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機関紙るうてる

るうてる2011年4月号

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説教 [3・11をおぼえて]
誰がために鐘は鳴る

「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」
 ヘブライ人への手紙13章8節

 遠い昔、ある町の真ん中に高くそびえる教会の塔に大きな鐘があり、何でも、クリスマス・イブに良い捧げものがあったときに、神様が美しい音を鳴らして下さると言います。でも長い間誰もこの音を聴いた人がいません。
 この町から遠く離れた小さな村に住むペドロとアントニオという兄弟は、おじいさんからこの教会の鐘のことを聞いて、礼拝に出てみたくなりました。
 その年のクリスマス・イブがやって来ました。ペドロとアントニオは、どうしても教会に行きたくて、とうとうおじいさんに内緒で教会へ行くことにしました。その日は、雪が降るとても寒い日で、小遣いを貯めたお金を献金として持って、手をつないで一生懸命歩きました。辺りがうす暗くなってきた頃、二人が歩
いていると真っ白になった道の上に、ひとりの女の人が倒れていました。もう冷たくなっており、兄弟は必死で起しました。そのかいあって、おばさんは少し意識を取り戻しました。そこでペドロは、弟のアントニオに、おばさんを放っておくことは出来ないので、お前だけでも教会に行くように告げ、ポケットから献金の銀貨を取り出し、アントニオに握らせました。そして、二人の献金は、人に見られないように礼拝堂の聖壇に、さりげなく置くように告げました。弟は一人で町に向かって急いで歩きました。その後ろ姿を見ながら、あれほど楽しみにしていた教会に行けないことに、ペドロは涙を流していました。
 イブの礼拝はすばらしく、アントニオはびっくりして教会の中を見回しました。牧師の説教が終わり、献金や捧げものをするため大勢の人が聖壇の前に並び、あるお金持ちは高価な宝石やお金を捧げた人がいました。また、王様は冠を捧げました。でも、耳を澄ましても、風の音が聞こえるだけで、鐘の音は聞こえません。「今年も鐘は鳴らなかった。」誰もがそう思った瞬間、鐘の音が響いてきたのです。皆は一斉に聖壇を見やりました。そこには銀貨を捧げたアントニオが、呆然として立ち、上を見上げて鐘の音に聞き入っていたのでした。(Raymond M. Alden 作(Why the Chimes Rang
「奇跡の鐘」より)

 去る3月11日に起きた地震、津波による大惨事、いわゆる「東北関東大震災」により、亡くなられた方々に、心より哀悼の意を表しますと共に、ご遺族の上に主の慰めと平安を心よりお祈り申し上げます。また、被災者ならびに被災地域の方々のご健康と、一日も早く元の生活に戻ることが出来ますよう合わせてお祈り申し上げます。
 この度の大震災は、未曾有の出来事で、そのことは時々刻々テレビや新聞等をとおして連日報道されています.それを見るにつけ、自然に対する人間の無力さを感じるとともに、人間の歩んで来た道を再度思い起こされてなりません。
 今回の突然の大震災に、人は何が出来るのかと問い返すしかない私たちに、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」という言葉を持って迫ってこられます。この言葉の背景には、人間的なものには限界や終わりがありますが、神には終わりがないことを告げておられます。
 先ほどの「奇跡の鐘」に登場する兄弟は、僅かな小遣いを貯めて捧げた献金でした。誰にも目立たないように祭壇に置いた献金、行き倒れの女性の介護ゆえに、教会の礼拝に出席できなかった兄、この兄弟のそれぞれの思いと働きは、どちらもご覧になる神様の目には喜びであり、彼らのために教会の鐘が高らかに鳴り響いたのでした。
 今、最愛の親子兄弟姉妹、親戚友人を亡くされた方、また家を失い、寒さに震えて暗い夜を過ごすことを余儀なくされて失意の直中に置かれ、明日の希望をも見出すことの出来ず、悲嘆と苦悩の直中に置かれている人々に、また私たちになお、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」として、間違いなく、明日への勇気と力、また大きな希望を供えて、ペドロとアントニオのために鐘が鳴り響いたように、「東北関東大震災」の被災者一人ひとりのために、またその救援活動を始めようとする私たちのために神の救いの鐘が鳴り響きます。共に、主と共に困難な道を勇気と希望を持って歩みましょう。
 私たちの背後には、世界中のキリスト者、ルーテル教会の一人ひとりのお祈りがあることを思い起こし、被災者の方々と共に救援に向けて歩んでまいりましょう。
主イエスの御苦しみをおぼえつつ。
 日本福音ルーテル教会 総会議長 渡邉純幸

