るうてる2006年12月号
宣教会議2006開催 「伝道する教会になろう!」の旗振りは誰がするの?
11月6日から7日にかけて、「宣教会議」が市ヶ谷センターで行われ、その報告をいただきました。
今期の大きな課題の一つであった、「宣教会議2006」が11月6日~7日にかけておこなわれました。この会議は、これまでの合同常議員会を伝道と財務というテーマに集約して行う会議にして、宣教力アップのために何が必要かを考えるものでした。
宣教会議には、各教区の教区長、伝道担当常議員、本教会スタッフが参加した。会議方法も改め、課題として各教区伝道担当常議員には、教区内の現状、過去5年の教勢、今年のこれまで受洗者数を調査していただきました。これにもとづき、宣教が進展している教会、伸び悩んでいる教会の状況分析などもおこないました。その後、ワークショップとして「教区伝道担当として何をしてきたか?」「伝道担当に各個教会・社会から何を求められているか?」を、教区長会・伝道担当者会に別れて話合いました。
そこからの共通認識として、各教区各個教会は宣教進展に関しては、かなり厳しい現実があることも確認ができました。そこから「伝道が停滞しているなら、伝道刺激策の具体的な取り組み、手詰まり感があるなら、それを共有し、それを打破するための取り組み」をしていく。そのために各教区の連携を深めていくことが決まりました。 (3面へ続く)
宗教改革記念礼拝
ルーテル教会にとって大切な10月31日、宗教改革記念日。今年も各教区で記念礼拝が持たれ、その様子をご報告いただきました。
北海道特別教区
北海道特別教区の道央地区では、近隣の日本ルーテル教団(以下NRK)の教会と合同で宗教改革記念日礼拝を行なっています。説教者と会場は7つの教会で毎年持ちまわりとなっています。
今年は10月28日に献堂式を終えたばかりの札幌北教会が会場となり、説教者はNRK山の手ルーテル教会の宮崎篤牧師。38名の兄弟姉妹と共に静かに祈りを合わせ、神学校を覚えたひと時でした。
(札幌北/札幌教会 岡田薫)
東教区
毎年、10月31日夜7時より、日本福音ルーテル教会東教区と日本ルーテル教団関東地区は、協力関係の下に、ルーテル市ヶ谷センターにて、宗教改革記念礼拝を持っています。142名の参加者があり、北尾一郎牧師の「改革の系譜」と題して、みことばを聞きました。決して変わることのない信仰の原点「恵み」「信仰」「聖書」を確かめあった夕べでした。
(田園調布教会 杉本洋一)
西教区
関西地区ルーテル四教団合同聖餐礼拝がフェローシップ・ディコンリー「母の家ベテル」(なんと、ここではシスターたちが共同生活をしています。ルーテル教会に「修道院!」と驚かれる方もおられるかもしれませんが、これも確かにルーテル教会の一つの信仰の形なのです)を会場に行われました。今年で7回目を数えます。
説教は近畿福音ルーテルの田端武先生にお願いしました。ルターの聖餐理解を中心に、今、私たちにとっての宗教改革の意義を新たにしてくださいました。参加人数は80名でした。合同礼拝は、今回をもって一区切りとなりますが、教団同士の親交が、講壇の交換等制度面も含めて更に深まることを祈っています。
(大阪教会 滝田浩之)
九州教区
ルーテル熊本地区宣教会議(任意の教会連合体)は毎年連合で宗教改革主日に記念行事を行っています。今年は10月29日(日)の午後神水教会を会場に、徳善義和先生をお招きし「ルターと21世紀のわれわれ」と題して講演会を開きました。先生は、ルター、ボンヘッファーから私たちに共通の課題と使命をわかりやすく、約180名の聴衆を前に解き明かしてくれました。当日は山口邦子さんのフルートによるバッハ、地区有志編成合唱団「ラウダームス」の歌も会場をにぎわせました。
(大江教会 白髭義)
このほか、名古屋地区をはじめ各地でも合同礼拝が守られ、豊かな交わりのときが与えられました。
札幌北教会 献堂式
10月28日、日本福音ルーテル札幌北教会の献堂式が執り行われました。詳しくは次号「るうてる」1月号にて、ご報告いたします。
クリスチャンのライフカレンダー
~高校生活~
「おはよう」と声をかける。「ちょっとうざい」という声で「おはよう」と返ってくる。お父さんは黙って見過ごすことしかできない。そう、君はいま思春期の真ん中にいる。
