Warning: Undefined array key 0 in /home/jelc/jelc.or.jp/public_html/wp-content/themes/nano_tcd065/template-parts/breadcrumb.php on line 71

Warning: Attempt to read property "term_id" on null in /home/jelc/jelc.or.jp/public_html/wp-content/themes/nano_tcd065/template-parts/breadcrumb.php on line 71

Warning: Undefined array key 0 in /home/jelc/jelc.or.jp/public_html/wp-content/themes/nano_tcd065/template-parts/breadcrumb.php on line 83

Warning: Attempt to read property "name" on null in /home/jelc/jelc.or.jp/public_html/wp-content/themes/nano_tcd065/template-parts/breadcrumb.php on line 83

Warning: Undefined array key 0 in /home/jelc/jelc.or.jp/public_html/wp-content/themes/nano_tcd065/template-parts/breadcrumb.php on line 84

Warning: Attempt to read property "term_id" on null in /home/jelc/jelc.or.jp/public_html/wp-content/themes/nano_tcd065/template-parts/breadcrumb.php on line 84
  1. HOME
  2. ブログ
  3. るうてる《福音版》2008年10月号
刊行物

BLOG


Warning: Undefined array key 0 in /home/jelc/jelc.or.jp/public_html/wp-content/themes/nano_tcd065/single.php on line 26

Warning: Attempt to read property "slug" on null in /home/jelc/jelc.or.jp/public_html/wp-content/themes/nano_tcd065/single.php on line 26

るうてる《福音版》2008年10月号

機関紙PDF

バイブルメッセージ  「きぼう」の月

もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。
ヘブライ人への手紙3章6節b(日本聖書協会『聖書 新共同訳』)

昔から、なぜか未完成なもの、完成の一歩手前のものに心惹かれる傾向がありました。たとえば、夜空に浮かぶあのお月さま。三日月よりも、三日月の1日前。満月よりも、満月の1日前。完璧な三日月形よりも、完璧なまん丸よりも、その一歩手前の輝きの方が、より美しいと思えるのです。
そして、少し前の話ですが、ひょんなことからその満月の一日前のお月さまに、「幾望」という名前がついていることを知りました。満月は別名「望月(もちづき)」ということから、「幾望」は「望月に幾(ちか)い」あるいは「幾(ほとん)ど望月」というくらいの意味なのだということです。
「きぼう」という言葉の響き自体も素敵ですし、もともと「望」という漢字そのものに、「なかなか手の届かない遠方のものを捜し求める」という意味があります。手が届きそうで届かない満月に向かって、あと少し、もう少し、と手を伸ばすかのように輝きを増していくわずかに欠けた月、ひとつの「完成」を目指すその輝きに、魅せられた人は多かったのでしょう。昔の人の名づけのセンスに、拍手を送りたくなります。
わたしたちも、いつも何かの完成に向かって歩んでいるような気がします。幼い頃には「将来、何になりたいか」と無邪気に夢を見て、どうすればそこにたどりつけるかと幼いなりに考えますし、節目節目で目標を立て、それを実現させるために努力したりもします。人生そのものが、何かひとつの大きな「完成」に向かって歩むことだと言うこともできるでしょう。
しかし、わたしたちはときどき、自分が未完成であることに対して、不安を覚えることもあります。幼い頃の夢をそのまま実現させる人は、そう多くはありません。どうしても何かをあきらめなければならなくなり、泣く泣く方向転換することもあります。未完成だからこそ迷いますし、ちょっとしたことで揺れ動きます。自分のもっている欠けた部分が、ゆるせなくなってしまうこともあります。ときにはすべて、投げ出してしまいたくなってしまうことさえあります。
しかし、少し欠けた形であっても、完成である「望」に向かって歩みをつづける「幾望」の月は、満月におとることなく、とても美しく輝いています。そうであるようにわたしたちも、欠けた部分を抱えながら、ときには迷い、不安になりながら、それでも生きることをあきらめず、あと少し……もう少し……と歩みつづける姿は、心に強くうったえかける、美しい輝きを放っていると思うのです。
月のきれいな季節です。もし不安や迷いにおしつぶされそうになることがあったら、立ち止まって、ふっと夜空を見上げてみるのはいかがでしょうか。十五夜も十三夜ももちろんすばらしいのですが、十四夜の「きぼう」の月、これを私はおすすめします。
Aki

十字架の道行き

【第七留】イエス、ふたたび倒れる イザヤ書 53章 4節

【祈りの言葉】
イエスよ、あなたが望まれるのは、倒れないことではなく、倒れても起き上がり、あなたに最後まで従うことです。あなたの愛と忍耐にならい、十字架の後に来るべき復活の希望に生きさせてください。

