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機関紙るうてる

るうてる2017年3月号

説教「憐れみを受け、恵みにあずかって、大胆に」

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 日本福音ルーテル西宮教会 牧師 市原正幸

さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(新約聖書ヘブライ人への手紙4・14~16)

召されている現場で、種々の事態を、何とかして冷静に受け止めようと立ち止まる、その時々に、幾度となく励まされている聖書箇所は数多くありますが、その一つがこのメッセージです。
 神学校を卒業し、按手礼を受けて牧師とされて赴任する時、育ててくださった先輩牧師や神学校教師たちが、「激励歓送会」を設けてくださいました。その折に、「み言葉を取り次ぎ、語る使命を頂いたのだから、果たすためには、語る前にまず、あなたがみ言葉(聖書)を読むだけでなく、じっくりと聴くことを大切にして欲しいな。」と助言くださいました。1971年でしたから、46年も前になります。以来、私なりに色んな取り組みを続けています。
 その一つは、福音書の場合ですと、その記述に登場する人々のどの人に自分が該当するだろうかと思い巡らせることです。ここでは引用できない節数なので、どうぞ、お手元の聖書を実際に開いてみてください。マルコによる福音書9章14節以下です。
 登場するのは、群衆の中で「病気の子を持つ父親」、「イエス様の弟子たち」、それに「弟子たちと議論している律法学者たち」がいます。弟子たちは人々に問いかけられ、子どもの病気に癒しを求められ、さらに、専門家である律法学者に議論を吹きかけられています。返答に詰まり、散々な目に遭っています。そこには、イエス様はおられませんでした。
 神学校を出たての新米牧師の私にそっくりです。人生経験も、深い信仰体験もなく、聖書もよく分からないまま、教会に遣わされて、何かにつけおろおろするばかりでした。イエス様が不在で働いている気持ちになっていたのかも知れません。まず、自分を弟子たちに当てはめて読んでみました。
 そこへ、イエス様が戻って来られて、その場の事情をお知りになると、三つのことを言われました。①「なんと信仰のない時代なのか。」 ②「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。」 ③「いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」これらの言葉は誰に向けられたのでしょう。そこにいたみんなにと考えてもいいし、「信仰のない時代」というのは、群衆と父親に対してだろう。「いつまでも共に」というのは弟子たちに。「我慢しなければならないのか」というのは律法学者たちに向かってと読むと、分かるような気がします。
 私は、当初、不甲斐ない弟子たちに自分を当てはめていました。しかし、牧師として日々を重ねるうちに、いや、それだけではなくて、この病気の子を持つ父親でもあると気づかされていきました。「大祭司・イエスの憐れみ」を受けなければならない者であった父親は、まさしく、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(24節)と叫ばなければならない私です。
 この箇所は、「大祭司の憐れみにお委ねします。大祭司の恵みにあずかって歩ませてください。」そう叫ばなければ前に進めない自分を見つめることのできた気のする福音書の箇所です。
 ありのままの私を見つめ、弱さに同情の眼差しを送り、知っていてくださる「大祭司・イエス様」の前に大胆に進み立ち、「主よ、憐れみたまえ。」と、心から告白して、恵みにあずかって、新しい日々を、新しくされたいのちで生かされていきましょう。

連載コラムEnchu

  

12  Call

聖書には召命物語がいくつも記されていますが、召命のことを英語で「call」と言います。これの原義は「呼ばれること」です。
 さて、パウロが信仰の父としているアブラハム、彼の召命物語は創世記12章1節以下に記されています。主なる神は「あなたは故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」とアブラムに告げ、彼はその言葉に従って旅立った、と。アブラハムのように「自分が呼ばれている声」をはっきり聞けたらよいのですが…。
 しかし、そもそも神の声はそんなふうに聞こえるのでしょうか。「私は神に呼ばれた(声をはっきり聞いた)」と主張することは、ややもすると、召命(call)と「私は総理大臣だからただしい」というふるまいを矛盾なく結びつけてしまうことになってしまうのだと思います。
 ところで、アブラハムの召命物語を注意深く読むと、これは、彼が75歳の頃の出来事であったことが分かります。聖書の年齢を現在の年齢と同じように考えることはできませんが、それでも、アブラハムが十分に成熟した大人であったことは分かります。成熟とは、たぶん、他者の声なき声を聞き取ることができるようになることです。それは「うめき声」や「(自分に)異を唱える声」のようなものです。聖書は、そんなアブラハムが「主なる神からの召命(call)」を聞いた、と描いているのではないでしょうか。
 本日按手を受けられるお二人が、それぞれの場所で、「(声なき声のように)I need you」と呼びかけられる声に耳を澄ましていくことを通して、その働きが「calling」になっていくことを祈ります。
岩切雄太( 門司教会、 八幡教会、 佐賀教会牧師)

