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機関紙るうてる

るうてる2016年2月号

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説教「大きな淵を越える」

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」(ルカによる福音書16・19~31)

今から40年以上前のことだが、わたしは1冊の小説を読んでいた。ギリシャの作家・詩人であるニコス・カザンツァキスが書き、英語に翻訳されていた『キリストの最後の試練』(The Last Temptation of Christ)という小説である。かなり分厚いペーパーバックだったが、物語に引き込まれて 一 気に読んだ。きわどい描写がいくつもあって、カザンツァキスがギリシャ正教会を破門されたのも理解できるような気がしたのだが、その中に忘れられない 一 場面があって、その場面に押されるようにして神学校の願書を取り寄せた。 それは、イエスが「金持ちとラザロ」の話を弟子たちにしている場面であった。イエスは弟子たちの前でこの話をしているのだが、「アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう』」とこの話を締めくくった。それが締めくくりだと弟子たちは思ったし、そこで語られている警告も理解することができたと弟子たちは思っていた。 ところがイエスは、この話にはまだ続きがあるのだという雰囲気で、弟子たちを見回し、イエスの目がフィリポに注がれる。そしてイエスはこう言う。「フィリポ、フィリポ、お前がラザロだ。お前がラザロならさあどうする」。フィリポは動転し、どう言っていいのか分からずにドギマギするばかりだ。すると、イエスはさらに「どうしたフィリポ、どうしたんだ。お前がラザロだ。お前がラザロなら、さあどうする」とフィリポに迫る。 イエスに迫られたフィリポは蚊の鳴くような声で、「主よ、もしわたしがラザロなら、陰府にまで降りていって、指先を水に浸し、あの方の舌を冷やしてやりたいと思います」と語り、更に「わたしも食卓から落ちたあの方のパン屑をいただきましたから」と続ける。すると、それを聞いたイエスは満面の笑みを浮かべ、「よく言ったフィリポ。よく言った。お前は神の国から遠くない。アブラハムにはできないが、神におできにならないことはない」と答える。あの金持ちにも救いの道が開かれた。ラザロはイエスその人なのだ。 わたしはこの小説のこの場面にいい知れない衝撃を受けた。そして、これこそ「福音」だと思った。わたしはいつしか泣き出していた。「言は肉となり、わたしたちの間に宿った」(ヨハネ1・14)というヨハネの証しは、このことなのだと思った。イエスは、神の世界と人間の世界の間の「越えることのできない大きな淵」を越えて来てくださったのだ。ラザロはイエスだ。 アブラハムの言葉は「最後通牒」のように響く。物語そのものもそこで終わっている。しかし、他のたとえ話と違ってこのたとえ話は異例だ。神が王とか主人の姿で現れて語る他のたとえ話と違って、最初から最後まで、語るのはアブラハムという 一 人物である。登場人物がこのように具体的に特定されるたとえ話は、多分、これだけだ。つまり、この物語には神が出てきていないのだ。何らかの意味でアブラハムが神の代理のような役をしていて、それこそ「最後通牒」のように響くアブラハムの言葉も、言ってみれば「最後から 一 歩手前の神の言葉」(スイスの神学者カール・バルト)なのだ。「最後から 一 歩手前の神の言葉」、それは「律法」だ。このたとえ話は、「神の最後の言葉」(福音)が語られる余地を残した話なのだ。わたしはそう思った。福音の神髄に少しだけ触れた気がした。 それから40数年、いつの間にか定年退職の時期になった。病弱だったから長生きでないと思い込んでいたが、いつの間にか主イエスの没年(30代前半)を越え、ボンフッファーの没年(39歳)を越え、愛するトマス・アクィナスの没年(49歳)を越え、ルターの没年(62歳)さえ越えた。この間、わたしなりに「福音とは何かの説明」を語る機会を与えてくださった日本福音ルーテル教会には、いい知れない感謝の思いを持っている。感謝!
ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校 鈴木 浩 牧師

宗教改革五〇〇年に向けてルターの意義を改めて考える(46)

