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機関紙るうてる

るうてる2012年5月号

説教「幸せの方程式」

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『祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ降っていなかったからである。』
(ヨハネによる福音書7章37~39節)

 主の聖霊降臨を、心よりお喜び申し上げます。

 『見ているだけで/何も描けずに/一日が終わった/そういう日と/大きな事をやりとげた日と/同じ価値を見いだせる/心になりたい』
 これは星野富弘さんの作品です。どのような状況にあっても、すべてが神様の祝福として、また恵みとして受け止めたいという星野さんの信仰が伝わって来ます。

 ペンテコステ(聖霊降臨)を境に、イエスの弟子たちは、雨が降っても風が吹いても、すべてが神様の祝福として、同じ価値を見出せる心を持って歩み始めました。
 このペンテコステについては、使徒言行録の二章で、一同が集まっているとき、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人ひとりの上に留まった。そのときみんなは聖霊に満たされ、異なるさまざまの言語を持つ人々の言葉の壁を越え、意志疎通が出来たと記されています。その霊というのが、本日の聖書の「イエスを信じる人々が受けようとしている『霊』」のことであり、思想、民族を越えてイエスを信じる者から、「生きた水が川となって流れ出る」と言われることなのです。
 ところで、イエスが、「……その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」という言葉を発した背景ですが、聖書には、祭の終わりの日とあります。この祭とは、仮庵祭と呼ばれるイスラエルの三大祭のひとつで、ぶどう、いちじくなどの秋の収穫を感謝する祭りです。またイスラエルの暦では、年末に当たり、新しい年も豊かな年であることを祈るもので、間もなくやって来る雨季に際して雨が多くもたらされることを祈願したのでした。ゼカリヤ書一四章一六~一七節には、仮庵祭を祝うのに、エルサレムに上って来ない者には、雨が与えられないとまで言われています。ですから、仮庵祭は、ユダヤ人にとって水をもたらす特別の意味を持っていたのです。
 かつて、モーセに率いられたイスラエルの民が、「なぜ、我々をエジプトから導き出したのか。わたしも子供たちも、渇きで殺すためではないのか」と、モーセに迫った時、主の示されたホレブの岩を杖で打つと、そこから水が出てイスラエルの民は救われたことがありました。以来、イスラエルの民にとっての水は、まさに主から与えられたものであり、どのような状況に置かれても主は導き、命である水を与えられるという確かさとなりました。その彼らに、今、イエスは、「生きた水」、それもただの「水」ではなく、あえて「生きた水」が流れると言われるのです。
 また、イエスがサマリアの町に来られた時のことです。丁度昼時で、イエスは旅に疲れ、ヤコブの井戸のそばに座っていました。そこに水を汲みにサマリアの女が来ました。喉が渇いていたイエスは彼女に水を一杯飲ませて欲しいと願ったことがありました。そして、ヤコブの井戸の水を飲む者はだれでもまた渇くが、イエスご自身が与える水を飲む者は決して渇くことはなく、「その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われました。イエスが、「生きた水」と言われるのは、それはとりもなおさず、「永遠の命にいたる水」なのです。
 そして、ここで大切なのは、「生きた水」と「信じる」が、一つになっているということです。イエスを信じることをとおしてのみ生きた水が私たちに与えられるということです。水は絶え間なく流れていなければ澱んできますし、腐ってしまうことになります。しかし、イエスを信じるということと結びついて初めて「生きた水」となるのです。イエスが共にいてくださることによって、「生きた水」となるのです。
 人はしばしば、幸せになる人生の方程式があればと願います。もしそうならば、どのような状況に置かれても、その方程式どおりにすれば、幸せになれるはずです。星野富弘さんの冒頭の詩のように、自分が受け入れ難い季節を迎えても、それは神様がそなえて下さったこととして、受け入れ、すべてを神さまに任せる、これが幸せの方程式と言えましょう。弟子たちがすべてを信じ、すべてを委ねて歩み始めたのが、ペンテコステ(聖霊降臨)です。この日、イエスの弟子たちに、「聖霊」が与えられたのです。そして、新たに聖霊をとおして、「生きた水」が流れ出るようになったのです。ご一緒に、聖霊の導きを覚えつつ感謝をもって、過ごしてまいりましょう。
   蒲田教会牧師 渡邉純幸

宗教改革五〇〇周年に向けて
 ルターの意義を
   改めて考える(2)

