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るうてる福音版2010年クリスマス号

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「11月の男」

 ドイツの南部にシュヴェービッシュ・ハルという小さな古い街があります。その街の中心のマルクト広場の片隅に、Waldemar Ottoという現代芸術家が作成した一体のブロンズ像が立っています。
 ポケットに手を突っ込み、うつむき加減で陰鬱な表情を浮かべて立ち尽くしている、痩せたこの男の像には「11月の男(Mann im November)」という題が付けられています。なぜ11月の男なのでしょう?
 実はドイツ人に、あなたの一番嫌いな月はいつ?と聞くと、ほとんどの人は「11月」と答えるそうです。えっ11月が一番嫌い?私の中での11月のイメージといえば、以前京都にいた頃の記憶、たくさんの観光客が押し寄せる、秋の深まる一番美しい賑やかな季節、というものでした。それなのになぜ?と疑問に思ったのですが、実際に11月のドイツを体験してその理由がわかりました。11月、美しい秋はとうに過ぎ去り、冬の戸口に立ちつくしたまま、日ごと確実に昼が短くなる中で、薄暗く肌寒く、しょっちゅう冷たい雨が降り、時には雪が降ってはすぐに溶けてじめじめする。そんな感じの季節なのです。そして、それはいわば、夏から秋にかけては自分のすぐそばにあったはずのいろいろな楽しいものや心地良いもの、例えば暖かな日の光であったり、爽やかな風であったり、目を楽しませる花や緑であったり、そういったものが、次々に失われてゆく時なのです。ブロンズ像「11月の男」がなんとも寂しそうな顔をしているのは、きっと自分からあらゆるものが失われてゆく時にじっと耐えているからなのでしょう。
 それではドイツ人が一番好きな季節はいつでしょうか?多くの人がなんと「12月」と答えるそうです。その理由を、ドイツ語学校のある先生は「クリスマスを迎える12月は光の季節だから」と教えてくれました。北半球での冬至の時期と重なるクリスマスは、1年で一番夜が長くなる時でもあります。日本よりも緯度の高いドイツの12月は4時には日が沈み、8時になってやっと夜が明ける日が続きます。ですから12月は本来11月よりもさらに風は冷たくなり、草花は枯れ果て、夜の闇は増してゆくそんな季節なのです。しかし、クリスマスのために準備していく4回の日曜日、アドベントの時の間に、街はますます光に溢れていきます。人を取り囲む闇が深くなればなるほど、光もまた強く輝き始めるのです。
 ブロンズ像の「11月の男」は悲しげな表情のままで時間を止めてしまっています。しかし、今を生きている私達には、あらゆる物が自分から失われてゆくようにしか見えない時のその向こう側から、光溢れる時が確実に近づいているのです。(L)

日本で最初のクリスマス

 日本での最初のクリスマスはいつだったのでしょうか。
 1549(天文18)年8月に最初の宣教師として鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルは、領主島津貴久の歓待を受け、1年ばかり鹿児島に留まっていますので、その年の12月、鹿児島で最初のクリスマスを祝ったと思います。でも、これは公的な記録として確かめることはできません。記録として残っているのは、1560年、九州の豊後・府内(現在大分市)において降誕劇を伴うミサ(礼拝)が挙げられています。

一方、プロテスタント教会での最初のクリスマスは、1872(明治5)年ではないかと言われています。アメリカから来た宣教師ジェームス・バラを中心に日本人の青年信徒9名と中年男性2名により、日本での最初のプロテスタント教会である横浜公会(現在の横浜海岸教会)が設立されているので、そこで最初のクリスマスが祝されたのではないかと推測できます。
 確かな記録として残っているのは、1874(明治7)年に東京・銀座で女学校を経営していた原胤昭(はらたねあき)が東京第一長老教会で洗礼を受けた感謝のしるしとして計画したクリスマス祝会です。それは「キリスト教家庭新聞」に記載された原胤昭の回想録に記されています。裃や刀、大森かつらをつけた殿様風のサンタクロースで、パーティー自体の装飾も提灯や芝居の落とし幕などを飾った純和風のクリスマスだったようです。視察に来た米国公使館員は、ミカンで飾った十字架を見て、それはカトリックのやることだと注意されたので、その十字架は撤去されたそうです。
 日本でのルーテル教会のクリスマスはどこで最初に祝われたのでしょうか。
 初代の宣教師シェーラーが日本の地を踏んだのは、1892(明治25)年2月25日です。第二番目の宣教師ピーリーは同じ年の11月23日に来日しています。二人は共に東京築地12番の外人居留地に寄寓しています。シェーラーは次の年の1月に、ピーリーは3月に九州・佐賀の伝道に赴いていますので、1892年のクリスマスを二人は共に居留地の教会か、他教派の宣教師住居で祝ったのではないかと考えられます。
 なお、フィンランドからの日本への宣教師となりますと、それはシェーラーから遅れること8年後の1900(明治23)年、ウェルローズ宣教師が一家4人と、それに17歳のクルビィネン嬢と一緒に九州の長崎に到着しています。実に彼らは、2ヶ月半にわたる船の長旅の後、待降節に入っていた12月13日に長崎に到着し、旅装を解いています。長崎のどこかで、未知の国、日本に到着した安堵感と感激を神に感謝しつつ、将来への期待と多少の不安を抱きながらクリスマスを家族と共に祝ったことでしょう。
 悲しいかなウェルローズ宣教師は、愛児の一人が召され、彼自身も慣れない日本の気候に合わないこともあり、健康を害したので、次の年の夏が終るとすぐにフィンランドに帰国してしまいます。長崎の日本でのクリスマスは、ウェルローズ宣教師一家にとって最初で最後のものとなってしまいました。
 なお、ウェルローズ宣教師一家が悲しい出来事により日本を去った後、一人残った17歳のクルビィネン嬢は、すでに佐賀で伝道していたピーリーから「一緒に働きましょう」との招きを受け、長崎の隣りにあった佐賀ルーテル教会で礼拝のオルガンを弾いたり、若い人々に英語を教えたり、ピーリーの下での教会学校の教師をしたりして、日本伝道のために生涯を捧げていったのです。
(青田)

