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機関紙るうてる

るうてる 2018年1月号

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説教「良い地に播かれた種」

日本福音ルーテル東京池袋教会 牧師 青田 勇

「イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。『種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった』」。             (マタイによる福音書 13・3 ~4)

主イエスは聖書の中で、神の真理を伝えるために、多くの譬え話を語っています。身近な風景あるいは物語によって、一つの神の真理を伝えるのが譬え話です。ですから、大事な中心の真理をきちんと受け止めなければなりません。
この「種まきの話」の中心的メッセージは何かと言いますと、それは神の国は決して人間の力によるものではなく、神の計り知れない御業により、成長するということです。
主イエスの言われる『成長』はこの世的な単なる量的拡大ではありません。成長は隠されていたものが明らかに開かれ、現れ、発展していくということです。明らかにされていなかった固有のあり方が神の御業により開かれ、発展していくこと、これが神による成長です。その意味でも、この神の御業と成長は私たちの思いを超えています。ですから、大切なのは、私たちが神のみ業をひたすら素直に受け入れ、心を開くことです。
この譬えにあるように種はいろいろな所に播かれます。この当時の、バレスチナの種まきの方法は二通りあったと言われています。一つは、種を播く人が畑を行ったりきたりしながら種を撒き散らすやり方です。この場合には、風が吹いていると種は風に乗って四方に運ばれていき、あるものは畑の外に落ちてしまいます。第二の方法は種を入れた袋の角に穴をあけて、それをロバの背に乗せ、袋の種が無くなるまで、畑の中をロバが歩く方法です。こちらの方が一般的な種まきの方法として用いられていたと言われています。
パレスチナの畑は細長くなっていて、その畑の中を誰もが通れるようになっていました。この聖書の箇所で、「ある種は道端に落ち」とは、人が通る道端は踏み固められ、種が根付きにくくなっていたのです。
このように種は良い地だけには播かれることは限りません。むしろ、それ以外の所にも播かれるのです。道端や石灰岩が土の下にあるような土地にも、さらに畑の脇の茨の中にも種は風に乗って広域的に播かれます。良い土地に播かれて多くの実を結ぶ種だけをこの譬えは語っているのではありません。むしろ、実を結ばないところに播かれた種についても語っています。

実を結ぶ種だけでなく、実を結ぶことなく消滅した種も、神のはたらきそのものです。何の成果も上がらない、「休眠状態」と思えるような所にも、神は働いています。たとえ、人間的判断で小さな成果しか挙げられないと思えるような所でも、私たちの思いを越えたものが生まれるのです。とても神の働きがないと思えるような所であったとしても、そこにふさわしい神の実りが備えられていることをこの譬えは語っています。
神の業は、その働きを真から求めるところで開かれ、生成していくのです。譬えが語る、神の実りがある「良い地」とはこの世的に、物質的に、自然的に何もかも整っている場ということではありません。そうではなく、神を心から求める思いと信仰があるところ、それが「良い地」となるのです。
ローマの信徒への手紙8章22~23節でパウロはこう言います。
「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」
ここでパウロが「体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」と言うように、神を信仰的に自覚的に受け入れる前に、無意識の中にしても、私たちが呻きながらも神を求める思いが信仰の前にあることが大事です。神を求める思いがないところには神のみ業は根付かないとも言えます。
キリストの教えを受け入れるには、それなりの信仰を求める心がそこになければなりません。そうでなければ、キリストへの信仰も育っていかないのです。ただ、聖書を教えれば信仰が根付くというものではありません。「教える」ことと、「育てる」ことは別です。意識的にせよ、無意識であれ、心動かされた神への問いがあることにより、信仰は私たちの内において、み言葉と共に育つのです。

連載コラム enchu

(22)【 perspective 】

「否定と肯定」という映画が12月8日に公開されました。これは、歴史学者のデボラ・リップシュタットが、ホロコースト否定論者のデイヴィッド・アーヴィングに名誉毀損で訴えられた裁判を描いたものです。ホロコーストとは第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺を指します。
さて、この映画の中でホロコースト否定論者の作戦は次のようなものです。「(大衆に)二つの見方があると思わせること。そうしたら皆がこう考えるようになる。そうか、ガス室の肯定派と否定派がいるんだ、と」。 ホロコースト否定論者は、「ホロコーストには肯定派と否定派がいる」と考える「中間(に立つ者)」を作ろうとします。なぜでしょう。それはたぶん、「中間(に立つ者)」は自分たちに異議を唱えたりしないからです。 彼らは言います。「まぁ、右も左も両方の意見があるよね」と。また別の「中間(に立つ者)」は言います。「面倒なことにはまきこまれたくないよね」と。それに加えて、いつのまにか彼らは、自分はどちらの側にも片寄っていない(右と左の真ん中に立っている)、と「いい気持ち」になってしまったりするのが厄介なことです。ホロコースト否定論者が、事実ではなくエモーショナルな言葉で「いい気持ち」になる者を求めていることを知らずに…。
新年のコラムに心楽しくない内容ですみません。だけど、み子イエスは、右でも左でもそして中間でもなく、低きに立たれた方(「(主は)低く下って天と地をご覧になる」詩編113・6)であることを心に留め、新しい年を歩んでいきたい、と思うのです。
岩切雄太(門司教会、 八幡教会、 佐賀教会、 小城教会牧師)