 一三世紀に頂点を迎えてヨーロッパ文化は、一四世紀以降、混乱の度を加えるようになった。教皇が二人、そのうちに三人も並び立って争い合ったり、教皇庁がフランス領に近いアヴィニョンに移転して、フランスに支配されることになったり、一五世紀半ばにビザンティン帝国を滅ぼしたトルコが、ヨーロッパに矛先を向けるようにもなっていた。一言で言えば、中世後期は「危機の時代」であった。
 その危機の時代に生まれ、生きたのがルターであった。不幸なことに、ルター自身も魂の危機に直面していた。「宗教改革」は、社会全体の危機とルターという一人の修道士の危機とが重なって起こった。
 ルターの魂は苦しんでいた。それは、どうしても「救いの確信」が得られない、という点にあった。その危機を解決すべく、ルターは悩みに悩んだ末に、父親の意向にも逆らって、修道院に飛び込んでしまった。落雷で死の恐怖を味わったルターには、そこしか逃れる場所はなかったのだ。
 「アウグスティヌス隠修修道会戒律厳守派」という托鉢で生計を立てていた修道会であった。
 ルター研究所 所長 鈴木 浩

牧師の声

「フェアトレードは世界とのわかちあい」
聖パウロ教会 松木 傑

 1967年、現在のナイジェリアでビアフラ内戦が起こり、飢餓に苦しむ子供たちの姿が世界に報道されました。当時、私は学生で小泉潤牧師が牧会する修学院教会に通っていました。同じ地球に住む私たち、「何かをすべきではないか」その思いが、私の生涯を貫き現在に至っています。すごく単純な人生です。
 1986年、日本キリスト教協議会の幹事として、国際協力の仕事を担当し、1991年、現在の聖パウロ教会に赴任いたしました。赴任して、ソマリアの飢餓の問題が起こり、国際協力NGO、「わかちあいプロジェクト」を設立、ケニアのカクマ難民キャンプとの関係が生まれ、多くの青年たちを、1月から6ケ月派遣いたしました。難民キャンプで求められた古着の支援も今年で20回を迎えています。
 21世紀の人類共通の課題は、環境問題と貧困問題です。南と北の国の広がる貧富の差は、同じ地球に住む私たちの緊急の課題です。インターネットは難民キャンプでも接続できます。情報が、世界の隅々に一瞬に配信されるなかで、努力しても貧しさから抜けられない南の国の人たちの苛立ちと絶望感は、テロに駆り立てる要因の一つでもあります。
 1992年、100年記念の事業として自己研修のプログラムが企画され、北米、ヨーロッパを訪ね、教会の国際協力の働きについて学びました。その訪問がきっかけで、フェアトレードラベル運動を日本に紹介することになり、現在では、イオン、無印など企業が参加するまでになっています。
 フェアトレードは、発展途上国の農民と労働者の自立を支えるための運動です。コーヒー、紅茶などの農産品の最低買入れ価格を保証し、約10%の奨励金を私たちが支払うことにより、自らの力で立ち上がることを支えています。
 皆さんの教会や家庭で、フェアトレード商品を使ってください。簡単なことのようですが、なかなか日本では広がりません。

日系ルーテルサンパウロ教会を訪ねて

藤が丘教会 間瀬園恵

 日曜日の礼拝後には、いつも昼食会が開かれていました。月に一回は持ち寄りの昼食会、あとの三回は牧師夫人の奮闘と会員さんのお手伝いで成り立っていました。寮の学生さんたちにも声がかけられ、ポルトガル語が飛び交い、笑い声の絶えない、賑やかな昼食会でした。

 月に一度、土曜日の夕刻には異業種多文化交流のシュラスコ(バーベキュー)会が開かれ、若い駐在員とその家族や日系人、留学生、寮生が交流し、情報交換をしていました。その時のこと、キリスト教には馴染みが無いという若い夫人が、「信者でもないのに声をかけていただいてうれしい」と教会の十字架を見上げておられました。
 日曜礼拝には、メディアに強い徳弘牧師の気遣いで、お年寄りには赤外線の無線ヘッドホーンが用意されていました。オルガンは金属音の強い借り物でしたが、高齢の信者さんの中から「ヤマハの新古品のオルガンが手に入ったから寄付します」という申し出があり、オルガニストも大喜びをしていました。日本の状況にも似て、サンパウロでも、会員数の減少と牧師の不足は深刻のようでした。牧師が病気療養中のために合流して礼拝を守っておられる同じルーテルの南米教会の方々もおられました。その中で、90歳になられるリーダー格の信徒さんは、杖に頼りながらも背筋をシャンと伸ばして、元気なお声で賛美歌を歌い、新しいこの教会に溶け込もうとしておられました。ご老人はヘッドホーンをつけ、「日本でもサンパウロの日本人教会のために祈り、応援している人がたくさんいますよ」という主人の挨拶の言葉に大きくうなずかれ、しっかりと握手をしてくださいました。日本からの宣教師派遣が打ち切られると知らされ、「見捨てられた」という淋しい思いに駆られていたご婦人も、多少は安堵されたご様子でした。
 隔週の午後におこなわれる、若い日系三、四世のためのポルトガル語による礼拝は、日系二世の佐藤清司ルイス牧師(ブラジル日系キリスト連盟の理事長)の協力を得て、小さい群れではありましたが、堅く守られていました。佐藤牧師は、「高齢化した教会の信徒の群れと教会離れをする若い信徒の小さい群れをどう繋ぎとめていくかが教会の大きな課題ですよ」と話してくださいました。
 礼拝堂は、時には日本語教室、時にはポルトガル教室、それから日系キリスト教連盟の合同賛美歌練習場になり、また時には賑やかなサンバの練習場にもなっていました。そして、そこにはいつも怠り無く準備をしてから笑顔で見守る牧師夫妻の姿がありました。(続く)