ルター研究所所長 鈴木 浩

人間の考える「義」(正義)と「神の義」との違いは、「ぶどう園の労働者のたとえ」(マタイ20・1以下)に示されている、とアウグスティヌスはペラギウス主義者との論争で語った。
ぶどう園で働く労働者を雇うために、主人は「夜明け前」に出かけ、次には「9時ごろ」、次いで「12時ごろ」、最後に「5時ごろ」に出かけて労働者を雇う。夜明け前から働いた人と、仕事が終わり近くになる5時ごろから働いた人では、労働時間の大きな差がある。ところが、賃金を支払う時になると、全員が1デナリオンの賃金で、それも最も少ししか働かなかった人から支払いが行われる。夜明け前から働いた人は、主人に抗議するが、聞き入れられない。
人間の正義からすれば、これは明らかに不正で、「同一労働同一賃金」を定める日本の労働基準法では、明らかに「不当労働行為」に該当する。
ところが、これが「神の正義」だとアウグスティヌスは指摘する。神の正義を人間の判断基準で判断してはならない、というのである。これがルターの「神の前で」という判断基準と「人々の前で」という判断基準の峻別に繋がっている。

議長室から

「十字架の声」総会議長 立山忠浩

いい時節になりました。しかし日増しに日照時間が延び、太陽の光も少しずつですが力強くなって来ました。「春遠からじ」と感じ始める月です。
春の到来は教会にとっては、イースターを迎えることを意味しています。今年は3月末になりますので、この時期はイースターを迎えるための備えの時と言えるでしょう。教会の暦で言えば四旬節、主の十字架を覚える時をこれからしばらく過ごすことになります。
四旬節に40日を設けることにはもちろん意味があります。モーセらの荒野の40年、主イエスが悪魔から誘惑を受けられた40日などにちなんでいますが、40という「長い期間」にも意味があるのです。
何ごとにも長い時間を要することがあります。自然界の実りを得るには春から秋までの長い月日を待たなければなりませんし、人の成長もそうです。信仰の実りとなればなおさらです。実りあるイースターを迎えるためには、40日という長い期間が必要なのです。
主イエスの十字架に想いを傾けること、これがこの期間に、何にも増して大切なことです。聖書に記された主の十字架の出来事を改めて読み直し、そして十字架をしっかりと見つめるのです。いつでも礼拝堂で祈り、黙想できることは牧師にとって恵まれたことのひとつですが、説教準備に行き詰まり、礼拝堂に静かに座り込むことがあります。神様に助けを求めながら十字架をじっと見つめていると、自ずと道が開かれるという体験を繰り返しているのはきっと私だけでないでしょう。痛みに耐える主の声や慈しみに満ちた赦しと励ましの声が聞こえて来るような気がするのです。
それだけではありません。人々の悲しみ、病気や将来への不安、人間関係や様々な課題に直面している苦悩の声。差別、暴力、不義などこの世の矛盾の中で辛酸をなめている方々の声があり、その悲しみを共に苦しんでいる主の呻きの声がある。まさに重層的な叫びが十字架から響いて来るように思えるのです。
それらの幾多の声を聞いたとしても、私たちに出来ることは限られている。でも、出来ることの一歩を踏み出すことはとても大切で、それも十字架の声を聞くことから始まるのです。
実り多い四旬節の日々をお祈りいたします。

早蕨幼稚園新園舎完成報告

関 満能(水俣教会)

「岩走る 垂水の上の早蕨の 萌出ずる春になりにけるかも」(万葉集巻8より)。この一首は、早蕨幼稚園の名前の由来と言われているものです。岩の上を激しく流れる滝のほとりで蕨が芽を出す春を詠んだものです。
早蕨幼稚園の新園舎は、2015年12月7日に完成しました。それは、前の園舎が使用できなくなったからではなく、再出発に備えてのことでした。
早蕨幼稚園は、来年度から幼保連携型認定こども園の認可を受けて、「さわらびこども園」として新たな出発をする予定です。創立86年という歴史の流れを経て、「早蕨」という名に相応しく新しい歩みを始めます。

さて、新園舎で初めて行われたことは、12月5日のクリスマス会でした。クリスマスから新園舎での歩みが始まったことは、何か意味があるような気がします。クリスマスは、神様がキリストにおいて私たちと一緒に歩んでくださる出来事の始まりと言えます。新園舎での保育がクリスマスから始まったことは、これからの「さわらび」の歩みにも神様が共にいてくださることを約束しているように思えました。