議長室から

「キリストに新しくされて」

総会議長 立山忠浩

 

新年を迎えました。「新しい」という言葉に目が向かう時です。
新約聖書の中にも「新しい」という言葉がしばしば出て来ますが、二つの言葉が用いられているようです。一つは時間や月日の流れのような意味の言葉です。「新しい年」という場合です。もう一つは、質的な変化を表すような言葉です。年月を重ねるとは古さを積み重ねることですが、しかし新しく変わって、新たな歩みを始めることができるはずです。厳密ではありませんが、聖書で重要なのは後者の方です。
以前、作家の大江健三郎さんが、テレビ番組に出演しているのを見たことがありました。彼がテレビに生出演することは極めて珍しいことと聞きましたが、万年筆を取り出して色紙に「新しい人」と書いたのです。インタビュアーが「どういう意味ですか」と尋ねると、「これは聖書にある言葉で、そこからヒントを得ました」と答えたことに驚きました。
すぐに聖書をめくり、エフェソ、そしてコロサイの信徒への手紙にある言葉であることを確認しましたが、既述のように「新しい」という言葉はもっとたくさん聖書には記されていることも確認しました。大江さんは、「平和を作り出すためには、これまでの考え方を止め、新しい人として始めなければならないのではないか」と説明したのです。理想論にも聞こえなくはありませんでしたが、しかしやはり正しいことだと思いました。
その「新しい」という聖書の言葉をさらに調べてみました。使徒パウロが「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく創造された者である」(2コリント5・17口語訳)と言っていることに目が留まりました。自分で新しくなるのではないのです。新しい人へと、キリストによって創造されるのです。これはキリスト者にとって外してはいけない言葉です。
ある人がこの「キリストにあるならば」というのは、「キリストにあるのだから」と訳すべきだと言いました。キリスト者は、いつも、どんな時も「キリストの恵みとお守りの中にあるのだから」と、このことを忘れてはいけないのです。それゆえに、キリストによって日々新しくされて行くことを信じるのです。その後に、キリストが教えてくださった平和のために、自分にできることを精一杯行えば良いのです。
最後になりましたが、皆さまの新しい歩みが神様に祝福され、幸いなる年となりますようお祈りいたします。

EIWAN Fukushimaについて

プロジェクト3・11 企画委員 李 明生

 

東教区プロジェクト3・11では、東日本大震災で被災した外国籍住民への支援を行っているEIWAN Fukushima(福島移住女性支援ネットワーク)への募金も行っています。
東日本大震災で被災した移住女性達の多くは、その後も充分な情報や支援を得ることが困難な状況に置かれ、精神的にも現実的にも孤立を余儀なくされるケースは少なくありません。そのような中、2012年2月からエキュメニカルなキリスト教諸教派・諸団体からの支援によって、移住女性と日本人が出会い、共に生き共に生かし合う社会を一緒に作っていくことを目指して、福島県在住のフィリピン移住女性、中国移住女性たちと恊働して様々なプログラムが行われてきました。
福島市と白河市での日本語サロンの継続開催の他、移動日本語サロン、シングルマザーのパーソナルサポート、移住女性の子どもたちの就学支援、継承語教室支援、地域サポーター研修、移住女性グループへの支援などが行われています。
今年7月には白河市で、福島県国際交流協会との共催で日本語ボランティアスキルアップ講座が開催され、9月には福島市国際交流協会主催の国際交流イベント「結・ゆい・フェスタ2017」に日本語サロンの参加者のひとことメッセージのブース展示と「日本語サポーター入門講座」も行われました。
震災から既に6年が経国人は日常的に日本人と接していながらも、日本人の友人を得ていない状況にあると言えます。
この日本社会全体の中で、友無き人の友となり、泣く人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜ぶことが、今まさにわたしたちに求められているのではないでしょうか。