高校生活はどう? ホントは詳しく教えてほしいけれど、君が話してくれるまで待つよ。いま心の中が一杯だよね。恋愛、友達関係、受験。もしかすると、いじめや非行で悩んでいる? 将来に不安が一杯? お父さんも同じ道を通ってきたと思っている。自立していくための道だから、いまを大切にしてほしい。
ただ、君はひとりじゃないよ。「誰もわかってくれない」と叫びたくなるよね。自分では抑えられなくなる時もある。そんな時でも神様は君の隣にいるよ。それに教会には君のことを見守る交わりがあり、相談できる先輩たちがいる。神様が君の場所を用意してくださっている。
お父さんも、静かに君のことを祈っている1人だよ。だから大丈夫。思春期が過ぎ、ゆっくり話しができる日を楽しみにしているよ。
インフォメーション
Teens手帳2007 発売中!!
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2007春キャン、スタッフ 募集!
春の全国ティーンズキャンプ(春キャン)2007実行委員会は、スタッフを募集しています。
日程:2007年3月27日(火)~29日(木)
会場:千葉市少年自然の家
募集:グループリーダー及びジュニアリーダーそれぞれ10名程度。
お問い合わせは、マネージメント担当の佐藤牧師(千葉)まで。kz-sato@jelc.or.jp
牧師の声「私の愛唱聖句」
東教区 東京教会 牧師 関野 和寛
……この最も小さい者の一人にしたのは…… マタイ福音書25章40節
そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
わたしは9歳の頃から教会に通っていました。けれども、礼拝でも日常の生活の中でも本当にイエスさまと出会ったという感動を味わったことがありませんでした。そのようなわたしとイエスさまを出会わせてくれたのがこの聖句です。
わたしにはダウン症と心臓病を持った妹がいます。わたしが大学3年生の時に妹は急性の糖尿病で危篤状態に陥りました。家族と一緒に「何故弱く小さく、何もしていない妹がこんな目に合わなくてはいけないのだ」と悲しみのどん底に突き落とされました。
集中治療室で管だらけにされて寝かされている妹の姿は痛々しく、見るに耐えないものでした。どうしようもない恐怖心と悲しみが、何故かわたしを2000年前のゴルゴダの丘に手繰り寄せました。病室のベットの上の小さな妹と主イエスさまの十字架の姿が不思議と重なって見えたのです。そして我が子を十字架に掛けた神の壮絶な痛みと愛が一挙に胸の中に押し寄せてきました。そしてわたしは神のひとり子、主イエスさまの姿を見たのです。
妹が病院に入院する日、わたしは妹を救急車に乗せる為に背中に担ぎました。そしてこの聖句によって気がつかされたのです。わたしがあの日背負ったのは小さなキリストだったのだと。わたしは彼女を通してキリストを見せてもらい、またこの体に小さなキリストを担がせていただいたのです。
わたしの妹は奇跡的に回復しました。そして再び「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。この聖句がこころに鳴り響いたのです。迷わず牧師になる事を決めました。小さいものの中で主イエスさまに出会える幸せ、これ以上の喜びはありません。
理屈ではありません。目の前に居る弱い人、小さな人、その中に確かに主イエスさまは今もおられるのです。そのような方々に仕えさせていただくことが主イエスさまにお仕えすることです。わたしはこの聖句と出会い、はっきりとそのことが分かりました。
今も確かに鳴り響く主イエスさまのことばを聞きながら、愛する東京教会に仕え、そしてひとりでも多くの人に福音を宣べ伝えていきたいと思います。
信徒の声「教会の宝石を探して」
東教区 八王子教会 信徒 野村 君代
教会を知るきっかけとなったのは? 6年前のこと、戦後、別れ別れになっていた小学校時代の韓国の友人が、ふとしたことから札幌にいることが分かり、55年ぶりに札幌で再会を果たしました。実は、その方が牧師夫人となっていましたので、教会の礼拝にも出席、その時の説教がまるでわたしのためを思って話されるのを聞き、大変、感銘を受けました。
八王子教会との出会いは?