議長室から

 

異なるからこそ、共に祈る 総会議長 立山忠浩

先月7日、カトリック教会の列福ミサに参列しました。ユスト高山右近(ユストは洗礼名で「義の人」の意味)が福者に加えられることになり、白川道生事務局長と共に招待に与ったのです。大阪城ホールには1万人が集いました。
 高山右近は戦国時代の荒波を生き抜いた武将ながらも、江戸幕府によるキリシタン禁教令発布の後は、地位を棄てマニラへと向かい、そこに到着後40日で天に召された傑人でした。
 私たちはカトリック教会に属する者ではありませんが、日本のキリスト者はどんな教派であろうと、高山右近を初めとした、キリスト教伝来から間もない時代のキリスト者たちの苦難の歴史の上に立っていることに感謝を覚える時となりました。
 さらに認識を新たにしたことがありました。私たちは今年を宗教改革「500年」の特別の年と位置付けていますが、カトリック教会にとっては「500年」と言えば、むしろキリスト教が日本に伝来した時代のことなのです。宣教師ザビエルが、宗教改革運動に対抗するために海外伝道に目覚めたことの方なのです。
 ところが、私たちは11月23日に長崎のカトリック浦上教会を会場にして、カトリック教会との合同の礼拝、シンポジウムを開催しようとしています。私たちは「特別な記念の年だから」と思っていますが、カトリック教会は違うのです。それぞれの歴史や立っているところが異なっている。列福ミサに参列しながら、その壮大さへの感嘆と共に、このことを改めて感じたのです。
 では、なぜ異なる二つの教会が合同の礼拝を行うのでしょうか。この疑問が頭をもたげるからこそ、その目的を繰り返し確認しなければならないのです。それは、両教会で積み上げて来た神学的対話の結晶である『争いから交わりへ』や、昨年秋のルンドでの両教会の共同の祈りの式と共同声明にも表現されたことでした。互いが背を向け、しばしば互いを非難し合って来た歴史を悔い改め、互いに向き合い、対話と祈りを共にする道へと方向転換するためなのです。和解へ、平和への道を刻むのです。
 「平和を実現する人々は幸いである」(マタイ5・9)という主の教えに従い、両教会が共に祈り、学び合うのです。国家・民族・宗教の争い、自分・自国中心、不寛容、絶望の蔓延するこの世に、希望の証しとなることを願って。

プロジェクト3・11活動報告

 東教区社会部長 小勝奈保子

 プロジェクト3・11では東日本大震災・福島原発事故における被災者支援を行っています。委員会を年6回開催し被災地を覚えて祈り、各自が携わる活動の報告や情報交換を行いました。また、「るうてる」に諸団体の活動内容を掲載し、その働きを紹介しています。昨年は10団体にご協力を頂きました
 また、東教区の諸教会をはじめ、様々な教区行事の機会に献金を呼びかけ、昨年は合計で72万1162円が集められました。ことにルターナイツでの取り組みは大きな助力となりました。結果、昨年度は以下の通り支援金を送金しました。
 いわき放射能市民測定室「たらちね」25万円、いわき食品放射能計測所「いのり」25万円、北海道寺子屋8万円、福島移住女性支援ネットワーク8万円、松本子ども留学8万円、合計74万円。
 なお、独自に実施することは叶いませんでしたが、東北被災地への訪問は女性会連盟(仙台・石巻・気仙沼/6月21~23日)や東教区常議員会(福島・いわき/5月31日~6月2日)で行われました。女性会連盟では熊本の震災から一か月後のことでしたが、九州教区からの参加者もあり、その交流は特別なものとなりました。東北と熊本の体験者の分かち合い、また連盟のつながりとして全国の女性の祈りと支えに感慨を覚える時でした。
 2016年、原発廃止を訴える書籍が2冊出版されました。『原発と宗教ー未来への責任』(いのちのことば社)、『今こそ原発の廃止をー日本カトリック教会の問いかけ』(カトリック中央協議会)。支援活動という視点だけでなく、社会に変革を求めていく情報等についてもお伝えできればと思います。
 今後も独自の活動だけでなく、個人や各教会で行っている活動や支援をご紹介し、共なる祈りとしていきたいと願っています。情報提供をお待ちしています。
〈3・11を憶える礼拝〉
2017年3月11日(土)14時。東京教会にて。説教として野村治牧師(福島いずみルーテル教会)をお迎えします。