EIWANの活動の詳細は、http://gaikikyo.jp/shinsai/eiwan/
ならびにhttps://www.facebook.com/eiwanfukushima/ をご覧ください。

カトリック教会は、日本のカトリック教会の皆さんに宗教改革500年共同記念の意義を知らせるため、リーフレット『カトリックと宗教改革500年』(発行・カトリック中央協議会、制作・宗教改革500年記念行事準備委員会)を作成しました。編集責任を負われた光延一郎神父(イエズス会・上智大学教授)よりご提供いただき、紹介します。

カトリックと宗教改革500年③

教会一致運動(エキュメニズム)の進展

17~20世紀初めまでは、ローマ・カトリックとプロテスタント諸教会は、自教派の正当性を主張し合い、互いを無視するような時代が続きました。
キリスト教が超教派で対話と和解、一致を目指す「教会一致運動」は、プロテスタント諸派が1910年に開催したエジンバラ世界宣教会議から始まったといえます。プロテスタントと正教会が加わる世界教会協議会(WCC)は、この会議の精神を受け継いで、長年、教会一致運動に取り組んでいます。
ローマ・カトリックもこれに呼応し、第二バチカン公会議(1962年~1965年)で『エキュメニズムに関する教令』を布告しました。パウロ6世教皇は、1965年にコンスタンティノープル総主教アシナゴラスとともに、1054年以来続いていた東西教会相互の破門宣告を取り消しました。
ルーテル世界連盟とローマ・カトリック教会の間では、1967年よりさまざまな対話が重ねられてきました。1980年の『アウグスブルク信仰告白』450周年と1983年のマルティン・ルター生誕500周年記念の際には、ローマ・カトリック教会とルーテル教会は、ルターの中心的関心事を共に容認・支持しました。そしてそれらの対話の実りとして、1999年には、教理論争の中心にあった義認問題の理解にはもはや齟齬はないとする歴史的な『義認の教理に関する共同宣言』(邦訳2004年)が調印されました。

日本福音日本福音ルーテル教会・日本カトリック司教協議会

宗教改革500年共同記念「平和を実現する人は幸い」

マルティン・ルターの投げかけに端を発し、世界のキリスト教会に分裂を引き起こすことになった宗教改革の始まりから500年。「すべての人を一つにしてください」とのイエスの祈りを歩もうと、第二バチカン公会議を契機として始められた対話の積み重ねにより、日本福音ルーテル教会と日本カトリック司教協議会が共同で宗教改革を記念することへ導かれました。
会場として備えられたのは、長崎県のカトリック浦上教会。キリシタンへの苛烈な迫害、そして原子力爆弾による被爆に代表される様々な悲しみと苦しみを負い、そこから平和の祈りを紡いできた祈りの地。この地において、11月23日、両教会が過去の分裂と対立を乗り越え、交わりと共生の一歩を踏み出す祈りをささげました。
ローマ・カトリック教会とルーテル教会の関係者を中心に、長崎のキリスト教と諸宗教の代表者、国内の関係キリスト教団体の代表・教派の代表、平和カンナ・プロジェクトの代表、宗教改革の始まりの地であるドイツから大統領の意向によるティース・グンドラッハ牧師(ドイツ福音主義教会)やフランク・ロンゲ博士(ドイツ・カトリック司教協議会)、駐日ローマ教皇大使ジョセフ・チェノットゥ大司教などの来賓、1300名の会衆が、浦上教会の聖堂を埋め尽くしました。
2部構成となった今回の共同記念は、記念シンポジウム「平和を実現する人は幸い」から始まりました。共同記念に至る宗教改革から500年の歴史が短い動画で紹介され3人のシンポジストにより、講演がなされました。