教会がちょうど建った頃でしょうか、宣教師の先生が訪ねてきて、教会が近くにできましたのでぜひお越しくださいと教会案内を手渡され、言葉を交わしました。その宣教師がリビングストン先生だったのです。しかし、その頃は、わたしも仕事を持っていましたので教会へ行く機会がなかなかありませんでした。
それから何年経ったでしょうか。札幌で会った友人との約束で教会へ行かねばと思っていましたが、自分一人では行けなかったので、先に受洗していた娘についてきてもらいはじめて教会に出席しました。2000年の12月のことです。その後は、自分ひとりで教会へ行くようになり礼拝や聖書研究会に出るのが楽しみとなりました。
受洗はいつでしたか?
2002年8月18日です。その前年に、八王子教会が企画しましたサウス・カロライナ教区ルーツ・ツアーに参加し、とてもよい刺激を受けて帰国し、受洗への思いを強くしました。翌年に、リビングストン先生が再来日するのを機に洗礼を受けました。洗礼の水が首筋から背中に流れるのを感じ、教会へのお誘いを受けてから32年目にしてようやくに洗礼を受ける恵みを得て感無量でした。
受洗される前に手術を受けたとお聞きましたが。
そうです。2002年の3月はじめ頃、体に痛みを感じ、お医者様に診てもらいましたら大腸がんと診断され、5月に手術を受けました。1ヶ月半入院、幸いにも順調に回復、体調も戻り、8月に洗礼を受けました。教会の皆さんの熱いお祈りに支えられて感謝です。
喜んで奉仕するその秘訣は何ですか?
特別なことはありません。教会に来ることができるのが何よりも感謝です。教会の方々がいろいろな所で黙々と奉仕をされるのを見て、その姿が本当に輝いていると思いました。わたしもそうありたりと思っています。
求道者の旅21.ケネス・J・デール
第21回 私に赦しが必要なのですか?
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ(主の祈りより)
問い:これはどういう意味ですか。
答え:天にいらっしゃる私たちの父なる神様が私たちの罪に目を留めたりなさらず(中略)毎日何度も私たちは罪を犯しながら……神様はそうしてくださるのです。(小教理問答より)
教会の中で、私たちの罪、あるいは赦しの経験に留意する事なしに「罪の赦し」を語ってはいませんか。ここでは、罪と赦しの大きな主題についての小さな洞察を扱います。
集団的罪
教会の讃美歌、式文そしてサクラメントにおいて罪の赦しを請う祈りは、個人の罪にとどまらずに私たちが生きている社会、経済、政治そして軍事システムの共同の罪との関与に気付く事から始めるべきでしょう。これらの社会システムは大きな不正、腐敗そして抑圧を起こす事がよくあります。
しかもこれらのシステムを運営している官公吏を私たちが選んで来たのです。私たちはこれらのシステムを支える税金を払っているのです。この意味において社会悪は私たちの罪にほかなりません。私たちの多くは、盗みや殺人のような罪を犯さない「良い?」人々ですから、積極的な意味においては罪を犯していないかもしれません。それ故、集団的罪の性質に気付かないならば、罪の赦しの祈りは全く無意味なものになってしまいます。
神に対する罪、自分に対する罪
何故私たちは、自分たちの罪に対して神の赦しを願うのでしょうか。隣人に危害を加えた時、謝り許しを願う必要がある事は容易に理解できます。しかし、自分の罪が神を痛め、神の赦しを請うという事が一体どうして必要なのでしょうか。
自分自身の最も高い可能性を成就する事ができなかったり、自分の素質をないがしろにする時、私を創造し、愛し、常に私の性質を熟知しておられる神に反抗していることになります。創造的で人を愛するという自分の潜在性に対する罪、あるいは私自身の神から与えられた性質に反している事は、神に対して罪を犯している事になるのです。そしてこれは、単に隣人に対して単に罪を犯すという事より、更に罪の深い次元へとつながります。それ故に、神の赦しを請う必要があります。
(翻訳:上村敏文)
詩編を味わう 意味のある象徴
目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。/わたしの助けはどこから来るのか。/わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。/どうか主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく、見守ってくださるように。