こどもたちは、新しい園舎と新しい遊具で遊び、楽しい日々を過ごしています。こどもたちを保育するに相応しい器が神様から与えられました。そして、この器がこどもたちを愛し、育んでくださる神様の恵みで満たされることを祈るものです。幼稚園のこどもたちが大人になる頃には世界や日本がどのような状況になっているのか不安を覚えますが、神様が共におられることを伝え、こどもたちと共に歩んでいきたいと思います。
これまでの歩みが守られたことを神様に感謝し、お祈りに覚えてくださったことを感謝申し上げ、報告とさせていただきます。

献堂の時を迎えて

鈴木英夫(挙母教会)

日本福音ルーテル挙母教会は会堂・牧師館の建築を終え、12月12日に献堂式を挙行した。説教を立山忠浩総会議長、聖別を三浦知夫建築委員長が担当してくださった。
建築報告会では地元自治会・商店街組合・幼稚園保護者会の方からご祝辞をいただいた。認定こども園挙母ルーテル幼稚園園舎及び園庭の建築も含め、6年に及ぶ事業を締めくくることができた。
何度か試練が訪れた。認定こども園化に伴う牧師館移築、工事費高騰による予算不足と仕様変更、鉄骨手配の難航など、予期しない出来事が起こった。しかし、すべてを神様に委ねることで支えられ、導かれ、計画した工期で献堂することができた。設計士の柘植健志さん、施工の宮川建設株式会社に感謝している。
早速、新会堂で初のクリスマスを迎えた。降誕祭でピアノ聖別式、祝会で奉献演奏が行われた。降誕祭前夜に特別集会「献堂記念コンサート&クリスマスイヴ礼拝」を開催した。
幼稚園卒園生によるヴァイオリンとピアノの演奏で新会堂での初コンサートとなった。会堂が良い演奏空間であることが確認された。百数十名の方々と共に、献堂の喜びとイエス様御降誕の恵みを覚えることができた。
今後は宣教70周年に向けて、「挙母教会宣教5ヵ年計画2015」を着実に実施してゆく必要がある。3階から1階に移された会堂をいかに有機的に用いて行くか、幼稚園との「ハイブリッド(複合的)」な関係をどう強めてゆくかが最大のテーマである。何より近隣との関わりが大切となろう。引き続き「福音の種蒔き」は続く。教会と幼稚園が共に宣教の道を歩みたい。
「種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる。」 (詩編126・6)

挙母教会 FAX番号並びにメールアドレス変更
FAX番号0565(41)3750
メールアドレスjelc-kor@kch.biglobe.ne.jp

礼拝式文の改定

21 式文の規範性について

式文委員 石居基夫

昨年は、1年を通じてそれぞれの教区、教会で私たちルーテル教会の礼拝について学び、考える時が与えられました。礼拝式文の改定準備が進む中、あらためて礼拝、そして式文を用いるということについて、理解を深めていただけたのではないかと思います。
日本福音ルーテル教会では、礼拝に式文を用いていますが、式文という形式に縛られた堅苦しさや不自由さ、あるいは、信仰の形骸化を思われることもあるのかもしれません。
しかし、それ以上に、式文を用いることによって、私たちはキリスト教会の二千年に及ぶ長い信仰の伝統に連なる恵みをいただいているのです。聖書のことばや教会の中で大切にされてきた賛美や祈りのことばが式文に取り入れられているので、私たちはそれを唱えることで、自然にその伝統に包まれ、信仰も育まれていくのです。(ルーテルらしさは、式文によってこそ培われる!)
もちろん、式文は、信仰伝統の継承だけが目的ではありません。現代の日本、そして、それぞれの地域で信仰を生きる私たちの中に、そしてこれから教会に招かれる人々のために、神様が礼拝において働いてくださるわけです。