はじめに長崎の地から、橋本勲神父(カトリック中町教会主任司祭)により、「長崎からの声―苦難の歴史を踏まえて―」との講演が行われました。先日行われた教会のバザーで「免罪符」を販売すれば収益に貢献できたかもしれないとの冗談で会場をわかせた後、キリシタン迫害を「崩れ」と表現する流れに被爆、そして第二バチカン公会議をも位置づけ、十字架のキリストの復活への道筋にあることを提示し、そこにある神による平和づくりに共に参与する意義を語りました。
続いて、石居基夫牧師(ルーテル/ローマ・カトリック共同委員会委員)より、「『罪について』~それにも拘わらずをいただく福音」と題して、平和を祈る私達自身の罪に注目する重要性が示されました。ルターも罪人である自己を見つめ、歴史的限界を抱えつつ神の救いの約束を確信したことが紹介されました。そして戦争における被害者性と加害者性、また原子力の負の遺産と言うべき被造世界の破壊など形をとって存在する罪の現実と、それにも拘らずキリスト者として愛する者とされると語りました。
最後に、光延一郎神父(イエズス会司祭、ルーテル/ローマ・カトリック共同委員会委員)により、「エキュメニズム、わたしたちの祈り求める平和と共生の未来」との講演がなされました。昨今、「○◯ファースト」という言い方がされるが、一部の狭いところに閉じこもるのではなく、考えや行動を全体に対して開いていく責任が両教会にあると指摘し、そのために福音に立ち戻る時として、この宗教改革500年という時を意識したいと語りました。また「人の住む全世界」という意味の言葉に由来するエキュメニズムが示すことを、世界に回復していく責任と可能性が私たちにあることを示しました。
司会を務めた小泉基牧師(九州教区長)は、500年前に分裂を作り出した私たちは教会のみならず、様々な破れを抱える世界の全体性の回復のための役割を担うものとして遣わされていることを学んだと感想を述べました。そして本日の開催に至る神学的対話の成果と共に、破れや痛みを抱える現場において共同の働きが続けられていることに触れ、現場で共に働くことにより、世界の回復が導かれるのであり、そのことへと私たちも遣わされていると結びました。
浦上教会のご厚意により参加者全員に対して提供された昼食を頂いた後、「すべての人を一つにしてください」とのテーマによる共同記念礼拝が行われました。前田万葉大司教(日本カトリック司教協議会副会長)と大柴譲治牧師(エキュメニズム委員会委員長)をはじめ、両教会の牧師、司教、司祭の100人以上が司式の任を負いました。
ヨハネによる福音書17章と15章におけるイエスの言葉が朗読され、説教を?見三明大司教(日本カトリック司教協議会会長)と立山忠浩牧師(総会議長)が行いました。?見大司教はエキュメニズムの歴史的意義をその経過と共に後述の「共同声明」に触れて述べました。禁教と迫害そして被爆の地である浦上において、両教会が分裂と争いから一致と交わりへと転換しようと努力する姿を発信することで、教会に限らず世界の平和と和解に寄与する道を歩むようにひとつの体とされている私たちは招かれていると告げました。
立山牧師は、「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」との詩篇133編の言葉を掲げ、大きな喜びがあることを噛み締めた後、歴史的にはルターはカトリック教会への反抗者であり、宗教改革は分裂を生じさせた忌まわしいことであったことに触れました。その後の教会が「すべての人を一つにしてください」との主イエスの祈りを口にしながら、教会内での争いと分裂とに鈍感となっていた事実を認め、それを悲しみ悔いることへと導かれ、今や共に集う希望へと至ったことを感謝し、ルターの「この世を動かす力は希望である」とあるように、共同記念礼拝にはこの世を動かす希望があると述べました。また、今回の日本における共同記念に用いられたシンボルマークは、恵みを受け取り、祈りを合わせる手であると共に、それで留めることなく、隣人へと開き、分かち合われているものであり、そのことが私たちに託されていると告げました。
回心の祈りに続いて「共同声明」の分かち合いが行われました。この「共同声明」は昨年10月31日にスウェーデンのルンド大聖堂で行われたルーテル・カトリックの宗教改革共同記念礼拝においてルーテル世界連盟ユナン議長とフランシスコ教皇が署名したものであり、両教会の姿勢が表されているものです。続く共同祈願では、ドイツからのゲスト、教皇大使などが、教会の一致と世界の平和のために祈りました。讃美歌作者でもあるルターのコラール、またエキュメニカルの背景を持つ多くの歌により賛美を共にし、参列者と全国からの祈りを込めた折り鳩も奉納され、平和への決意を確認し合いました。
平和を実現するための具体的なしるしとして、広島の原爆投下ひと月後に真っ赤な花が咲いたカンナの事実を語り伝える球根が分かち合われました。これを祈りと共に育て、育てることと増えたものをさらに分かち合うことで、戦争とその後の平和を語り継ぐ役割を担い、礼拝から派遣されました。すでにカンナの球根を植え、発芽を楽しみに育てるとの報告が各地から寄せられてもいます。 シンポジウムと共同記念礼拝は、ライブ配信されましたが、終了後も公開されています。