詩編121編1~3節
しるしとしての山々
この詩編作者にとって「山々」は、創造のしるしである以上に、神の助けの象徴であったようです。彼は「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか」と言います。作者は「山々」が持つ意味をよく知っていたのでしょう。旧約によれば、ホレブの山でモーセはエジプトの地に捕らわれの身となっている同胞を救い出すようにとの召しを受け(出エジプト記3・1以下)、また同じ山シナイで彼は十戒を授けられました(同19・20以下)。預言者エリヤもまた同じ山で神との出会いを経験しました(列王上19・8)。ピスガではモーセは遙かに約束の地カナンを眺め、天に召されたのでありました(申命記34・1以下)。モリヤはアブラハムがわが子イサクを捧げようとした所であり、(創世記22・2以下)、ソロモンが神殿を建てた場所でもありました(歴代下3・1)。エルサレムの南東の丘シオンはエルサレム全住民の象徴であり(詩編147・12)、人々の贖いのしるしであり(イザヤ1・27)、民の希望ともなりました(同51・3)。
それぞれの山で神は人々にご自身を現わし、語りかけ、働きかけてくださいました。作者は「山々」を見るたびに、神の助けがあったことを思い出したことでしょう。
この詩編作者にとって「山々」は神が生きて働いておいでになる、大切な象徴でありました。「山々」は自然の美しさを映す気高い存在というよりも、昼も夜も、災いの時も、魂さえも、出で立つのも帰るのも見守るお方がいます(3節以下)ことを思い知ることのできる象徴となっているのです。この思いがあるので、作者は「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ」と言うのです。もはやこれは知性による言葉というより知覚の世界で受け取る神の助けです。
現代の「山々」
最近大変興味のある話題に接しました。
日本キリスト教団議長山北宣久先生が、聖学院大学のキリスト教週間でされた講演の中で、陸地から720キロメートル以上離れて飛ぶ航空機は必ず積み込まねばならないものがあるそうで、たとえば救命道具、海水着色剤、食料など、32種類77品目、その中に聖書があるという話です。ジャンボジェット機だとそのような緊急セットが16個積んであるそうですから、聖書も16冊ということになります。乗客のすべてがクリスチャンというわけではなし、仏教徒もいればイスラム教徒もいるでしょう。当然無神論者もいるはずです。でもどういうわけだか国際旅客法によって聖書だそうです。科学の粋を集めて製造された機体と徹底した安全管理の中で運行されるはずの航空機であるにも関わらず、人は究極の救いを人の知恵を越えたところに委ねるということでしょうか。
それはキリスト教圏である欧米諸国の影響にすぎない、またお守りのようなもので、単なる気休めにすぎないと考えるなら、短絡的に過ぎます。
洋上を飛ぶ国際線旅客機搭載の聖書が気休めにすぎないのなら、単に印刷物に過ぎず、積んでいても意味はありません。たしかに多くの人が聖書の内容にまで立ち至って知り尽くすことはないでしょう。しかし聖書の持つ使信が人類に対して信頼に価する重要な意味を持つことは知られています。気休め以上のもの、本物の助けがそこにあることを示す象徴としての聖書がそこにあると感じないでしょうか。知性を研ぎ澄まし、知識を蓄積し、技術を発展させ、あらゆることを精密に計算し、計算通りに機能することをもって本命とする社会に生きていても、人はやはり本物の助けが欲しいのです。しかもそれは知性の働きからは出てこないことを人は自ずと知っているのです。知性でそれを知ることができないのなら、知覚的に知るような象徴が必要です。聖書を航空機に積むとは、それこそ現代の「山々」を人は求めているといってもよいのではないでしょうか。だから聖書を積むのです。
(かくしゅういち)
早分かり宣教会議 2006
パワーミッション からアワー(OUR)ミッション へ
伝道が停滞しているなら、伝道刺激策の具体的な取り組み、手詰まり感があるなら、それを共有し、打開するための取り組みをしよう!