2017年各教区の総会について

■北海道特別教区 第37回定期総会 3月20日(月)9時開始~14時30分終了予定 日本福音ルーテル札幌教会札幌礼拝堂・スオミホールにて
 ■東教区 第54回定期総会 3月20日(月)午前9時受付 9時30分開会礼拝~16時30分終了予定 日本福音ルーテル東京教会(宣教百年記念会堂)にて
■東海教区 第54回定期総会 3月20日(月)10時開始~16時終了予定 日本福音ルーテル挙母教会にて
■西教区 本年は未開催 西教区宗教改革500年 記念大会/西教区女性会教区花みずきの集い
■九州教区 本年は未開催
※ 詳細については、各教区事務所へお問い合わせください。

宗教改革500年にむけて ルターの意義を改めて考える58

 ルター研究所 所長鈴木浩

 時に隠されている」(ハイデルベルク討論、1518年)と語るルターは、何を言おうとしているのだろうか。「隠された啓示」などは、形容矛盾ではないのだろうか。「啓示」とは「隠されていたものを明らかに示す」という意味だからである。
 ルターは、「イエス・キリストの十字架での苦難以外の場所では、神は決して認識されない」とも語っている。しかし、十字架の上に見られるのは、ナザレ出身の大工の苦難と死の姿だけである。どう見ても、それが「神の姿」であるとは思えない。
 なぜか。われわれは神について、漠然としているかもしれないが、一定の「事前理解」を持っている。神は「全知全能」であるとか、「万物の創造者」であるとかいった考えである。つまり、神について何らかのイメージを持っているのだ。
 そのイメージからすると、十字架の上で苦難を受け、死んでいったナザレの大工の姿は、少しも「神らしくない」のである。しかし、ルターは、そのような姿以外には、神を知ることはできない、と主張する。
 モーセに対する神顕現の場面でも、エリヤに対する場面でも、神は「通り過ぎて行く」。だから、モーセもエリヤも、「神の背中」しか見ることができない。だから、それは「間接的な」啓示でしかない。
 イエス・キリストの十字架での苦難と死も、「間接的な」啓示でしかない。しかし、そこにしか神を知る場はない。だから、神の姿は、「啓示されていると同時に隠されている」のだ。
 少しも「神らしくない」ナザレのイエスの苦難と死の中に、神の啓示を見ることを可能にさせるのは、「信仰のみ」だ、とルターは主張する。

日本福音ルーテル教会・カトリック教会 宗教改革500年共同記念行事 入場整理券 申し込みのご案内

 
 日本福音ルーテル教会と日本カトリック司教協議会とが共同主催し、「宗教改革500年共同記念 ~平和を実現するものは幸い~」が2017年11月23日(木)10時~15時、カトリック浦上教会にて開催されます。ご参加に際して、入場整理券が必要となります。
 お申し込みはインターネットで受け付けます。
以下のURLより、必要事項を入力の上、お申し込みください。
http://500peace.jelcs.net/
スマートホンなどでは左記2次元コードからもアクセスできます。
・インターネット環境をお持ちでない方には、教・名前(よみがな)
・連絡先電話番号
・連絡先住所
・連絡先メールアドレス
・所属教会名
・車椅子での参加有無
・手話通訳希望有無
・ 羽田空港発着のツアー(上五島観光含む、11月21日~24日)参加希望有無