違いを豊かさに変える

全国教師会退修会報告

教師会長 石居基夫

2016年5月、日本福音ルーテル教会の全国教師会総会は、宗教改革500年に計画されたカトリック教会との共同の事業に全面的に協力して、長崎で行われる「共同記念」の礼拝に皆で参加することを決めた。
ルーテル教会とカトリック教会は、両教会にとっての事柄としてのみ「共同記念」を行うのではなく、「争いから交わりへ」と進んできた歩みを、「平和」を実現するメッセージとして現代社会へ発信するものとしていくこととなった。
キリシタン時代からのカトリック信仰の伝統のなかにある長崎で、宗教改革500年の記念をカトリック教会が日本の司教協議会レベルでこれに取り組むことを決定された。もちろん、日本福音ルーテル教会も教会総会でこれに取り組む決議をしてきた。ただ、組織の大きさの違いもあり、私たち全国教師会は少なくとも教師全員でこれに必ず参加することで、歴史を刻む教会の取り組みとしての意義を表そうと、数年に一度開催する退修会を「共同記念」に合わせることとしたのである。
平和と歴史に対して何かを発信しようというのであれば、責任ある取り組みとしなければならない。そこで、退修会では「平和」について深く学び、それを実現する教会とはなにか、活動への確かな研修となるように計画しようということになった。
プログラムは11月21日から23日までの2泊3日。第1日目は、宗教改革500年の意義を深く捉えるために「ルターの原点と可能性―恩寵義認と3つのE」と題して江口再起先生の発題をいただいた。ルターの宗教改革は、神と人間との根源的関係について問い直す信仰の改革であったが、教会の枠を超えて福祉や教育など社会の構造を変えていく力を持っていた。神の恩寵的働きとそれをいただく人間の生の有り様の信仰的自覚が、互いに愛し合う、人間が共生する世界実現の可能性をしめすものであることを教えられた。ルターの限界を超えて、現代のなかで神の恩寵を生きる生を新たに捉えていくことで、地球規模の創造、救済、そして維持という大きな課題でのキリスト教の使命を示されたように思う。
2日目の午前は、鹿児島大学で平和学を担当されている木村朗先生をお招きし「原爆神話からの解放と核抑止論の克服」と題して講演をいただいた。戦争の早期終結など原爆を正当化する「言説」、あるいは核の平和利用という「神話」の裏に潜む、世界支配の欲望と国家的エゴの構造について改めて学ぶことができた。現代の私たちを取り囲む状況の厳しさに、それだからこそ、宗教的な取り組み、特に信仰のまなざしと祈りが必要であることを学んだ。
また、午後は熊本大学の教員で、平和、特に修復的正義に造詣の深い石原明子先生(本郷教会員)から、「平和と和解をもたらす者となるために」というワークショップによって、日々の教会や施設における牧会的状況の中における「平和」を造り出す実践について深い学びをいただいた。日々の教会や施設のなかにも問題はたくさん起こってくる。問題がないことがよいのではなく、むしろ課題が発見されてよりよい関係をつくっていくきっかけとして捉えること、そして課題の只中でその人の魂の傷や痛みに寄り添う実践の必要を学ぶことができた。
退修会は、3日目に「共同記念」を共にすることで締めくくられた。礼拝を終えたあとのカトリックの司祭たちと写った、牧師たちの笑顔の写真は、今回の取り組みの大きな成果を示すものと言ってよいだろう。

ルーテル・カトリック宗教改革500年共同記念礼拝に参加して

久保彩奈(本郷教会)

 

「今日のこの礼拝の実現は決して容易ではありませんでした。またそれは違いにではなく、同じところは何かに目を留める作業でした。」と告げられた言葉を重く、深く受け止めたいと思います。
500年前の争いから現在に至るまでの歴史を見れば、違いと争いは明らかです。またその違いが、わたしたちの教会のアイデンティティの大きな部分を形成した時代があったことも事実でしょう。
しかし、長崎での礼拝は人の知識と思いをはるかに超える、キリストの愛がなければ実現し得ない瞬間となりました。カトリックとルーテルの人々が自由に座り、礼拝堂は柔らかな空気と期待で満たされました。「シャローム」とシスターと握手した時の手の温もりに、嬉しさと喜びで心くすぐられる思いがしました。また、降り注ぐステンドグラスの光により白いアルバを色とりどりに彩られたカトリックとルーテルの聖職者たちの姿は、違いを豊かさに変える姿そのものでした。キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さはこれほどまでに、わたしたちを喜びで満たしてくださるのか、と改めて知り、実感した礼拝でした。
愛すること、共に生きようとすることは容易なことではないことをわたしたちは知っています。また新たな歴史を作る歩みも平坦ではないでしょう。しかし、だからこそキリストに立ち返り、カトリックとルーテルの違いを豊かさに変える働きをこれからも続けて考え、新たな「和解」の歴史を作っていく力を与えられる礼拝でした。

2017年 宗教改革500年⑤-2、⑥「カトリックとルーテルの共同声明」に学ぶ

石居基夫(日本ルーテル神学校校長)

 