■現状■
1)宣教には、目に見えない働き(質)と、目に見える働き(量)がある。という言い訳をしてきていないか?
2)質と量の両方大切である。でも何も変わらない!
3)御言に養われる結果、目に見える結果も与えられるのでは?。
4)教会の自己保身や財源として、数を集めるということではない。あくまでも宣教なのだという考え。
5)地域や分野においては、結果が出にくい。宣教投資という考え方もある。
6)結果を期待せずに良いと言うことではない。しかし、結果はすべてか?
7)献金以外の別途財源に依存することは避けなければならない。なのに別途財源に依存している教会は半数以上!
8)教育部長、伝道部長は、教区の責任として各個教会を育てるってホント?
部長として各個教会へむけて何ができるか?
9)教区は伝道への刺激を与え、その結果にも関心を持つことに責任を持つの?
10)社会の中において、教会を成熟化させて刷新していくことは必要か?
11)教区・本教会の役割は、あくまでもサポートしかない!
■これから■
●救いのメッセージを明確に!
●P4との協力
●全国教会診断
●各教区常議員会で話し合う
■4つのキャンペーン■
伝道キャンペーン
献財キャンペーン
節約キャンペーン
献身キャンペーン
LAOS講座 公開講座日程
第7号「宣教と奉仕の理論と実際」
講師:江藤直純 牧師
日時:2月11日(日)/場所:八王子教会
第1号「信徒として生きる」(講師:浅野直樹 牧師/場所:日吉教会)、
第3号「真理を求めて-キリスト教の教理と信条-」(講師:江口再起 牧師/場所:未定)
に関しましては、現在詳細が未定となっております。決まり次第、お知らせいたします。
jelc.TV(インターネット配信)で■第2号「小さな1本の指」■第4号「神と人間」が視聴できます。
URL http://www.jelc.tv
ぜひ御覧下さい。
※詳しくは岐阜教会 斉藤末理子さん(P2【信徒部門】委員長)までお問い合わせ下さい。
議長に一問一答
宣教会議を終えて、いかがでしたか。
各教区の伝道担当常議員と教区長及び議長・副議長・事務局長・会計・宣教室長が一堂に会して、宣教会議を開きました。これは、教区の伝道部の働きについて、その必要性と可能性について確認し、教会の宣教の進展を図ることを目的としたものでした。
宣教の最前線は各個教会です。教区伝道部が各個教会の宣教内容を決定するものではありません。では、教区伝道部の存在意義は何なのでしょうか。それは、各個教会の宣教活動を支援することです。それには、教区が主催して、信徒の伝道意欲を高める研修会を行ったり、伝道のノウハウやグッズを提供することです。この伝道のノウハウやグッズは、各教区が共同して開発に当たることが有効です。そこに宣教室の働きが期待されます。また、伝道の力として活用するために、教区内の学校や施設との連携を図ることも教区伝道部の働きとして確認されました。
合同常議員会についてお願いします
今回の合同常議員会は、「本教会財政好転に向けての抜本的対策」をテーマに絞って開かれました。
具体的な策として、資金運用の効率性を高めるために有価証券の運用管理基準を設けることが合意されました。その外、協力金拠出額の教区を超えた傾斜再配分案、教職給への地域間格差導入、財務的にみた本教会事務局態勢等が今後の検討課題とされました。
宣教記念礼拝
各地で宣教記念礼拝
博多教会は、宣教100年を迎え、札幌教会は、宣教90周年を迎え、それぞれ10月29日に記念礼拝が執り行われました。札幌教会の重富牧師に報告をお願いしました。
1916年8月、サオライネン宣教師と溝口弾一牧師によって札幌伝道が開始され、1917年12月23日、札幌福音ルーテル教会が誕生した。現在の日本福音ルーテル札幌教会の前身である。17年のクリスマスには14名の洗礼者が与えられている。
