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るうてる2007年

るうてる《福音版》2007年9月号

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バイブルメッセージ  行きはよいよい、帰りはこわい

あなたの出で立つのも帰るのも主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。
詩編121編8節(日本聖書協会・新共同訳)

 「行きはよいよい 帰りはこわい……」。童謡『とおりゃんせ』の歌詞の一節です。若い人たちに受け継がれ、歌われているでしょうか。
 小さい頃、暗くなるまで「外遊び」に夢中でした。玄関先の路地で、舗装のされていない地面に「ろう石」で線を引いて、ケンケンパーや陣取り合戦をしたものです。もちろん、かくれんぼや、月光仮面ごっこ、そして「くぐり遊び」もしました。
 「くぐり遊び」をする時に、『とおりゃんせ』を歌うのです。二人が向かい合ってアーチを作り、その下を一列縦隊になって、歌いながら通り抜けていきます。歌が終わった時、アーチの手が降ろされ、その中に閉じ込められた子が鬼になるのです。
 子どもながらに、この歌に不気味なものを感じていました。「行きはよいよい、帰りはこわい、一体何のことだろう」と。さらに、そこは「天神様の細道」です。「神社の参道がどうして、そうなるの?」と思ってしまうのです。今も昔も、キリスト教会や、宗教全般に対して、同様の警戒心を抱いている人は少なくないということなのでしょうか……。
 「とおりゃんせ、とおりゃんせ」と言っておきながら、「ちょっと通してくだしゃんせ」とお願いすると、「ご用の無い者、とおしゃせぬ」でしょ。これも解せません。
 「お札を納めに参ります」。お札を見せながら、頭を下げ下げ通って行くのでしょうか。お札を納めることができたなら、とにかく、めでたしめでたし、目的達成。「行きはよいよい」です。ところが、お札を納めてしまった今、空手になり、なぜ、ここに来たのか証明するものがなくなってしまいました。それで、「帰りはこわい」ということなのでしょうか。真相はわかりません。
 先日、逆の体験をしました。デンマークのコペンハーゲンに一泊し、その翌日、午前中のみ自由時間でした。宿泊するホテルからほど遠くないところに、キルケゴールのお墓があることを知りました。地図を頼りに、街路の名を確かめながら、墓地を目指してひたすら歩きました。「まだかなぁ」、「間違ってないかなぁ」、「遠いなぁ」と、不安を道連れに。
 やっと墓地に辿り着き、彼の墓を発見。近くにアンデルセンの墓もありました。彼らが生き、思索し、創作したのはこの街だったのだとの感慨を新たに、同じ道を戻りました。帰り道、目に映る景色はまるで違っていて、「行きはこわい 帰りはよいよい」でした。
 旅にたとえられる人生。いくつもの難関、関所があります。しかし、主なる神様が、あなたの出で立つのも帰るのも見守っていてくださいます。「安心して行きなさい」。イエス様のお言葉です。
M.T

大人を育てる絵本からのメッセージ

としょかんライオン
ミシェル・ヌードセン・作、ケビン・ホークス・絵 福本 友美子・訳/岩崎書店

 絵本というと小さなこどものための本というイメージがありますが、大人にとっても生きるヒントになる本がたくさんあります。ここでは子育てという視点でお話をしていますが、あらゆる人間関係においてもお役立ていただけることと思います。

生きていくためのルール

 わたしたちは、毎日いろんなルールを守りながら生きています。「食べる前には手を洗う」「ろうかを走らない」など、家庭や学校でのルールから、市や国のルールなど様々なものがあります。そのルールは、何のためにあるのでしょう? 例えば「食べる前には手を洗う」というルールは、ばい菌の付いた手で食事をすると、ばい菌が身体に入って病気になりやすいからです。「ろうかを走らない」は、みんなが思い思いに走っていては、ぶつかって怪我をするからです。ルールのほとんどは、人と人が共に生きていくためにお互いを思いやり、生きやすくするためのものです。でも、その本質を見失ってしまったら、「人のための」ルールのはずが「ルールのために」人が振り回されてしまいます。