【前回の続き】
そして、この理解を基にして、リマ式文なるものが作成され、教派をこえて聖餐をともにする礼拝を可能にしようという画期的な取り組みなのだ。現実にこの式文を用いての一致の礼拝をもつにはまだまだ課題が多いといわなければならないが、少なくともこうしたエキュメニカルな交わりと神学的な対話の大きな流れが20世紀のはじめから続いていたことが、カトリック教会の第二バチカン公会議、エキュメニズム教令に影響を与えたに違いないし、実際にカトリックとルーテルの対話もこうしたWCCでの取り組みということと重なっていたからこそ成果をあげることが出来たのだと言える。
従って、この声明ではこうした多くのエキュメニズムの取り組みをしてきているキリスト教世界に対する感謝を述べ、またそうした大きな教会一致への願いを祈り続けてもらえるように願っているわけだ。そして、この宣言だけでなく、カトリックとルーテルの両教会のエキュメニズムの成果がそうした世界のキリスト教会の一致運動との深い関係のなかにおぼえられることに大きな意味があると言ってよいだろう。

「カトリックとルーテルの共同声明」に学ぶ⑥

【本文から】
●世界中のカトリックとルーテルの人々への呼び掛け
わたしたちはすべてのルーテルとカトリックの教会員と教会に、わたしたちの前にある大きな旅を続けることに加わって、大胆であり、創造的であり、喜びをもち、希望をもつよう呼び掛けます。過去の争いよりもむしろ、わたしたちの間における一致という神の賜物が協働を導き、わたしたちの連帯を強めてくださるでしょう。キリストを信じる信仰において近付けられ、互いに耳を傾け合い、わたしたちの関係においてキリストの愛を生きることによって、わたしたち、カトリックとルーテルの者たちは、三位一体の神の力に心を開きましょう。キリストに根ざし、キリストを証しして、すべての人に対する神の限りない愛の信実の使者となるという定めをわたしたちは新たにするのです。

【学び】
この声明は最後に今一度世界のカトリック教会、ルーテル教会の人々に呼びかけている。「争いから交わりへ」という一つの言葉(コンセプト)によって象徴的に現すこの両教会の歴史的取り組みが、単に一過性のお祭りに終わることのないように、それぞれの地域、社会のなかでこの信仰を証し、具体的な生活や世界の課題のなかで互いに神のみこころに生きることを支え合い、「愛の真実の使者」たるべく、自らを整えていこうとよびかけるのだ。
それを可能にするのは、私たち人間の力によるのではなく、洗礼によって結び合わされた三位一体の神の力によるのだし、また私たちが生かされているキリストのいのちがこれを進めていく具体的な働きを産み出すという確信を伝えている。
コリントの信徒への手紙一の12章に語られているように、一つの洗礼、一つの霊の賜物にあずかって一人のキリストの体として結び合わされている私たちが、キリストを証しするように生かされていく。それは神のみことばによる神ご自身の御業なのだから、大胆にこれに信頼をするように呼びかけている。私たちは時に絶望しそうになることがたくさんある。政治的状況を見ても、環境の問題においても、とても解決できそうにない課題を目の前にみているのだ。しかし、神が決してあきらめることなく私たちに働いていてくださる信仰に立つとき、私たちの中に新しい希望が与えられる。
信仰と希望と愛をキリストにいただくことから、歩み続けるようにと呼びかけることばで締めくくられているのだ。(おわり)

立ち止まり感謝、そして前進、共に

日本ルーテル教団関東地区との宗教改革500年合同礼拝

実行委員  木村 猛(保谷教会)

 

東教区では、宗教改革500年のこの機会を捉え、身近なルーテル教会として交わりのある日本ルーテル教団(NRK)関東地区と合同して企画を立てました。
11月4日の午前に、ルーテル学院大学・神学校の学園祭「愛祭」に合流させて頂き、子どもプログラムと青年プログラム、そして展示ブースではドイツ外務省が制作された宗教改革500年を伝えるパネルの展示を行いました。
午後は、隣接する国際基督教大学のチャペルにて両教団での合同聖餐礼拝を聖望学園・浦和ルーテル学院・ルーテル学院大学/神学校合同聖歌隊、ハンドベルクワイアによる賛美を得て行いました。礼拝の後、NRK有志が加わった東教区合同聖歌隊のバッハ作曲「我らの神は固き砦」の演奏、東京バッハ・カンカータ・アンサンブルによるメンデルスゾーン交響曲「宗教改革(今回の演奏のために室内楽に編曲されたもの)」の演奏を楽しみました。神を讃える澄んだ音色・合唱は礼拝後だけに快く響きました。
合同礼拝は、両教団の教職・信徒、諸学校の生徒・保護者ら736名の参加者と共に、同じルーテル教会の流れにあり、ルターの信仰に立ちながら、信徒レベルでは互いに顔を知らず、疎遠であった方々と一緒に礼拝でき、説教を聞き、聖餐の交わりの中で、共に「恵みのみ、信仰のみ、聖書のみ」の信条を確認できた礼拝でした。NRKとJELCの牧師がペアになったパンと葡萄液の聖餐では共にひとつの信仰に立っていることを知ることができました。私たちクリスチャンに与えられている聖餐の恵みが形になって顕れている実感がありました。
これら一連の宗教改革500年の行事により、私たちはルターの業績の光と影と現在に伝わる影響の数々を学ぶことができました。そして、すでに始まっているポスト500年の歩みに、受け取ったものを私の人生に、教会にどのように反映させてゆくかとの大きな宿題もいただく機会となりました。

