会の祈り(執り成しの祈り)」が混乱したり省かれたりする慣行をなくし、区別する意図もあります。
 「招き」における「洗礼」の想起や言及が、未受洗者の排除にならないかというご指摘もありました。教会が教会であるのは、福音の宣教と聖礼典の正しい執行です。そのしるしが礼拝です。これまで聖礼典=聖餐が礼拝の中心だったのに比べ、本来「救い」のしるしである「洗礼」の重要性を礼拝であまり強調されなかったきらいがあります。しかし私たちは、常にこの原点に立ち返る必要があるのではないでしょうか。それがこの提案です。神は、すべての人を、まず悔い改めと「洗礼」へと招かれます。すべての人を待っておられます。(続く)

連載 マルティン・ルター、人生の時の時(3)

江口再起

 何が起きたのか。後年、ルターはこの体験を回想しています(『ラテン語著作全集・第1巻の序文』)。それによると、大きな声では言えないが、実は「神の義」ということを、ルターは憎んでいた。神様は義しいということを聞くと、不安になった。なぜなら、神が義しければ当然、その神は人間にも義しさを期待し要求する。それに答えようと人間は努力し、がんばる。しかし、いくらがんばっても「怒りの神」の前では人は安心できない。神への信仰の不全感は増すばかり。 ところが塔の一室でローマ書1章17節を読んでいたら驚くべきことが記されていた。「福音には、神の義が啓示されている。それは始めから終りまで信仰を通して実現される」。つまり、「神の義」は「呪い」でなく、「福音」だと書いてある。目からウロコが落ちた。開眼。どういうことか。神は「怒りの神」ではない。いやそれどころか、神は自らの「義しさ」を人間に無条件で贈与(プレゼント)してくださる。これこそ、福音。ならば人間はその与えられた「義しさ」をそのまま素直に受けとればいい(これが「信仰」ということなのである)。「神の義」をただそのまま受けとる(「受動的な『神の義』」という)。つまり少しも義しくない私ではあるが、神が自らの「義しさ」をそのままただでプレゼントしてくださるがゆえに、この私は義しいと認められる。そして、これが「救い」ということなのだ。
 神は「怒りの神」でなく、「恩寵の神」である。神への信仰の不全感は全く解消し、いやそれどころか、ルターはほんとうの意味での神との一体感を感じたのです。信仰の確立です。
 以上が「塔の体験」の中身です。神は「恩寵の神」である。まさに「恵みのみ」です。それがすべてです。このことをルーテル教会では「信仰義認」と呼んできました。しかし、考えてみれば、より正確には「恩寵義認」と言うべきでしょう。(つづく)

新任教職あいさつ

甲斐友朗(かい ともあき)

 赴任先が決まる前、私はある召天された牧師のご伴侶から、その先生が使われていたというストールをいただきました。そして赴任先が発表になりました。するとそこは、その先生が牧師として働かれていた場所だったのです。私はいま、シオン教会が、神様が私に用意してくださった任地だということをひしひしと感じているところです。この今の思いを忘れず、与えられた地で精いっぱい神様の愛を宣べ伝えていきたいと思います。

関 満能(せき みつちか)

 全国諸教会の皆様。3月に按手を受け、この4月から水俣教会と八代教会に赴任します関満能です。神学校での学びを終えてとうとう牧師となる日が来ました。しかし、牧師となると言ってもこれからが牧師とされていく日々の始まりです。今、私の心に響いている言葉は、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」というパウロの言葉です。教会と地域社会に生きる人々と共に福音の喜びを分かち合う牧師とされたいと思います。

渡邉克博(わたなべ かつひろ)

 4月より浜松教会と浜名教会へ赴任することになりました。遣わされる教会では、活気ある教会を教会員の皆さまと共に形成していきたいと思います。これまでは神学校での備えの時でしたが、これからは現実の教会の中に身を置き、私を必要とする方々のために、牧者としての働きに従事して参ります。
 不慣れなこともたくさんあり、ご迷惑をお掛けすることもあろうかと思います。何卒ご指導のほど、お願い申し上げます。

渡辺髙伸(わたなべ たかのぶ)