宗教改革500年記念聖歌隊員ドイツ・ブラウンシュヴァイク派遣について

 日本福音ルーテル教会とまもなく50年に至る協力関係を与えられているドイツ福音主義教会のブラウンシュヴァイク州教会では、宗教改革500年記念事業のひとつとして、ハイドンのオラトリオ『天地創造』の公演を企画されました。このためにオーケストラの他、700人の聖歌隊を編成する大きな演奏会です。
 ブラウンシュヴァイク州教会では、この聖歌隊のメンバーとして、日本福音ルーテル教会の他、関係する海外諸教会にも参加を呼びかけ、神が創造された世界に住む私たちが共に神とその業を賛美する時を持とうとしています。
 日本福音ルーテル教会にも15名のメンバーを招待くださることになりました。つきましては、教会員はもちろん、関係者を含む、一般の方々にも呼びかけて、派遣することとしました。
 オラトリオ『天地創造』は、ハイドンの晩年に当時の職業作曲家として珍しく、自身の発案により制作された大曲であり、オラトリオ『四季』と並びハイドンの作曲家としての頂点にあるものと評されます。1798年にウィーンにおいて初演されました。「創世記」と「詩編」、そしてミルトンの『失楽園』を題材とし、混沌からアダムとエバまでが描かれ、「全ての声よ、主に向かって歌え!」との賛美で締めくくられます。
 公演は今年9月10日であり、派遣期間は、現地での練習と公演後のヴィッテンベルクへのツアーを含めて、9月6日から12日を予定しています。参加費用を含む募集要項などの詳細につきましては、決定次第、各教会へ、また日本福音ルーテル教会のホームページでもお知らせします。

教区宗教改革500年 記念大会/西教区女性会 教区花みずきの集い 

日時 2017年3月19日(日)16時~20日(月)15時30分
場所 日本福音ルーテル大阪教会/ホテル・ザ・ルーテル(大阪市中央区谷町3l1l6)
 宗教改革により、賛美することが限られた人に許されたものから会衆の宝物となったことを覚えて賛美歌を味わい、学び、み言葉に養われる時が計画されています。
■3月19日
15時30分 受付
16時~16時30分 教区花みずきの集い 開会礼拝
16時30分~18時15分 教区花みずきの集い 講演と讃美『賛美歌誕生500年!~賛美歌を通してみ言葉に養われる~』
 講師 水野隆一先生(関西学院大学神学部教授・日本基督教団正教師・日本基督教団賛美歌委員長)
■3月20日
10時~11時30分 記念感謝礼拝 説教 鈴木浩先生(ルター研所所長)
11時30分~11時45分 釜ヶ崎ディアコニア活動・喜望の家報告(ワルターさん、園田さん)
13時15分~13時45分 ルンドでのルーテル・カトリック宗教改革500年共同記念礼拝報告(鈴木浩先生)
14時~15時 特別演奏会大阪ハインリッヒ・シュッツ合唱団
15時~15時30分 宗教改革500年記念大会 派遣聖餐礼拝

J3退任挨拶

ディーン・ホルツ

ルカ18・28~30を贈ります。
九州学院での働きを終えた今、私の心は喜び・悲しみ・興奮・感謝などの多くの感情で満ちています。イエスの言葉は真実です。イエスに従うならば、私たちの命はより豊かで満たされたものとなり、新たな兄弟姉妹と共に祝福されます。この2年間、私の人生を充実させ豊かにしてくださった、主にある日本の兄弟姉妹の皆さんに感謝します。皆さんはいつも私の心の中に住み、私の祈りの中にとどまることでしょう。私はいつでも九州学院の生徒と先生たちを思い起こし、大江教会と熊本教会の美しくて世話好きな人たちに会えないことを寂しく思うことでしょう。去らねばならないことは悲しいことですが、私の心は熊本での思い出と、大好きなすばらしい人々で満たされることでしょう。

ザック・コービン

私は日本で素晴らしい経験をし、決して忘れることのできない出会いとつながりを与えられました。日本の教会と学校とが私に与えてくれたすべての愛と支援に感謝しています。本当にありがとうございました!