ルールよりも大切なもの 

 この本に出てくる図書館にもルールがありました。「(図書館の中では)静かにする」というルールが。そんな図書館に、ある日ライオンがやってきました。「ライオンが図書館に来てはいけない」というルールはないので、館長はライオンが図書館に来ることを認めました。子どもたちにまじってお話会に夢中になるお行儀の良いライオンは、そのうち、ふさふさのしっぽで本棚のほこりを払ったりして図書館の仕事も手伝うようになり、たちまち人気者になりました。ところがある日、ライオンはルールを破り、図書館の中で吼えてしまいました。日ごろからライオンの存在をおもしろくないと思っていたマクビーさんは、今がチャンスとばかりにライオンを責め、ルールの破ったからには、もう図書館に来てはいけないと言い放ちます。ライオンがルールを破ったのは、怪我をした館長を助けるためでした。ライオンにとって、ルールを守ることよりも館長を助けることが大切だったのです。

大切なことは何でしょう?

 イエスさまの時代にも律法というルールがありました。イエスさまは、律法を大切にしなかったわけではありません。律法を守ることも大切だけど、時には、それよりももっと大切なことがあることを教えてくれているのです。「安息日には何もしてはいけない」というルールがあるのに、イエスさまは苦しんでいる人々を癒しました。苦しんでいる人を「苦しんでいる今、助けること」が大切だったからです。みなさんもお子さんと、いろんなルールを作って生活をしていると思います。そのルールを子どもたちが守れないこともあるでしょう。そんな時は、頭ごなしに叱るのではなく、子どもなりに大切にしようとしていたことをまずはきちんと聞いてあげたいものです。子どもには、子どもなりの理由があります。それを見過ごさないで、気づいてあげられたらと思います。絵本の最後が、またステキです。「たまには、ちゃんとした訳があって、きまりを守れないことだってあるんです」。

HeQi Art 聖書物語

Spies Return from Cannan by He Qi, www.heqiarts.com

偵察隊、カナンから戻る

あなたたちはそろってわたしのもとに来て、「まず人を派遣し、その土地を探らせ、我々がどの道を上り、どの町に行くべきか報告させましょう」と言った。それは名案だと思われたので、わたしは各部族から一人ずつ、合わせて十二人を選び出した。 彼らは出発し、山地に上り、エシュコルの谷に着きそこを偵察し、その土地の果実を取って持ち帰り、「我々の神、主が与えてくださる土地は良い土地です」と報告した。
申命記 1章22~25節

たろこまま「いのちを語る」

一粒の麦死なずば。(ヨハネによる福音書12章24節)
 本日冒頭の句はお若い方も(昔お若かった方も)一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。普段は聞き慣れない文語体が逆にしっくりくる、そんな一文ですね。
ここは北海道、この季節になると麦畑に限らず、様々な実りの絨毯をつぶさに見ることが出来ます。もし土地柄からピンとこない方は夏に咲き誇ったあのひまわりを想像してみてください。あの種子を一粒二粒地面に植えると、また翌年力強く生え、一面に広がり、たわわな実を実らせるのですが──老いるにつれ私はそれが不思議に感じています。
私たちは今年の春、縁あって入会した「重症心身障害児(者)を守る会」で、それをしみじみ思いました。そこは小太郎のような知的にも身体的にも最重度の障害がある子の親たちが様々な活動を広げる場なのですが──諸先輩の辿られた今までの道のりに、この一粒の麦のたとえ話がだぶってくるのです。今でこそ数多の福祉施設がありますが、私が生まれた頃なぞ小太郎が通える養護学校すら皆無だったのだそうです(義務教育の小学校入学拒否なぞ今では想像つきませんが)。それを現会長を始め、有志の親御さんたちが子育てしつつ活動を広げ、現在の全国区の会まで成長させ──そこに見え隠れする物静かな熱意の後ろ姿に思いを馳せるうち、この私も思わず涙してしまいました。
1年サイクルで「麦」が「死ぬ」ような急激な変容ではないですが、一生の間「我が子」だけでなく「他者」へも進んで自分の持つものを分かち合い続けることに、踏まれても踏まれても真っすぐ伸びる麦がダブるのです。次は彼らが実らせてくれた多くの実を絶やすことなく、地道に育んでいけるよう精進しようと思うばかりです──今私たちが歩める道があることに感謝しつつ。

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