宣教開始90年を記念し、札幌教会は2006年10月29日、記念礼拝と祝賀会を行った。一同はクーシランタ宣教師の説教を通して、フィンランドの人々の、絶えざる、日本伝道のための祈りと情熱とに改めて感銘を受けた。スオミホールでは歴史的な写真を展示、忠実な信徒たちの若き日の姿など感慨を喚起した。この忠実な信徒たちが守ってきた伝統の薫り放つ重厚な教会堂は、市当局からも注目され、現在、都市景観建築物としての指定の申し出も受けている。伝統の香りと、新しい息吹を調合し、今、どのように適切に福音を伝えてゆくことができるか、これが差し迫ったこの教会の課題である。(重富)
ラヘブ先生からのメッセージ
「クリスマスと平和と壁と」
パレスチナ ベツレヘム国際センター長/ベツレヘム、クリスマス・ルーテル教会 ミトリ・ラヘブ牧師
www.mitriraheb.org
先日、中国へ行った時のことでした。ある学校で、一人の学生から「イエスさまがもしも現代にお生まれになっていたら、どんなふうだったでしょうか?」と質問されました。私は、こう答えました。「イエスさまが、もし今年地上にいらっしゃるとしたら、たぶんベツレヘムでは誕生されなかったでしょう。マリアとヨセフは検問所から先には行けず、町に入ることができなかったでしょうし、東の方から来た占星術の学者たちも、もちろんベツレヘムに入れてもらえなかったはずです。いっぽう、羊飼いたちは分離壁に包囲されたこの町から一歩も外へ出ることを許されなかったことでしょう。今日、多くのパレスチナ人のこどもが、検問所で足止めされた夫婦から生まれています。イエスさまもそのようなこどもの一人となったはずです。占星術の学者たちは壁の中へ入れず、羊飼いたちは壁の外へ出られず、検問所で生まれたイエスさまを見に行くことはできなかったでしょうね」
あの「素敵な」クリスマス物語を台無しにするような言い方だと思われますか? クリスマスは、とてもひと言では説明しがたい「平和な雰囲気」を喜ぶ「素敵な」祝祭の日になっていますね。私は、それが「安っぽい平和」のような気がしてなりません。平和のために本気で何かをしようとはしていない、のんびり構えているような人たちが、ちょっと希望に満ちた気持ちで説教をしたい時のテーマになりがちです。クリスマスの時季になると決まってあちこちで繰り返されるこの「平和」物語に、私個人は、つくづくうんざりしているのです。クリスマスはいつのまにか「みんなで楽しく平和について語る」季節になってしまいました。本当は、「みんなで祝福されて平和を作り出す」季節であってほしいのに。
パレスチナに住む私たちにとって、「平和のための話し合い」は、決して理想論ではすみません。戦いを終結させるための話し合いというよりもむしろ、どうやってそれを最小限にとどめながら互いにうまく生き延びるか、という現実的なレシピのことを言うのです。世界中で「平和のための話し合い」が続くなか、ここではイスラエルによる分離壁の建設が続いています。世界中の教会で「ああベツレヘムよ」(O little town of Bethlehem)が歌われるこの季節、たしかに今後もこの町が可能な限り小さな町(リトル・タウン)のままでいなさい、とでも言うかのように壁が築かれているのです。5キロ四方ほどの小さな町は、壁と柵と塹壕に囲まれた「屋根の無い監獄」になりました。将来、この町がこれ以上大きくなる可能性はまったく絶たれています。