退職にあたり

市原正幸

 1965年4月、「日本ルーテル神学大学」第2期生として入学が許されました。高校を卒業したばかりの18歳でした。送り出し、ご支援を続けてくださったのは、天王寺教会、授洗は森勉牧師でした。まだ東京オリンピックの余韻が残る大都市の中で中野区鷺宮の敷地は静寂でした。満開の桜が校舎とルター寮を抱いてくれていました。鷺宮のキャンパスで4年、三鷹に移転して2年、計6年間の研鑽の日々は、大阪弁丸出しの生意気な神学生でしたが、多くの方々に出会い、包んでいただきました。1971年3月、24歳で「按手礼」。九州教区・延岡教会(宮崎県)に派遣されて、牧会者とされました。在任は3年間だけの短期となりました。妻と出会い、結婚を機に、西教区・徳山教会に転任して、二人三脚での働きをスタートするためでした。以来、徳山教会で8年間、岡山教会を8年間、現任の西宮教会では27年間を数えて、定年引退を迎えました。それぞれに、会員をはじめそのご家族、お交わりを許されたみなさんたちの、忍耐の大きさに支えられての46年間です。今、任を与えられて教会にお仕えする務めは終わります。しかし、牧師としての召命は生涯にわたると感謝して受け止めたい。夫婦二人だけでなく、家族を含めてのご奉仕がこれからもどの様に開かれていくのか、主の召しに応える日々を重ねたいと祈りつつ。ありがとうございました。

乾 和雄

 太田先生や江藤先生はじめ、多くの皆さまのお導きをいただき、64歳で按手に与かり、定年までの5年間、神戸東教会で信徒の皆さまのこまやかなお支えをいただきました。ルターがペスト流行の町に留まり続けたことを例にあげ、「るうてる」紙上で新任の挨拶をさせていただいた日のことが、まるで昨日のようです。本当に短い間でしたが、神さまが日々生きて働いておられることを、奇跡とも思える数多くの恵みの出来事を、目の当たりにさせていただいたことは有難いことでした。
 また『聖書日課』のメッセージを通して、各地の皆さまからご質問やあたたかなお励ましをいただきました。また、毎年10月に行なわれる「聖書日課セミナー」で、全国の読者の皆さま方と親しいお交わりをいただいたことも有難いことでした。
 昨年は私の不注意から少し体調を崩しましたが、今はとても元気です。4月から神戸の聖書学院で、ルター神学の講義も仰せつかっています。主のお守りのうちに、これからもさまざまな場で、与えられたみ言葉のご奉仕をさせていただきたいと切に願っております。どうか引き続き、このような小さな者のためにお祈りに覚えてくださいますように心よりお願い申し上げます。

長岡立一郎

       
45年前、つまり1972年に按手礼を受け、最初の任地は熊本の八代教会(人吉教会も兼務、8年間)でした。その後、広島の呉教会(3年間)、京都教会副牧師(実際は大津ルーテル病院チャプレンとして1年間)、久留米教会(6年間)、本郷教会と学生センター(11年間)の働きへと遣わされ、博多教会から招聘を受け、8年間の宣教・牧会活動に従事することを許されました。その間、本郷教会と学生センターでは、宣教40周年記念、また博多教会の宣教100周年の節目の時を迎えることができ、日本福音ルーテル教会史の中での博多教会が果たしてきた役割の一旦を担わせていただけて光栄でありました。最後に、2009年7月から学校法人・九州学院の理事長(専従)として遣わされ、2011年には、創立100周年事業を終えることができました。いよいよ私自身、着陸態勢に入ったところです。
 45年間の歩みを振り返ります時、私自身、一つのテーマがありました。それは日本社会への宣教という課題の中で、「日本人の福音の受肉」がいかに実現できるかという問題意識で取り組んでまいりました。ですから常に日本社会の歴史や文化に関心を持ちつつ、社会の中の病院、学生センター、そして学校へと赴いた歩みでした。これらの歩みを導かれたことに対して、神さまと多くの方々に感謝しつつ。