ですから、ルターは、聖書だけではなく礼拝そのものにおいて、そこに集められる人々の生きたことばによって福音が味わわれるようでなければならないと、当時ラテン語でしか行われていなかった礼拝をドイツ語であずかれるように準備しました。そしてまた、自らが作った礼拝式が唯一絶対の形なのではなく、それぞれの地域で教会がより福音的な礼拝にあずかれるようにと、定まった一つの礼拝形式を強制することはなかったのです。
ですから、式文は全国のどこにおいても全く同じ画一化した礼拝を行なうように強制するためのものではありません。礼拝は、神のみ業が会衆の中で具体的に働いていくために、それぞれの時と所、礼拝の大きさ、そこに集まる人々の特徴、また礼拝そのものの持つテーマや性格によって工夫されてよいのです。
歌われるキリエやグロリアなどは賛美歌の中から別のものが用いられてもいいし、歌わずに唱えられることもあり得ます。礼拝の基本的な考え方をもとにして、アレンジを加えることもできるのです。
もちろん、全国いずれの教会においても一つの日本福音ルーテル教会として、信仰の一致をあらわす礼拝式を実現するという意味で、全体で礼拝式文について学び、考え、採択し、それによって私たちの礼拝がそれぞれに整えられることは大切なことです。
ですから、式文の主要なことばついて、独自にに変更を加えることは、教会の一致を見失わせる危険性があるので、神学的な理解と牧会的な配慮をもった手続きが必要になるでしょう。

いずれにしても、自分たちの教会の礼拝を福音宣教に仕えるよう整える責任に共にあずかり、礼拝を豊かに味わえるように学びつつ、取り組んでいただければと思うのです。

ルター、バッハ、宗教改革500年

徳善義和

4 主は真の人で、神

ルカ18章31~43節

この福音書箇所は古くからの聖日日課として顕現節と四旬節の間の受難前節、2月頃の主日に読まれた(現在の教会暦では、C年の今年は四旬節第2主日の日課である)。その福音書日課のルターの説教(私訳近刊の予定)も残っているし、バッハのカンタータもいくつかある。
この日課はイエスによる死と復活の3度目の予告の段落と、目の不自由な人のいやしの段落からなっていて、説教者をしばしば困惑させる。どちらか一つの段落だけを選んで説教する場合も少なくあるまい。しかし古くから用いられてきた日課の指し示すところは、二つの段落をはっきり見通して、そこに貫かれている福音のメッセージである。
ルターの説教の一つにはその線がはっきり示されている。イエスの3度にわたる受難予告にもかかわらず、12人の弟子たちにはその意味が隠されていて、なにも分からないのである。しかし道端の目の不自由な人には、前を通り過ぎるイエスがどのような方かがなにほどか分かった。
イエスご自身はそれを見て、彼を癒されるのであり、彼もイエスに従う。イエスに癒された人がそのままイエスに従うのはこの場合だけである。この明らかなコントラストが福音として明白に語られねばなるまい。
この日課の主日のためにバッハが作曲したカンタータ127「主イエス・キリストは真の人で神」を私はよく聴く。一方ではイエスの受難予告に対する弟子たちの12通りの疑いやためらいが低音部で密やかに演奏される。 他方ではイエスのいやしを信じ、それを得た目の不自由な人の喜びが音楽的に表現される。こうして「真の人」でありながらまた「真の神」であるキリストが指し示されるのである。
C年に登場するこの日課、説教者もその聴き手である会衆も、この2段落の福音から「真の人であって、真の神」であるキリストへの注目を迫られるのである

「まつもと子ども留学」の働き

プロジェクト3・11企画委員 谷口和恵

松本市郊外に里山に囲まれた四賀地区があります。そこに福島から自主避難してきた中学生の女子6人が常駐スタッフと共に生活している寮があります。多感な年頃の子どもたちが親元を離れ、放射線障害の心配の少ない安全な場所で学校生活を過ごすという選択をしました。
東日本大震災と原子力発電所事故の発生から5年近い歳月を経た現在も、福島では育ち盛りの子どもたちが制約の多い暮らしを余儀なくされ、精神的にも苦しい思いをしているのが現状です。
この「まつもと子ども留学」の運営をしているのは、同じく福島から自主避難をしてきた方々です。2013年4月より1年間の準備期間を経て、翌年4月よりスタートさせました。私は運営スタッフと知り合ったことをきっかけに、スタート直前より時折キッチンボランティアとしてお邪魔するようになりました。
スタッフはご自分たちも震災で生活が激変し大変な中、「当事者が行動しないと、何も変わっていかない。この何年か本当に悔しい思いをしてきた。その悔しさが原動力になってはいるけれど、1人でも多くの子どもたちの安全な生活をサポートしたい。この地で沢山の人たちと出会えたことは嬉しい事。皆さんの協力のもとで、形になっていくものがある。」と話してくれました。
プロジェクト3・11の支援先の一つにこの「まつもと子ども留学」があります。子どもたちが新しい土地に馴染み、元気一杯楽しく生活ができるよう祈りたいと思います。
震災からもうすぐ丸5年が経ちます。強制退去でいまだに故郷に帰れない人、故郷を離れ他所の土地で暮らす選択をした人、放射線障害の心配の中で暮らす人、胸中を察するとかける言葉が見つかりません。私達にできる事は何なのでしょうか?寄り添い続ける思いを伝えることから始めたいと思います。
●「まつもと子ども留学」のサイトhttp://www.kodomoryugaku-matsumoto.net/
※プロジェクト3・11では、東日本大震災のためにご苦労されている方々に心を寄せていくための支援を募っています。詳細は東教区(担当・小泉社会部長)へ。