ルターによせて

今四旬節のさなかにあって、私たちは主の受難を想う…。

荒野の茨とあざみに刻まれた主の苦しみの祈りの声が、狂熱の裁きと憤怒の大波にさらわれ、丘の上に投げられ、十字架の下に鎮まっている…。 
ここに私は立つ。そうするほかはない。神よ助けたまえ。

この祈りはルターの祈りだが、今大地震と大津波を目の当たりにした者の祈りでもある。
ルターは、チェコのヤン・フスが異端と断じられ、火刑に処せされたほぼ百年後、同じことを主張した。それを罰するため西欧最大の帝国の王がヴォルムス議会に彼を召し出し、その説を撤回しなければ、命が保証されないことが告げられた。一五二一年四月のことだ。ルターの「否」の声はたちまち彼を奈落の渦に引き込んだが、不思議にも、彼は命長らえて、やがて新しい世界を見晴るかす場所に立つ。

私達は知っている。世の人は生の中で死の力に引きずり込まれ、恐れおののくが、信ずる者は死の淵にあってなお主と共に生きることを。 

牧師の声 私の愛唱聖句

知多教会 神﨑 伸

「主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」
エレミヤ書 20章9節

 19歳の頃、大貫隆先生との出会いにより、「聖書を体系的に学ぶ」素晴らしさと豊かさに目覚めたわたしは、更なる研鑽を熱望して学院大学・神学校へと進んだ。初めから牧師になろうと思っていたのではない。教会に育まれてきた者として、「信仰と学問」の統合への道を探りたかったのである。

 日夜、図書館の神学書をむさぼり読んだ。しかし学べば学ぶほど、自らの生き方との間に拭い難い分裂を感じ、悩んだ。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。………それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ロマ7・19~20)。パウロには到底及ばぬことを知りつつも、苦悶する日々を過ごし、それは今も続いている。

 しかし、たとえどれほど内在する罪の問題にのた打ち回ろうとも、一切の主権は神にあるのだ。神がその口に、その体内に、御言葉を”ねじ込んででも”神は御自身の意志を遂行してゆく。ただ、神の御心があるところに、御心のままに出来事が起こされ、貫徹されてゆく。このことを気づかせてくださった天王寺教会と真生幼稚園に、尽きぬ感謝を捧げます。

 牧師とされ、御言葉に聴き、向き合う過程で痛感する。説教は人間によってなされるけれども、この人間の言葉を通してしか、神の言葉は伝えられないということを。人間の破れ、覆われた肉の働きを通してこそ、神の力が、福音が宣言されてゆくのだということを。そう、”骨の髄(ずい)が叫び出す”ほどに。

