神はあなたの名を呼んでいる
使徒言行録10章39〜45節 コロサイの信徒への手紙3章1節〜5節
ヨハネによる福音書20章1節〜18節
第四福音書と呼ばれるヨハネによる福音書は、他の福音書とは異なった視点からイエスを伝えます。日課もその例にもれません。
この福音書にはいくつかの特徴がありますが、特に二つ紹介します。一つは、繰り返し起こる信仰(発生)の枠組みです。弟子たちを含むユダヤ人たちは「しるし」と呼ばれるイエスの不思議な業を見て信仰へと至ります。つまり「見る」ことが「信じる」ことなのです。福音書の大部分でこのパターンが繰り返されますが、最後には、復活したイエスを見て触れるまで信じないと言ったトマスに語るイエスの次の言葉が、信仰が「見る」ことからではなく「聞く・聴く」ことからはじまることを顕かにします。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる者は、幸いである」(20・29)。
もう一つは旧約聖書、特に創世記1〜3章との関係です。私たちが、「つれづれなるままに」と聞いて『徒然草』を、「祇園精舎の鐘の声」と聞いて『平家物語』をすぐに思い浮かべるように、「初めに」で始まるこの福音書が同じ言葉で始まる創世記を聞き手・読み手の心に呼び起こしたであろうことは、想像に難くありません。ある種「本歌取」のように、創世記で語られる出来事を枠組みとしてイエスを語り直していると言えるかもしれません。
福音書の日課は、最初のイースターの出来事を語ります。朝、まだ薄暗いうちにイエスの墓へと行ったマグダラのマリアは、墓が空であることを発見し、弟子たちに伝えました。ペトロともう一人の弟子はそれを聞いて墓へと急ぎます。墓へ着き中へと入った二人は、マリアの言った通りであることを「見て信じました」。二人がしかし、空の墓の意味するところ―復活であり、 イエスが神の子メシア(キリスト)であること―を信じたのではないことは、9節から明らかです。二人は家へと戻ります。マリアだけが残されました。
一人になったマリアが再び墓の中を覗くと、そこには二人の天使がいました。そして振り返ると、イエスが立っていたのです。しかしマリアはまだ、イエスであることには気付いていませんでした。イエスはマリアを「婦人」と呼んで話し掛けます。マリアはそれでも気付かず、園丁だと思ってイエスと話しました。イエスは、今度は彼女を「マリア」と呼びます。すると、マリアはそれがイエスだと分かったのです。
この話は創世記3章を想起させます。神のことばにではなく、蛇のことばに耳を傾け従ったアダムと女は、エデンの園で二人を探す神から隠れます。そして女は裁きのことばを与えられました。日課は逆に、園の中で姿を隠す神であるイエス(園丁)と、そのイエスを探すマリアとを伝えます。彼女は熱心にイエスを探し求めますが、見つけることはできませんでした。「婦人」と呼ばれるマリアは、イエスを探し求めていても実は、自分から姿を隠したエデンの園での「女」だったからです。しかしイエスは、マリアを名前で呼びました。曖昧な、誰でもいい「女」や「婦人」としてではなく、イエスは「マリア」に呼びかけたのです。マリアその人を呼び求めたのです。そして彼女には、福音のことばが与えられました。
私たちの神は、最初のイースターにマリアにそうされたように、私たち一人ひとりを呼び、求めておられます。曖昧に「女」や「男」としてではなく、「あなた」を、あなたの名を呼んで求めておられるのです。私たちはともすると、日課のマリアがそうであったように、神を探し見つけることが信仰のすべてであるかのように錯覚していないでしょうか。
しかしイースターの出来事は、私たちの信仰が、神がキリストを通して私たちの名を呼び、求め、見つけることであると伝えます。たとえあなたが見つけられなくても、神はあなたを見つけ、あなたを名前で呼んでおられます。 イースターの朝、私たちはその声を福音として聴き、信仰を与えられるのです。主キリストの復活、おめでとうございます。
日本福音ルーテル教会牧師 高村敏浩(フィラデルフィア ルーテル神学校留学中)