ネービー宣教師 91歳で召天 ひたすら伝道、一途に神学教育

江藤直純(ルーテル学院大学)

懐かしい、そしてお世話になった先生がまた1人地上の生を走り終えて、天に凱旋された。昨年5月28日だったと伺った。91歳の伝道一筋の方だった。
戦後間もない1948年、25歳の若さで来日。翌年、日本語の研修の後に遣わされたのは九州、久留米地方。その働きは目覚ましい。久留米教会を拠点に北は鳥栖、二日市、甘木、南は柳川、大牟田、東には田主丸、吉井、千足。機動力を駆って10年間開拓伝道に邁進。松崎保育園も設立。人呼んで「ネービー・キングダム」。
その後、ニューヨークのユニオン神学校で旧約聖書の博士号を取得、鷺宮と三鷹で牧師養成に当たられた。1年次の旧約緒論で絞られたのが懐かしく思い出される。学問的な厳密さと宣教への意欲が一つとなった授業だったと思う。

子どもさんたちを育て上げたら、北海道・帯広の開拓伝道に赴任。どこまでも伝道者魂に生きた方だった。邦人牧師にあとを託すと、乞われて再び三鷹のルーテル学院大学・神学校で旧約を講じた。1986年まで奉仕された。

現在もそのチャペルにある、見る人を圧倒する「派遣」と題する巨大なレリーフは、ネービー先生が日本を去るときに、友人で札幌にいた宣教師・彫刻家ルドルフ・カイテンに制作を依頼し、寄付していかれたものだ。先生の生涯をかけた福音宣教(伝道も奉仕も)の熱情とヴィジョンが、静かに伝わって来る。

先生はご自宅でウサギやニワトリ、山羊を飼われ、神学生たちにも質素、無駄のない食生活を身をもって勧められた。引退後も「世界にパンを」という運動に協力しておられたと聞く。ご伴侶のムリエルさんもメソジストの宣教師だった方。おしどり宣教師だった。感謝の一言しかない。

「ルーテルアワー」のサイト さあなの部屋より
「お帰り」

伊藤早奈

「彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(ルカ15・20~21)

天の神様。季節は少しずつ春に向かって変わって来ています。「砂も地球のかけら」と言葉が心に響きます。 私たちは日常の様々なことに悩んだり、悲しんだり、喜んだりします。その 一 つ 一 つは、命が与えられている今があるからこそ与えられる感情です。春を迎えようとしている木々の命溢れる姿や砂の 一 粒 一 粒のような小さな存在にさえも命を与えてくださる神様に心を向けて 一 瞬 一 瞬を歩んでいけますように。この祈りを主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン
─・─・─・─
「お帰り」と言われる時、あなたはどんな気持ちになるでしょうか? ホッと安心したり、私なんかを待っていてくれたんだ「ありがとう」と思ったり、当たり前のことに思えたり。
「お帰り」と言われる場所は、あなたを待ってくれている存在のあるところです。そして、私たちは待ってくれていると信じるから、帰ることができます。家にお母さんが待っているから。家には子どもが待っているからというように。そして、待っているほうも帰って来ることを信じています。
神様も同じです。あなたを待っておられます。
何かをしでかしたから、その罪を償ってからじゃないと帰って来るななどと、神様は条件をつけません。
どういう生き方をしていても、どのような状態にあっても、あなたが神様を思い起こしたのなら、それは神様があなたを信じて待っていてくださることなのだと思います。あなたのことは神様がもっともよくご存知なのです。自分で自分自身さえも信じられない、辛く悲しいどうしようもない時でさえ、神様はあなたを信じておられます。
私たちに何ができるでしょうか。何もできなくていいのです。神様があなたを通して証しされます。あなたは神様から信じられています。あなたは何度でも神様の元へ帰ることが許されています。神様はいつでも「お帰り」と言ってあなたを抱きしめてくださいます。