 実におそろしく、ありえないことだが、エレミヤの告白は、この信実をわたしに伝えてくれた。

 自らが語ったように生き、生かされてゆきたい。

信徒の声 その場が求められる以上

大岡山教会 大和由祈 

 「住んでいるところがバラバラなのに、こうやって出逢えて仲良くなれるってすごいことだよね。」毎年夏に行われているルーテル子どもキャンプに参加していた小学5年生の女の子がふと口にした言葉です。
 私は幼い頃から大岡山教会に通い、中学生になってからは春の全国teensキャンプ、教区の夏のキャンプ、アメリカのワークキャンプなどに参加してきました。そこでは、神さまに共に祈ることの出来る友との出逢いがあり、私たちキャンパーを愛で包みこんでくれるスタッフの人たちとの出逢いがあり、そして神さまとの出逢いがあり、その中で私は、「教会は出逢いの場だ」と感じるようになりました。そのような自分にとって、自分がスタッフとして関わってきた小学5年生の女の子がこのような言葉を口にしたというのは、大きな喜びであり、また励ましとなったのです。
 私は4年間の学生生活の間、毎年夏休みと春休みには教会のキャンプにスタッフとして関わってきました。キャンプによっては半年以上も前から準備を始め、その道のりは長く険しく、時にはもう投げ出してしまいたいと思うこともありました。また、「この私たちの準備が、子どもたちに神さまの愛を伝えるためにきちんと用いられるのだろうか」というような不安を覚えることもありました。しかしながら、キャンプ当日のキャンパーたちの顔を見ていると、彼らも私がキャンパーだったころと同じように、この場での「かけがえのない出逢い」を求め、またその出逢いの中で喜びに満ちていくのが分かるのです。
 「若者が少ない」と言われる教会の中で、このように若者のための集まりを持ち続けることは決して容易なことではありません。しかしながら、私も含め教会に連なる子どもたちや若者たちがこのような場を求めていく以上、私もその場の一員として、その働きのために用いられたいと思うのです。

フィンランド教育事情

白い桜と翼

 桜の花びらの下を始業式や入学式に向かう生徒たち。その中で特に目にとまるのは、真新しい洋服や制服を着た新一年生と、ドキドキしている親たち。日本の四月は多くの人にとって大人への自立の長い旅の始まりの第一歩の時です。
 日本の学校と比べて、フィンランドの新学年は秋から始まります。1学年には2つの学期があり、秋学期が8月の中旬に始まって、クリスマスまで続きます。春学期は1月の第2週ごろに始まり、学校の1年は6月の初めごろまでには終わります。 日本とフィンランドは文化が異なりますが、どちらも教育を大事にする国です。親の心も同じです。子供が大きくなることは有難いことですが、心配もあることでしょう。学校に通い始めると、子供たちはだんだん家からも親の手からも離れていきますから。
 フィンランドで教師として働いていた時のいい思い出の一つは、祝福をしてもらうために教会に集まった新しい一年生です。子供は両親と新しい先生と牧師と共に、感謝を込めて祈りました。学校で一人もいじめられることがないように、いい友達できて、子供の長所と個性を活かしてくださる先生たちに出会えるように、などと願いました。
 私が、母から習った歌を思い出します。
 「わたしの子よ、学校に通っている時
 天の天使はあなたのそばにいる。
 白い翼で守ってあなたと共に歩んで行く。
 わたしの子、小さくか弱い子よ、
 天の天使たちはいつもあなたのために起きている。」
親の心配を祈りにかえて、子供たちを祝福しつつ学校に送ってみましょうか。
  Paivi Poukka
  ポウッカパイヴィ
     スオミ教会