平和とは何か。この答えを誰よりもよく知っていたのは聖パウロだと思います。かつてはユダヤ教指導者、熱狂的な民族主義者、異教徒の迫害者、強硬論者でした。パウロは、自分の共同体を守るために、「敵」との間に強固な分離壁を築き上げ、それを死守することに命をかけていました。この「壁」について少しでも疑問を投げかける者に対して、遠慮無く攻撃のやいばを向け、現代のテロリストばりの襲撃さえも辞さなかったパウロです。自分の属するユダヤ民族の平和と安全のためと信じていたからです。ところが、この強硬派のパウロが、劇的に変えられました。キリストと出会い、ほんとうの平和とは何か、彼の目が開かれたのです。パウロはこの平和について「敵意という隔ての壁を取り壊し」(エフェソ2:14)と書いています。強硬な迫害者サウロは、この時を境に、熱心な使徒パウロに変わりました。彼が教える通り、神ご自身がキリストとして来られ、人と神を隔てるものを取り壊し、私たちを神と和解させてくださったのであれば、ましてや人と人、民族と民族、文化や国家の間を隔てる壁など、ほんとうはいっさい築くことはできないはずなのです。パウロは、自身の悔い改めを通し、確信に満ちて、福音のために命をかけました。
私たちのこの小さな町の周囲に「敵意の壁」の建設が続くなか、私たちもまた、今改めて献身の覚悟の必要を感じています。憎悪と敵意の壁をすべて取り壊したい――目に見える、コンクリートの壁だろうと、思想、民族、政治、社会、経済を隔てる見えない壁だろうと。キリストのお生まれになったこの町から、今年はみなさんへのメッセージとして、次のパウロの言葉をおくりたいと思います。
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊されました。〔翻訳者註、エフェソ2:14を調整〕 (翻訳:中西須美)
JELAキルト展
11月11日~17日、ジェラ・ミッションセンターホールにてキルト展が開催されました。
飢えや病気で苦しむブラジルとアジアの子どもたちの支援のためのチャリティーで教会の方々が時間をかけて作ったキルトを展示、オークション形式で販売されました。
また、最終日には「ワインとチーズのパーティー」も行われ、楽しい時を過ごしました。
年末の連帯献金にご協力ください。
■ブラジルの日系人伝道のために
■日米協力伝道のために
■カンボジア・タイ宣教支援
■パレスチナ支援
■その他(世界宣教の働きのために)
■送金先■■■
・三井住友銀行新宿西口支店 (普)501597
・郵便振替 0190-7-71734
公 告
この度左記の行為を致しますので、宗教法人法第二十三条の規定に基づき公告致します。
二〇〇六年一二月一五日
宗教法人
日本福音ルーテル教会
代表役員 山之内 正俊
信徒利害関係人 各位
記
①被包括団体 日本福音ルーテル小田原教会による教会債起債の件
金 額 一〇〇万円
借入先 同教会員
返済期間 二〇〇六年一月より二〇一五年一二月末までの一〇年間
返済額 年額 一〇万円
利 息 無利息
担 保 無担保
返済原資 信徒による献金
②被包括団体 日本福音ルーテル福岡西教会による左記の行為
・牧師館取壊しの件
理由 福岡西方地震による甚大被害のため、また筑後三二年の老朽建物にて修復困難のため。
取壊し物件
所在 福岡市早良区干隈字東中溝一〇一番地四
家屋番号 一〇一番四
種 類 教職舎
構造 木造、瓦葺、平家建
面 積 一二六・九六㎡
以 上
各地のニュース 九条の会・三原発足
10月15日憲法第九条の堅持を訴える市民グループ「九条の会・三原」が発足し、広島市立大広島平和研究所の浅井基文署長が講演した記念講演会には市内外から約400人が参加されました。
三原教会、松隈先生が共同代表の一人をされており、ご報告いただきました。
第28回教会音楽祭テーマ曲募集
「いのちの輪 ~あなたは私の愛する子、今日、私はあなたを生んだ」というテーマのもと共に心を合わせて賛美できるような、詞および詞と曲を募集しています。ぜひご応募ください。一人一作品とし、原則として作詞作曲とも未発表のものに限ります。
問い合わせ・応募先は千葉教会・佐藤牧師