毎日あくしゅ

おとなの目

カトリックのシスター菊地多嘉子さんは、小学校に入学した春のことを記しておられます。校庭には色とりどりの花が咲き乱れていました。ある日の午後、下校時に眺めたツツジがあまりにも美しく、立ち止まって見とれているうちに、ふと一つの花がこぼれ落ちそうになっているのが目に止まりました。「土に落ちたらかわいそう」と、その一輪を手に取ったその瞬間、ふと目を上げると、校長先生が廊下の窓越しにじっと菊地さんを見ていました。「校庭の花を取ってはいけない」と注意されていたことが脳裏をよぎり、「してはいけないことをしてしまった!」そう思うと涙が溢れ、しおれかかった一輪のツツジを手に、夢中で家に帰りました。その夜、彼女の心の傷を癒すために、優しい父は校長先生宛てにゆるしを乞う手紙をしたためて、彼女に持たせました。
翌朝、朝礼で壇上に上がった校長先生は、「昨日、ツツジを一輪取った一年生がいます」と話し始めたのです。恐ろしさに震える小学一年生の菊地さんは、次の瞬間、耳を疑いました。校長先生は罰するどころか、彼女が枯れて落ちかかっている一輪の花に心を込めて受け止めようとしたことを褒め、皆もこれに倣うようにとのお話でした。
傷ついた心を優しく癒し、校長先生にとりなしてくれた父、この行為を温かく抱擁し、ゆるしと励ましを与えてくれた校長先生……。決して忘れることのないこの一連の出来事は、彼女の生涯に大きな影響を与えることになったのです。(「良心」)より)
よく登園途中で見つけたお花や落葉や小石のようなもの大切そうに小さな手に握りしめて来る園児がいます。そのときは、その手にしたものに心を通わせ、一所懸命夢を膨らませているひとときです。おとなの目にはたわいもないことのように思えても、小さい園児には大切な出来事なのです。そしてそれをおとながどう受け止められるか。おとなもこどもも学び合うひとときです。(園長)

谷センセイの教育い・ろ・は

第7回 江戸時代の教育 その1

今回と次回の2回に分けて、江戸時代の教育について書くことにする。
昨今、江戸ブームとかで、江戸時代関係の出版物が目立つようになった。今回は儒教を取り上げてみる。

慶応大学の創始者、福沢諭吉(1835~1901)は豊前中津藩の士族の子として生まれた。諭吉は自叙伝の中で、こう記している。「亡父の書き遺したものなどを見れば正真正銘の漢儒で、京都堀川の伊藤東涯先生が大信心で、誠意誠心屋漏に愧じずということばかりを心掛けたものと思われ、その遺風はおのずから私の家に存していた。一母五子、明けても暮れても母の話を聞くばかり、父は死んでも生きているようなものだった」「あるとき兄が私に問い掛けて、『お前はこれから先、何になる積りか』と言うから、『左様さ、まずは日本一の大金持ちになって、思うさま金を使うてみようと思います』と言うと、兄が苦い顔をして叱ったから、私が反問して『兄さんは如何なさる』と尋ねると、真面目に『死に至まで孝悌忠臣』とただ一言で、私は『へーい』と言ったきりそのままとなった」(福翁自伝・岩波文庫より)
幕末の下級武士の家族の生きざまが分かる一節といえる。

儒教思想は、中国の古典文の「素読」という営みの普及によって、当時の日本人に広く受け入れられていく。しかし、読み方をめぐっては、和訓による廻環顛倒(返り点を付して訓読風に読む)の読み方と、華音(中国音で読む)による直読の二通りがあり、どちらが正しいかの論争が続いていた。江戸幕府は荻生徂徠らの原典主義を退け、湯島聖堂(昌平黌)における儒学は、和訓とすることを正式決定する。
ただちに、このことは各地の素読塾や手習塾に伝わり、以後の日本人の精神教育に少なからぬ影響を及ぼすのである。

閑話休題。
荻生徂徠の名前は、赤穂浪士の処断の際の有力意見になったことで、歴史に記憶されることになる。当時の政権担当者だった柳沢吉保は、幕府内部からの浪士に対する同情論に苦慮していた。だが、巷間伝えられるような儒学者たちの処刑論、助命論の大論争は後々のことで、当面の課題は老中衆のいる前で作成された文書の扱いだった。吉保は家中の儒者だった荻生徂徠に、どうすべきか意見を求めた。
「忠孝をなすために行動を起こした人士たちを、もし盗賊同然に処罰する例を作りましたら、不義不忠の者の裁定はどう成りましょうか。従来の判例によって処断して、切腹を仰せ付けられましたら、かの人士の宿意も相立ち、どれほどの世上の示しになることでしょう」と、毅然とした態度で応じたという。
儒教の教えは時代が進むにつれ、徳治からかけ離れた形式主義へと進んでいくのだが、文書主義の進展と文字需要の増大をもたらす。農民や婦女子の識字力など、世界一と目されるまでの発展があり、それらは儒教のもたらした効果と考えられている。

谷 健(たにけん)…昭和5年7月生まれ。東京都の公立小学校7校の勤務。専門は英語、道徳。道徳副読本の編集に従事。

関連記事