「創立百周年を迎える九州学院」~百年の想い世代を超えて~

九州学院理事長 長岡立一郎

 今から100年前、1911年4月、熊本県熊本市飽託郡大江村に九州学院は開校した。当時、この一帯は桑畑が一面に広がる長閑な場所であった。
 学院開校のため尽力されたC.L.ブラウン博士はアメリカ南部一致ルーテル教会から派遣された第3番目の宣教師であり、最初、佐賀で伝道し、1900(明治33)年12月10日には熊本での伝道に着手することとなった。それは当時、九州の官公庁をはじめとし、都市の中心地であった熊本を拠点とすることが望ましいと考えられたからである。ことに日本伝道を推進していくためには先ず人材の育成、つまり教会を担う牧師の養成としての神学校の設立、そして若者の教育が重要であると考えたのである。学院開設より2年前の1909年、すでに熊本市新屋敷のスタイワルト先生が居住しておられた宣教師館を教室とし、福音路帖神学校が開校されていた。それに引き続き若者を育成すべく九州学院設立、その準備のためにブラウン先生は日々祈りを捧げ奔走し、アメリカ南部一致ルーテル教会と掛け合って多額の募金協力支援を得たのである。一万坪の土地購入のため一万三千六百ドル、さらに校舎、寮建設を含め総額五万4千ドルの資金調達を為したのである。これもブラウン先生をはじめとしる当時の宣教師たちの祈りと働きなしには実現しなかった。またこの祈りに応えて南部一致ルーテル教会の人々の心が動き、無から有を生み出す働きに手を差し伸べ、歴史の一頁を開いていくこととなった。
 最初の学院をスタートするためにブラウン先生にとってこの上なく幸運だったことは良きパートーナー、しかも教育者としてのリーダーを得たことであった。それについてはブラウン先生自身も報告書に記しておられるように「自分の人生において誇ることのできることは遠山参良先生という同労者を得ることができたことである」と。
 神のご計画はまことに不思議であるが、実に偉大である。自分のためでなく、人(他者)を助け、人を活かすための祈りとその働きは、最初、無であっても有あるものへと創造され、実を結ぶものだということを教えられる。学院開校とこれまでの道程は時に荊の道もあったであろうが、神による奇跡の連続であった。
 草創期から校訓として「敬天愛人」を掲げ、しかも初代院長・遠山先生が言い残された「自分で自分を監督し、役に立つ善人となれ」を教育目標にして青少年の育成に尽力し、今日まで取り組んできているのである。
 わが学院は長い間、アメリカルーテル教会、宣教師社団(後の日本福音ルーテル社団)さらに日本福音ルーテル教会の人的かつ経済支援を得て歩むことができたのである。
 開校時、122名(1クラス=30名の4クラス)の入学者でスタートした九州学院であるが今日では中学校348名、高校1,073名、幼稚園73名、総勢1,494名の生徒で構成されるまでになった。
 少子化の中で年々、生徒確保が厳しくなっている時代であるが、幸いに当学院は中高とも応募者が多く、確実に定員を確保できている。これも先達者が築いてきた伝統・遺産の賜物である。
 過ぐる10年間、中学校を強化し、環境整備もかなり整えてきた。その結果、中学校から他校の難関校を突破する卒業生を多く輩出するようになり、九中は難しいといわれるまでになっている。また高校においては文武両道の伝統を継承し、毎年、いくつものクラブ(10年度は、陸上・駅伝、剣道、水泳)が全国優勝を遂げ、熊本県のみならず全国区の私学伝統校として活躍している。
 創立百周年を迎える学院は十年来、中長期計画を建て、将来にも揺るがない盤石な財政基盤作りを目指し、取り組んでいる最中である。その改革の第一は、中高ともさらなる質的向上を図るべく教育力のアップを目指している。第二に、人事給与・施設整備検討委員会を立ち上げ、その改革を推進しているところである。
 最後に、百周年記念の諸事業、計画をご紹介して筆をおくこととしたい。
 まず先ず事業として、①百周年記念体育館の建設、②2号館リニューアル、③百年記念史の刊行、④歴史資料室設置、⑤九州学院ルーツを訪ねる旅(ノースカロライナ、サウスカロライナの諸教会を8月21~29日まで表敬訪問)、⑥記念礼拝(本年11月17日)、⑦記念式典と祝賀会(11月18日)、⑧招待試合の開催(6~9月)、その他。
 事業予算として、総額5億1千万円を設定し、事業計画を実施しようとしている。学院内外の募金は1億円を目標としている。
 キリスト教主義学校として、キリストにある全人教育の充実、推進のために全教職員ともども努力していく所存である。今後とも皆様方にご加祷いただけるなら幸いである。