東海教区「宗教改革500年記念大会」報告

実行委員長 朝比奈晴朗  (名古屋めぐみ教会)

 

この度の大会では、日本福音ルーテル教会東海教区と名古屋キリスト教協議会の主催、金城学院大学の協力という形で、300人を越える参加者が集いました。
当日は、始めに東海教区長・齋藤幸二牧師と名古屋キリスト教協議会議長・松浦剛牧師が挨拶をし、その後、カトリック名古屋教区司教・ミカエル松浦悟郎司教から祝辞を頂きました。
基調講演は石居基夫牧師(日本ルーテル神学校校長)の『「信仰によって義とされる。」とは、どういうことか』。これに続いて宗教改革500年記念大会宣言を行いました。
ここまでが前半で、カトリック教会とプロテスタント教会が分裂、対立する事で引き起こされた過去の悲劇への反省と、時代的な分析をふまえての共通理解、これからの自分達のスタンスを確認する内容となりました。
後半は、3つのグループに分かれて自由に参加出来るよう準備しました。①宗教改革を深く学ぶ会(石居基夫牧師)、②パイプオルガン演奏会(大木麻理さん)、③ハンドベル演奏会(金城学院大学ハンドベルクワイア)。それぞれの参加者から充実した時を過ごすことができたとの感想を頂きました。
参加された方々がどの教会に所属しているか、一人一人の確認はしませんでしたが、日本福音ルーテル教会員だけでなく、プロテスタント教会諸派、カトリック教会からの参加も見受けられました。信徒レベルでは、互いに対立してきた歴史を知りつつも、各自はそれほどこだわりを持たず、和気あいあいと過ごしている様にも見えました。
各教職は準備開始当初、やや緊張感がありましたが、大会が迫るにつれて協力の度合いが濃くなる恵みを体験しました。関わった方々の心には成し遂げた安堵感と、次の時代に召し出されていく実感を得たように思えます。
振り返れば、参加人数に物足りなさを覚えたのも事実ですが、神の言葉は教派を問わず、すべての人に与えられていることを強く感じることができました。

追悼

慈父のような藤井浩牧師

江藤直純(ルーテル学院大学学長)

「慈父のような」「慈しみ深い」、藤井浩先生を思い出すとき、この表現が自然と
浮かんできます。言葉、表情、先生の存在そのものが会う人にそう感じさせるのです。誰をも無条件に受け容れ、あたたかく包み込み、その人をしっかり支える、そのような関わり方をなさった牧師でした。
しかし優しいだけではなく、強い信念を持ち、大胆な選択をなさる方でした。海軍兵学校、一橋大学、保険会社勤務の間にキリスト教に入信、受洗、献身。選ばれた神学校はアメリカのオーガスタナ神学校。日本の神学校で学んでいない稀な方でした。
最初の任は九州学院のチャプレンという若者への伝道。JELCがブラジル伝道を決断したら宣教師第1号に。ご伴侶の禮子さんと二人のお子さんを伴っての赴任は、さまざまな苦労があったでしょうが、サンパウロだけでなくはるか南部であっても日系人のいる所にも赴き、福音宣教のために労を惜しまれませんでした。
帰国後、田園調布と大森の二つの教会で伝道牧会と幼児教育に専念。定年後もやはり開拓的なお仕事をなさいました。ホスピスのチャプレンの務めです。地上の生を全うする際の暫くの期間、キリスト教信仰の有無にかかわらず、どなたにも寄り添い、魂への配慮者として旅立ちを支えられました。若くして天に召されたご長女への思いが蔭の力ではなかったかと思います。亡くなる少し前まで牧会委嘱として三つの教会に仕え続け、生涯牧師でいらっしゃいました。心から尊敬する先輩でした。