 

福音と美術

マティスにおける色彩の輝き
 小鹿教会 寺澤節雄  静岡大学名誉教授(美術教育学)

 私は、静岡大学の教育学部で美術の教育法を三十五年に渡って教えて来ました。退職してすでに五年になりますが、今も浜松の大学で非常勤講師として教えています。福音と美術とが、私のなかでどのように繋がっているかお話してみたいと思います。
 図はマティスの「コリンウールの窓」(一九〇五)という絵です。マティスはこの絵の激しい色彩表現によって、「フォービスム(野獣派)」と揶揄されましたが、それは彼の出世作となりました。
 それまでのマティスは、フランス北部ノール県の故郷の町で暗く沈んだ絵ばかり描いていて、誰からも評価されませんでした。光溢れる南仏コリンウールへの旅が彼の一大転機となったと言われていますが、彼は古き生に死に、新しき精神に生まれる体験をしたのだと思います。
 南仏の光は、彼自身の長き鬱屈を破り、精神の光となりました。光の要素は色彩です。彼は色彩の純粋な輝きの表現によって、精神の輝きを表現しようとしたのだと思います。
 精神という言葉ですが、キェルケゴールにとって精神という言葉は、特別な意味を持っています。彼は、人は精神として生まれない。自然的生に死ぬことによって、人は精神に生まれるのだと言うのです。そして、キェルケゴールにとって精神とは、キリスト・イエスが与える精神であり、聖霊に通じるものです。
 マティスにとって、精神の新たな足場は、物自体の固有色を相対化することによって獲得されたのだと言えます。これは福音が原罪を相対化するのに似ています。人は原罪的な存在様式から逃れることは出来ませんが、福音を知ることによって、その存在様式を相対化する新たな精神の足場を得ることが出来ると思うからです。そこに生の解放と創造性の喜びが生まれます。
 マティスは、古き衣を脱ぎ捨てるように、固有色を衝撃的な原色に置き換えました。しかし彼自身は終生穏やかな人で、自らの絵画を生きる喜びの表現だと言っています。〈続く〉

バッハのカンタータを聴く

 カンタータ4(BWV 4)
    「キリストは死の布に横たわった

私がバッハのカンタータを教会的に意識して初めて聴いたのは、神学校の最終学年、1956年の頃だったろうか。その頃は渋谷にあったアバコでの深津文雄牧師の解説によってだった。これはルーテル教会の神学生としてもっと学ぶべきことだと思って、「教会音楽研究会」を立ち上げた。当時の岸校長に相談、許可をいただいて森川事務長と交渉し、ヤマハの携帯型のLPプレイヤーとアルヒーブのLP何枚かを買っていただいたのが始まりだった。自分でもいつかはバッハ全曲のLPを買い揃えようと思ってはいたが、CD時代が来てそれは難なく実現した。晩年になって並行して始めた趣味の「バッハの神学的研究」は嵩じてかなりの専門的な蔵書をもつにまで至っている。
 その初めて聴いたカンタータは4番、「キリストは死の布に横たわった」だった。ルターの復活コラールの原詩七節(教会讃美歌九七はこれを四節と短くしているが)のみを歌詞とした、若い日、1714年以前のコラールカンタータである。コラールの各節の歌詞に応じて、コラールメロディーを変奏するというのはバッハ以前の北ドイツの巨匠たちの作風だが、若いバッハはこれを学んで、オルガン曲でコラールパルティータにも生かしたものがある。このカンタータでも基本メロディーを各節の歌詞に応じて七通りに変奏する形を取るから、歌詞の訳を手にこれを聴くとバッハの訴えようとする信仰のメッセージが聞こえてくるような気がする。
 カンタータはB=2、A=1、C=3、H=8を足して14に合わせて、バッハが署名したのだと言われる、14小節からなる序曲に当たるシンフォニアで始まる。私自身はそれ以上に、イエスの受難の14場面を想って祈りを重ねるという、中世以来の受難週の信心を表す14だと、理解している。イエスの受難と死である。
 コラールは死んで横たわるイエスから始まる。死のリアリティである。この死と戦ってキリストは復活し、死に勝利するのだ。それだけではない。我々にいのちをもたらし、死を空しくする。真のいのちの祝いが続く。
 7節のコラールであれば、その中心メッセージは、「死と戦い、これに勝利した」と歌う第四節にある。ルターの復活信仰、そして若いバッハの復活信仰の告白が聴こえてくる。我々もまたこれに「アーメン」をもって相和すのだ。教会讃美歌97を歌う歌声が変わるだろう。