箱田清美

        
いよいよ退任の挨拶をさせていただく順番になりました。
 1980年4月に沼津教会・下土狩教会から始まって、2017年3月に唐津教会・小城教会で閉じようとしています。出会いもあり、失敗もあり、助けられ、日本福音ルーテル教会の組織の中で、「神の国」を求めながらの道でありました。ルーテル教会組織は、アスマラ宣言後の「自給路線」の方策の時期でしたが、未熟のままの新任牧師としてそれに加えられました。赴任教会の集まりを通して、多くの信徒方との出会いを与えられ感謝をしています。 
 初任地で出会ったあるご家族は、牧師家庭の生活を慮ってか、毎年贈り物を届けてくださいました。30数年過ぎた今でも、それは続いています。初任地は新婚でしたが、いつしか5人家族となりました。贈り物は、その時々にわたしたち家族の必要としている服や日用品でした。リサイクルの品でしたが、子どもの成長に連れてその服も大きくなり、わたしのお腹に合わせてカジュアルなものも入れてあり、しかも、1品だけは、流行の新品が添えられていたのです。遣わされた地で、この贈り物にわたしたちはどれほど励ましを受けたことか。
 今後も、聖書によって立てられた霊的集まりを求めて、失敗の連続がわたしには続くでしょう。再び、旅の衣を整えたいと願っています。お祈りをお願いします。

教会推薦理事研修会

 副議長 大柴譲治

 1月9日、市ヶ谷センターにおいて「教会推薦理事研修会」が行われた。これは、るうてる法人会連合の2007年総会で決議されて以来、毎年1月に日本福音ルーテル教会(JELC)主催というかたちで行っているJELC教会規則第74条に基づく教会推薦理事に関する研修会で、今回で9回目となる。宗教法人、学校法人、社会福祉法人、 幼稚園・ 保育園から19名の代表が集まり、「2017年 Lutheran formation~Reformationを継承する共同体」という主題の下に協議を重ねた。立山議長の開会礼拝に始まり、JELC(立山忠浩)、ルーテル学校法人会(九州学院理事長・長岡立一郎)、ルーテル社会福祉協会(るうてるホーム常務理事・石倉智史)、幼稚園・保育園連合会(大森ルーテル幼稚園園長・竹田孝一)が発題し、それを受けて4つの分団に別れて協議し、最後に全体で分かち合ってまとめとした。
 今から500年前に始まった「宗教改革Re-formation」運動が当時の民衆の魂の(スピリチュアル)ニーズに聖書のみ言(ことば)をもって応えるかたちで展開されていったことを想起しつつ、これまで同様、私たちのそれぞれが置かれた具体的な状況と働きを通して変化してゆく現代社会・地域のニーズに、信徒以外のサポートも得ながら、今後も応えてゆくべきことが確認された。
 「宣教」を「伝道」「教育」「奉仕(ディアコニア)」と包括的に受け止めてゆくところから「るうてる法人会連合」は2002年に組織されたが、それもまた「信仰のみ」「恵みのみ」「聖書のみ」という核心的な原理を常に意識することでニーズに応えるために「Formation」(形態/隊形/陣容)を変えてきた宗教改革の伝統を受け継いでいるからであろう。
 私たちは中心的なものを常に見据えるがゆえに、状況に応じて自らのかたちを自由に変えてゆくことができる。そのためにも、それぞれが置かれた現実をリアルに見てゆく必要がある。個人の価値観も社会の態勢も多様化し激変してゆく中で、これから時代がどうなってゆくかを予測することも困難になってきているが、そのような中で私たち「るうてる法人会連合」に属する諸団体は、創設の精神(ミッションスピリット)を大切にしつつ、プロ集団としての論理と倫理と技能とを高く保ちながら、誠実に現場のニーズに関わってゆくことになる。どのように社会が変化してゆこうとも、私たちは自らの最初の Call(主の召命)に忠実に歩んでゆきたいと思う。このような他職種横断的な研修会は私たちに課題と共に目標を立体的に描き出すことを助けてくれるし、現場での誠実な取り組みが相互に刺激と励ましを与えてくれるものであったことを感謝したい。

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