 この春から新霊山教会の牧師となります、渡辺髙伸です。按手を受けて、辞令を頂いたとき、新たにスタートラインに立ったという気持ちでした。これから出会う方々との交わりと、そこから賜る学びによって、牧師として成長していきたいと思います。
 そして、どこまでも福音を宣べ伝え、そこに生きる人に仕えて、共に喜び、共に泣く人生をキリストと歩んでいくことを、これからの自分の夢としていきます。

お詫びと訂正

 3月号の記事につきまして、筆者の意図とは異なる編集を行い、確認が十分でないまま発行してしまいました。筆者の松木傑牧師と読者の皆さんにご迷惑をおかけしたことをお詫び致します。以下、該当箇所を訂正します。
 3月号1面4段11行「一見すると同じですが、99・9%神様の絶対に従うことと、それを100とし、理性を無視する態度には大きな違い」を「一見すると同じですが、99・9%理性を尊重し、0・1%の神様の絶対に従うことと、理性を無視する態度には大きな違い」と致します。  広報室長 安井宣生

九州地域教師会報告

九州地域教師会会長 杉本洋一

九州地域教師会退修会が、2月16〜17日、熊本教会を会場にして行われた。会員21名中、19名が出席した。今回のテーマは、「ルター教会と信仰義認、そして、日本人」。それは、 宗教改革の教会が、歴史的に宗教改革を経験していない国の教会として、宣教に遣わされた場所で、どのように、神の言葉を伝えていくのか という問題意識に立ってのことであり、来る2017年の宗教改革500年を意識してのことである。 信仰義認を根幹に据える教会が、この世とこの地域において、どのように、共に歩んでいけるかということである。これは、九州で宣教が開始されてからずっと持ち続けている宿題でもある。
 九州地域教師会では、昨年の夏、中国教会を訪問する貴重な機会を得た。退修会では中国を訪問した全員がそれを報告し、出席者と分かち合った。中国教会は、いくつかの信条を持つ私たちのルーテル教会とは、 対極にある教会ともいえるだろう。教派性を持たない教会であり、主の祈りと使徒信条をのみ信仰告白文書として重要視する教会である。
 訪問プログラム参加者一人一人の体験の発表は、広範囲な気づきを与えられる機会となった。礼拝について、典礼の上でも自由に行われているという感想が多く、国家を中心とする教会という制約がある中でも、事実、あふれる若者の姿を目の当たりにして、率直な驚きの感想が報告された。中国は中国、日本は日本ということも、軽々には言えない中、励まされた部分も多かった。途中の休憩時間も惜しんで報告と質問意見が交わされた。
 講師の江口再起先生より「信仰義認と日本人」と題して、講演をしていただいた。日本人が受け止める「信仰」の理解とルターの言う「信仰」の理解、そして、親鸞にも触れられた。価値観が多様化する中で、価値観の共有化は、共に生きていこうとすることであり、エキュメニズムの方向でもある。
 九州地域は広い。日ごろの交流の難しさがあるが、この教師会において、1泊2日の時間と場所を同じくすることによって、自分の課題や問題を語り合う大事な機会とすることができたと思う。

第7回 教会推薦理事研修会報告

事務局長 白川道生

1月12日、ルーテル市ヶ谷センターにて標記研修会が開催された。出席者は、JELC(宗教法人)より4名、学校3法人より9名、福祉8法人より12名、幼保連合より2名、講師と職員2名の計27名であった。
 7回目を数える今回は、「教会推薦理事は創立の精神を継承する役目を担い、またそのために創立目的(出発の祈り)の完成を目指して実践する人」との視点から 理事等の役割を考える研修とした。
 基調講演として、山本誠さん(聖隷福祉事業団)により「創業の祈りの実現に向けて~人の力と理念の力~」と題されたお話しを伺った。以下、その講演の内容の要約をもって、研修報告とする。