式文改定について

式文委員会 平岡仁子

 2007年から始まった礼拝式文検討は宗教改革500年を記念する年、2017年の改定式文出版を目指し、現在進められています。 この検討作業に関わる委員会は日本福音ルーテル教会式文委員会と4つのルーテル諸教会(福音ルーテル ルーテル教団 近畿福音 陪席・西日本福音)参加によるルーテル共同式文検討委員会の二つです。 20世紀後半エキュメニカルな世界のキリスト教会に於ける礼拝刷新は3年周期の共通聖書日課の普及と、そして様々な国にある各々の教派における式文改定へと発展してゆきました。日本のルーテル教会もまた青式文における式文改定はその途上に於けるものであったと理解します。
 そしてその展開はその後更に進み、世界のルーテル教会においてもアメリカ、カナダ、ノルウェー、スウェーデン等々、礼拝式文のリニューアルを近年進めています。
 改訂共通聖書日課の使用、礼拝のOrdo(オーダー)の神学的理解、礼拝に於いて朗読される聖書、聖餐を伴う礼拝の頻度、会衆参加によるプロセスとしての洗礼式、共同的・教育的・信仰形成の生涯に渡る堅信理解、説教の典礼的背景の回復、困窮する世界のための祈り、大いなる3日間の典礼(聖木曜日・聖金曜日・復活徹夜祭)、参加する会衆、信徒奉仕者、文化との関わり他。私達がさらに検討すべき課題は多々あると考えられます。
 そして二つの委員会はこれら課題を分担し、具体的な作業を行っています。JELC式文委員会では、ルーテル教団の委員と共に、当初の計画通り2012年に主日の式文試案を提示できるよう努めています。 また合同委員会は主に聖書日課及び諸式について、継続し検討を行います。そして礼拝音楽については讃美歌委員会にご協力を求めつつ、今後検討を考えています。
 最後に、昨年の来日以来ゴードン・レイスロップ博士にアドヴァイザーとしてご協力を頂いていますことをアメリカ福音ルーテル教会に感謝申し上げます。

TNGティーンズ部門 

第19回 「春の全国ティーンズキャンプ」
小澤実紀

 
 3月27日から29日、奈良県の「国立曽爾青少年自然の家」にて、第19回春の全国ティーンズキャンプが開催されました。テーマは、�Tいのちってだれのもの?�Uで、全国から86名のティーンズが参加しました。キャンプの中では、邦題『私の中のあなた』という映画を題材にして、命についてグループディスカッションが重ねられました。「3・11」を経験した、今のこどもたちが、命と死について考える大切な時間になりました。全国の皆様のご支援、ご協力に感謝いたします。
 話し合いを経て、グループごとに発表された�T命パフォーマンス�Uは、参加者それぞれの考えが深められたことを感じ取れる内容でした。「いのちは自分のものだと思っていたけれど、キャンプに参加して、命は自分だけのものじゃないんだと分かった。命は神様からもらったものだと思う」と、感想を話してくれた参加者もいました。
 近年は、夏に開催されているTNGこどもキャンプの卒業生たちの中から、「次は春キャンで会おう」と、つながって参加する子がとても多いです。「神様に出会ってほしい。信仰の友に出会ってほしい」という大人たちの祈りの実も少しずつ実ってきているのではないでしょうか。各教会での働きとTNGのキャンプでの働きは決して別々のものではなく、互いに連鎖しているものだと参加者を見ていて強く感じます。彼らが日々、教会での交わりを持ちながら、全国の仲間たちと繋がりをもっている姿は、大人たちの想いを超えて、とてもたくましいものです。
 みんなから、�T春キャン�Uと呼ばれているこのティーンズキャンプは、来年20回目を迎えます。これまで、春キャンの企画・運営に多くの人々が関わってきました。その道は、決して平坦なものではなかったと思います。
 これまでの歩みを神様に感謝すると共に、これからも、こども・青少年伝道について、私たち教会員ひとりひとりが祈りに覚え、力を合わせていくことができますようにと願います。