カイス・ピーライネン先生を偲んで

札幌教会 森川利一

 

ピーライネン先生は1987年、札幌のめばえ幼稚園創立50周年記念式典に長年の病を克服されてフィンランドから参列くださり、元気に式辞を述べられました。「子どもたちと一緒に生活をした時、いつも太陽が照っていた」との真に子どもを愛する一言は印象深く感謝でした。
1955年、園長に就任された先生は、社会の幼児教育に対する関心の高まりの中で、子どものための環境作り、園児の家庭との連携など多くを実践され、その成果は現在に受け継がれています。また、信仰に生きる先生は、講演やサークル活動を通して北欧の生活文化の紹介など地域社会に貢献され、高い評価を得ました。
1975年、2度の手術の後、奇跡的に回復され、翌年、退任されました。送別会では長年の交わりと働きに対する感謝と労いの言葉に笑顔で目を潤ませながら挨拶を交わされました。
今年、幼稚園は創立80周年の喜びを迎えました。園舎が市の重要建造物に指定されたこと、園舎内部を耐震化したこと、園児の定数を充足していることなどをきっと先生も喜び、天国から応援してくださることでしょう。

ジョン・デヤング宣教師を悼む

鈴木雅康(小鹿教会)

 

デヤングさんの静岡学生センターでの働き、ご伴侶と共に30年に渡った日本での宣教活動、特に大学生や若者にキリストとの出会いの場を提供し続けたその働きに、言葉では表せない感謝を申し上げますと共に、ご伴侶のアナマリーさん、またご家族の皆様に神様からの慰めと平安が与えられますようお祈り申し上げます。
学生センターでの語らいは、いつもユーモアに溢れ、また時にはウイットに富んだ語り口、そして若者が大好きだったこと、玄人はだしの写真撮影の趣味、沢山の思い出があります。
デヤングさんの訃報に接し、宣教師の方々が種を蒔き育んだ日本のキリスト教を次の世代にどのようにバトンタッチしていくか、私たちが課せられたミッションを改めて感じています。11月に次女のリサさんがご伴侶のデイヴィッドさんと来日され、静岡にも立ち寄られました。デヤングさんはもう少しで生まれてくる初めてのひ孫の顔を見るまでは頑張るとおっしゃって、本当にこれを実現したとのことでした。

2018年度 日本福音ルーテル教会 会議日程

【2018年】
1月10日(水)教師試験委員会(市ヶ谷センター)
1月11日(木)教師試験(市ヶ谷センター)
1月12日(金)任用試験(市ヶ谷センター)
2月13~14日 会計監査(市ヶ谷センター)
2月19~21日 第27総会期第6回常議員会(市ヶ谷センター)
2月 25日(日)16時 神学校の夕べ(宣教百年記念東京会堂)
3月 4日(日)19時 教職授任按手式(宣教百年記念東京会堂)
3月 5日(月)神学教育委員会(市ヶ谷センター)
3月 7日(水)新任教師研修会(市ヶ谷センター)
3月 9日(金)ルーテル神学校卒業式(東京三鷹)
3月 21日(水)教区総会(各教区)
4月 3日(火)ルーテル神学校入学式(東京三鷹)
5月1~2日 全国教師会総総会(宣教百年記念東京会堂)
5月2~4日 第28回全国総会(宣教百年記念東京会堂)
未定 LCM会議
6月11~13日 第28総会期第1回常議員会(市ヶ谷センター)
8月21~22日 るうてる法人会連合・総会(関西地域)
9月25~26日 宣教会議(市ヶ谷センター)
10月2日(火)教師試験委員会(市ヶ谷センター)
未定 新任教師研修会(日本キリスト教連合会主催)
11月5~7日 第28総会期第2回常議員会(市ヶ谷センター)

【2019年】
1月 16日(水)教師試験委員会(市ヶ谷センター)
1月 17日(木)教師試験(市ヶ谷センター)
1月 18日(金)任用試験(市ヶ谷センター)
2月12~13日 会計監査(市ヶ谷センター)
2月18~20日 第28総会期第3回常議員会(市ヶ谷センター)
2月 24日(日)神学校の夕べ(宣教百年記念東京会堂)
3月 3日(日)教職授任按手式(宣教百年記念東京会堂)
3月 4日(月)神学教育委員会(市ヶ谷センター)
3月 6日(水)新任教師研修会(市ヶ谷センター)
3月 8日(金)ルーテル神学校卒業式(東京三鷹)
3月21日(木)教区総会(各教区)
※「事務処理委員会」は、教会規則に基づき、処理すべき事項が発生した時に、随時、開催とする。

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