2015年度「連帯献金」報告

2015年度の「連帯献金」は各個教会・団体及び教会員・教会関係者の方々から、8,340,215円の献金を、それぞれの宣教・奉仕の活動のために捧げていただきました、感謝して報告いたします。(敬称また複数回のご献金については、省略させていただきます。)

■ブラジル伝道 821,497円

大岡山教会、帯広教会十勝豆会計、京都教会、熊本地区宣教会議、小石川教会バザー委員会、小石川教会婦人会、神戸東教会、小山茂、塩原久、下関教会、女性会連盟、高橋、都南教会教会学校、なごや希望教会今池礼拝所、博多教会バザー委員会、東教区女性会、東教区総会、古川文江、保谷教会、保谷教会女性会、恵み野教会、めばえ幼稚園、ルーテル学院中学・高校

■喜望の家 2,843,835円

市ヶ谷教会、唐津教会、関口佳子、高橋、田園調布幼稚園、博多教会バザー委員会、函館教会、ブラウンシュヴァイク領邦教会

■メコンミッション支援(カンボジア)21,000円

高橋、博多教会バザー委員会、日吉教会

■ネパール地震被災者救援 3,604,106円

阿久根教会、厚狭教会、板橋教会、市川教会、市ヶ谷教会、牛丸禮子、宇部教会、大分教会、大江教会、大牟田教会、大森教会、岡崎教会、小城ルーテルこども園、小鹿教会、岡山教会、小田原教会、帯広教会、蒲田教会、蒲田幼稚園、唐津教会、刈谷教会、岐阜教会、京都教会、久留米教会、神水教会、恵泉幼稚園、健軍教会、健軍教会女性会、健軍教会壮年会、甲府教会、小倉教会、小山茂、挙母教会、神戸教会、神戸東教会、札幌教会、シオン教会防府礼拝所、シオン教会柳井礼拝所、清水教会、下関教会、修学院教会、女性会連盟特別献金 、女性会連盟総大会、新霊山教会、諏訪教会、聖パウロ教会、聖ペテロ教会、高橋、滝本保子、知多教会、千葉教会、津田沼教会、田園調布教会・幼稚園、東京池袋教会、東京教会、都南教会、都南教会学校、豊中教会、なごや希望教会、名古屋めぐみ教会、西中国宣教協議会、西日本福音ルーテル大田教会、西宮教会、日本福音ルーテル社団、仁摩福音ルーテル教会、直方教会、博多教会、箱崎教会、箱崎教会学校、函館教会、八王子教会、浜名教会、浜松教会、原尤子、東教区、一粒の麦、平島信子、広島教会、日吉教会、福岡西教会、藤が丘教会、藤田光江、二日市教会、復活教会、別府教会、保谷教会、本郷教会、松本教会、松本大策、三鷹教会、水俣教会、三原教会、宮崎教会、むさしの教会、室園教会、恵み野教会、八代教会、大和友子、大和洋一、湯河原教会、匿名

■世界宣教(無指定) 1,049,777円

青山善彦、大岡山教会、大垣教会、帯広教会、小石川教会婦人会、挙母幼稚園、高橋、東京池袋教会、日本福音ルーテル社団、博多教会バザー委員会、箱崎教会、箱崎教会ゴスペルグループチャリティコンサート、箱崎教会らぶぴ愛と平和のコンサート、一粒の麦、桝田智子、水上利正、めばえ幼稚園、ルーテル学院中学・高校、匿名
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今年度も、社会・世界における福音の宣教、奉仕、災害・飢餓に苦しむ方々に連帯したいと願い祈ります。「連帯献金」を捧げてくださる場合には、それぞれの献金目的[ブラジル伝道][喜望の家][メコンミッション][世界宣教]を郵便振替用紙に明記して、以下の口座に送金くださるようにお願いします。
郵便振替 00190-7-71734 名義(宗)日本福音ルーテル教会

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