いのち、はぐくむ(18)「聖夜」

中井弘和 静岡大学名誉教授 農学博士 

『彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らが泊まる場所がなかったからである。』
(ルカによる福音書2章6-7節)

 クリスマスの季節になると、いつも昔読んだある詩の情景が浮かんできます。大晦日の夜更け、貧しい母と二人の子供が人影もなくなった裏通りの餅屋の前に永い間立っていました。子供たちは母親の袂にすがって餅を買ってほしいとねだっています。母親もそれを買いたかったのです。何度も財布からお金を取り出しては数え、買おうか買うまいかと迷いながら、苦しい沈黙の時間が過ぎていきました。やがて、母親は聞こえないほどの吐息をついて黙って歩き始めます。子供たちも、餅のことはすっかり忘れたようにおとなしく母親に従って、寒い町を三人は歩み去っていきます。
 この『三人の親子』の作詩者、千家元麿(せんげもとまろ)(1881-1946)という詩人は、そのような情景描写の後に、その親子の姿は誰も見なかったが、「神だけはきっとご覧になっただろう」と謳います。この詩は、遠い時代の大晦日の話ですが、これをクリスマス前夜の、しかも、現代の物語に置き換えることも可能です。今、クリスマスの季節の商店街は、いずこもクリスマスツリーやイルミネーションなどで明るく豪華に飾り付けられ、クリスマスソングも常に流されて、華やかさと喧騒は年々増していくように見えます。しかし、その裏では多くの貧しい人々が、ケーキといわずその日の糧にも事欠きながら哀しい夕べを過ごしているに違いありません。
 世界の飢餓人口は、10億人をはるかに超えて史上最高に達したと報じられています(国連食糧農業機関,2009年7月)。1日2ドル以下で生活する貧困層の人口も、このところ30億人に及ぶ勢いです(アジア開発銀行報告、2010年2月)。その犠牲になっているのが、子供や女性たち弱い立場の人々であることにも注目しなければいけません。子供の餓死者は年間1000万人ともいわれます。しかも、そのような飢餓や貧困は、私たち日本人にももはや他人事ではなく、すぐ身近にも存在する現実となってきたことは周知のことです。
 イエスは、寒い夜、馬小屋でマリアから生まれ、飼い葉桶に寝かされました。これはその一人子を地上に贈り、飼い葉桶から世界を照らすという神の深い配剤であり愛の証しであったでしょう。イエスはそこから光の道を歩み始め、やがて、あの山上での『貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。』(ルカによる福音書6章20節)の御言葉を告げ知らせるのです。
 クリスマスが貧しい人々のためにあるのはどうやら確かなことです。聖書は、また、私たちに、謙虚な気持ちをもって貧しい人たちと分け合って人生を歩んでいくことを教えています。私たちの神の国に通じる道はやはりそこにしかないように思えます。クリスマスは、そのことに気づく良き機会でもありましょう。

スイスでのクリスマスの思い出

安藤淑子 

 20年近くスイスのジュネーヴに勤務し、定年で帰国してから六年ほどになります。
 毎年、降待節一週間前になるとスイスではどこでもクリスマスの飾りつけがなされそれは綺麗です。個人の家の内外の飾りつけは勿論のこと、町も村も広場に大きなクリスマスツリーを立てます。時には広場に植えてある樅の木や針葉樹がクリスマスツリーとなり電飾やモールなどで飾られます。
 ジュネーヴは北海道の宗谷岬より少し北に位置し、冬は寒さが厳しく日照時間も短いのです。朝は八時過ぎに東の山々の上に太陽が昇り始め、夕方の四時には既に暗くなります。冬には太陽を全然見ない日が続くことも良くあります。そこで人々はクリスマスと冬至がほぼ重なることもあり、「もっと光を」の気持ちになるのかも知れません。
 クリスマスの飾りつけはキリスト教国として長い歴史があることもあり、日本では見ることのできない、楽しくまたセンスの良いものが多いと思います。例えば、お店の入り口が緑の樅の枝で縁取られ、赤いリボンや、クリスマスの飾り用の白いガラス玉が樅の緑に映えるという具合です。
 降待節の間は目のみならず耳でも楽しむことができます。それは、テレビやラジオでクリスマスの番組や音楽をどんどん流すからです。またクリスマスの頃にのみ販売する特別のお菓子もあります。
 ひどい寒さの中、ヴァンショウという暖められたワインを街頭のスタンドで飲み、体を温めながらクリスマスのプレゼントを買いに行ったことも今は懐かしい思い出になりました。(蒲田教会会員)

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