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機関紙るうてる

るうてる《福音版》2008年5月号

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バイブルメッセージ  祈るあなたは美しい

その夜、神はソロモンに現れて言われた。「何事でも願うがよい、あなたに与えよう」 ソロモンは神に答えた。「あなたは……」
歴代誌下1章7~8節a(日本聖書協会・新共同訳)

流れ星を見たとき、三つ願い事を言うとかなう、と子どものころに聞きました。
やや即物的に考えるところのあるわたしは、流れ星が流れているあの短い時間に三つ言うのは難しいな、と思いました。
そこで決めました。流れ星を見たら、「おもちゃ、お金、お菓子」と言おうと。いつ流れ星を見てもいいようにと、ときどき早口の練習までして……。
幸か不幸か、流れ星のあまり見えない東京で幼少期を過ごしたので、とうとうこれを実行する機会は与えられませんでしたが。
ギリシャ語で、≪人間≫のことをアントロポスと言います。語源は、≪祈る存在≫ということだそうです。これは、わたしたち日本人にはない感覚ではないでしょうか。わたしたちは、≪人間とは?≫と聞かれたら、「人の間と書くとおり……」とか、「人という字はお互い支えあっています」と昔から説明されてきました。
でも、ギリシャ語を話す人たちは、≪人間とは?≫と聞かれれば、≪祈る存在≫と思うのです。
確かに、子どものころのわたしも「おもちゃ、お金、お菓子」という、ささやかと言うか、ごうつくばりというか、とにかく願い事を持っていました。そして、今でも、それほど変わらない身勝手な願望を持った自分がいます。
でも、ギリシャ語のアントロポス≪祈る存在≫という言葉は、ただ、やみくもに願い事を持つ姿をイメージしていないような気もします。あくまでわたしのイメージですが、≪祈る時、人は美しい≫ということを教えているような気がするのです。それも、誰かのために、です。
美しい祈りと言えば、わたしはお百度参りを思い出してしまいます。時代劇でしか見受けることはありませんが、病気のわが子のためにとか、戦いに出て行った夫のためにとか、裸足になった女性が、手を合わせて、神社の境内を必死に行ったり来たりする。しかも、劇中の設定は、だいたい雨が降っているか、雪が降っているか、辛い状況です。そういう中でも、あのひとのために、とこんなに必死で祈っている。その美しさを伝えてくれます。
家内安全、商売繁盛という願いと、あのお百度参りする女性の祈りとを、どちらも同じ≪祈り≫と片づけられない気がします。
誰かのために祈る時、人の魂は、自分という狭い殻から解き放たれて、鳥のように羽ばたいているのかもしれません。
誰かの喜ぶ顔を見たくて……。その瞬間が、何より幸せなことをわたしたちは知っています。
プレゼントを思い浮かべると分かります。プレゼントは、もらうより、大切な人のために、何にしようか、と考えて、考えて、よし、これに決めた、と買っている時が一番幸せです。
≪幸せになりた~い≫結婚式場のコマーシャルで、若い女性たちが叫んでいます。
そう、まさに、わたしたちは、自分が幸せになりたいと願っているのですが、幸せになるための道は、意外な方向にあるのかもしれません。
さあ、今日から、何を祈るわたしになりましょうか。
パパレンジャー

十字架の道行き

【第二留】イエス、十字架を負わされる ヨハネによる福音書19章17節

【祈りの言葉】主よ、苦しみに会うとき、従順と喜びをもって耐え、勇気をもって負うべき十字架を負い、主に従うことができるように。
人形制作/杉岡広子 http://www.bibledollministry.com/

毎日あくしゅ

たんじょうび

マザー・テレサは、「現代の最も重い病気、それは、『私なんか、いてもいなくてもいい。死んだほうがましだ』と考えること」だと言われました。
この思いが起こるのは、自分の思い通りにならないことに遭遇したとき、あるいは仲間の中に入ることができず、疎外感を感じたとき等々、さまざまな光景が浮かんできます。それ以上に、自分が期待されずに親から生まれてきたと思ったり感じたりした子ども。その心に深く残る癒されがたい傷。生涯つきまとうこの痛みは、徐々に子どもの成長に影を落としていきます。
キリスト教は、「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1章27節)と、私たち一人ひとりは、神さまに似せて造られていると教えています。この意味は、どの人も神さまにとって大切な、かけがえのない者として、いのちを与えられたということです。幼い子どもたちも、その中に神さまの姿を見ることさえできるかも知れません。そして、すべての人が例外なく大切な存在として、この世に存在が許されているのです。
それは、誕生がいかに大きな神さまのみ心によるものかということです。毎年巡ってくる誕生日は、自分がなくてはならない存在として、また自分にしかない賜物を与えてくださったことに感謝をするときでもあります。もちろん感謝するのは、自分を産んでくださった両親、そしておじいさん、おばあさん、ひいては神さまです。
子どものこれからの長い人生において、さまざまな試練や障がいを乗り越え、生命ある限り生きようとする力、それは、「自分が愛されている」という、ゆるぎない確信からわきでることにあると思います。
あなたのかけがえのないお子様に、「あなたは私にとって、なくてはならない大切な、すばらしい人。世界中で、あなたに代わる人はだれもいません」と、毎日心を込めて伝えてください。そのとき、子どもの顔も態度も姿にも変化が見えてくるに違いありません。
(園長)

谷センセイの教育い・ろ・は

第2回 教育基本法を考える その2

旧基本法は、昭和22年に制定されたもので、新憲法の理念による教育方向を示したものでした。しかし、肝心の家庭教育は、第7条(社会教育)で「国及び地方公共団体によって奨励されなければならない」としか書かれておらず、教育イコール学校教育、といった考えが定着した元凶といえます。
現在では、学校教育の疲弊、社会的なひずみが問題化し、家庭教育を見直す動きが見られています。今回の教育基本法には「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和の取れた発達を図るように努めるものとする」とあり、家庭教育のあるべき姿、保護者の責任が明示されました。しかし家庭教育をどのように行うか、解決方法はあいまいなので、教育の混迷、混乱は続くものと思われます。

江戸時代、士農工商の身分制度の下では、それぞれの階層で儒教的な家庭教育が行われ、武士の家訓には、主従のあり方、妻女の心得が具体的に示されています。
また有力な農民、商人たちも子女の教育には力を入れ、一家の繁栄と安泰を目指しました。どちらかといえば、実際的な処世術中心の家庭教育だったといえます。

明治期には、欧米の教育制度に倣った学校が各地に誕生し、中央集権的な教育、国家に有用な人づくりが進められました。家庭教育も教育勅語の影響を多分に受けたものとなりました。しかし知識階級の中には、そのような国民教育のあり方に疑問を持ち、独自の家庭教育を展開した人々がいました。

明治の文豪、幸田露伴もその一人で、娘の文さんは細々とした家事――掃いたり、拭いたりの仕方から、買い物、包丁の使い方、お茶の入れ方、煮炊きの仕方、障子の張り方まで、14歳から18歳になるまでの間、父親にきちんと教えられました。
文さんの著書『父、こんなことを』の中で、父親が外国の料理書を丸善から取り寄せ、料理の手順にセオリーがあることを教えてくれたと書いています。

教育基本法には、家庭教育のノウハウはどこにも書かれていません。各家庭で答えを見つけるように、仕向けられているのです。
教育基本法の第1条を熟読し、どうすべきかの答えを見つけてください。
「教育は人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」。

谷 健(たにけん)…昭和5年7月生まれ。東京都の公立小学校7校の勤務。専門は英語、道徳。道徳副読本の編集に従事。

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