 聖隷福祉事業団は1930年に創立され、全国1都8県で139施設286事業を運営する日本最大の社会福祉法人。職員1万3326人。年度決算額999億円。
 基本理念は「キリスト教精神に基づく『隣人愛』」。シンボルマークには、 医療・福祉・教育の3つの円が描かれ、重なる中心部に十字架がある。それを囲む2重の円はイエス洗足の桶を表している。
 創立者の長谷川保は、浜松聖隷病院の開所式でこう祈った。「今日ここにこの病院を神にささげます。もし、事業が御心にかなわなくなったならば、この病院をつぶしてください。」長谷川は衆議院議員として憲法の成文に関わった。有名なのは第25条。「すべての国民は、健康で文化的な」との水準の定義に「文化的な」を押し込んだとの逸話が残されている。さらに、「制度では救えない人のために」第13条「幸福追求」の権利を意識して、必要に応じて次々と働きを興していった。
 そのためか、後世の評価には、独断と言われる声も存在する。競馬や競輪の益金から資金を得て、事業を作ってきたのも長谷川が始めたことであり、批判に対しては「祈ってから使えばいい」と応じ、「隣人愛」に尽力した。
 現在は3代目の理事長。ノンクリスチャンであるが故に、理念の「隣人愛」について、「この言葉だけでは分からない」と悩み抜き、「聖隸の理念」が読んでわかるような表現とするために、特別のチームが組まれた。そして2年後、「隣人愛」に、 使命・ビジョン・ 職員行動指針から構成された説明が全職員に配布された。キリスト教を土台とする法人の理事長にノンクリスチャンを選ぶことを危惧する意見もあったそうだが、研修体系を厚くし「係長以上の職員は理念を明確に語れる」ように努めているとの紹介が、出席者の心に残った。

日本福音ルーテル教会2015年度人事(敬称略/50音順)

○引退(2015年3月31日付)
 ・鐘ヶ江昭洋
 ・佐々木赫子
 ・鷲見達也
 ・松木 傑
 ・吉谷正典
○新任
 ・甲斐友朗
 ・関 満能
 ・渡邉克博
 ・渡辺髙伸
○異動
(2015年4月1日付)
【北海道特別教区】
 該当なし
【東教区】
 ・青田勇 東京池袋教会、事務局管財室長(兼任)
 ・太田一彦 仙台教会、鶴ヶ谷教会
 ・小勝奈保子 聖パウロ教会
 ・後藤直紀 板橋教会、東京教会(兼任)
 ・立山忠浩  都南教会
【東海教区】
 ・内藤文子   掛川・菊川教会(主任)
 ・渡邉克博   浜松教会、浜名教会
 ・渡辺?伸   新霊山教会
【西教区】
 ・甲斐友朗   シオン教会
 ・滝田浩之   三原教会(主任)、 福山教会(主任)
 ・竹田大地   宇部教会(主任) 
 ・松本義宣   豊中教会(主任)
 ・室原康志   西条教会
【九州教区】
 ・関 満能   水俣教会、八代教会

○休職
 ・後藤由起(2015年4月1日付)
○その他
 ▽任用変更(2015年4月1日付)
 ・小勝奈保子
 ・後藤直紀
  (嘱託任用から一般任用へ)
  
▽宣教師
(2015年3月31日付)
【J3プログラム退任】
 ・キャロリン・キーナン  九州学院中学・高校 
 ・モーガン・ディクソン  ルーテル学院中学・高校
 ・ローラ・フェントレス   ルーテル学院中学・高校
(2015年4月1日付)
【J3プログラム新任】
 ・ザック・コービン  ルーテル学院中学・高校
 ・ディーン・ホルツ  九州学院中学・高校 
 ・ハナ・ジャンセン・  ラインキ ルーテル学院中学・高校
▽牧会委嘱
(2015年4月1日付、1年間)
・ 明比輝代彦 富士教会     
・佐々木赫子 松山教会
 ・白髭 義  二日市教会、甘木教会
 ・中村圭助  復活教会
 ・藤井邦夫  宇部教会     
 ・横田弘行  掛川・菊川教会  
 ・渡邉 進  沼津教会

公 告

この度、左記の行為を致しますので、宗教法人法第23条の規定に基づき公告致します。
2015年4月15日
 宗教法人 日本福音ルーテル教会代表役員 立山忠浩

信徒・利害関係人 各位

小城教会土地一部売却
・所在地 小城市小城町字東小路
・所有者 日本福音ルーテル教会
  地番 169番6
  地目 宅地
  地積 31・90㎡
  地番 169番7
  地目 宅地
  地積 53・11㎡
・理由 通学道路拡張のために小城市に教会用地の一部を売却するため。

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