2010年度集計表分析(総括) 日本福音ルーテル教会宣教室

皆様のご協力により2010年度集計表のデータがそろいましたので、宣教室ではこのデータを分析・総括してみました。
 
[まとめ]
●洗礼者総数  昨年(144名)よりも18名増加し、162名(教区別:北6、東65、東海28、西28、九州35)。
●教会員総数  21,938名であり、前年度比95名の減少である。
●全教会を合わせた年間平均礼拝出席(主日)
 総数は3,524名であり、一教会平均約30名となり、これは前年度の 32名を下回る。種別平均礼拝出席を見ると、1種教会(48)49名、
 2種教会(61)17名、3種教会(10)13名。
●全教会の収入
 減収傾向が顕著の動向を示している。その内訳を見ると、総収入は  4%減、基礎収入は5%減、礼拝献金2%減、維持献金は1%減、特別 献金は8%減といずれも減収。全教会の維持献金口数と平均献金額は、昨年度の総口数4,167、月別平均献金額 8,887円に対して、今年度 は全教会総口数が4,106、月別全国平均献金額は昨年よりも400円下がり、8,471円(東8,337円、東海9,313円、西8,175円、九州8,346円、北海道8,389円)であり、単年度の洗礼者の増加に見合った献金の増収結果は見られない傾向が継続している。

1.総会員数            
 2010年度の総会員数は、1971年との比較をすると、171%の増加を示している。現住会員は僅かの増加であり、101%にとどまっている。そのために、総会員数に対する現住会員の比率は、問題は年度を重ねるに従って、減少してきている。つまり、実質的活動的な教会員の割合は全体的に減少傾向にあると言える。さらに、注目すべきことに、別帳会員数が現住会員数を上回っている。この傾向は1970年代後半から顕著な現象である。
 2010度現在で分析すると、現住会員数との対比で、別帳会員が多い教会は、全国比率 では69教会(56%)である。その内訳を種別毎に見ると、1種教会では29教会(全体の60%)、2・3種教会では36教会(全体の50%)である。別帳会員数の占める割合が、年度毎に増加傾向にある。ということは、活動会員の全体に占める割合が少なくなってきていることは歴然たる結果になっていると言える。

2.受洗者数             
上記の統計表でも明らかなように、1970年代より、受洗者数の低落傾向は継続的に続いている。1971年度を100%とすると、2010年度は31%に下がっている。この長期低落傾向は、日本福音ルーテル教会だけに限ったことではない。右上表の教派別受洗者数を見れば分かるように、受洗者数の減少はいずれの教派においても歴然としている。1970年度を100%とすると、2009年度との対比はいずれも減少しており、日本基督教団が日本福音ルーテル教会とほぼ同じ27%であり、その他は聖公会が35%、カトリックが58%となっている。ただし、バプテスト連盟だけが185%と増加傾向を維持している。

3.教派別受洗者数                               
 日本福音ルーテル教会の洗礼の減少傾向にある遠因の一つは、教会数の減少にも求められる。以下の表は1970年以降の日本福音ルーテル教会の教会数の変遷である。1970年度を100%とした場合の2009年度との教会数は84%である。1970年中頃までは、開拓伝道的教会が数は少なくても新規で開始されていたが、1980年代に入ると財政的に伸び悩みもあり、過疎地の教会の閉鎖と統合が始まり、さらに1990年代以降は、複数共同牧会及び合同・連合の取り組みが教区の中で具体的に実施されたこともあり、教会数の減少傾向に影響していると判断できる。

4.教会種別受洗者数   
年間受洗者数が700を数えた1952年の日本福音ルーテル教会は合同前であり、教会数は45教会であるので、1教会15名の洗礼者が生まれたことになる。それが1967年には受洗者数がその前の年まで、600名台であったのが、500名に落ち込み、1970年代からは400名台になり、さらに1989年からは300名切り、100年事業以後の1995年でも、200名台に入り、229名を数えるようになった。

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