足で伝道した人、「邦宏先生」を偲ぶ

賀来周一

いかに美しいことか。
山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。       
イザヤ書52章7節
 
 佐藤邦宏先生と我々同期は鷺宮時代の神学校を1958年に卒業した。入学以来の付き合いから数えると57年が経つ。青春時代の挫折を抱えながら、文士の街阿佐ヶ谷駅近辺を彷徨したことも懐かしい思い出となった。当時の卒業生は大抵の場合、開拓伝道か開拓に近い教会に送り出されるのが当たり前のようになっていた。
 彼が新婚早々の玲子夫人を連れて赴任したのは鹿児島教会だった。教会はまだ開拓の域を出ず、牧師館だけが敷地に建っていた。
 当時は伝道放送ルーテルアワーが盛んで、各地の教会は、送られてくる聴取者カードを手がかりに教勢の進展を図ったものである。彼もまた、これを伝道の手段として有効に使ったひとりだが、彼の場合は丁寧に一軒一軒足で訪ね歩いた。時には、鹿屋を越えて大隅半島の突端近くまで出向くこともあったと聞く。
 こうした地道な伝道は、やがて実を結び、会堂を建て、障がい者授産所ナオミホームや学生寮を建てるに及んだ。
 鹿児島から箱崎、市ヶ谷と各教会を牧会し、その間総会議長、NCC議長を歴任し、牧会を離れて日本聖書協会総主事に就任するが、基本的な姿勢は終生変わることはなかった。
 今年3月末、ある講演会場で年配の婦人に会った時のこと、「邦宏先生はお元気ですか」と尋ねられた。「あの方は熱心な方ですね。私は市ヶ谷教会の近くに住んでいましたが、毎週のように週報がポストに入っていました」と懐かしそうであった。「邦宏先生」という呼び名に私の気持ちは動いた。「佐藤先生」ではないのである。如何に彼が近隣に親しまれていたかを知る証を聞いた思いがした。
 「足で歩く」―これは、この時代が牧師に求める姿ではないか。車、ケイタイ、メールと便利にはなったが、「足で歩く」ことは牧師の基本である。「邦宏先生」は、この基本を私たちに残してくれたと思っている。
[2012年3月27日召天]

東日本大震災ルーテル教会救援派遣着任のご挨拶

野口勝彦

 九州教区二日市・福岡西両教会牧師より、4月1日付にて、東日本大震災ルーテル教会救援派遣牧師として、仙台教会に活動拠点を置くルーテル支援センターとなりびとでの働きを与えられました野口勝彦と申します。
 私が牧師としてはじめて主日礼拝での説教奉仕をさせていただいたのは二日市教会でした。
 その日、2005年3月20日 、10時53分40.秒、まさに、私が説教壇に上り、説教をはじめようとした瞬間、 地震空白域とされた福岡で、最大震度6弱の福岡県西方沖地震が発生しました。
 それから七年を経過した今、昨年、3月11日に発生した未曾有の大災害である東日本大震災の被災地の支援活動に派遣されたことは、私にとっての新たな召命だと感じています。
 先日、仮設住宅での支援活動の一つである「お茶っこサロン」に参加された高齢者の方を玄関でお見送りすると、何人もの方から「今度はいつ来るの」と声をかけられました。
 仮設住宅では、一日、何もすることなく、お隣や家族に気を使いながら、身を縮めて毎日を過ごされている高齢者の方が少なくありません。
そのような方にとって「お茶っこサロン」は、同年代の方々と気兼ねなく過ごすことができる楽しみの場となっています。
 被災地の復興はまさにこれからです。皆様のお祈りとご支援を心からお願いいたします。

住所変更のお知らせ

■白髭 義先生(3月末引退)
住所:〒818-0058 福岡県筑紫野市湯町2‐12‐5 日本福音ルーテル二日市教会
電話・FAX共用:092‐922‐2491

■野口 勝彦先生(JLER派遣)
住所:〒980-0011 仙台市青葉区上杉1‐7‐7 上杉ハイツ802号室

■荒尾教会(兼牧のため、教会併設のシオン園の電話番号に変更)
電話番号:0968‐62‐0428

 また、4月1日から熊本市が政令指定都市となり、熊本市○○区のように住所が一部変更されますのでご注意ください。

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